02.捧神
ジル・ハーはすぐに状況を確認し、防空網が急に沈黙したことを知った。
自宅のある集合住宅の屋上に飛び移ると、先ほど勇ましく稼働し始めたばかりの対空飛行爆弾射出架が2基とも停止している。
周囲の他の集合住宅の屋上も同様で、区画の角に建っている防空塔――対空監視機器の集合体――から鳴り響いていた警鐘音も、けたたましかったのが嘘のように押し黙ってしまっていた。
「シンディスさん、大丈夫か!」
集合住宅の管理員が、彼女の名を呼びながら駆けつけてくれた。
「大丈夫ですアビントさん、それよりアビントさんの端末も――」
「そう、それ! うんともすんとも言わなくなっちまってさ……」
初老の管理員は困り果てたように自分の装甲端末の画面を見せる。
そこにはジル・ハーのものと同様、通信不能状態を示す図像が表示されているだけだった。
見回せば、街路に設置された標識の画面も、信号が止まったのか真っ白な無表示状態になっている。
もしや、とジル・ハーは口走った。
「もしかして、この辺一体……もしかしたらエンクヴァル全体がこんな風になってるってこと……!?」
彼女の住む集合住宅は、エンクヴァルの中心からはやや離れていた。
だが、それでも高さ600メートルのアムナガル神殿はよく見える。見慣れた光景だ。
しかし、その神殿に、今は大きな異変が起きていた。
離れたジル・ハーの目にも明確な、巨大な逆三角形――あるいは鏃状か――の物体が、深々と突き刺さっているのだ。
「(どう考えても、あれが原因だよね……)」
「シンディスさん、住民のみんなの誘導を手伝ってくれ! 非常時の集合場所は知ってるよな」
「…………」
初老の管理員にも思うところはあるのだろうが、彼女はそこで、彼に従うよりも最善と思える考えが閃いた。
啓蒙者として、自分が果たすべきことを。
「アビントさん、わたしはやることが出来たから、そっちをやります! ごめんなさい!」
「え、ええ!? シンディスさん!?」
羽ばたいて字句通り、飛び出す。
幸運にも、管理員は彼女を追いかけようとまでは思わなかったようだ。
謝る気持ちを切り替え、高度を上げて目的の場所へと急ぐ。
エンクヴァルの街は、やはり沈黙していた。
周辺住民同士で協力しあって、非常時に集合するよう定められた所定の場所へ移動しようとしている集まりは複数見かけた。
しかしやはり、装甲端末や街中のネットワーク機器が全て沈黙する事態となると、その動きは心細く見える。
道路にはところどころ、急激かつ強制的に制御を失ったために道路を外れて建物に衝突・炎上している無人輸送車が煙を上げている――既設の消火装置さえ作動しないのだ――場所もあった。地下道路などは、防災装置が停止していたとしたら、考えるのも恐ろしい状況になっている可能性さえある。
そうした考えに翼の羽毛が若干逆立つのを感じつつ、2、3分ほど飛んだ。
高度を下げると、彼女は自分の愛機を預けている集合格納庫へと辿り着く。
「(装甲端末も対空火器も、無人輸送車も道路標識も……全部止まってたってことは……)」
集合格納庫は、既に誰もいなかった。
それぞれの格納室の扉は既に手動で開かれた形跡があり、戦闘用の秘蹟などろくに扱えないジル・ハーが苦労して隔壁を破る必要は無くなっていた。
だが、そこまでされたというのに格納されていた機体が出動した様子は、全くない。
恐らく、事態が生じた時点でここにいた啓蒙者全員が、何か動かせるものがないかと試したのだろう。
そして、それは無為に終わった。
「(多分、ネットワークが急に止まったから……なら、どうすればいい?)」
恐らく、彼女の仮説は当たっている。
主通信網が停止した際にその再起動を行えるのは啓蒙者の最高位である捧神司祭だけだが、少なくとも7人中5人の集結が必要だと聞いたことがある。
その内の一人であるククラマートル・キリビリスピリはスウィフトガルド王国に法王として常駐しており、ネットワークがダウンしたこの状況で即座に集結するのは難しいだろう。
他の6人も、何らかの事情ですぐには集まれない可能性が高い。
それどころか、もしもそのうち2人以上が先ほどまでアムナガル神殿におり、あの逆三角形の巨大物体の落着で死亡するなどしていたとしたら。
「ただ待ってる訳にはいかない!」
ジル・ハーは自分のピナクル2を格納してある庫に辿り着くと、各庫に備え付けられていた金梃子を引っ張りだす。
そしてその折れ曲がって細くなった先端を、搭乗口の脇にある緊急作業用の小さな接続扉の隙間へとねじ込んだ。
「そいっ!」
体重の軽い啓蒙者には不利な作業だったが、それでも彼女は機体の外板に足を踏ん張り、転びそうになりながらもこれを破壊、開放に成功した。
「(ネットワークが止まっても起動状態だけは保てる装甲端末……これを無理矢理にでも繋いで、機関を発動できれば)」
啓蒙者の文明が無翼人のそれと異なる大きな特徴の一つが、ほぼ全ての小型機器が、高効率の燃料電池を内蔵しているという点だ。
大型の、例えば彼女の眼の前にあるピナクルなどは魔力線を動力源とする機関を搭載しているが、こちらはネットワークと接続している状況でないと、複雑な発動手続きを行えないように製造されている。
ジル・ハーが考えたのは、装甲端末をピナクルに繋ぎ、自機がネットワークに接続していると誤認させるということだった。
発動に必要な複雑な計算も、速度は大幅に劣るが装甲端末の処理能力である程度補うことが可能だ。
彼女の立てた、大雑把な理論の上では。
「燃料は充分なんだから……無接続状態だって出来るはず!」
問題があるとすれば、こうした改造は啓発教義に無いということ。
厳密には、文明基盤に接続していない魔力線機関の発動を禁じる教義だ。過去にこれを行った啓蒙者がいたために、最初の御方の怒りを買った一つの街が巨大な岩塩に変えられてしまったという。
「(でも、今はその街の危機だし……それを救う切っ掛けにでもなれれば、岩塩になるのは私だけで済むかも)」
そうだ。教義でそうした改造が禁止されているから、何だというのだ。
今はそうしたことより優先すべきものが、あるのではないか?
教義を破らなければ乗り越えられない危機があるのだとしたら、なぜ誰もそれを試そうとしないのか?
教義を守って死んでしまえば、無翼人に啓発教義を布教する者が途絶えてしまうのではないか?
「(分かってる……そういう考え方をするから、精神検査で引っかかった)」
自嘲しながらも、彼女は己のやるべきと信じたことを止められなかった。
以前武装の駆動譜の更新に失敗したのが良い方向に作用し、本体への接続こそ拒否されたものの、繋いだ武装の側のシステムから迂回して入り込むことが出来た。
更に本来ならば特定の施設でしか出来ない演算領域の設定を変更し、ネットワークで行っている情報処理を自前の演算装置だけで行えるようにする。
それだけでは不足なので、武装の演算領域も使用する。
対動体照準や自動迎撃などは出来なくなってしまうが、元々が更新に失敗して使えなかった代物だ。正面に向かって射撃が出来るだけでも、今は良しとするしか無い。
そして、もどかしすぎる細々した処理を繰り返し、20分ほど。
ようやく、機関の起動手続き画面が装甲端末へと表示される。
接着剤で装甲端末を機関室の内壁に固定すると、彼女は搭乗口の扉へと起動鍵を差し込み、扉を開けて乗り込む。
操縦席は彼女の搭乗を感知して起動準備状態へと移り、彼女も起動鍵を挿入口に差し込んでひねって、機関を始動させた。
「よし!」
操縦席の画面には、不正な措置によって緊急駆動状態になっていることを警告する文章が表示されていた。
だが、構うものか。
以前出会った小さな翼の少年のことを思い出しながら、ジル・ハーは強引に全ての警告文を消していった。
「(君はどうしてるかな……あたしはせめて、こういう時だけでも自分が何も出来ない役立たずじゃないって証明したい、サルドルくん!)」
ピナクルを離陸させようとするも、ぴいぴいと甲高い警告音に苛立ち顔を上げる。
「ああもう!」
機体の搭乗口が開いたままだったらしい。
慌てて扉を閉鎖しに行くと、急な勢いが掛かって彼女は転倒した。
ズキズキと痛む頭を抱え、体を起こす。
「うそ、発進した!?」
迂闊な失敗の多い彼女とはいえ、いくらなんでもここまではあり得ない。
彼女の隙を突いて誰かが勝手に入り込み、ピナクルを発進させたのだ!
「誰!? 開けなさい!!」
操縦室の扉を叩くが、既に閉鎖されていた。間違いない。
あまりのことに、ジル・ハー・シンディスは視界が暗転するのを感じた。
それは決して、高い加速度で脳から血流が退いて生じる生理現象ではなかった。
全長1200メートルに及ぶトリノアイヴェクス内部には、様々な施設がある。
動力炉、格納庫、熱交換・空気調整設備、上下水循環系、魔力線を源とする照明系統、昇降機や移動階段、移動通路や自動扉などに使用される動力系統、永久魔法物質の生産やエネルギーへの転換設備、情報伝達系、慣性重力の制御系統、強攻形態時に使用する各種関節とその動力系及び補助機材、内蔵された超対称性粒子加速器、合体前の形態である外部推進・装甲強化艦と緊急脱出用中核指揮艦とを連結・連絡させるための合体維持系統など、多岐にわたる。
また、食料が生産可能な有機合成工場もあり、トラティンシカによる後付ではあるが食堂や乗務員寝室など、小規模ながら乗船者たちが暮らす一つの街として機能するための設備が大量に運び込まれていた。
最大で200名程度を収容可能な船内病棟も、その一つだ。
「(……フルス……グリュク……)」
彼女はそこで、暖かな温水の感覚に包まれながら、泣いていた。
だが、そのままそこで背中を丸めていてはいけない気がして、瞼を開けた。
「目が覚めましたか」
目の前では、犬を思わせる耳を生やした青年が、背の高い白い垂れ幕の間から顔を出してこちらを見ていた。
そして自分は――聖マグナスピネル、いや――アイディス・カダンは、何やら奇妙な格好で、温水で満たされた透明な筒の中に浮かんでいた。首から上だけは水面上に出ており、窒息することも無いようだった。
ただ、周囲は幕で仕切られており、離れた場所の様子は分からない。
「え、えぇ……」
「意識ははっきりしている?」
「……多分」
目の前の青年は、明らかに汚染種――いや、妖族だ。
だが、彼はアイディスを心配するような目つきで、彼女を見つめていた。
彼女の様子、といえば。
「あ、あの……私、何で……こんな風に浮かんでるんでしょう」
「機械の翼と鎧の外し方が分かりませんでしたので、医療観察用の浴槽に浮かんでもらっていました。外し方は覚えてますか?」
「あ、そ、そういう……」
彼女は慌てて、聖女用聖別鎧の解除信号を送信した。
すると、装着に必要な鎧下から外、一次装甲や武装にその懸架部品、二次装甲、そして緩衝や保温を主目的とする三次装甲までが、一斉に分離されて温水に浮かんだ。
一方、アイディスは沈んだ。
「もぼ!? ぼぼばー!?」
通常の人間であれば水より比重が軽いため、錘をつけているのでもなければ水に浮く。
だが、筋繊維の分子組成の段階から改造を受けていることもある聖女の体組織の比重は、肺の中の空気を考慮しても、水より重いことがある。
アイディスの場合、まさにそれだった。
よって、沈む。
溺れそうになり、慌てて温水や浮かんだ装甲を掻き分けて水面に顔を出し、呼吸を取り戻す。
妖族の青年も、急いで円筒に取り付けられた昇降足場を駆け上がって彼女を助けてくれた。
「すみません、鎧の上から断熱剤を吹き付けて浮力にしてたんです! まさかこんなにすんなり脱げるとは……」
「ぷふ……あ、ありがとう……ございます……! けほっ……えほっ……はぁ……はぁ……」
言われた通り、自分の周りに浮かぶ聖女用聖別鎧の部品の表面を見ると、白く柔らかそうな質感の発泡樹脂が、クリームか何かを吹き付けたようにしてへばりついていた。
これで聖女用聖別鎧を着たままの彼女を、温水に浮かべておいたのだろう。
そのまま妖族の青年に助けられて浴槽を這い出し、全身を包む大きなタオルを被せられて水分を拭き取って、複数の白い幕で仕切られた部屋を出た。
通路にある椅子に腰掛けて、背中を丸め、髪を拭く所まで、彼は付き添ってくれた。
「大丈夫ですね? 鼻とかに水が入ったりしてないですか?」
「大丈夫……だと思います」
「なら良かった。まずは寝台のある部屋にお連れしますね。これ、履物です」
渡された小さな室内履きに足を通しつつ。
信仰の守護者として、きらびやかな王都と戦場とを往復する聖女だった時には晒す筈のなかった恥態に、アイディスは赤面した。
そして、気づく。
「(――覚えてる)」
そう。過去は全て、覚えていた。
夫と生まれたばかりの息子から引き離され、薬物投与や人体改造、記憶封鎖処置に戦闘訓練を受けたこと。
聖女として多数の魔女や妖族を殺したこと。
それだけにとどまらず、遂には偶然、生き延びて成長した息子に再会し、剣と銃口を向けて殺しかけたこと。
目覚めた脳で改めて思い起こせば、その記憶は涙となって両目から溢れた。
「あ、あぁああっ……!!」
「……後でまた来ます。何かあったら、誰かに声を掛けてください。きっと力になりますから」
青年はそう言うと、幕を戻してその向こうへと去っていった。
愛しあった夫も、暖かかった家族も、奪われてしまった。
新居にも、想い出の詰まった故郷にも、戻れない。
友人も、仕事仲間も、親戚も、二度と会うことは出来ないだろう。
あとは――
「――グリュク……?」
そう。息子はどうだろうか?
だが、物心がつく前に引き離された上、彼女自身が刃と銃口を向けた今、まさか自分の母親と認めてくれるなどと思えるほど、アイディスは自惚れてはいなかった。
そして今、浄化と称して殺し散らしてきた妖族たちの好意に、のうのうと甘えて泣く。
「何で……何でこんなことにっ……!」
それに答える者は、今はいない。
いないはずだった。
「……マグナスピネル、さん?」
遠慮がちに、彼女の忌まわしい名を呼ぶ声。
「やめて……その名前は……いや……!」
追い打ちを掛けられたようで、もはや涙声を隠せない。
しかしそれでも、その声はどこか懐かしいようで、その方向に顔を上げると、そこには金髪の女が立っていた。
手術前後の病人が着るような薄手の病衣を着ていたが、その不安げな表情を差し引けば、思い当たる名前があった。
「……聖アッシェンブレーデル……?」
「ごめんなさい、あなたの本名……聞いたような気もするんだけど、思い出せなくて」
元は聖女として、汚染された生物たちを正義の国へと導くために国境を駆けた女達が、今は陰気な面構えで不安げに見つめ合っている。
それがおかしく思えてきて、アイディスは自分の口元が僅かに微笑むのに驚いた。
驚きつつも、まずは感じたことを素直に述べた。
「良かった……私たち、生きてるんですね……」
「ええ……今はそれを喜んでもいいと思います」
生まれた時代さえ違うであろうその女も、少しだけ笑っていた。
お陰で、息子の身を案じる余裕も出来たようだ。
「(グリュク……かなり背が伸びてたな……)」
目の前の彼女――聖女時代の指揮官がどういった過去を持っているかは分からないので(記憶を取り戻した時に知ったような気もしたが、情報があまりに膨大すぎて覚えきれなかった)、彼女はそこには触れず、話題を振った。
「その……アイディス・カダンです。よろしかったら、人のいるところに案内していただけませんか?」
「あ……アンネラ・スタンテです。こっちです」
記憶の封鎖が解けたとはいえ、二人が改造手術を受けた部分の生理までは、自然に戻るわけではない。
それでも、聖女だった二人の女は、かつて身に纏っていた威厳や凛々しさなどとは無縁の足取りで、連れ立って船内へと踏み出していった。
アイディスの方は、室内履きが床を叩いてぱたぱたと鳴る音に、かつて産科に入院していた頃を思い出しながら。
アムナガル神殿から突き出た、巨大な逆円錐形。
厳密には違うが、大雑把に言えば、合体天船トリノアイヴェクスの形状は細長い円錐に近い。
その尾部の付近、主推進器だという黄金の鏡のような平面の場所に佇み、カイツは呟いた。
「行ったか……」
漆黒の立坑の底へと落ちてゆく突入艇を見届けようと身を乗り出す彼に、レヴリスが告げる。
「俺たちはこのまま船を守るんだぞ、カイツ君」
「分かってるよ」
銀灰色の鎧を纏ったままのレヴリスも、魔人の基本である白色の形態となっているカイツも、反射率の高い金色の鏡面の反射を受けて、黄金の色に染まって見えた。
一方、彼ら同様にトリノアイヴェクスの後端で待機しているセオは、防御用の魔具である黒衣を纏っているために眩しそうにしているだけだったが。
ただ、こうして本尊があるという神殿に全長1200メートル程もある巨大な鏃が深々と突き刺さったというのに、首都はもはや静まり返りつつある。
「しかし、こうまで音沙汰が無いのはおかしかないか?」
訝るカイツに、セオが答えた。
「啓蒙者の兵器は強力だが、よく分からん電波で常に味方同士、連絡しあっていないと動けん代物でもあるらしい。理屈はともかく、我らは啓蒙者の兵士だけを警戒していればいいだろうが……奴らも組織立った行動をするのに機械を使った連絡が欠かせんと聞く。まともな反撃が来るまでは少し時間がかかるかも知れないな」
「……そういうもんか」
「だが、警戒を怠るなよ。奴らの飛び道具は高速で強力だ。まさか本尊の……あ、る……この……しんで……ん……」
「うん……?」
曖昧に頷くと、カイツは狂王の息子に異変が起きたことに気づいた。
「…………!?」
セオ・ヴェゲナ・ルフレートの視線が、傍目にも明らかに虚空をさまよっているのだ。
同時にそれを悟ったのか、全身具足姿のレヴリスも叫ぶ。
「カイツ君、精神系の秘蹟の攻撃だ!」
同時、感覚に波紋が走る。
(危険――)
「!?」
体内に潜む電気知性体の発したその信号をカイツが理解した時には、既に彼らの頭上を無数の"手"が覆い尽くしていた。
「(手……!?)」
青白く死者を思わせる、二の腕から先だけで出来た人体の、悪趣味な集合体。
そしてそれは恐らくは、脅威だった。
どこから湧き出たものか、手の群は質の悪い悪夢のように周囲を、アムナガル神殿とそこに突き刺さったトリノアイヴェクスを覆い始め、カイツたちに向かって数十条の”手”の本流となって襲いかかってきた。
この時もし、カイツが速度に優れた”炎熱の魔人”ではなく、断熱性能と装甲防御を重視した”金月の魔人”に変化していたとしたら、例え一万気圧にも耐えたであろう黄金の表皮も無残にちぎり潰されていたことだろう。
無造作に結んでは開く、無数の手。
それは同じく金色に輝くトリノアイヴェクスの推進場生成単位格子をぐしゃぐしゃに破壊、更に破片を粉砕しながらカイツたちに迫る。
爆裂魔弾の魔法術を連射して”手”の波を防ごうとしていたレヴリスが、取り残されそうなセオの方を見て悲鳴を上げた。
「カイツ君!」
「セオは任せろ!」
レヴリスは銀灰色の鎧の背部の推進器を噴かせ、カイツは赤い稲妻となる。
心神喪失を起こしかけているらしいセオを抱き上げ、斜面を駆け下りて跳躍。
だが、その行く手を塞ぐように、巨大な影が姿を現した。
「っ!?」
例えるならそれは、腹部から大きく一本の棘を突き出した、暗緑色の巨大な鳩。
その嘴が開き、高速の火炎と共に一条の煌めきが放射された。
「!!」
カイツはセオを背負ったまま、銀嶺の魔人となって鋭角の空中機動を行い辛うじてこれを回避した。
空振りした光はそのままアムナガル神殿の天井に照射され、巨大な神殿の下半分ほどが、まるごと火炎に包まれた。
「(火と光が同時に出た……!)」
(主となる中性子射束に付随する電離爆炎の余波。いずれも極めて危険)
「んな事ぁ分かってる!」
本来としては光線を発射するだけだが、余波として火の海が生まれるということだろう。苛立ちながらも、カイツは乱射される巨大な黒い鳩の光線を回避し続けた。
アムナガル神殿は回避された光線で破損が広がっていき、トリノアイヴェクスも船体表面の中ほどまでが青白い手の叢に覆われ、苔むした彫刻のように変貌しつつあった。
確か、エンクヴァルの機械戦力を停止させるため、トリノアイヴェクスは防御に使うエネルギーまで割いていると言っていた。
それがこの状況では、内部は危険どころではない。
炎に包まれる神殿、手の群に覆われた天船。
数十秒ほどで、科学と宗教の融合した楽園の中心が地獄を思わせる光景に変化してしまった。
「(やべぇ……!)」
焦燥が募り、カイツは滅茶苦茶に飛び回りながらも背中のセオに呼びかけた。
「おいッ、セオ! いい加減――」
そこで突如、彼は背中からの衝撃に体勢を崩す。
「!?」
セオが全力で両腕を振り下ろし、カイツを叩き落としたのだ。
放心状態から回復したのかと思えば、一瞬だけ見えたその表情はあまりに虚ろすぎた。
そして体制が崩れた隙を突かれ、暗緑色の鳩の巨大な翼に再度、叩き落とされる。
銀色の魔人はアムナガル神殿の地階部分まで垂直に墜落、炎の海に瓦礫が飛び散った。
レヴリスは精神系の秘蹟と言っていたが、そのような術の類で狂王の息子があっさりと操られ、敵に回るというのか。
「くそッ――!?」
追撃を受けまいと急いで視線を上げると、既にそこには別の敵がいた。
以前浮遊城塞で戦った巨大妖族を思わせる大きさ。頭部に二本の紅蓮の角を生やし、燃え盛る巨大な炎の剣を携えた異形の竜。
黒い巨鳩と同様、その姿はまるで妖獣だった。
「何なんだこいつら……ここは啓蒙者の国だろうが!」
妖獣など、入り込めるわけがない。ならば、啓蒙者がこうした存在を操っているということがあるのか?
彼の抗議など知ったことではあるまい、大気にこれまた巨大な陽炎を発生させながら、刃渡りが20メートルはあろうかという火剣が振り下ろされた。
岩土の魔人になって地中へ逃げるのも、間に合わない速度。
「――!!」
だが、そこにすかさず割って入ったレヴリスが、巨大な高熱の刃を受け止める。
鋭い爆音と共に、彼らの位置する神殿の天井が大きく陥没した。
「うォッ!!」
「おっさん!?」
刃から直接噴き出しているらしき炎までは止められず、銀灰色の鎧の魔女と銀嶺の魔人は刃の下で火に飲まれた。炎の温度も凄まじく、放っておけば二人共溶けるだろう。
だが、束の間であれば耐えられる。
「急げ、カイツ君、黒曜の魔人だ!」
「あぁ……!」
頷くと共に、カイツは漆黒の表皮をした負のエネルギーを操る形態へと変化する。
全身から吹き出す凄まじい凍気が神殿を包んだ炎をかき消し、体勢を立て直した魔人が、レヴリスの支えている巨大な剣の横腹を殴って反撃を始める――その前に。
「その火の名は地獄」
既に何者かによって操られていると見ていいだろう。セオから放たれた多数の爆裂魔弾が横合いから二人を襲い、再び体勢を崩した。
そこに、暗緑色の巨鳩の口から中性子線ではなく粘液の塊が発射される。
しゅうしゅうと揮発成分が抜け出し、高速で硬化・侵食する、極めて分解力の高い生体粘着・溶解液。思わぬ攻撃に、魔人も、移民請負人も動きが止まった。
「うっ……!?」
レヴリスの銀灰色の鎧も、アルクースも、装甲の表面から念動力場を発振させてこのような粘液による攻撃を跳ね除けることが可能だった。
だがそれを実行に移す前に、紅蓮の二本角をした竜の振り下ろした火剣が、二人の戦士を直撃する。
その巨体に見合わない速度で、陽炎を纏った超大型の剣は、何度も振り下ろされた。
原型が失われるまで、何度も。
「………………」
セオは、意思の光を失った視線でそれを眺めていた。正常な意思を保っていたなら、それはあり得ないことだ。
だが、雲ひとつ無い天候だというのに上空から雷が落ちた。
超高圧で迸る電子轟の直撃を受けて、彼も倒れる。
そこにはアムナガル神殿と不気味な無数の手に覆われた天船トリノアイヴェクス、ゆらゆらとそこかしこに残る炎、そして甲高い声で鳴く二体の巨大生物だけが残っていた。
そこに、5人の啓蒙者がゆっくりと降り立った。