第十話 君がために
「ただいま……」
ディランの声音には、まるで隠しきれない疲労が沈殿しているようだった。
彼は岐路の途上、ファニからの言葉を何度も思い返していた。王女としての命令、研究への責任、自分がすべきこと、進むべき道。そして、ルミナリアにこの話をどう伝えるか……
「おかえりなさい……」
ルミナリアが奥から姿を現す。柔らかな微笑み。だが、その瞳にわずかな揺らぎがあることに、ディランは気づいた。彼女もまた、迷いの中にいた。ノクトーには協力してあげたい。しかし、どのように説明するのか。いや、そもそも話すべきなのか。この話を聞けばディランは怒り、研究どころではなくなってしまうかもしれない……
短い沈黙のあと、ディランが静かに口を開いた。
「君に、話したいことがあるのだ」
その言葉に、ルミナリアも背筋を伸ばした。
「はい、実は、私も……」
二人はリビングへ向かい、小さな円卓に隣合わせで座る。
ディランはしばらく言葉を探すように視線を落とし、それから口を開いた。
「……まずは集会の話をしなければな」
ルミナリアは何も尋ねなかった。ただ、静かに言葉を待っていた。
「移民の人たちは必死に訴えていた。あの事件は移民の犯行ではないと、冤罪や不正を訴えていたのだ。しかし……彼らは決定的な証拠を持っているわけではないようだ」
――この冤罪は仕組まれたものかもしれない。移民は無実かもしれない。そのように告げれば、偏見に苦しむルミナリアは希望を持てるかもしれない……
ディランは少し視線を外すと、一呼吸を置いた。そして、
「残念ながら、あのままではそのうち、政府からも目を付けられるだけだろう……だからもう、私は参加しないことにするよ」
と、ルミナリアの瞳を優しく見つめながら告げた。
「そうでしたか……」
ルミナリアがテーブルへ視線を下げる。ディランにはその彼女の表情が、ただただ安どしているように見えた。
ディランの手が、膝の上でゆっくりと握られる。
「今回のことで、目が覚めた。ルミナリア、今まで、すまない……君の覚悟を、想いを、ないがしろにしてしまった」
彼はその、握り締めた手をわずかに震わせながら続けた。
「怖かったのだ……君を失うことが。認めたくなくて、寄り道ばかりを……それに、心配をかけてばかりで」
その声までも、震えていた。ルミナリアの瞳が、わずかに細められる。
ディランは顔を上げた。
「これからは研究に専念すると誓う。君の理論の実現、必ず成し遂げよう」
「あ、ああディラン……」
お互いに想いがこみ上げ、その目には涙がにじんでいた。
ルミナリアは少し、驚いていた。このディランの心変わり、出先で何かあったのではと……ただ、そんなことを詮索する必要などない。
「ありがとう……私の命が尽きるまでに、必ずや成し遂げましょう」
目じりの涙をぬぐいながら、彼女は感謝を告げた。
しかし、ここでディランの顔が沈んだ。口が静かに開く。
「君は――本当に幸せなのか」
あまりにも唐突な問い。
「戻る場所もなく、私のせいで追い詰められてしまった君に、帰化をちらつかせて、結婚を迫ってしまったのかもしれない。今さらになって思うのだ。君は選んだのか、そうせざるを得なかったのか……自分の不甲斐なさに気付く度に、君は相当に不自由な想いをしていたのではないかと……現に、こうして今も」
言葉は続くが、視線は揺れる。
ルミナリアは、静かに彼を見つめていた。
「私は……君を縛ってしまった、そう、本当は、君は――」
それは言い切られる前に、言葉は失われた。
ルミナリアは小さく息をつき――そして、微笑んだ。
「なんて、かわいい人なのでしょう……」
そう言いながら立ち上がり、ディランの手を取る。
驚いたように見上げる彼を、そっと見守るように、
「私は自由です」
と、ささやいた。
「あなたと共にいたいと願い、この研究をしたいと望んだ。それは、誰に強いられたものでもありません」
その手が、少しだけ強く握られる。
「あなたといることで、私の人生は意味を持った」
ディランは、その言葉を受け止めた。
――完全には、飲み込めない。それでも、頷いた。
「……そうか」
小さく息を吐く。
「なら、私にできることは一つ」
その視線を、まっすぐ前に向けた。
「研究に専心する。君の側で、君の力になって……この研究を完成させる」
それは、誓いだった。ディランにとってそれは、ルミナリアの覚悟を受け入れ、共有することであった。もう迷わないと、その体を少し、緊張させた。
「それが、私のやるべきことだ」
ルミナリアは、何も言わなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
その沈黙の中で、彼の決意を受け止めるように。
「……そういえば」
ディランがふと思い出したように言う。
「君も、何か話があると言っていたな」
一瞬。
ルミナリアの指先が、わずかに震えた。
ただ、ルミナリアの中で、答えはもう出ていた。
ディランの顔を見る。
無垢なほどに真っ直ぐな目。
この人は、知れば必ず――踏み込む。
そして、おそらく。
自分のために、危険の中へと進む。
(それは、許されない)
研究が完成すれば――彼は、この世界を変える鍵になる。
そのような理想へのアプローチも、あってよいはずだ。
何より彼を、汚濁に触れさせてはならない。
ルミナリアは、ゆっくりと息を整えた。
「……いえ、私もちょうど、そのことで話をしたかったのです」
穏やかな声だった。
「そ、そうか……?」
ディランは少しほっとしたような表情をして、それ以上は追わなかった。帰宅時のルミナリアの神妙な面持ちを見て、何かを告げられるのではと、少し身構えていたのだ。
「君に一つ、お願いをしても?」
「はい? 何でしょうか?」
「うん……君の理論の実現、それに向けて頑張るのもいいが、その後にささやかなお祝いを二人でする。そのお祝いをゴールにするのはどうかな?」
ディランは油断すれば涙があふれそうな表情で、精一杯の、強がりの冗談を言った。
「ふふ……どこまでかわいいのでしょう……わかりました。では、そうしましょう」
ルミナリアはまた微笑みながら、その提案を受け入れたのだった。
夜は、静かに更けていった。
机に向かい、論文を開くディランの背中を、ルミナリアはしばらく見つめていた。
そして、静かに自室へ戻り、棚の引き出しを開く。
手紙。
それを取り出すと、机にある鍵付きの引き出しを開く。そこには、ヴィスペラ語で書かれた彼女の日記が何冊か積まれていた。
後日、ディランの外出の合間に、先の使者が現れた。
客間で向かい合う二人。使者はルミナリアの晴れやかな顔を見て、恐る恐る尋ねた。
「いかがでしょうか?」
「はい……私はここで、私なりの戦いをすることに決めました。申し訳ない」
その言葉を聞いて、その使者は少し吹き出した。
「しっ、失礼しました。いや、ノクトーが、もしにこやかに笑っていたらそれは断る時だ、と言っていたので……」
「……最初から、余り期待をしていなかったのかもしれませんね」
「いえ……ただ、お会いした時の様子を話した時には、十中八九断るだろうと……」
「相変わらず鋭いですね……」
「では、これで」
「待ってください」
ルミナリアは使者を引き留めると、少し、表情のトーンを落とした。
「王家を悪と断じるのは時期尚早、慎重に見極めなさいと、伝えてもらえますか」
「ふふ、ありがとうございます。王家については、私からも彼にはそのようにいつも教えています」
「ああ、そうでしたか。あなたも月の民、でしたね」
「はい」
ルミナリアはそう言って笑う使者の柔らかな温かみに、何かを気取ったようだ。
「あなたは、もしかしてノクトーの……?」
「えっ!? いえいえ! 何をそんな……」
「そうでしたか……てっきり……」
「……全く、怖い姉弟ですね……では、早々に失礼します。またきっと、彼は連絡をしてくるかと思います」
「わかりました。お気をつけて」
頭を深く下げ退出していく使者を見て、ルミナリアがつぶやく。
「ふふ、お姉さまと呼んでくれてもいいのに……」
後書き
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