節約聖騎士と心配性王子
──小さな贅沢は、誰かの願いでできている。
聖騎士の給金は、決して少なくない。
鎧を新調するもよし、剣を鍛冶師に預けるもよし、あるいは休日に城下の喫茶店で贅沢をするもよし。
──なのに。
ノア・ライトエースの財布は、ほとんど閉じられたままだった。
王子レクサス・アルファードが用意した詰所と私室。机も椅子も寝台も、すべて彼が手配したものだ。
窓から見える中庭は幼き日の記憶を宿し、硝子のリンゴの文鎮は「落ち着けるように」と忍ばせた小さな贈り物。
ノアはそれらを、大切に、大切に使っている。
──だが、それ以外に彼女が自分のために買ったものは、見当たらない。
昼下がりの食堂。
給金日を終えた騎士たちが、談笑を交わしていた。
「給金で鎧を新調したんだ! 見てくれよ、この輝き!」
「俺は剣に細工を頼んでさ──見ろよこの彫金、美しいだろう?」
わいわいと盛り上がる中、ノアは穏やかに微笑み、小さく首を振る。
「……私は、今ので十分です」
その一言で、レクサスの胸はずしんと沈んだ。
やっぱり……まったく使っていない……!
「ノア。……また昼食、パン一個だけ?」
食堂の長椅子に腰を下ろし、彼は困ったように尋ねる。
聖騎士詰所の報告書には、ノアが私物に一切金を使っていないという記述が、何件も挙がっていた。
「……栄養は足りています。これ、保存食ですから」
「それにしたって……。部屋の家具も最低限。カーテンが古いって話もあったけど?」
「十分使えます。破れてはいませんから」
即答するノアに、レクサスは唇を引き結ぶ。
──これではまるで、節制修行僧である。
「ノア。君の給金、月に一度も使ってないって財務官が言ってた。僕が聞いた時、帳簿広げながら“これは新手の貯金妖精か何かですか”って震えてたよ」
「妖精では、ありません……けれど、いざという時の備えは必要ですから」
「ノア、備えすぎなんだよ……!」
もちろん彼女は倹約家であり、贈り物は丁寧に使う人だ。
以前渡した羽根細工のブックマーカーは、今でも日記帳に挟まれている。
だが──あまりに己を削っているようで、見ていてそわそわする。
「だったら、たまには君の“好きなこと”に使ってみてよ。趣味とか、娯楽とか。欲しい物はないの?」
「……うーん」
ノアは珍しく腕を組み、じっと考え込む。
「強いて言うなら……レックスがくれる、たまに届くお菓子とか……あれ、美味しいです。ああいうの、たまになら……」
「……!」
レクサスは思わず立ち上がった。
「わかった。じゃあ、今度君に“たまに”をプレゼントするよ。週に一回くらい、“自分のために使う時間”を、僕が作る。異議は──」
「あり……ませんが……っ」
ノアは戸惑いながらも、小さく微笑む。
その時、レクサスは頭を抱えるような仕草を見せた。
「そういえば、君のお父上──ユーノス団長が言ってたよ」
レクサスは少し息を整え、言葉を選ぶように続けた。
「『娘は給金をほとんど貯め込んでいるが……あれは自分のためではなく、いずれ世のため人のために使うつもりなのだろう』って」
「…………え」
ノアの眼が大きく揺れる。
「『立派な心掛けではあるが……あまりに真面目すぎて、自分を後回しにしてしまうのが心配だ。父としては、もう少し“娘自身の幸せ”のために使ってほしいものだ』──そう、本気で悩まれていたよ」
「と、父様が……?」
ノアの表情は驚きと戸惑いに染まり、胸の奥に熱いものが広がっていく。
父はきっと見抜いていた。自分が“備え”と称して貯めていた金を、いずれ誰かのために使うつもりだったことを。
「だから──たまには、君自身のために使ってあげて。お父上の願いでもあるんだ」
その言葉に、ノアは慌てながらも素直に頷いた。
安堵の息をついたのは、レクサスの方だった。
数日後の午後。
レクサスは、「今日は休みでしょ?」とノアを誘い、王都の城下町へと連れ出していた。
通りには季節の市が立ち並び、色とりどりの布や香辛料の香り、焼き菓子の甘い匂いが風に乗って流れてくる。
ノアは少し戸惑いながらも、その賑わいにほんのりと目を細めていた。
「……こういうの、久しぶりです」
「君には、こういう時間がもっと必要なんだと思って」
ふと、通りの角に出ていた露天商の一角。
風に揺れる小物の中に、ひときわ目を引く品があった。
銀に淡い青の細工が施された、小さな髪飾り。
陽光を受けて、まるで水面のようにきらりと光る。
その瞬間、ノアの銀髪にそっと重なるようなイメージが、自然と浮かんだ。
「ちょっと、待ってて」
そう言って、レクサスは足早に露店へと向かう。
露天の老店主がにやりと笑って差し出した小箱を受け取り、小銭を渡す手元はなぜか少しだけぎこちない。
ノアのもとへ戻ると、彼は照れくさそうに小箱を差し出した。
「ノア。これ……君に似合うと思って」
ノアは驚いたように目を瞬かせ、渡された小箱をそっと受け取る。
細やかな銀細工を覗き込むと、頬がふわりと染まった。
「……ありがとう、レックス。大切にします」
その返事に、レクサスは安堵したように微笑んだ。
──けれどノアは、その髪飾りを手のひらに乗せたまま、ふと静かに思う。
こういうものを、自分のために買おうとしたことは──一度もなかった。
贈られたから、大切にしたいと思える。
でも、もし自分で見つけていたとしても。
きっと「必要ない」と通り過ぎていた。
それが“贅沢”というものなのだと、初めて気づいた。
──その夜。
王城の廊下を歩いていたラクティスは、ふと足を止めた。
通路の先にあるレクサスの私室から、まだ灯りが漏れていたのだ。
「……あれ、レクサスの部屋、まだ起きてるな」
肩をすくめた瞬間、同じく城内を巡回していた神官長イスズがひょっこり顔を出す。
「おやおや、あの坊ちゃん、また夜更かし? こりゃ覗いていくしかないねぇ」
二人はこそこそと囁きながら、静かに扉の前へと歩み寄る。
わずかに開いた隙間から、机に向かって何やら真剣に書き込んでいるレクサスの姿が見えた。
「……何やってんの、殿下」
こっそり覗き込んだ二人の視線の先。
羊皮紙の中央には、大きくこう記されていた。
《ノア生活改善計画》
羽毛布団
※支給品を“もったいない”と断り、予備倉庫の“薄手で小柄な方向け”を選択。
──結果、足がはみ出る。なぜだ。
外套の替え
※破れかけの外套を“まだ着られます”と主張して着用。
──イスト隊長に「身だしなみもまた騎士の責務です」と淡々と咎められ、回収された。
──助かった。ありがとう、イスト。
菓子店巡り
※同行必須。週に一度、“たまに”を定期化せよ。
──菓子を与えるとノアは笑う。これは重要。
食器一式
※現在、木皿と鉄スプーン。全体的に色味が“茶色”で統一されており、食欲が湧かない。
──可愛い陶器で「いただきます」を!
趣味の書籍
※蔵書の九割が戦術書・礼法・教本。読み返しメモも綺麗に整っている。
──真面目なのは知ってる! でも! せめて娯楽を!
「こりゃあ……立派な愛だねぇ」
「いや、新婚の旦那様って感じじゃねぇ?」
二人に大爆笑され、レクサスは顔を真っ赤にしながら、羊皮紙を慌てて丸めた。
──違う。違うんだ。
ただ、ノアに少しくらい“自分を甘やかす”ことを覚えてほしいだけで……!
その心の叫びが届くはずもなく。
翌朝には、城下町に妙な噂が駆け巡っていた。
「王子殿下は奥様候補の生活改善に熱心らしい」──と。
……ともあれ、ノアの質素すぎる日々に、ようやくひとしずくの変化が訪れようとしていた。
* * *
事情を知らないノアは、詰所の窓から外を見ながら首をかしげていた。
けれど──手元には、昨夜レクサスから贈られた髪飾り。
陽の光にきらりと揺れる銀の細工を見つめながら、そっと息をつく。
(そういえば……エテルナに滞在している間に、城下に雑貨屋ができたって──誰かが話してたっけ)
ふとした記憶の断片が、胸の奥をくすぐる。
かわいらしい食器や布小物を置いていると聞いた、新しい店のこと。
「……今度、行ってみようかな」
その小さな決意は、やがて彼女の日常に、ひとつずつ新しい彩りを重ねていくことになる。
──それが、レクサスの願いでもあったことを、彼女はまだ知らない。
一方、騎士団長室では、ユーノス・ライトエースが安堵の表情を浮かべていた。
「ようやく娘が自分のためにお金を使い始めたか……。レクサス殿下には感謝せねばならんな」
父親として、長年の心配がひとつ軽くなった瞬間だった。