金と銀の再会譚
夜のエテルナ。
蒼白い月光が、静寂に包まれた神殿の回廊を照らしていた。風は凪ぎ、遠く波の音だけがかすかに響く。夜の帳に沈むこの世界で、ただ一人、月を見上げる者がいた。人の身に意識を移したエンシェントドラゴンの金・セレナ。
――人としての名は、イスズ・エルガ。
創世より続く流れの中で、神官長としての務めを担うこととなった。
(いやー、それにしてもなぁ……まさかアタシが神官長になるとはねぇ)
かつて、竜の思いを踏みにじった国が滅び、彼女はその礎の上で傷つきながら生き延びた。そして身体を癒やすため地底湖に身を沈め、意識は自ら生み出した人の身の器に収めた。
(……ヒマだわ)
四年前、レガリアの目覚めを阻止しようとしたが、不完全な身体により敗北を喫した。
セルシオに水晶を託し、力尽きて倒れ――気がつけば、そこはストーリアの王城だった。
目を覚ました時、周りには多くの人間がいて、王族に仕える者たちが手を尽くして彼女の傷を癒した。
その瞳の奥に、何かを察しているような光があったことを、彼女は覚えている。
そして、泣き声が耳に届いた。
あの時、セルシオが救おうとした小さな命が、王国の人々の手に抱かれていた。
こうして――まあ、なんやかんやで、神官として迎え入れられたのだった。
本当のところ、どうして自分がここにいるのかは、未だに全部は分からない。
けれど、ここにとどまると決めたことは……今は間違っていなかったと思っている。
それでも、神殿での生活にも慣れ、気づけば神官長という立場も得た。
だけど――どうにも、物足りない。
「正直、デスクワークばっかりで退屈すぎる……!」
エンシェントドラゴンである彼女にとって、机に座り続ける日々はまさに苦行だった。
だからこそ、イスズは今、エテルナの神殿から「こっそり」抜け出していた。
目指すは試練の洞窟、その最奥。
(ここには"何か"があるって聞いたけど……まあ、普通の人間じゃ無理な芸当よね)
潮風が遠ざかるにつれ、湿った空気が冷たく変わる。イスズは足を止め、指先に微かな魔力を込めた。
「っと、転移の座標は……よし」
軽く息をつき、魔法陣を描くように手を振るう。次の瞬間、空間が波打ち、一瞬で景色が切り替わった。
そこは、静寂に支配された洞窟の最奥。時間の流れすら置き去りにしたような、重い気配が満ちている。
(……いや、まさか)
空間がわずかに揺らぐ。その瞬間、イスズは察した。風が巻き、確かにそれはいた。
銀の瞳が、深遠を覗くようにこちらを見下ろしている。銀の鱗。白いたてがみ。
――エンシェントドラゴンの銀・セレス。
(……えっ?)
頭が追いつかない。思わず腰を抜かす。
目の前の存在が何者か――そんなこと、考えるまでもなかった。知りすぎている。
「は?」弟だ。
どうしてここにいるのか。そんなことを考えるよりも早く、言葉が勝手に飛び出した。
「……セレス!? 」
銀の竜は、ゆるりと瞼を開き、重々しく告げる。
『その気配……姉上か』
相変わらず低く荘厳な声。
「えっ……? ちょ、マジで!? なんで!? なんでアンタがこんなとこに!? てか千年ぶり!?!?」
突然の再会に完全に動揺するイスズと、それを静かに見下ろすセレス。
『……まさか、こんな形で再び相まみえようとはな』
「……こっちのセリフよ!!!」
洞窟の奥、静寂が満ちる。腰を抜かしたイスズとは対照的に、セレスは微動だにせず彼女を見下ろしていた。
「いや~、いや~、ほんと……びっくりした。てっきりもう、あんたとは一生会えないかと思ってたのに」
『……姉上こそ、なぜこの地に?』
セレスの銀の瞳が、静かにイスズを捉える。
『まさか、ただの興味本位でここに足を踏み入れたわけではあるまい』
「……いや、興味本位です。」
イスズは肩をすくめる。
「神官長になったのはいいけど、正直退屈でね。だから"ここには何かある"って話を聞いて、ちょっと覗きに来ただけ」
『軽率だな』
「うっさいわね。そっちこそ、千年も何してたのよ?」
『……我は、この地に留まり、試練を与える者として在った』
「……試練?」
イスズの眉がぴくりと動く。
「……ってことは、あんた、ずっとここで何百年も人間の試練を見守ってたわけ?」
『然り』
「……え、何そのストイックさ」
イスズは呆れたようにため息をつく。
「でも、アンタが人と関わるなんて、昔のアンタからは想像もつかないわね」
『……我もまた、変わったのだ』
「だが、姉上。そなたもまた、変わったのではないか?」
「……あ?」
『姉上が、神官の衣を纏う姿など、誰が想像したであろうか』
「……あんたさ、会って早々ツッコミどころしかないんだけど?」
セレスは静かに目を閉じる。
『千年前、レガリアの狂乱を目の当たりにした。その時、我は悟った。人の在り方を見届けねばならぬ、と』
「……アンタが?」
イスズは驚いたようにセレスを見つめる。
「昔のアンタは、"人の営みに積極的に干渉すべきではない"って感じだったのにねぇ」
『……時は流れ、世界は変わる。ならば、我らもまた変わるべきなのだろう』
「ふぅん……」
イスズは腕を組み、考えるように視線を逸らす。
「で、アンタの本体は?」
『……我が本体は、この世の理の深みに沈み、まどろむのみだ。だが、必要とされる時が来れば、再びその理と共に目覚めるだろう』
その言葉に、イスズの表情が一瞬険しくなった。
「……そっか。そういうことね」
『ここに在る我は、過去に刻まれた残響にすぎぬ。だが、理の巡りが再び我を呼ぶ時が来るはずだ』
「……そっか」
イスズはゆっくりと目を閉じ、そして微笑む。
「……ま、あんたがここで頑張ってるなら、私もちゃんとやるよ」
イスズは立ち上がり、軽く肩を回す。
「また会おうよ、セレス」
『……ああ、姉上』
再び銀の光が揺らぎ、セレスの姿は薄れていく。
イスズは軽く手を振りながら、その場を後にした。
こうして、千年ぶりの再会は静かに幕を閉じたのだった――。
(セレスとの再会……あれから十年か)
竜の時の流れで見れば、十年なんて瞬きひとつ分にも満たない。
けれど、人の身を借りて過ごすこの十年は、思った以上に重たくて――長かった。
時折、試練の洞窟を訪れ、あの弟の幻体と他愛ないやりとりを交わすこともあった。
その間にも、世界は少しずつ変わり、あの子もまた、成長していった。
そして――いずれ、あの子が聖騎士の試練に挑むだろう。
聖騎士とは、剣を執る聖職者。
けれど、剣を振るうだけの聖騎士は数多い。
その試練を、あのセレスが課してきたというのは……ちょっと意外だった。
命を張って他人を守れるか。恐怖に負けずに進めるか。
――そういうものに、あの竜がここまで目を向けていたなんて、ちょっと信じられないくらいだ。
でも、あの子なら――セレスも認めるだろう。
ゆるりと目を閉じ、イスズは小さく息を吐いた。
(ノア・ライトエース。……アンタなら、どうするのかねぇ)
セルシオのことは、未だに胸の奥に引っかかっている。
あの時、水晶を託したのは正しかったのか……今でも答えは出せない。
けれど、今は――お前の進む先に願いを託すしかない。
お前なら、きっとあの悲劇に終止符を打てる。
お前だけが、レガリアの狂気を終わらせられるはずだ。
試練の洞窟は、間もなくノアを迎え入れるだろう。