家出少年が竜に拾われて三年後、聖騎士候補と斬り合った話
行く宛もなく、洞窟へと彷徨い込んだ家出少年が出会ったのは、
眠る金の竜と、妙に軽口な神官長。
拾われ、神殿で鍛えられた彼は、三年後──
聖騎士候補の少女と剣を交えることになる。
真っすぐなその瞳に、少年は何を見るのか。
これは、肩で風を切るまでにかかった、ちょっと長い前振り。
イオス大陸東部、ルーテシア地方の都セントラを飛び出した少年は、当てもなく旅を続けていた。
日々の景色に名前はなく、歩く理由も、戻る場所もなかった。 所持金も尽きかけたその夜、彼は寝場所を探して森をさまよい──たどり着いたのは、ストーリア王都の外れにひっそりと口を開ける洞窟だった。
地元では“帰らずの洞窟”と呼ばれ、昔から人々に忌み避けられているという。
理由を知る者はいない。ただ、古びた立て札の残骸や、草に埋もれた小道が、それが“忘れられた何か”だったことをかろうじて物語っていた。
何かを封じるように、あるいは、何かを守るように──そんな気配だけが残っている。
誰も近づこうとはしない。けれど、たまにいるのだ。
行く宛もなくて、頭も鈍くて、空気なんか読まない奴、たとえば──この少年のような。
背伸びしたような軽鎧が妙に浮いて見える──名はネイキッド・シーマ。まだ十五歳の、行き場を失った少年だった。
夜の闇は冷たく沈み、彼の背を無言で押す。宿もない、戻る場所もない。ただ歩くしかなかった。
「……っくそ、何やってんだ、俺」
誰も応える者はいない。苛立ち紛れに蹴った石が、湿った岩壁に虚しく響くだけだった。
思ったより奥行きのある洞窟の中に、微かに光が漂っている。それは自然光ではなかった。揺らめき、まるで生きているかのような淡い光。その不思議な輝きに誘われるように、ネイキッドは奥へと進む。
そして──彼は、それを見た。
水鏡のように静かな湖底に、月光にも似た光が反射している。その中心に横たわる、あまりにも大きな存在。
「……なんだよ、あれ……」
金色の鱗。風もないのに、長いたてがみが揺れている。規格外の存在感に、背筋が凍りついた。
足が動かない。頭の中が真っ白になる。ただ、その目だけは逸らせなかった。
『……よくここまで来たもんだ』
耳元で、誰かの声が囁いた気がした。それが空耳か現実かも分からず、ただ胸の奥を冷たいものが這う感覚だけが残った。
不意に、背後から声がかけられる。
「……ほぉ。腰でも抜かすかと思ったが、案外骨があるじゃないか」
びくりと肩が跳ねる。振り返れば、いつの間にかそこに立っていたのは、一人の女だった。
白と金を基調とした柔らかな衣。無造作に束ねた長い金髪。琥珀色の瞳。その瞳に見下ろされ、ネイキッドは息を詰まらせた。ただの人間ではない──直感で、そう理解できた。
「……誰だよ、アンタ」
かすれた声がこぼれる。女は唇の端を上げ、どこか楽しげに目を細めた。
「……イスズ・エルガ。ストーリア王国の神官長さ」
女は名乗りながら、ちらと湖の中央に視線をやる。
「で、あそこで寝てるのが──アタシの“本体”。エンシェントドラゴン、セレナ」
ネイキッドの目が、大きく見開かれた。
「……は……? セレナって、あの……え、あの“創世神話”の……?」
膝がガクッと抜けそうになるのを、何とか堪える。
「マジかよ……だって、イース信仰じゃ……セレナとセレスって、世界の均衡の柱……“伝説”の存在だろ……!?」
「んー、ま、実在してんだけどねー。伝説とか言われると照れるなあ、アタシ」
女――イスズは冗談めかしながらも、肩をすくめてみせた。
「千年前、ちょっと化け物じみた竜とやり合ってさ。本体のほうは、そのとき呪いを喰らって、今は命を削りながらの長期保存中ってとこ」
女は苦笑いしながら、すっと自分の胸元を指差す。
「で、こっち。これは擬態でも幻でもない。アタシ自身が作った“器”さ。魔力で人間の身体を構築して、そこに魂と魔力を移してる」
「……え、つまり……本体は……冷凍保存?」
「まあ、言い方を選ばなきゃそんなもんよ。呪いの進行防ぐのにああやって寝かせてあるわけ」
軽口を叩きながらも、その声音には一切の冗談がなかった。
ネイキッドはごくりと息を飲んだ。
「……マジで……人間じゃねぇんだな、アンタ……」
静かな湖面に、金色の鱗が月明かりのように揺れていた。
頭が真っ白になった。思考が止まり、身体の奥に冷たい何かがじわりと広がっていく。理解が追いつかない。
「あ、ちなみにこれバラしたらアンタのこと食うから」
軽い口調。それなのに、背筋を氷が這うような寒気が走る。
「……っ、ま、マジで!?」
イスズはおかしそうにくすくすと笑った。
「安心しな。アタシらエンシェントドラゴンは、食事なんて必要としてないのさ。美味しいもんは好きだけどね」
「……じゃあ、“食う”ってのは……」
「脅しだよ。軽ーい牽制」
彼女は肩をすくめながら、金の瞳を細める。
「でもな、本気で一線越えた奴には、それすら容赦しないけど?」
「いや……だったら最初から教えんなよ!」
ネイキッドが本気で困惑した顔で叫ぶ。
「なんだよそれ、教えてから“喋ったら食うぞ”って、もう詰んでんじゃん!」
「んふふ、そういう理屈っぽいとこ、嫌いじゃないよ~?」
イスズは楽しそうに頬を緩めながら、腰に手を当てる。
「でもさ、秘密ってのはね、守るって決めたやつにしか教えられないもんなの。あんた、そういう顔してたからさ」
「……は?」
「まあ要するに、直感」
「いや雑だな!? 命賭ける相手選び、雑すぎだろ!」
「そんなことないってば~。ほら、あんた面白いじゃん? ちゃんと秘密、守れるって信じてるよ」
にこにこと笑うその顔は、本当に信じてる目だった。
ネイキッドは眉間を押さえて、思わずため息をついた。
「……マジでヤバいもんに気に入られちまったな、俺……」
ちらりとこちらを見るその瞳は、鋭くも、どこか優しさを湛えていた。
「代わりに、面白い子は好きだよ。君、行くとこないんだろ?」
「……なんでわかんだよ」
「見てりゃわかるさ。孤独な目をしてる」
ネイキッドは唇を噛み、目を逸らした。図星だった。胸が痛んだ。
「だからさ。アンタ、アタシと一緒に来な。エテルナ島。神殿で護衛騎士でもやりなよ」
「……は?」
「人を見る目だけはあるつもりなんだ。根性と度胸は悪くない。素直じゃないけど、伸びしろはある」
反発の言葉を飲み込んだ。
──本当は、行く場所なんてなかった。頼られたことも、一度もなかった。
「……はぁ、ったく。拾ってくれや」
「よろしい!」
ぱんっと手を鳴らし、イスズが魔法陣を描いた。
「じゃ、移動開始っと! そういえばルーテシア系の人って、空間魔法にめっぽう弱いんだっけ。ご愁傷様!」
「あ? なんの──うわあああああッ!」
空間がひしゃげ、上下の感覚が崩れる。景色がぐるぐると回転し──。
地面に転がったネイキッドが、青ざめた顔で呻いた。
「……おえっ……」
「おっと、魔法酔い? 魔力低めだとありがちよね〜。ほら、これでも舐めなさいな」
投げ渡されたのは、小さな飴玉。
「……クソ、最悪……」
「ふふ、ようこそ、エテルナ神殿へ」
それから月日は流れた。
雑用係から始まった神殿での日々は、思いのほか心地よかった。厳しい訓練を除けば、食事も寝床も与えられ、何よりイスズのように本音で接してくる大人がいる──それが、新鮮だった。
名門の跡取りとして生まれた過去。幼い頃から、隙のない立ち振る舞いと冷静さを求められた。定められた道、理想像。重苦しい空気に押し潰されそうだった。
満月の夜。気づけば、ただ走っていた。逃げるように。彷徨うように。そして、金色の竜を見つけて──イスズに拾われた。
剣は重く、足は絡まり、涙も滲んだ。それでも、不思議と腐らなかった。
「ほんっと面白い子だよ、あんた」
「ね? やればできんじゃん。ね、だから言ったでしょ」
その一言が、不思議と胸に染みた。
神殿には、緩やかな日常があった。笑い合う神官たち。気楽な雑談。誰も強制せず、誰も威張らない。
どこまでも自由ではない。だが、窮屈でもない。
失敗しても、次があると言ってくれる。
『面白いから』。それがイスズの口癖だった。そして、それがこの居場所を作っていた。
三年が過ぎた頃には、剣を握る手にも自信が芽生え、ようやく肩で風を切って歩けるようになった頃だった。
──そう、あの“少女”が神殿に現れたのも、ちょうどその頃だった。
「ただいまー。……ついでに連れてきたよー」
神殿の玄関口に響く、いつもの軽い声。
振り返れば、イスズが旅装を翻して戻ってきていた。
その傍らには、静かに頭を下げる少女の姿。
「あ? どこから連れてきんだ」
「王都。ストーリア王国。んで、見ての通り──聖騎士候補生」
「また拾ってきたのか……」
「ちがうちがう、今回は“推挙”! ちゃんと手順踏んだんだからね!」
ネイキッドは肩を竦めながらも、自然とその少女に視線を向けていた。長い銀髪。まっすぐな瞳。整った姿勢。澄んだ声。完璧とも思える立ち姿。
どこか、光そのもののような気配を纏っていた。
──窮屈そうだ。
最初はそう思った。かつて自分が逃げた“檻”を、彼女がその身に纏っているように見えた。
「ノア・ライトエースです。……よろしくお願いします」
一礼する姿を見て、気づいた。
それは、押しつけられたものではない。自ら選び、誇りをもって立っている姿だった。
──すげぇな。
同じ重さを、自分は投げ捨てた。でも、彼女はそれを背負い、歩いている。
「……よろしく。ネイキッド・シーマだ。ここで神殿騎士やってる」
自然と、口元が緩んでいた。
でもよ、真面目なのはいいけど……たまには肩の力抜いてもいいんだぜ。
そんなことを思いながら、彼女の背を、もう少しだけ見守ってみようと思った。
そして、ある日──
訓練場に響いたのは、鉄と鉄のぶつかる音だった。
エテルナ神殿の訓練場では、聖騎士候補生を迎えての模擬戦が行われていた。
その対戦相手に選ばれたのは、神殿騎士ネイキッド・シーマ。
騎士たちがざわつくなか、見守る者の中には、見慣れた金髪の神官長の姿もあった。
「んふふ……ネイキッドも出世したもんだねぇ。昔は山菜の選別もまともにできなかったのに」
イスズ・エルガは腕を組み、どこか誇らしげに唇を吊り上げた。
「この組み合わせ、ちょっと面白いかもね。スピード全振りの聖騎士候補と、実戦バカ一直線のうちの育成組……ふふっ、潰し合っても知らないよー?」
「よろしくお願いします」
銀髪の少女──ノア・ライトエースが静かに一礼し、剣を構える。
その構えに、一瞬周囲の空気が引き締まる。神官見習いたちが思わず息を呑むほどの緊張感。
「……なるほどな。“それ”を着てるだけのことはありそうだ」
ネイキッドは、視線を逸らさずに剣を抜いた。
観察。直感。そして──踏み込み。
だが、その刹那。
「速っ──!」
視界からすっと姿が消えた──否、消えたように“見えた”だけだった。
足音もなく背後へ滑り込み、空気を斬るような一閃が肩をかすめる。
ネイキッドは反射的に体をひねり、振り返りざまに大剣を振る。
重い斬撃。それは一撃で相手の構えを崩す威力を持っていた。だが──
剣と剣がぶつかり、火花を散らす。
鍔迫り合いの中で交わる視線。互いに一歩も引かず、技と力のせめぎ合い。
「気持ちのいい剣、してんな。力の抜き方が完璧すぎてムカつくわ」
「そちらこそ……剣筋が重くて、全然甘くないです」
「にしても、ずっと真顔だなお前……本当に十代かよ」
じり、と踏み込む。ノアの気配が再び霧のように薄れ──また消えた。
「うおっと、マジで速ぇな!」
「……かわした……あれを?」
騎士見習いのひとりが呟いた。
イスズはくすりと笑って、隣にいた若い神官に耳打ちする。
「ね、いい子でしょ? うちの子たちも、ちゃんと育ってるのよ」
調子よく鼻を鳴らすその顔に、神官は苦笑いを浮かべながらも頷いた。
一方、戦いの最中。
ネイキッドは、確かに手応えを感じていた。
ノアは強い。技術も、速さも、意思もある。
でも──
「こっからだっての」
低く呟き、ぐっと力を込めて押し返す。
ノアの体勢が一瞬崩れ、距離が開く。
「悪ぃな。そう簡単には勝たせてやらねぇぞ、聖騎士さんよ」
「それは……望むところ、です」
剣と剣。速さと重さ。
正反対のふたりが、互いを試すように、確かめるように、刃を交える。
やがて、訓練終了の鐘が鳴った。
ふたりはほぼ同時に剣を引き、礼を交わす。
場にいた者たちは言葉を失い、ぽかんと口を開けていた。
「……なあ、今の見た? どっちが勝ったって言えねえだろ、あれ」
「信じられない……あれが、模擬戦……?」
「ネイキッドってあんな動けたんだな……正直ちょっと舐めてたわ……」
「ふふーん! 見た!? アタシの見る目に間違いはなかったってわけさ!」
誇らしげに胸を張るイスズの隣で、ネイキッドは肩をすくめながら歩いてきた。
「はしゃぎすぎだろ、姐さん……」
「いいじゃんいいじゃん、あんたたちがかっこよかったから、だよ? アタシ、惚れ直しちゃったな~」
ノアが、少しだけ微笑んでいた。
その笑みに、ふと胸の奥が熱を持った。
(……今の笑い方、ちょっとだけ……昔の俺に似てたな)
ほんの一瞬だったが、彼女が“素”に戻ったように思えた。
その一瞬を見逃したくなくて、指先が思わず動いていた。
不意に、何の前触れもなく、軽く彼女の額を指で弾いた。
「っ……な、何を……」
「ちょっと肩の力抜け。そうじゃねぇと、いつかぶっ壊れるぞ」
目を丸くするノアに背を向けて、ネイキッドは訓練場の隅へと歩き出した。
その背中は、どこか嬉しそうに見えた。
本編より5年前の話でした。