髪の女
鳥居の朱が夕焼けに染まり、山の端に陽が沈む。
今日も一日が終わる。私は、神社の拝殿に手を合わせ、掃除用の竹箒を持って境内を回っていた。
高校に通いながら、実家の神社を手伝う日々。お祭りが近いこともあって、巫女の修行も厳しさを増している。けれどそれが嫌だと思ったことは、一度もない。神社は私の家で、巫女は私の未来なのだから。
そんなときだった。スマホにLINEの通知。
画面には、クラスメイトのグループからのメッセージが並んでいた。
《今日の夜、肝試し行こうよ!》
《あの有名な“山の旅館”ってどう?マジでヤバいって噂のとこ!》
《えー超行きたい!》
《志乃ちゃんも来てね!》
私は、思わず眉をひそめる。
“山の旅館”……山中の廃墟となった旅館のことだ。
その昔、良くない事が立て続けに起き潰れてしまったらしい。
祖父でもどうすることもできなかったらしく、両親からは、山の旅館に関わることを固く禁じられていた。
私はすぐに返信した。
《やめた方がいいよ。あそこは本当に危ないから。》
だが、返ってきたのは軽いノリの笑いと、さらに盛り上がるテンションのスタンプの嵐。
止めれば止めるほど、逆に“本物っぽくて行きたくなる”と言われる始末だった。
(どうしよう……)
私は掃除の途中で箒を止め、手を組んだ。
神職の娘としては当然止めるべきだ。けれど、何かあってからでは遅い。
気づけば私は、掃除を終えることなく、カバンを肩にかけて家を飛び出していた。
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集合場所に着くと、数人の友人たちがすでに集まっていた。
「やっぱ来てくれたんだ! 志乃ちゃんいないとつまんないよね!」
無邪気に笑いかけてくる友人たちに、私は曖昧に笑って応える。
これからの事を思って少し気が滅入っていると、
「よかった、来てくれて。……あんまり無理しないでね」
そう言って、沙夜は私にそっと手を添えた。体温が優しい。
(ありがとう……でも、なんだか懐かしい気がする……)
それから私たちは、懐中電灯を片手に山を登った。
木々がざわめき、虫の声が耳にまとわりつく。廃墟となった旅館は、遠くからでも見えるほど、黒々とした影を落としていた。
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入口の自動ドアは壊れていて、少し開いた隙間から中へ入る。
廊下の絨毯は朽ちて、湿った空気にカビの匂いが混じっていた。
皆は「きゃー」「やばっ!」と騒ぎながら、スマホで動画を撮っている。だけど、私はその場に立ち尽くしていた。
(おかしい……冷や汗が止まらない)
神社の修行をしてきたからこそ、わかる。
この場所には、“何か”がいる。空気が重く、冷たい視線が背中に突き刺さる。
「大丈夫?」と、また沙夜が私の手を取った。
その瞬間だった。
「……ねえ、あれ……誰?」
誰かの震えた声が響いた。
私たちが歩いてきた廊下の向こう。そこに、人影があった。
真っ黒な長髪、白いワンピースのような衣服、顔は見えないが――たぶん“女”だ。
息を呑む気配が連鎖する。
誰かが「やだ……来ないで……」と声を絞り出すが、不思議なことに、誰も動かない。足が床に縫い付けられたようだった。
(私だけでも、動かないと……)
体を動かそうとするけど、膝が笑って力が入らない。
そのときだった。
キュッと志乃を握る手に力が入る。
「志乃のカバンの中にある物なら、大丈夫だよ」
――え? 何が?
私は混乱しながらも、手探りでカバンの中に手を入れた。
その中に、冷たいガラス瓶があった。
(これ……清め酒?)
そうだ。掃除のときに、社で使っていた。自分で仕込んだもので、まだ見習いだけど、ちゃんと祈祷もした。
(でも、こんな物で、本当に……?)
影の女が近づいてくる。黒髪がまるで蛇のように床を這い、誰かの足元に巻きつこうとしている。
目の前に、死が迫っている。
「ほら、自信を持って」
沙夜の声が、耳元で囁いた。
私は、叫ぶようにして瓶の蓋を開け、酒を前方に振り撒いた。
次の瞬間、女の影が震え、耳をつんざくような絶叫が響いた。
女の影は歪み、燃えるように掻き消えた。
――静寂が、広がる。
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私たちは、静まり返った旅館を這うようにして抜け出した。
外の空気が、夏の暑さが、こんなに温かく優しく感じたのは初めてだった。
「……やばかった……マジで……」「生きてる……よね、これ……」「志乃ちゃんいて良かった……」
皆、震えながらも無事だった。それが何よりだった。
けれど、私は一つのことに気がついた。
「……あれ、沙夜……どこに行ったの?」
皆が私を不思議そうに見る。
「え? 沙夜? ……誰それ?」
「志乃ちゃんと私たちだけだったでしょ?」
「……何言ってるの? 他にいた?」
……頭が真っ白になる。
沙夜は、志乃に隣にいた。私を助けてくれた。
なのに、誰も彼女のことを覚えていない。
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翌日、学校に行った私は、教室の後ろの席をじっと見つめていた。
沙夜がいつも座っていた、窓際の席。
でも、その席は空いていた。荷物も何もない。
担任に名簿を見せてもらっても、沙夜の名前はなかった。
(じゃあ……私は誰と一緒にいたの?)
あの夜、私に自信をくれた言葉。
“志乃のカバンの中にある物なら、大丈夫だよ”
沙夜がいなければ、私たちは助かっていなかった。
そのとき、窓の外で風が吹き、桜の葉が一枚、ひらりと教室に舞い込んだ。
(ありがとう……)
私はそっと目を閉じ、心の中で彼女に手を合わせた。
今回は、
「酒」「偶然」「裏切り」
のお題で参加させていただきました!
楽しい企画をありがとうございます!