不思議な床屋さん (お話し)
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路地裏の片隅。誰も気づかない小さな看板に、ふと目がとまる。
「不思議な床屋」と、丸い文字が浮かび上がるように灯っていた。
疲れた足が勝手に止まり、男はドアを押した。
ベルの音が、どこか遠くの国の風鈴のように鳴る。
「いらっしゃいませ」
年齢も性別も分からない、柔らかな声が出迎えた。
その人は、真っ白な上着を着て、銀色のハサミを胸にさしていた。
「ここ、、床屋、ですよね?」
「ええ、でも少し変わっているかもしれません。うちは、髪型ひとつで[なりたい自分]になれるんです」
「、、、は?」
「夢があるなら、おっしゃってください。わたしが整えます。ただし、髪が伸びたら、夢は終わります」
男は笑った。だが、その目にはどこか懐かしさが宿っていた。
試すような気持ちで言ってみた。
「じゃあ、、、じゃあ、子供の頃の夢だった、冒険家にしてください」
床屋の主人は微笑んで「かしこまりました」と言った。
しゃく、しゃく。銀のハサミが空気を裂き、音が耳を撫でる。
気がつけば、男は大地を駆けていた。ジャングルを進み、山を越え、海を渡る。
地図にない場所で、少年のような笑顔を取り戻した。
けれど、ある朝、鏡を見ると、、、
髪が、伸び始めていた。
景色がかすれ、夢がほどけ、彼はまた椅子の上に戻っていた。
鏡の中に映るのは、また“いつもの自分”だった。
「、、、終わったのか」
「ええ。でも、何度でもどうぞ」
男は通い続けた。俳優、詩人、教師、王様。
なりたい者になっては、髪が伸び、すべては消えた。
やがて、ふと気づく。
どんな夢を見ても、どんなに変わっても、、心の底は変わっていないことに。
ある日、男は主人に尋ねた。
「、、あなたは? どうしてこの床屋をしてるんですか?」
主人は、窓際の古びた地図を見つめながら言った。
「私もね、最初はただの旅人でした」
その声にあわせて、地図がふっと揺れる。風など吹いていないのに。
「星を追い、音を奏で、詩を書き、人に憧れ、名前を変えた。
でも不思議ですね、どれも僕には似合わなかった。
ある夜、夢の底で、誰かの髪を切っている自分に気づいたんです。
その手の感触が、やけに馴染んでいて……目が覚めたら、この場所にいたんです」
立派な帽子を外すと、彼の髪は見事に整っていた。
何の違和感もないその髪型は、まるで最初から、彼そのものだったように。
「さあ、あなたは、、今度は、何になりたいですか?」
男はしばらく黙っていた。
目を閉じ、すべての夢を見送った心の奥に、ひとつだけ残った形を見つめた。
「、、俺は、床屋になりたい」
主人は、驚いたように目を細め、それから静かに笑った。
どこか、昔の自分を懐かしむように。
「いい夢ですね。
、、、私も、誰かにそう言った気がします」
その言葉と共に、空気がふっと揺れた。
男の手に、銀のハサミがやさしく落ちてくる。
それはまるで、長い夢の中でようやく見つけた鍵のようだった。
ふと気づくと、椅子の上には一つの立派な帽子が置かれていた。
主人の姿は、もうなかった。
男が鏡を見ると、そこには新しい自分が映っていた。
その髪は、、、もう、伸びる気配がなかった。
すると、どこか遠くの国の風鈴の様な音がした。
男は微笑みながら言った。
「いらっしゃいませ、不思議な床屋にようこそ」
おしまい
なりたい自分って、本当にどこにいるんでしょう。
なろうとするたびに、伸びてしまうものがあるとしても、もしかしたらそれが、あなたの形なのかもしれません。
いつかふと、路地の奥にある小さな看板に出会ったなら、その時はどうか思い出してみてください。
選ぶということが、もうすでに、、なっていることかもしれないって。
鏡の向こうで、また会いましょう。




