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大変長らくお休みいたしました。
66話からの南部領編のつづきです。
南部領はその名のとおり、リーベンス国の南に位置する。東西にほそながく、リーベンス国で唯一海に面した領で、東部領とならんで東国との貿易がさかんだ。
東国の船が定期的に南部領の港に立ち寄る。リーベンス国もかつては船舶を所持していたけれど、四年前に起きた南部領内乱の際、どさくさに紛れ盗まれてしまったそうだ(東部諸国の手癖の悪い連中が火事場泥棒をはたらいたのだろうとのことだった)。
海に特化した魔物も存在はするが、こちらから仕掛けない限りは攻撃もしてこないし、滅多に姿を現すことはないと言われている。なので漁も問題なくできるのだというが、魚というものを一切口にしないルシアにしてみれば、危険があるのなら漁に出なければいいのに、と勝手ながら感じてしまう。
様々な文献にでてくる(愛読書であった神獣図鑑にももちろん載っている)海の神獣リヴァイアサンは存在するのだろうか。興味がないわけではないが、すくなくともリーベンス国の文献に登場したことはないのでリーベンス近海にはいないのだろうとルシアは予測している。
海を前にするたびルシアは大地がもつ底知れぬ力を前にひれ伏してしまいたくなる。この海を、陸を、山を、森を、大地のすべてをつくった神という存在の持つ魔力量と比べたら、大魔術師のもつ魔力量などちっぽけなものなのだと思い知らされてしまうからだ。
そしてなにより南部領は豊かだ。海がもたらす塩、温暖な気候が育てる農作物、東国より伝わった硝子製造技術も南部から広がった技術と言われている。技術が発達したのは東国からの助けだけではなく、とある甚大な人物の影響がある。リーベンスにかつていたという女性の大魔術師が南部領出身だったのだ。
ルシアがその弓矢がとても上手だったという大魔術師のことを(東国のエール好きで肉食の大魔術師と比べ)よく知らないのは、彼女に関する文献に触れたことがほとんどないからだ。
その理由は簡単で、リーベンスの大魔術師に関する文献は第二王子であるフェリシアン・ダグ・リーベンスがかき集めてしまっていたからで、ルシアは知識の独り占めだと抗議したくなったのだけれど、もちろんダグにそのようなことが言えるわけもなかった。けれど抗議の言葉を飲み込んだのを彼はみすかしたのだろう。
『僕が死んだら、全部シアにあげるから安心していいよ』
ダグはいたずらっぽい笑みを見せたのだけれど、レッドサーペント討伐を早々にすませてしまったので本ばかり読んでいるという手紙を書いたところ、木箱ひとつ分の文献や書物がダグ城から届いた。もちろんルシアはすぐに魔力を大放出させて王都にいる彼の息があるのかを確認した。立っていられなくなるほどまで魔力を放出してしまったため、なにごとかとリーアムが宿舎に駆けつけるという事態にまでなってしまった(そしてなぜかビューマーがリーアムにお叱りをうけた)。
無事にダグの気配を感知できたため最近のルシアはすっかり(ビューマーとオリビアだけでなく、従魔たちまでもが呆れるほど)本の虫になっている。ただ寝食を忘れてしまうため、二人がかりで本を取り上げられ食事を強制されたり、ブラッドに首根っこを咥えられベッドに連れていかれアイリーンが最近覚えた誘眠の術で強制的に眠らされたりする。結界を張って逃げてみてもビューマーにはなぜか潜んでいる場所を突き止められ、にらまれてしまうので逃亡も叶わない。
「シア様、かわいい」
オリビアがうふふと笑ってルシアは眉根を寄せた。
せっかく大魔術師が大木に実る、不思議な黄金の果実を弓矢で射貫いた逸話(それを東国に献上し、硝子製造技術を得たのだという)の冒頭部分を読んでいたというのに、大昔の本ばかり読んでいてもイマドキの南部領についていけませんよ。とオリビアに叱られてしまったのだ。
黄金を射抜いた矢までもがたちまち黄金に包まれたというおとぎ話のような逸話なのにも関わらず、いますぐに読むことができないのはルシアにとっては苦痛でしかない。けれどオリビアには逆らえない事情がある。南部領でやり遂げなくてはならないことは(第三王子の生誕祭に出席する以外に)実はまだ残っている。
『シアさま、かわいい』
オリビアの真似をしてフラムが言うから、むしろ彼の方がかわいらしくてつい笑みをうかべてしまうのだけれど、ルシアはやはり納得がいかない。
「ね、本当に?…変じゃないの、コレ。こんなに、肌を出してもいいの?」
「変って...私と同じ格好しているのにそんなこと言わないでください。私のおさがりで申し訳ないのですが…これが南部の平民の正装ですよ?」
ここ、じつはふくらむんですよね?有無を言わせない笑顔と言葉をむけたオリビアに、平たい胸元をつんとつつかれたルシアは観念して筋力強化の応用技を自身に施すべく魔力を体内に巡らせる。ニコリネとあれこれと筋力強化をしている時にできてしまった偶然の産物で、必要がない限りできるだけ使わないようにしている技だ。女の見た目を特に重要視する風潮のある東部諸国のオヤジたちには効果てきめんだったのだけれど、まさかまたこの技を使うことになるとは。
胸元の布地に隙間ができないように、小さな王子様にバカにされた部分にルシアは魔力を少しずつ集中させていく。たしかに胸元をふくらませないと中が丸見えになってしまいそうだ。身体に魔力をみなぎらせていくけれど、オリビアにじっくりと観察されていて居心地が悪い。
「モナから聞いてはいましたが、これは…すごいですね」
同期入隊なのだというモルガナの愛称をオリビアは言って、また胸元をつんとつつかれたルシアは頬までふくらませた。両手でシエナのもののように柔らかくなった胸元を隠しつつ、いくらなんでも触りすぎだ。にらむけれど、オリビアは余裕たっぷりに笑みを浮かべるだけだ。
「やっぱり、シア様はかわいいですね。…これで姿だけは南部領の平民にみえます。ちょっと肌が白すぎるかもしれませんが、まぁ問題ないでしょう」
「…リヴィだって平民じゃないくせに」
「ええ、おてんばのじゃじゃ馬公爵令嬢です。…なので平民の姿をするのはお手のものなのです。よく屋敷を抜け出して、森に行って動物や魔獣と遊んでましたから」
くくくと笑う声がして、ルシアは今度は薄い扉の向こうをにらみつける。南部の建物は風通しを何より優先するので仕切り壁の上下が格子状になっている部屋が多い。宿舎として借り上げているこの建物も例に漏れない。だからこれまでの会話もすべてビューマーにはつつぬけだ。
夜、食べ盛りの従魔のための狩りから帰ってきたビューマーと食欲旺盛なアイリーンの寝息を聞きながら本を読むのはなかなかいい。感知をせずとも耳を澄ませるだけで彼の気配が感じられるから安心できるのだ。そのまま目を閉じるとまるですぐそばで眠っているような感覚がすることもある。そんな感覚になってしまっては余計に眠れるはずもなく、やはり夜はぼんやりと月かオリビアの寝顔をながめつつ思考を整理するか、本を読むしかルシアには夜をやりすごす術はない。
「どっかのお姫様も城を抜け出しておんなじことしてたじゃないか」
ビューマーの声だけがして、城じゃなくて国軍基地だったし。ルシアは心の中で反抗をする。
肩も腕も足も素肌が見えてしまっていることにやはり、エイダとリーアムに怒られる、と逡巡してしまう。しかもリーアムはヨアンと共に南部領にいるのだ。鉢合わせでもしたら大事件になってしまう。
ビューマー色したペンダントはもちろんのこと、手首にずっとつけているシエナが編んでくれた組紐まで丸見えだ。銀色と青緑色(ルシアとシエナの瞳色だ)の組紐なんて、知らない人間が見たらあらぬ勘ぐりをしてきそうで面倒だ。
リーアムやビューマーはもちろんシエナから贈られた組紐だということを知っているからとりあえず周囲ではなんの問題はないのだけれど、やはりできる限り隠していたいところだ。
「シア様は同じおてんばでも、やっぱりお姫様、なんですねぇ。南部領では令嬢でも素足になりますよ?暑いですから」
何事も経験です!元気な笑顔に腕を引かれ、ルシアは南部領の市街へと連れ出された。
南部領色の鮮やかなグリーンの領旗がゆれる市場はたくさんの人で賑わっており、オリビアの言うとおり女性は皆、こちらがドキドキしてしまうほど肌を露出している。むしろ彼女と自分が着ている胸元が大きく開いた膝までのワンピースは露出がとても少ないのだと知った。たわわな部分だけを隠しておなかを出している女性までいるのだ。足も臀部ギリギリまで露出しており、東部諸国の女性が普段しているという姿よりも過激で、目眩を起こしてしまいそうになる。
北部領でこんな姿をしたら風邪をひいてしまうだろうし、気が触れた者とみなされ(顔を真っ赤にしたウルバンあたりにでも)連行されてしまうかもしれない。
これも北部と南部の違いなのだろう。気候差があるのだから文化風習に差があってもなんらおかしくはない。サーペント種の取り扱いひとつにとってもそうだ。南部では忌まわしいものとしてサーペント種を扱うが、北部では神聖なるものとして扱う。魔力を持たない蛇への扱いも同様だ。
もっとも、北部のサーペント種は光属性で南部のそれは闇属性(炎と闇)だということ、蛇も北部ではほとんどが毒性を持っておらず(麻痺する程度だ)、南部に生息するものは死に至る猛毒を持っているものがほとんどという違いがある。
両領のもっと大きな違いは、ルシアが思考を広げようとしたところで細められた琥珀の瞳にそれを遮られた。
「ルシア、また小難しいことを考えてるだろ?」
オリビアに被せられていたつば付きの帽子の傾きを変えてくれながらビューマーがからかうように言った。顔面に眩しく射していた日光がつばに遮られ、ほんの少しの接触なのにも関わらずルシアは顔面に熱が集まってくるのを感じた。
「…そういう性分なの」
苦々しくこぼれた言い訳に笑ったビューマーは、すっかり板についてきている総髪をくずし南部領の猟師によく見られる姿をしている。今日は彼のロングソードではなく、ルシアのブロードソードを佩いている。
油断していると、きっとまた見とれてしまうから要注意だ。姿はもちろんのこと、赤茶色の長い前髪から覗く琥珀の瞳も見ないように気を付けようとオリビアから託されているフラムを抱く腕にルシアは力を込めた。どうしてもその髪の毛に指を絡ませ、触ってしまいたくなってしまう。
「オリちゃん!久しぶり!お友達と帰ってきたのかい?…と彼氏、かい?」
「王子殿下の生誕祭に合わせて休暇をもらったの。…残念ながら、彼はお友達のダンナさん。…とりあえず、みっつちょうだい?」
フレイムベアの串焼きだから食べられないのなら、トッシュさんに。平気な顔をしてオリビアは言って、ルシアはこの娘はすごいと思ってしまう。自分の従魔と同じ種族を食べれてしまうのか、と。
フラムを腕に抱いていたルシアはふるふると首を横に振って、差し出された串を手にすることなくそのままビューマーに託した。『熊を食って育った』とゴディネスに言われていた彼もフラムを一切気にすることなく肉塊を口に放り込んだ。
肉を噛みちぎり咀嚼しながらオリビアは店主と話し込んでいる。彼女の姿を見、何人かの男性が集まってきた。姿からおそらく猟師だろう。
「腸詰なら食べれるんじゃないか?」
屋台に並ぶ腸詰をビューマーは指したけれど、ルシアはふるふると首を横に振ってフラムの頭を撫でる。
「…フレイムベアを抱きながら、フレイムベアを食べるなんてことできない」
ルシアに頭を撫でられたことに満足しているフラムはまだ肉を口にしたことがない。果実を中心に与えられているが、そろそろ肉も与えていかなくてはならない頃合いだろう。
「こっちのおねえちゃんもテイマーさんかい?」
「そうよ。テイマーにも色々な思想があるから、ね。みんな元気そうでよかった。…狩りは無理しないでね。この間、フェロックスバイソンを狩ったけど、一撃では死ななかった。また強くなっているわ。油断は禁物だからね?」
思想。確かに言われて見ればそうかも知れない。テイマーほど個人のこだわりが強い人間はいない(ルシアの主観では魔術師は偏屈者が多い)。
魔獣が強くなっているという事象はどうやら南部領でも起きているらしい。大魔術師に影響されて強くなっているという仮説は南部領では成立しないようにも思えるけれど、では一体、何に影響されて強くなっているのか、そこが最大の不明点だ。
特殊隊で見せる顔とは少し違う、平民に変装した公爵令嬢のオリビアの顔をながめ、なんだか懐かしい気持ちにルシアはなってしまう。
「…北部領のルシア様によく似てるな」
ビューマーが笑ってルシアの胸元できょろきょろと周囲を見渡していたフラムを抱き上げた。彼が言い当てた懐かしい気持ちの答えを思うと、途端に北部領の民が恋しくなる。特にストームス家のみんなに会いたいという思いが色濃くにじんできてしまった。
ビューマーの肩の上に立ったフラムはまんまるの目をかがやかせ辺りを見回している。
フラムが大きくなったら、もっと高い目線で辺りを見渡すことができるのだろう。四足でも二足でも歩くことも走ることもできるベア種の恐ろしさをルシアは思う。フラムが大きくなったら、やっぱりこわくて近寄れないかもしれない。
フラムはビューマーの頭に前脚を置いた肩車のような体勢に落ち着いたようだ。頭に動くぬいぐるみを乗せているみたいなので子どもたちがビューマーの頭上に注目している。
「ルシアさんにはあっちのほうがいいかも。東国のものとは違って、とにかくいろんな味があるの」
オリビアが示したのはたくさんの樽が積み上げられた屋台だ。恐らくあれはワインの入った樽だろう。
「…甘いの、ある?」
「たくさんあります。果物を入れたものがとってもおいしいんですよ?」
オリビアの返答はもう帰りたいと思っていたルシアの銀色の瞳をきらめかせた。