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身代わりの愛し子は帰りたい

「ねえ、アリス姉さんを知らない?」


 ひとりの少女が、不思議な国にやってきた。

 黒い髪に黒い目、着ているワンピースも真っ黒。そしてなぜか、懐かしさを覚えるような。容姿にはどこも似通ったところなんてないのに、それなのに、彼女を思い出す。かつて、この国に落ちてきて、そしていつの間にか帰って行った少女。その数年後、そんな彼女の名を呼び、探し求め、この不思議の国までやってきた。

 そんな、ひとりの少女のお話。



 ここは不思議の国だ。なぜだか知らないけど、訪れたことも見たこともない場所に放り出された今。なぜか、そう思った。


 さっきまで、何をしていたんだったか。よく覚えていないけれど、きっと庭でまどろみでもしていたのだろう。最近は春先の肌寒さもなくなって、いいお昼寝日和が続いていた。でもきっとすぐに暑さがやってきてしまうから、今だけの特権なのだ。

「でも、ここはどこ……?」

 わからない。それなのに、ここは不思議の国だろうとふと思った。そしてそれはすぐに確信に変わる。不思議の国なんて、見たことも聞いたことも――。否、聞いたことがある。それは、親愛なる姉――正確には姉のように慕っている女性――の言葉。

「ふしぎのくに」

 言葉を口で転がすと、ふしぎということばが不思議に思えてくる。不思議って、なにが不思議なんだろう。姉さんにもっと聞いておけばよかった、と思うものの、この場に彼女はいないのだから、言っても仕方がない。

 とにかく、歩いていって、誰かに話を聞くしかなさそうだ。大好きな姉の話でも、話をしたくて走り出したそうだから。


 歩き出すものの、行くべき方向など皆目見当もつかない。生い茂る木々はたぶん見たこともない種で、周りの植物を見ても知ってるような知らないような、そんなものに囲まれている。

 闇雲に進んだら、もと来た場所へは戻れないだろう。でも、始まりの地なんてものが、今は重要だとは思えなかった。十数歩うしろ、さっきまで自分がいたところを見ても、他の場所となんら変わりないように見える。

「どこにいけばいいの……」

「おや、見かけないお嬢さんだ」

 独り言への思いがけない返答に驚き、声のした方向へ素早く顔を向ける。

 そこには、長身の男、とおぼしき影があった。薄暗い森の中に、それでも僅かに差し込む光を背にたたずむそれは、見上げるほどに大きかった。たたずんでいるだけの痩躯には、なぜか身のすくむような少しの恐怖や威圧感のようなものを覚えた。

 黒い影のように見えるのはタキシードを着ているからだった。男だろうと判断したのはそのテノールと、高い上背からである。手にはステッキがあった。それもまた長い。彼の身長に合わせてあつらえているだろうことがよくわかる。

(だって、こんなにながあいステッキなんて、売っているのを見たことがないもの)

 頭の上の上の方にあるその顔は、逆光になっていてよく見えない。

「こんにちは、レディ。こんな森の中でどうしたんだい。迷子にでもなってしまったの?」

 物腰穏やか、丁寧で紳士的な態度に、少しだけ緊張を緩める。

「こんにちは、ミスター。私、どこから来たのかわからないの。それで、誰かを探していたの。いろいろと聞きたいことがあったから」

「ほう。それなら私が答えてあげよう。でもその前に、私から質問しても良いかい?」

「ええ」

「どこから来たのかわからない、とは、どういうことだい?」

 確かに、それは気になるところだろう。自分だってよく分かっていないことだが、そんな言葉を聞いたら、誰だってきっと気になってしまう。

「言葉のままよ。私は、自分がどうやってここに来たのか、なんでここに居るのか、そういうことが全く分からないの」

「おや、それは……」

 変な人間に声を掛けてしまったと思われたのだろうか。言葉に窮する紳士に、少しだけ居たたまれなくなる。誰かと話さなければと思っていたが、なにも現状が全くわからない状態で話しかけられるとは、その”誰か”とて思うまい。

(でも、今回はこの方から話しかけてきたんだから)

 いくら独り言が口からこぼれ出ていたとて、そんな自分に声を掛けてきたのは彼なのである。

(だから、とことん付き合ってもらおう)

 今から別の誰かを探そうとしても、見つかるとは限らない。見つかったとしても、友好的ではないかもしれないし、言葉が通じないことだってないとは言い切れない。

 なんだか怪しいけれど、森の中にひとり佇む娘に声を掛けたのが運の尽きだ。

「だから私、だれかにここはどこ? って聞こうと思っていたの。そうしたら、貴方が声をかけてくださったから」

「あ、ああ、失礼したね。そういう事情だったのか。それは大変だっただろう。……申し遅れたね、私はトリビュートという」

 そういえば、名乗ってすらいなかった。

「初めまして、私はりんねです。ええと……ミスター?」

「トリビュートと呼んでくれてかまわないよ、リンネ。姓ではなく、名なのかな?」

「ええ。りんね・W・テイラー。珍しいのは、東国の方の名だから」

 聞き返されることにも、その返事にも慣れている。日本の名には、こちらではなかなか耳慣れない響きのものも多いなかで、せめて発音がしやすい名でよかったと思う。

「でも、リンネはどこから来たのかわからないのだっけ」

「生まれはあちらだけど、国際結婚をした母にくっついてこちらへ来たの。それは覚えているわ。でも、今日いま”ここ”にいるわけは、わからないまま」

 とはいっても、あちらに居たのはほんの七歳に満たないくらいまでのことで、詳しいことはよく覚えていない。言語中枢が定まりかけた時分に、単語はおろか語順文法の全く異なる国でやっていかなくてはいけなくなって、大変だったことくらいしか記憶にない。

「そうか。いろいろと聞いてしまってすまなかったね。ええと、まずはここはどこ、についてお答えしよう。ここは、不思議の国だよ」

 やっぱり。ここは、不思議の国なのか。不思議の国に、なぜだか私は来てしまったのか。

 予想していたとはいえ、ここが未知の世界であるとはっきりわかってしまった以上、今の私になすすべはない。上手く言葉を返せずにいると、彼、トリビュートは小さく独りごちる。

「なんだか、アリスを思い出すね」

「……アリス? アリス姉様のこと?」

「おや! 君はアリスの妹御だったのかい」

「ああ、違うの! 正確には妹じゃないのよ。本当の姉のように慕っていて、姉様も、妹のようにかわいがってくれていたっていう、それだけ」

「ほう、アリスが、ね。……あの子も、あんなに小さないたずらっ子だったのに、こんなお嬢さんに姉と呼ばれているのか」

(やはり、ここは姉様がかつて訪れたという不思議の国だったんだわ。でも、どうして私もここに来てしまったのかしら)

 トリビュートはふむ、とひとり頷くと、りんねの方へしゃがみこむ。その顔を目の当たりにしたりんねは、驚きのあまり言葉を失ってしまった。

(ね、こ……?)

 その細長い身体の上にのっかっていたのは、猫の頭だった。口を真一文字に引き結んだその猫は、なんだか切ない目をしているような気がした。

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