#1 逃走へのトリガー
「ただいま~・・・」
愛子は小さく帰宅の挨拶をつぶやくと、急いで階段を登り2階にある自分の部屋へと向かった。いつもは真っ直ぐリビングへ向かうのだが、なぜ今日は真っ先に自分の部屋に向かったのか。それは愛子が国語で赤点を取ったからに他ならない。だからリビングにいる母親にその事実がバレる前に、なんとかして国語のテストの隠蔽をしなければならないのだ。
そろりそろりと、どこぞやの狂言師のように、足音を立てずに静かに部屋の前までやって来ることができた。そしてゆっくりと部屋のドアを開ける。
「・・・おかえり、愛子。」
「ぐぇぁっ!!!??」
愛子は女子高生とは思えない下品な悲鳴をあげた。それもそのはず、自分の部屋になぜか母親がいて、ベッドの上に座っていたのだ。しかも夕暮れ時に部屋の電気も点けずに。もはや不審者ですよ。血さえ繋がっていなければマジモンの通報モンですよ。
「な、なにやってるのお母さん!?と、とうとうそういう趣味に目覚めちゃったの!?」
「はぁ?そういう趣味って何さ?」
「だから、その・・・、愛しき娘のベッドに座り、娘の部屋の空気を感じて悟りに入るという・・・」
「なーにバカなこと言ってんのさこのアンポンタン!そんなわけないでしょうが自意識過剰かアンタは!?」
娘の謎の発言に、愛子の母もとい「佐伯 未里」は顔を赤くしてそのような趣味は無いと断言する。
「じゃあ、なんで私の部屋に・・・」
「テスト・・・返ってきたんだろう?」
未里から突然に鋭い視線をぶつけられた愛子は、あからさまに動揺の思いを表情に出した。テストの返却を知ったお母さんはそれを見越して私の部屋で待ち伏せをしていたのか、と。
「か、返ってきたけど、何か?」
「ちょっと・・・見せてみ?」
未里は手をちょいちょいと動かして、返却されたテストを開示するよう要求する。目の前には鋭い眼光の母親。カバンには隠蔽の「い」の字も施されていない赤点の答案。この絶体絶命のピンチに、愛子は頭を働かせて打開策を見いだした!
「い、いや~、今回のテストはあまりにも出来がよすぎて・・・あとで、見せようと思ってたんだよ!そう、夕食!夕食の時にでも!!」
咄嗟の言い逃れにしては満点に近い、ほぼ最適解といったものだった。それを聞いた未里は、静かに「ほう」とだけ唸る。愛子の部屋に緊張感が漂う中、やがて未里は口を開く。
「なるほどね、じゃあ夕食の時に見せてもらおうかしらね。今日はお父さんも帰ってくることですし、ついでに見せてあげましょう?」
「え・・・」
愛子は口を開いたまま固まった。そして露骨に嫌悪感あふれる表情を浮かべた。彼女の頭の中にはもう「テスト」の文字は無かったのだ。
「なによ、まーたそんな顔して。」
未里は呆れた顔で言った。彼女もまた、テストではない他の問題で頭を悩ませていたのだ。
「久しぶりにお父さんが帰ってくるっていうんだから、ちったぁ嬉しそうにしなさいよ。」
「・・・嫌よ。」
愛子は短く吐き捨てると、母親に背を向けて部屋を出ようとする。そんな愛子の肩に手をかけ、未里が言う。
「待ちなさい、どこ行くのよ。」
「出かけんのよ。夕食は外で食べる。」
「あんたねぇ・・・!」
愛子の部屋に乾いた音が響く。未里が愛子の頬に平手打ちをしたのだ。追い打ちをかけるように、未里は愛子の両肩に両手を据えて怒鳴る。
「いい加減にしなさいよ!いっつもお父さんの話になると機嫌悪くして・・・!」
「・・・うるっさいなぁ!!」
未里の手を振り放し、愛子が怒鳴り返す。
「なにが父さんだ!私が小さい頃から研究研究って言って、家にも帰らず、私のことにもほとんど干渉せずに生きてきた男が!あんなやつ父さんじゃない・・・嫌いだ、大嫌いだ!!!」
言いたいことを言い尽くすと、涙目の愛子は勢いよく部屋を出て行き、はたまた家からも出て行った。部屋に1人残された未里は、小さくため息をついた。
「ったく、なにが外食だよ。財布も持ってねぇくせに。」
部屋に残された愛子のカバンから財布を取り出してそう呟いた。