08話 聖母アイナの加護
「さ、行くよ」
エリシアが両手を広げると、魔法陣が部屋いっぱいに広がった。
空間転異の範囲は最小で直径二十メートル。最大で五十メートルだそうだ。
現在展開しているのは最小のもの。
「な、なんかドキドキするのぉ」
「……はい。ドキドキします」
メイヴもわしの服にしがみついて怯え――否、緊張しているようだ。
「そんな面白いものじゃない。一瞬だから」
「う、うむ。頼む」
そう言うと、エリシアは頷いて。
「空間転異魔法。空間移動!」
一瞬の眩い光の後、瞬きと同時に風景が変わった。
ステンドグラスを通した夕日の光に目がちかちかする。
「無事についた」
「ここが、聖母アイナの教会か。綺麗な場所じゃのう」
「きれーい」
わしとメイヴは教会の壮大さに圧倒されている。
こんなに大きな教会はわしですら見たことがない。
「少し待ってて。今アイナ様を――」
「ふぇ、ふぇえっ!? な、何が、え、なんだここ!」
不意にエリシアの言葉が切られた。
いきなり素っ頓狂な声が聞こえてきて辺りを見回すと、祭壇の隅に慌てふためく一人の青年がいるではないか。
「お、お主はあの時の青年ではないか?」
「ふぁい?」
近づいてよく見ると、その幼い顔立ちの青年に見覚えがあった。
ギルドで勧誘をしていたときに一度声を掛けた青年だ。
確か、妹が行方不明になったとか言っていたような気がする。
「あ、ぎ、ギルドで会った……」
「何故お主がここに?」
「それはこっちのセリフですよ! 何なんですかここは! せっかく三日ぶりに寝付けたって言うのに」
「あ、ミス」
「み、ミスってなんだよぉ!?」
だいぶ取り乱しているようだ。
ギルドで会った時とはまるで雰囲気が違っている。
「エリシア、いったいどういう事なんじゃ?」
「言ったでしょ。私の魔法は範囲内の生き物全てを転異させてしまうって。だから兄さんを助けられなかったって」
「ああ、確かに言っておったな」
「つまり、そう言う事」
なるほど。
つまりわしたちの部屋で発動した空間転異の範囲内に青年がいたということか。
おそらく近くの部屋で寝ていたのだろう。悪い事をしたかもしれない。いや、した。
「エリシアよ。この者をもといた場所に戻すことは出来るのかの?」
「……できるけど」
「なら、頼めるか?」
「うん」
「ま、待った! 待って下さい!」
青年は立ち上がると必死に制止を主張してきた。
「なんじゃ、戻れるから安心せい」
「ち、違うんです! 戻さなくていいんですよ!」
突然この青年は何を言っているのだろうか。
確かいなくなった妹を探しているのではなかっただろうか。
「どうしてじゃ?」
「あ、えと、その……ギルドで会った時に少し言いましたが、僕は行方不明になった妹を探していたんです」
「そうじゃろ? なら、戻るべきじゃ」
「もう、いいんですよ」
「なに?」
まだ行方不明になってから十日と言っていなかっただろうか。
それはさすがに諦めるには早すぎるだろう。
「本当のこと言うと、僕は妹の名前すら思い出せない」
なんじゃと?
「馬鹿みたいですよね。名前も分からない妹を探しているだなんて。自分でもおかしいと思いますよ。容姿だってぼんやりとしていて、思いだそうとすると頭に靄が掛るんです」
「なるほどのぉ。ちなみにお主、名前は何と言うんじゃ?」
「ぼ、僕の名前はレ――」
「もういい? あまり、アイナ様を待たせたくはない。アイナ様はすでに私たちが来ていることを認知しているはずですから」
「ああ、すまんの。青年よ、話は後で聞かせてもらうでな。悪いが今は端で待っていてくれるかの?」
「……わかりました」
気になる点はいくつかあるが、今はエリシアの言うとおり聖母アイナにお会いすべき。
まずはメイヴに掛けられた呪術を解くのが先だ。
「では……我が親愛なる聖母アイナ様。どうか、わたし――」
「ずっとお会いしとうございました勇者様! なかなか呼んでくれないから上で悶々としていたんですよ!」
デジャブだ。
再びエリシアの言葉が切られ、祭壇の上空から突然舞い降りた天使がわしの手を取って目を輝かせていた。
「いきなりなんじゃ!」
「あっ、ご無礼をお許し下さい勇者様! 私の名前はアイナ・バレンシア。現、聖母アイナを務めている者です」
そう言って服装を整えて自己紹介をしたのは女神か天使か。
見た目、しぐさ、香り、その全てがわしを魅了する。それほどまでにあまりにも美しすぎる存在だ。
格好はまるで女神のようで、装飾は少ないが豊かな胸が強調されていて、なのにいやらしさがまったく感じられなくて美しい。
吸い込まれるように綺麗な蒼い瞳。ベージュ色のふんわりとした長髪から香る甘い香りが鼻腔を擽る。
「……ル! アベル! ねえ!」
「な、なんじゃ?」
「アイナ様の前で、ふざけないで」
いかん。完全に見とれてしまっていたようだ。
セリシアに声を掛けられるまで時間を忘れるほど見入っていた。
「す、すまんすまん」
「いいんですよ。皆初めて私を見た時は同じ反応をするんです。気にしないでください」
「本当に、美しいのぉ」
もしわしが思春期の青年だったら恥ずかしがって何も言えなかったかもしれないが、美しいものを美しいと言えるのは年老いているからこそできることかもしれない。
「ありがとうございます!」
ああ、その笑顔も美しい。
「それで勇者様? お名前をお聞きしてもよろしいですか?」
「あ、ああ、ぐえっふん! わしの名は――アベル・ナッツ。一応勇者をしておる」
無駄に溜めて決め顔を作り、そう名のった。
「勇者アベル。素敵な響きです」
「そ、そうかの?」
「はい!」
駄目だ。美しいという感想しか出てこない。
「私のことはアイナと、そう呼び捨てになさってください! アベル様」
「そんな! いくらアベルでも、呼び捨てなんてっ」
「いいのですよ、エリ―。世間ではあまり知られていないのですが、かつて、初代聖母アイナは勇者フランの愛人だったと記録されているのです。なので、アベル様が私を呼び捨てになさるのは至極当然なのですよ」
あ、ああ、愛人とな!?
いや待て落ち着け勇者アベルよ。これは勇者フランの話であって、わしには全く全然さっぱり関係はないのだ!
「あ、あいっ……っ」
エリシアも愛人と聞いて頬を紅潮させている。
「わ、わかった。よよ、よろしくの、アイナよ」
「はい、宜しくお願いします!」
「うむ」
「ところでアベル様、見た所によるとまだ見つけていないように思われますが……」
「ん? なにがじゃ?」
「あ、いえ! こちらの話です。気にしないでください」
「そうか? ならいいんじゃが」
いったい何の事を言っているのかは分からないが、その後のアイナの笑顔でそんなことはどうでもよく思えた。
「あ、あの、それでアイナ様」
「あらやだごめんなさい! アベル様達は混血の女の子にかけられた呪術を解く為に私を呼び出したのでしたね。私とした事が、あまりの嬉しさに舞い上がってしまっていたわ! ああ、恥ずかしい」
エリシアの声掛けに跳ねるように反応するアイナ。
身分は高いはずなのに、身分相応の振る舞いをしないのも好印象だ。
しかし、さすが聖母と言うべきか、言わずともわしたちの要件を理解しているのか。
「さあ、こっちにおいで。名前を教えてもらえる?」
アイナは軽く膝を曲げてメイヴと視線の位置を合わせると、にっこりと笑って言った。
「私は、メイヴです。あの、宜しくお願いします。綺麗なお姉さん」
「まあ、ふふ。可愛い子。じゃあ、ここに立って祈るように手を結んだら目を瞑ってね」
「は、はい」
メイヴはアイナに誘導されて祭壇の前に立って言われたとおりに従った。
アイナは祭壇の上に上がると、両手を高く上げて。
「ああ、敬愛なる神々よ。今、聖母のアイナの名の元に、呪われし子羊を浄化したまえ」
詠唱と共にメイヴの体を包み込むように眩い光が発生した。
眩しくて目を瞑って、光が晴れた時にそこにいたのは、金髪ではなく茶髪で、エルフ耳ではなくケモ耳になったメイヴの姿だった。それ以外に変化は見られないが。
「メイヴ、なのかの?」
恐る恐る声を掛けると、茶髪のケモ耳少女は振り向いて、涙を浮かべながらも笑顔で言った。
「うん! メイヴだよおじーちゃん! 全部思いだしたよ、ママの事もパパの事も全部っ」
「おお! よかったのぉ! 本当によかったわい!」
駆けて来るメイヴを抱き寄せて、そっと頭をなでた。
「うんよかった。エリシアちゃんもありがとう! 本当に、本当に!」
わしから離れるとそのまま流れるようにエリシアに抱きついた。
「わ、私は別に……でも、よかった」
エリシアもどこか嬉しそうだ。
「無事に、呪術は解けたようでなによりです」
「あ、あの! 本当にありがとうございます! 綺麗なお姉さん」
「いえいえ、礼には及びませんよ。なにせアベル様のお仲間ですしね」
本当に良かった。
やはりメイヴも奴隷狩りの被害者だったようだ。
メイヴの記憶は無事に戻った。それなら、メイヴは両親にすぐにでも会いたいはず。せっかくできた仲間ではあるが、家に帰してやりたい。
「の、のおメイヴよ。両親の元に帰りたいとは思わんのか? 帰りたいのなら、無理してわしに付き合い事は無いからの」
そう言うと、メイヴは首を大きく横に振って。
「ううん。本当はママとパパに会いたい気持ちもあるけど、その前にエリシアちゃんのお兄ちゃんを助けるの! これで恩返しになるかは分からないけど、私はおじいちゃん達の力になりたい!」
なんと健気な子なのだろうか
性格もどこか元気になった気がする。
「そうか、そうかそうかそうか……くぅっ」
「ど、どうしたの!? なんで泣いてるの?」
駄目だ。年のせいか涙腺が緩くなっている。
「なんでもないんじゃよ」
「ふーん。変なおじいちゃん」
「ところで、そちらの青年はアベル様のお仲間ですか?」
アイナは教会の隅の席に座る青年を気にかけたようだ。
「いーや、その青年は訳ありでの。仲間ではないんじゃが、気にせんでくれ」
「そうですか? ならいいのですが、申し訳ありません。私はあまり地上に長くはいれないので、ここでいったんお別れとなってしまいます」
「そうなのか?」
地上に長くいられないとはどういうことだろうか。
まるで普段は地上にいないみたいな言い方だが。
「はい。私は普段、天界で神々に祈りを捧げなければならないのです。ですが私はいつでもあなた方の声を聞いています。又何か用があればお呼び下さい。では、失礼いたします」
天界がなんなのか分からないが、言葉を挟む間もなくアイナは宙に溶けいるように姿を消してしまった。
「貴重なお時間を割いて頂き、大変ありがとうございました」
エリシアは一人胸に手を当てて深く頭を下げた。
「いやはや、聖母アイナ。本当に美しい方じゃった」
「アイナ様だもの」
一先ず、メイヴの呪術を解くという目的は果たした。次は――
「さ、次にやるべきことをやってしまいましょう」
「服じゃな」
「いいえ」
「――なに?」
服じゃない? では何があると言うのか。
「その前にお風呂」
「こ、ここには湯船があるのかの!?」
湯船は中央大陸ではあまり見られない。高い身分の家にはついていたりするが、普通に生きていてはまず入る機会はない。
七十年以上生きてきたわしですら、二十年前村長になったばかりの時にお城入ったったきりだ。
「うん。バルレシアは世界で唯一の温泉街だから」
知らんかった。
気付けば日も暮れているし、今日も今日とて頭を使いすぎた。
しかしむしろこれはラッキーかもしれない。
どっと疲れた体を温泉で癒そうではないか。
そうして、エリシアとメイヴは女風呂へ。わしは青年を誘って男風呂に向かうのであった。