第6集《あったかいご飯が食べられる。それだけで人は幸せになれるんだ》
広々としたマンションの中で、高1の少年じょうは、いつもひとりぼっちでした。
暖かな春の陽気が降り注ぐその日も朝起きると誰もいません。両親は共働きで朝早くに出てしまうからです。
テーブルには一枚のメモと現金が置かれていました。
メモには『お金置いておくから、これでご飯買ってね。母より』と書いてあります。
じょうはメモに挟まれた薄っぺらい紙幣一枚を財布に入れると、朝食も取らずに学校に向かいました。
彼の食事はいつも同じです。昼はコンビニで買ったおにぎりかサンドイッチ。
夜は昼と同じコンビニで、お弁当かカップ麺を買う日々の繰り返し。
それが1ヶ月も続くと、段々と食べることがただの作業に感じていました。
じょうはテレビもつけずに、リビングのテーブルでインスタントの醤油ラーメンを啜りながらこう思います。
(美味しくないな)
いつからご飯が美味しくなくなったか考えてみると、それは両親が共働きになった頃と重なっていました。
中学までは、母は働いておらず、仕事が終わった父を待って、三人でよく食卓を囲んでいたのものですが……。
今座っているのは彼一人。
電気が点灯しているのはリビングだけで、周りからは何の音もせず真っ暗。
まるで自分だけしか世界にいないような、そんな錯覚を覚えます。
じょうは立ち上がると、半分以上残っているラーメンを捨ててしまいました。
翌日。学校帰りの彼は今日の夕飯をどうするか、歩きながら考えています。
育ち盛りですから食欲はあるのですが、いかんせんコンビニ弁当やカップ麺は飽き飽きでした。
外食という選択肢は彼にはありません。あんまり人見知りで人と話すのが苦手だからです。
(全部ロボットにしてくれれば楽なのにな)
そんなことを考えていると、いつの間にか商店街についていました。
家から歩いて10分ぐらいの距離にあるのですが、じょうはあまり利用するところもないので、ほとんど来ることのない場所です。
何故こっちに来てしまったのかは分かりませんが、そのまま商店街を抜けて、家に帰ることにしました。
(夕飯は今日はいらないか……ん?)
不意にじょうの足が一軒のお店の前で止まります。
そこは、両隣を八百屋と魚屋に挟まれた小さな小さな食堂でした。
じょうが足を止めたのは、両隣のお店どころか、ほぼ全てのお店が閉店しシャッターを閉めている中、その食堂だけが柔らかい光を放っているからです。
でも、じょうは入ろうとしません。そのまま立ち去ろうとした時、ふいに食堂の扉が開きます。
「あっ、いらっしゃいませ」
中から出て来たのは、同じ高校の制服を着て、上から白い清潔なエプロンをつけた女性でした。
しかも、じょうの知っている人でした。彼女は2年生のあい先輩だったのです。
「さあ、中へどうぞ」
どうやら店の前で立っていたじょうをお客さんだと思っているようです。
「えっ、あっ、いや僕は、その……」
しどろもどろになりながら、じょうは立ち去ろうとしますが、中から漂う美味しそうな匂いを吸い込んだ途端。
ぐ、ぐううう〜〜〜。
お腹の虫がここに入ろうと言わんばかりに大きく鳴きました。
「ふふふ」
あいは口元に手を当てて笑っています。どうやら聞かれてしまったようで、じょうの顔がリンゴのように赤くなっていきます。
「あっ、笑ってしまってごめんなさい。お腹空いてるみたいだし、是非うちで食べていってください!」
「えっ、ちょっと待ってください!」
あいに腕を引っ張られて、じょうは半ば無理やりお店の中へ。
「おじいちゃん。お客さんよ」
店内は、壁側にテーブル席が3つあり。その反対側は厨房と接したカウンター席が4つ。
(外見通りとても狭……じゃなくて小さいお店だな)
じょうのお店に対する第一印象は失礼なものでした。
「ほら、座って座って」
あいにカウンターに座らされると、厨房に日本刀のような鋭い目つきのおじいさんがいて、思わず悲鳴が出そうになりました。
(僕の人生ここで終わりかな?)
「注文は何にしますか?」
そんな馬鹿なことを考えていると、あいが注文を取りに来ました。
おじいさんは何も言わず、ただ腕を組んでじっとこちらを見ています。
どうやらおじいさんは調理に専念し、接客業はあいが行なっているようでした。
「えっと、じゃあ……」
いろいろな料理の名前がありますが、どれにすればいいか悩んでいると、またしてもお腹の虫が催促して来ます。
じょうは心の中で必死に、周りに聞こえる。お願いだから静かにしてくれと叱りつけていました。
「じゃあ、これでお願いします」
結局じょうが頼んだのは、一番端に書いてある今日のおすすめでした。
「かしこまりました。おじいちゃん。今日のおすすめ1つはいりました!」
あいの言葉におじいさんは1つ頷くと、料理を作るためにこちらに背中を向けます。
「出来るまで、少し待っていてくださいね」
「は、はい」
あいがその場を離れ、料理を待っている間、じょうは彼女のことを考えていました。
高校入学して少し経った頃です。
彼は先生に頼まれて資料を運んでいたのですが、あまりにも高く積みすぎて視界不良となり、曲がり角の向こうから曲がって来た人に気づかずぶつかってしまったのです。
じょうは大変なことをしてしまったと、必死に謝りました。
そんな彼にその人は『気にしないで。それよりもあなたこそ大丈夫?』と自分のことよりも、じょうのことを心配してくれました。
更に資料の半分を持ってくれて、一緒に運んでくれたのです。
運び終えた後、その場を去っていくその女性の後ろ姿を見ているうちに、じょうの心にぽっと火が灯りました。
もうお分かりでしょうが。その女性こそが食堂で働くあいの事です。
「お待たせしました。こちら今日のおすすめになります」
あいの声が、じょうを回想という名の海から引き上げていく。
「あ、ありがとうございます」
目の前に置かれたのは、旬の春キャベツを使った柔らかな湯気を立てるロールキャベツだった。
久しぶりに見る手料理に、じょうの目は暫くの間釘付けになっていました。
「いただきます」
もうずっと口にしていないその言葉を言い終えてから、じょうは箸をとる。
じっくりと煮込まれたそれを箸で割り、慎重に崩れないよう口に運んでいきます。
優しい甘みの春キャベツと、それに包まれたお肉のしっかりとした食感と味。その2つに染み込んだスープが口いっぱいに広がっていきます。
「あつっ、あつっ。うまっ」
口に入れたロールキャベツの熱さまでもが、冷めきったじょうの身体を満たしていくようです。
そんな幸せそうに食べる彼のことを、あいは微笑みながら見ていました。
「ありがとうございました。また来てくださいね」
お店を後にしたじょうは、夜空の下で先ほどのあいの言葉を思い出しています。
「『また来てください』か。また気が向いたら行ってみようかな」
気が向いたらと言いながらも、じょうは1週間の半分はその食堂に通うようになっていくのでした。
じょうはそれから何度も、あいのいる食堂に通い続けました。
春が過ぎ、夏は大きな具がたっぷり入ったカレーを食べ、秋になったら甘くてもちもちとした新米と脂の乗った焼き鮭を口いっぱいに頬張ります。
その頃には学校でも、あいと少しだけ話ができるようになり、お互い改めて自己紹介もしました。
恥ずかしがり屋なので、ほんの少ししか話しはできませんが、じょうにとってはそれだけで心が温かくなっていくのです。
そして冬がやって来ました。相変わらず両親は忙しいですが、じょうは寂しいとは思っていません。
だってあの食堂がありますから。けれど幸せな時間は唐突に終わりを告げるものです。
「いらっしゃいませ……」
どうしたんでしょう。心なしか、あいの声に元気がないように感じられました。
「何かあったんですか?」
「ん? ううん。何でもないよ。今日は何食べる?」
「えっと、じゃあ今日は――」
じょうは、気のせいかなと思いつつ今日の晩御飯を頼みます。
「お待たせしました。はいどうぞ」
「ありがとうございます」
目の前に置かれたのは、蓋を閉められた一人前の土鍋です。
「いただきます」
蓋を開けると、閉じ込められた熱気と湯気が一気に解放され、味噌のいい香りが、空腹のお腹をいい感じに刺激します。
じょうが頼んだのは沢山の具が浮かぶ賑やかな味噌煮込みうどん。
赤ちゃんのように泣きわめくお腹の虫を宥めながら、いそいそと箸とれんげを持ちました。
まずはレンゲで汁をすくって一口。味噌の旨みが口いっぱいに広がります。
次に汁を纏った艶々のうどんを啜ってしまったらもう止まりません。
むっちりとした鶏肉を噛みちぎれば、さっぱりとした油と味噌仕立ての汁が混じり合い、煮込まれて甘くなったネギと、汁をたっぷり吸ったしいたけを食べ終えて、残ったのはお月様のような月見卵です。
それを箸で割ると、中からたっぷりの黄身が、味噌と混ざりあいます。
黄身でお化粧直しした味噌煮込みうどんを、口が火傷するのも構わずに一気に啜り、残った汁もレンゲも使わずにそのまま鍋を持って飲み干してしまいました。
きっと今のじょうの身体の中は、卵や味噌やうどん達が彼の身体をぽかぽかと温めているでしょう。
「ごちそうさまでした」
温かな食事で身も心も満腹になったじょうは、名残惜しいけどそろそろ帰ろうと、席を立ち上がったときでした。
「ちょっと待って。その、話しておきたいことがあるの」
あいはとても言いづらそうに、何度もつっかえながらあることを伝えました。
「えっ? お店を畳む……んですか?」
「うん……そうなの」
あいの口から、おじいさんが高齢で体力が保たなくなり、跡を継ぐ人もいないと聞かされましたが、じょうはその話を右から左に聞き流していました。
じょうの頭の中を占めていたのは、いつも通う食堂が閉店する事だけです。
あの、あったかくて、美味しいご飯があって、先輩がいる場所が無くなってしまう。
考えただけで、じょうの全身から力が抜けてしまい、その日は帰ってすぐにベッドに潜り込みましたが、ずっと眠れません。
それ以上にあいのお店を畳むと言ったときの、今にも泣きそうな顔が頭から離れませんでした。
1週間が経ちました。あれからじょうは食堂に行かなくなってしまいました。
あの幸せな場所は無くなってしまう。だったらもう行かないようにすれば、少しは悲しみも紛らわせることができる。
そう考えていましたが、1週間経っても考える事は食堂の事と、あいの悲しそうな表情の事ばかり。
聞いた話ですが、あいは学校でも塞ぎがちになり、クラスメイトからも心配されるほどだそうです。
(このままじゃいけない。けど、どうすれば……そうだ!)
冬休みに入っても、じょうは食堂に足を運ばず、ずっとどうしたらいいのか、考えていました。
じょうは何日も考えて考え抜いて、ある1つの答えを見つけました。
それはとてもシンプルですが、同時にかなり恥ずかしい事です。
でも食堂の、いえ、彼女の為ならと恥ずかしいという名の鎖を断ち切って、食堂に全速力で向かいました。
食堂の閉店時間ギリギリに、勢いよく扉を開けたので、中にいたあいがとても驚いた顔でこちらを見ています。
ちなみにおじいさんは動じた様子はなく、黙って腕を組んだままです。
じょうは自分の決意を言葉にして伝えようとしましたが、走ってきた為に息が乱れて声になりません。
「じょう君。一体こんな時間にどうしたの?」
じょうは気をつけをして思いっきり息を吸い込むと。
「あ、あの聞いてください! 先輩、いえあいさん!」
じょうはここで初めて、あいの名前を呼びました。
「は、はい!」
あいは突然の大声で名前を呼ばれて、思わず直立不動の姿勢になりました。
「僕は、このお店がなくなるのは嫌です。おじいさんの料理がなくなるのも嫌だし、それに何より貴女とここで会えなくなるのも嫌です!」
「ありがとう。でも、お店はもう……」
「跡を継ぐ人がいないんですよね?」
「ええ、その通りよ」
「僕が跡を継ぎます!」
「え、今なんて……」
「僕が跡を継ぎます。そしてあいさんを幸せにします!」
「私を幸せに?」
「はい。僕と結婚しましょう!」
じょうはあいに手を差し伸べます。
「えっ、は、はい!」
あいは勢いに負けてその手を思いっきり握っていました。
さて、それから数年後。じょうが通っていたあの食堂はどうなっているでしょう。
商店街の八百屋と魚屋の間には小さな小さな食堂があります。
その食堂を営むのは若い夫婦でした。
先代から引き継いだお店の名前は、二人の名をとって愛情食堂と名付けられ、今も温かい笑顔で溢れています。
――完――