第22輪《花先生と百合さん》
誰もいなくなったはずの放課後の教室に二人の女性がいました。
「……さん。百合さん。聞いてますか?」
黒板を背に教卓から呼びかけるのは、茶色の髪を後ろで結わえ、眼鏡をかけた女性で、名前は春野花。
眼鏡が似合う小動物のように愛らしい瞳と、優しい性格から、生徒たちに慕われていました。
最近の悩みは、生徒達が自分のことを同級生や友達のように見ていて、先生としての威厳がないのではと危惧しています。
けれど今は早急に解決しなければならない問題があったのです。
その問題の大元は、自分の対面に座っている女子高生でした。
「百合さん。話を聞いてください」
花は最前列の真ん中の席に座っている女子高生に先程から声をかけているのですが、全てスルーされていました。
女性でも羨むほどの艶のある長い黒髪に赤いカチューシャを付けた彼女の名前は、咲誇百合。
どんな時も冷静沈着ですが、クラスを纏めるリーダーシップも兼ね備えていていて、このクラス、いえこの学年で一番の優秀な成績を収める少女です。
百合は勉強ができるだけではありません。運動神経も抜群で、そのスラリと伸びた手足が動くだけで、まるで舞い踊るような色気があるのです。
そんな文武両道な百合ですが、何故か花の授業だけはいつも不真面目。
花が教卓に立つと、百合は教科書も開かずに眠っていたり、ジッと花のことを見つめていたりするのです。
その為、他の成績は文句なしに最上位のAなのに、花の受け持つ数学の成績だけ酷いものでした。
だから、これ以上成績が下がらないように補習を受けさせているのです。
けれども百合はいつも通り、真面目に補習を受ける気はないらしく、ずっと花のことを見ているのでした。
花自身もこれではいけないと思って、他の先生に頼もうとしたのですが、 それを先読みしたのか、百合が先手を打って釘を刺してきました。
「花先生以外の先生の補習には、私出ませんので」
結局、花が補習を担当する事になったのですが、今日も百合は真面目に授業を受けてくれません。
「百合さん。なんで授業ちゃんと受けてくれないんですか?私の授業、そんなに分かりにくいですか?」
百合は首を横に振ります。
「そんな事ありません。先生の授業は他の先生と違い、とても分かりやすいですし、それに……」
「それに?」
「花先生の声とっても可愛らしくて耳に心地よいので、録音して、ずっと聴いていたいくらいです」
百合は、にっこりと微笑みながら、とんでもない発言をしました。
「あ、ありがとう」
花の眼鏡がズレ落ちます。
変な事を言われた筈なのに、花はズレた眼鏡を直しながら、ついお礼を言ってしまいました。
「じゃなくて、ちゃんと授業受けてください! あとそれ、何読んでいるんですか?」
「ああ、これはですね」
百合は教科書を立てて隠していた本の背表紙を花に見せます。
それは表紙に拳銃が大きく印刷された雑誌でした。
「えっ?」
百合が読んでいた本は花の想像を超えていました。
「そ、その雑誌、ううん週刊誌はまさか……」
「はい。これは《週刊ピストル》世界中古今東西の新旧の銃や兵器を扱う雑誌で、創刊30年を迎えた歴史ある雑誌――」
「ストップ、ストップ!」
百合の口から詩のように紡ぎ出されたのは、銃を扱った雑誌。
しかもガスガンやモデルガンではなく本物の銃を特集をメインとしたかなり渋い雑誌でした。
百合の歌のように心地よい声に聞き入っていた花は、慌てて両手を振って途中で止めさせます。
「どうしました花先生?」
「いや、百合さんが、銃のことを話すなんて……」
「想像できませんでしたか?」
花は頷きます。
「それを言うなら、花先生だって今の姿からは想像できない一面を持っているではありませんか」
「どういう事?」
首を傾げて訝しむ花に、百合はスマホを取り出し、そこに保存された写真を見せました。
「ん? これって……」
そこに写っていたのは花を絶句させるに十分な一枚でした。
その写真には一人の女性が写っているのですが、格好はかなり特殊です。
靴は頑丈でゴツいタンカラーのコンバットブーツ。緑のカーゴパンツを履き、太ももには拳銃が収められたレッグホルスター。
黒の長袖シャツの上には、たくさんの予備マガジンを収納したマガジンポーチがついたベストを装着しています。
目を守るためのゴーグルをかけていたその女性は、オープンフィンガーグローブに包まれた両手で、アサルトライフルを構えていました。
「H&KのG36を構えているこの女の人、花先生ですよね」
百合は軽く首を傾けます。その表情は花がどう返事するか分かっているようでした。
花は無言で固まってしまい、まじまじと百合の持つスマホの画面を見たままです。
その沈黙は肯定を意味していました。
「何で、この写真を持ってるの?」
「はい。花先生のご友人の方がネットにアップしていたのを拝借しました」
「あの時の……」
花は頭を抱えます。
彼女は学校では誰にも明かしていない秘密の趣味がありました。
銃が大好きなのです。
硬質の輝きを放つ鉄の獣を愛していると言っても過言ではありません。
きっかけは学生の頃、深夜にやっていたアクション映画でした。
予算の少ないB級映画でしたが、女主人公の二丁拳銃を使った舞い踊るようなアクションが、しびれるほどカッコよかったのです。
それからは銃の世界にどっぷりとのめり込み、ネットで知り合った共通の趣味を持つ友人から誘われたサバイバルゲームに、装備を一式買ってしまうほどハマってしまったのでした。
問題は、彼女は学校の教師だというと。
趣味が銃で、ましてや、週末の休日を利用してサバゲーをしている事を知られたら学校側としてはどう思うでしょう。
バレたらイメージが悪いということで辞めされられるかもしれない。
そう思って花は、自分の趣味をバレないように必死に隠していたのですが、いつの間にか写真を撮られてしまったのでした。
「お願い百合さん!」
花は百合の前で跪きます。頭を下げたので百合がどんな顔しているのか分かりません。
「百合さん。その写真を削除してください。お願いします! 写真が学校にバレたら私はクビになってしまう。だからお願いです! 削除してください!」
頭を下げた花の耳に、百合が立ち上がる音が聞こえました。そしてこちらに近づく足音も。
「安心して下さい花先生。私はこの写真を公表なんてしません」
「じゃあ――」
「でも、写真の削除は絶対にしませんから」
「そんな!」
花は頭を上げて、こちらを見下ろす百合の顔を見て驚きます。
百合の白い肌は興奮しているのか艶めかしい赤色に染まっていました。
「こんな先生の素敵な姿を収めた写真を削除なんて絶対にしません。だって私の宝物ですもの」
濡れた瞳で写真を見つめる百合は、ハァ、と色っぽく熱を持った吐息を吐きます。
その姿を見て、花の心は見えない蛇に絡みつかれたようでした。
百合の細くしなやかな指が、花の顎そっと添えられます。
「先生。私。一目見た時から先生の事がずっと気になっていたんです。しかも私と同じ趣味の持ち主。これは運命だと思いませんか?」
蛇が花の心に噛みつき、一瞬の痛みと一度味わったら逃れられない甘美な毒を流し込んでいきます。
百合の整った美しい顔が花の耳元に近づきます。
「だから貴女は私のモノ。宜しいですね?」
花はただ頷くことしかできません。
「素直で良い子です。花先生」
百合は名前の通り、白く清楚な雰囲気に包まれたな笑顔を花に見せます。
しかし花に向けられる百合の目は、自分の欲しい物は何でも手に入れる女王の目でした。
(彼女にだったら支配されてもいいかな)
百合の笑顔を見た花は心のどこかでそう思ってしまうのでした。
――おわり――