第四十五話『パンドラ』
空が近い。実際は手の届かない場所にある空であるが、顔を上げれば手を伸ばせば今にも届きそうな場所に居る。
マチルダさんと別れてから既に七日が過ぎた、僕とオーフェンは旅に必要な材料を買い込み山道や川を渡った。
僕の足元より下からオーフェンの声が飛んでくる。
「おーい。まだかー」
「あのねー……見て解るでしょ。まだだよ」
僕は直ったばかりの右手で岩を掴む、左手離して次のくぼみへと引っ掛ける。
何処か外れたら真っ逆さまに下へと落ちる。
そう僕らはいまほぼ垂直になった崖を上っているからだ。
突然腹部に鈍い痛みが走り、崖から引き離されそうになる。腹部に着けているロープが力の限り引っ張られているからだ。
その先を見ると。命綱のロープ一本で空中にブラブラと振り子になっているオーフェンが僕を見ていた。
「いやー悪い悪いー」
「そ、それはいいから。早く崖にもどって」
「おうっ」
何でこの崖を上っているかというと、言わずもジンと呼ばれる者よりも早く帝都へ行く事。待ち伏せし人質であるフローレンスお嬢様を助ける事。さらには其処からマリエル達を助けるために動かないといけない事。
同時にオーフェンの重みが加わり、体が下へと落下しそうになる。手当たりしだいに岩を掴むと僕は全力で崖を上った。
「はぁはぁ、な、なんとか」
「お、ヴェルどうした若いのに息切れか」
「ど、どの口が、い――」
崖の上で荒い息を出す僕に対して、吊られるだけで頂上まで来たオーフェンとの差である。
僕は崖とは違う場所を指を指す、其処には人一人がやっと通れる道が見えている。
「そ、そもそも別に崖を上らなくても、横の道を通ればよかったんじゃないかな……」
「そうはいうかヴェル。お前が早く行こうって言い出したから俺は崖を上る道にしたんだがな」
「う、ごもっともです」
「なーに。解ればよろしい。それよりも」
「そうだね。急いだほうがいいか」
僕らは荷物をまとめて歩き出す、空を見ると先ほどまで晴天だったのに黒い雲が広がっているからだ。次の町までは予定ではまだ数日はある。
町といえば、二日前に立ち寄った町で僕一人で情報を仕入れた所、カーヴェの町で帝国と王国が衝突したという話は聞かなかった。僕の知っている未来と変ってきているが解った。
うっそうと茂った森を歩く事、顔に水滴が落ちてきた。
前を歩いていたオーフェンが立ち止まり振り向く。
「どうする」
「強くなるかな……」
「だろうなあ。出来れば夜までにもう一つの川を渡っておきたいな」
僕とオーフェンは静かに頷くと山を登る。目的地はこの山を越えた先にある川を渡った先だ。雨粒が大きく激しくなってきた。
数歩先のオーフェンの声すら聞こえなくなってくる。立ち止まるオーフェンに僕は近づくと、腕を真っ直ぐに伸ばすオーフェン。その先は自然の亀裂で出来た洞くつが見える。
僕は静かに頷くと二人でその洞窟へと足をいれた。突然の来訪でびっくりしたのか、小さな動物が雨の中、外に走っては見えなくなった。
お互いに顔を見せあい小さく笑う。小さな洞窟であるが大人数人は余裕では入れる作りだ、過去に何人も人が来てるのだろう。焚き木や薄汚れた鍋。松明をかける場所まで作られていた。
直ぐに火を付け着ている物や旅道具などを乾かす。煙は外に向って流れていった。
「明日には止むだろう。どっちみちこのまま行っても川が渡れないだろうしな」
「そうだね。崖を上って短縮した時間が帳消しになるとは、ついてない……」
「そうでもないだろう。アレが無かったら途中で引き返す事になったかもだし、それにしてもヴェル。傷痕がえぐいな」
僕の右腕の付けねをみて喋るオーフェン。腕は自由に動くようになったけど傷痕だけは残った。
「それよりも、オーフェンは傷一つないね」
日に焼けた顔や両腕、引き締まった腹筋などが暗くなりつつある洞窟内で焚き火に照らされている。
オーフェンがここ数日、いや始めてかもしれないほど真面目な顔つきになった。
「ヴェル。前々から言おうと思っていたんだけど俺は男には興味ないぞ」
言葉が耳に入るも、理解するまで数秒掛かった。
「僕もないっ」
「そっか。ならいいんだ、ヴェルが俺の裸をまじまじとみてるからよ。もし襲われたらどうしようかとおもったぜ」
「襲わないから、絶対に襲わないから」
「いやだって、ヴェルお前はマチルダ姐さんの誘いも断るし。もしかしたらコッチ系なんじゃとおもって毎夜毎夜俺は警戒しながら寝てたんだぜ」
「ああ。だから僕が夜中にトイレ幾たびに、顔を上げて僕を見てたのか」
町でもそうなのだが、旅をするのには野宿もあるわけで、僕が火の番をしたり、宿でもトイレに行こうと夜に起きただけで。寝ていたはずのオーフェンは体を起こして僕に何をするか聞いていたからだ。
ため息のあと椅子のように置かれた石へと座り込む。火加減が丁度よく濡れた体を乾かす。
「もうそろそろ聞いておきたいんだけど。一団の編成や目的など」
「もくてき、目的ねえ」
答えをはぐらかしながら、火の中に入れていた携帯食料を木の棒を使って取り出し僕に手渡す。
取っ手がついた焼きパンに近い食べ物をかじり、水筒から水分を口に入れる。
「言わないとダメか」
同じく焼きパンに近い物を食べながら、短い双剣の手入れをするオーフェン、その刃にオーフェンの横顔が映っていた。
「僕は人質を助けたいからね、オーフェンは箱を手に入れたい。そこまではいい。でも箱を手に入れるために人質を危険には晒したくは無いよ」
「ぱんどらの箱ってしってるか?」
僕は黙って首を振る。
「いや、俺も城にいる偉い人からしか聞いた事がないんだけどよ。その箱には世界中の悪がはいっていて、最後に希望だけを入れてあるだっけかなあ。此処ではない何処かの神話だとさ」
「で、その箱が僕の居た村に合ったというわけ。そもそも話が抽象すぎるし、何処かの神話と言われても」
「だから俺に言われてもな。ヒナマモリ様に会わせれられれば一番簡単なんだけどなあ、とにかくその箱には特別な物がはいっており、何でも願いが適う物が入っているって話」
何でも適う物。僕には心当たりがありまくる、顔に出さないようにオーフェンを見つめる。仕組みや何故篭手の記憶である、オオヒナと話せていたのかは僕にはわからない。この力を使えば世界を戻し死んだ人だって戻せる。ごくりと唾を飲んだ。
「で、俺ん所の上司は、そんな眉唾の箱を欲しいと言ってるわけ。で、別の上司は、そんな凄い箱だったらこっちも欲しいって行ってるわけ、現場はいつも大変よ」
「ジンの部隊ってのは?」
「俺にとっては敵になるのかな。普段は一人で行動しているべら棒に強い奴よ、今は更に一個小隊二十人ぐらいかな、を連れてるのまでは確認中っと。すまん、ヴェル。そこのロープとってくれ」
僕の近くにあるロープを手渡すと、肩紐が切れたリュックを縛り直している。
「以前、数本の細い腕輪をつけた集団に襲われた事があるんだけど。それも帝国」
僕の言葉にピタッと作業をやめるオーフェン。下を向いたまま僕に聞いてくる。
「何本だ」
「一本と二本、あと四本だっけかな」
「実行部隊の連中だな。あいつ等は金で雇われてるからなー。しっかし、お前。いやヴェルよく生きてたな」
「まぁなんとか」
一回目はマリエル。二回目は篭手の力とはいえない、しかもどっちも巨漢の男とはまともに戦っていない。
「あいつらも良くわからん連中だからな。実力ならジンと同じぐらいなのか」
「勝算は?」
「一人では無理だな」
「はー……それで僕と一緒にいるのか」
小さく拍手するオーフェン。
「さすがわが親友だ。移動式の檻はこれぐらいだから、ヴェルが適当に部隊を襲ってくれれば、俺が煙球で援護する。そしてヴェルは人質を連れて逃げて、俺は箱を奪って逃げるって寸法よ」
「豪快かつ簡単な作戦だね」
その後どうするかなどまったく吟味されてない作戦を聞いてため息を吐く。
「おお、感動してくれた」
「いや、ちょっと違うから。ジンが強いのはわかった、他の人間は強いの?」
「全然、だから最初はフラン姐さんに頼もうかと思ってたんだけどさ、ヴェルがなんか曰く在りそうだからいっかって思ってな、一般兵ぐらいは捌けるだろ」
無茶苦茶であるが、逃走ルートをちゃんと決めれば、いけなくはない作戦だ。それにオーフェンの作戦では僕や人質の事はどうなっても構わない作戦。お互いの目的がしっかり別れていて信頼も置ける。たとえ僕が死んでも続行できるし引っ掻き回してくれればそれでいいという事、僕のほうも正直オーフェンや箱がどうなろうがフローレンスお嬢様が無事ならそれでいい。
「乱戦は未経験だけど、何とかなるとは思う。今思いつく問題は三つ、人質を助けるに当って向ってくる人を傷を付けないでは無理と思う。最悪の場合も。次にその煙幕が上がっている場合にお互いがわからない。最後に逃走ルートかな」
「あー……考えてなかったな、いや脱出ルートは既に決めてある――……」
僕とオーフェンの作戦はもう暫く続きそうだった。