帰り道にこそ泥
その日の夕暮れ時。
学校から一旦家に帰り、その後近所にある本屋でいくつかの本を購入した名雪はルンルン気分だった。
彼の趣味は本を読むこと。
今日は前々から欲しかったブツが手に入った。
おかげで今月の初日から今月の小遣いが消えたが……まぁいいだろ。自分は最近というか、昨夜から今日にかけての僅かな間で相当疲弊させられたのだ。だから今の疲れた自分には他の何よりも心のケアが必要であるのだ。
よーし、帰ったら即読破だ!
名雪は、手にぶら下げたビニール袋をブンブン振り回し、男のくせにルンルンとスキップ。
そのまま、目の前の曲がり角をブルンと右折すると――、
「げぇ!」
そこに、私服姿の入江繭がいた。
疲れの元凶。こそ泥。こそ泥系アイドル。こそ泥系エース。こそ泥系オール五――、
……うへぇー。
名雪の胃が、また急に痛くなった。
「あんたね、げぇ! じゃないわよ『げぇ!』じゃ。い、言っときますけどね、あんたより私の方が今よ~ぽどがイライラしてんの。ねぇどうして? どうしてこの私が一度ならず二度までもあんたのボケ面を眺めなきゃならんの? なに? 私ってもしかして呪われてるの?」
「そりゃまぁ、日ごろの行いが悪いってか……俺が呪ってるし」
「あぁ? 今なんか言ったかてめぇ」
……おいおい寄るな寄るな。
目の前からこわーい顔して、まるでチンピラがカツアゲするように近づいてくる入江の恰好は、白のTシャツに下はジーンズ。何とも色気ないお姿な学園のアイドル様だが、顔色だけはそれはそれは濃い濃い怒りの赤へと劇的な変色を遂げていたので――、
「うんうんなんもー。言ってない言ってなーい。こんなところで遭うなんてクッソみたいな奇遇だねーって。俺はそうフレンドリーな挨拶をしただけだよー。なんちゃって!」
そのため、名雪は自らの失言を誤魔化すように、爽やかフレンドリーな笑みを浮かべた。
「……怪しい。まるで幼女を背後から付け狙う下衆のような笑みだわ」
「はぁ、お前には社交性ってもんが欠如していていけないな」
「まぁでも、今回はどうでもいいけど。私、今それどころじゃないし」
ずずんと。不審げに顔を近づけてきやがった入江が――けれど、わざわざそれ以上突っ込む気にもならなかったのだろう。ぷいっと彼から目を逸らした。
……なんにせよ、助かった。
名雪はホッと肩をなでおろし、忙しいとか生意気なことをほざく彼女の視線を何気なく追ってみた。
「怪しいって言えばさ。お前もずいぶん怪しいよな」
「はぁぁ! 何でよ!」
入江の反応は劇的だった。
「いや、『はぁぁ! 何でよ!』とか怒鳴られても……じゃあ訊くけど、お前こんなとこで何してたの? そんな道端に立ち止まって、人様の家を守る門柱からひょっこり顔を出して、人様の玄関先から一体何を見てたの? 泥棒の次は何? ストーカーにでも転職したんですか~?」
「うぅ! そ、それは! くっ、く~~」
名雪の見た限り、自分の存在に気づく前の入江繭は何やら小難しい顔をして、さっき目を逸らした先に見えた対象物を例の場所からからジッと眺めていたのだ(ちなみに今はまた面倒にもこちらをキッィィと睨んでいる。と、いうか――)。
「――っ! ス、ストーカーって……い、いいや違うのよ。ぜっんぜっん違うのよ。ってかわ、私がそんな、か、隠し撮りだなんて。そ、そんな他人の人権を平然と無視したような愚行におよぶる、お、及ぶわわわけないじゃない?」
……あれっ? どうしたんだろう、この子~。
俺としては、ただの嫌味のつもりで訊いたんだけど……、
「目、泳いでるぞ」
「う、うるさいな! 早くあっち行ってよ!」
「額に汗が滲んでいるよ」
「早く海の藻屑へ消えてよー!」
まさかの図星。ってことは……まさか、なぁ……。
瞬間、ゴクリ……名雪は喉から出かかった言葉を一気に飲み込んだ。
もしこのこそ泥&ストーカーたる生物が、自分と同じ学び舎にいると知れば、俺は登校拒否状態に陥ってしまうかも……と思ったからだ。
ここは彼女のお言葉に甘えて、さっさと海の藻屑に消えさせてもらおう。
「待ちなさい!」
「へっ?」
「あんた。名前は?」
「あっ? 何だいきなり? お前さっきはあっち行け――」
「いいから! 答えて」
「……ご、強引な奴やな」
購入したばかりの漫画本が詰まったビニール袋を乱暴に掴まれ、名雪は身動きが取れなくなった。
ついでに、彼を拘束する入江さんと言えば、相変わらず真っ赤な顔してはぁはぁと乱れた息を吐いている。
本当のことを言えば、名雪はこんな得体の知れない子にはどんな些細な情報ですら教えたくない。
けれど、どうにも彼女が、名雪を無視できなくさせる圧を放ってくるのだ。
……い、致し方ないか。
「な、名雪」
熟考の末、名雪はモゴモゴ呟いた。
「上は?」
「小野」
「じゃあ小野くん。あんたは! 何やら! 大変おかしな誤解をしていらっしゃるようなので! ここではっきり言わせてもらいますけど」
「……は、はぁ」
そう力強く前置きして、入江は名雪の体を解放。そしてさっきまで彼女が眺めていた方向をビシッと指さした。
その先に建つのは、玄関先にどでかーい門扉を持つ、まさに『おぉ豪邸!』と呼ぶに相応しい、大層ご立派な住居だった。名雪の住むマンションの一室とは段違いの、庶民の名雪には何だか無性に腹の立つ家でもあった。
……でもよ、だからって、これが一体何だってんだよ?
「小野」
「あれ? いきなり呼び捨て?」
「じゃあ、小野くん?」
「いや、別にどちらでも構わないけど」
「いい小野くん! よ~く覚えておきなさい! 私はね、ストーカーなどではないの。アイ・アム・ドロボー! つまりね、私は、立派な立派な泥棒さんなの!」
「……ははぁ、結局そっちに落ち着いたのね――あとその発言おかしいだろ」
「証拠に! 私は近いうちに必ずこの家から諭吉を盗むわ! 忍び込んでね、ここここう~ザックザック頂くの! だから今日は下見に来たってわけ! 部活がちょうど休みだたから! どう、これでお分かり?」
「いや別に、そんな怒った感じで言わんでも――ま、でも何となくは掴めたよ。つまりはアレっしょ。こういうことでしょ」
名雪は荒れ狂う入江を宥めるよう、まぁまぁと大袈裟なジェスチャーを繰り返して――、
ポケットから、すっと携帯を取り出した。
「つまり、僕は今から百当番すればいいんだね」
「違うだろボケがぁぁぁぁぁぁ!」
入江の魂の肘打ちが、名雪のみぞおちに見事ヒット!
名雪の息が、一瞬とまった。
「かっ! あがっ、はぁぁ!」
名雪は苦しげに道端の電柱によろよろと寄りかかり、
「なっ!」
そこで自分の手中にあるはずでないものに気づいた。
「……て、てめぇ」
「ふふ、甘いのね。まーあ、あんたの返答次第では、この携帯にとーんだ災難が降ってかかることになるのだけど」
名雪が肘打ちを食らった際、彼の携帯は宙を舞った。
キャッチしたのは、入江さんだった。
「お、お前! そ、そりゃ卑怯な!」
しかし、ここらに通行人はさっぱり。あの決定的な暴力の瞬間を目に焼き付けた者は残念ながら名雪だけだ。
すなわち、入江の攻撃は実に陰湿だった。
あぁ、やっぱ性格も陰湿なんだなーと、名雪は猛烈に理解した。
……くっ、仕方がない。いくら俺がとんでもなく正義感に満ち溢れた小野名雪だとはいえ、背に腹はかえられないか。
名雪は恭しく両手を挙げた。
「うむ。いい心がけで助かるわ。私の裏の顔を知っているのはあんただけだし、私にとってもあんたが秘密にしてくれたら楽っていうか……もしバラしたら殺す」
「はい。二度の忠告ありがとうございます。以後気を付けます」
ぽいっと入江が下手投げで携帯を放り投げる。
キャッチして、名雪は無事を確かめる。
「……」
パスワードが、変更されていた。
「陰湿だ~~!」
「念には念を、ってね。でもいいじゃない。どうせあんたにとって携帯の用途なんて、Web上のエッチな画像を閲覧するだけでしょ。日常生活にはさして困らないじゃない」
だから問題なし、良かったわねーホホホ。とでも嘲弄したげに口角を吊り上げる入江。
ムッ、この野郎……と、それは中々嫌な笑みだったので、名雪はビニールから漫画本を一冊取り出し、中学生にはまだまだ早い、そのエッチな表紙を無言で見せつけた。
「なっ! ちょ、ちょぅ! せせセクハラ反対! セクハラ反対! セクハラ反対!」
入江の真っ赤になった耳からプシューと蒸気が放出された。
ははん、面白いぞ。と、調子に乗った名雪は次いでそいつの中で最も過激なページをセレクトし、悪びれる様子もなく突きつけた。
「ふん!」
本をブン取られた。
「あぁごめん。返してよー」
「ダメ! 無理っ! ぜーたい無理っ!」
お願いしても、全然聞き入れてもらえない。もうアレですね。完全にミスりましたね。
「わ、悪かったよ。返してくれよ。俺の『親と子の禁断のエッチ事情!』返してくれよ」
「うるさい! こ、こ、こ、こんなエッチなものは、アレよ! 没収よ! うん、それがいい。これは私が秩序ある社会と世界平和のために一先ず家に持ち帰って――」
「読むの?」
「読まねぇよ!」
何やらむくれた面で激昂する入江さん。
ただ、そう言うわりには名雪のエロ漫画本を後生大事そうに両手で抱えていた。まったく変な奴である。
……くそう。いやしかし、そんなことよりも、だ。
漫画は強奪された。携帯のパスワードは無断で変更された……って、あれ?
パスワード変更?
そこでふと、スマホのパスワードを変更するにも、まずロック画面を解除するために既存のパスワードの入力が必要なことを名雪は思い出した。
俺のパスワードは(まぁこの際『元』ってことになるのだが)『0281』……イコール『おっぱい』なわけのだが……)。
こいつ、どうやって俺のパスを知ったんだ?
名雪は素朴な疑問を抱いたが、それ口にしようとした刹那、ビシリ! と何だかヒンヤリしたものが背筋を駆け抜けたので、訊くのをやめた。
名雪は、もしかしてこいつがストーカーしてる(かもしれない)相手って……とか考えてしまったのだ。
……いやいや、まさか……な。
彼は生唾を飲み込む。
どうやら今日は眠れそうにない。
「し、しっかしアレね。ここから張り込んでも何も掴めないわね。ねぇ、私は今からそれ(電柱)から敷地内に入って調査しようと思うのだけど――変態はどうするの?」
「あの、ナチュラルに人を変態呼ばわりしないでくれる? どうするだと? いや、帰りますごめんなさい」
まだ若干ソワソワしている入江だったが、名雪が帰ると告げたら気持ちが落ち着いたらしい。ホッとしたような表情を浮かべた。
「そっ。じゃ、あんたとはここでお別れね。バイバイ。またあした学校で――遭わないことを切に願っているわ」
「ほう、そりゃ同感だ」
冷めた目をする入江の眼前には、件の豪邸へと続く門扉がある。そのエレガントで『隙間だらけな』門扉の周辺には、何台かの防犯カメラもあった。きっと家の中にもたくさんあるんだろうと名雪は思った。
「なぁお前。その、平気なの? 一応忠告しておくけど、ここ相当ヤバいぞ。防犯面、かなりシビアだと思うぞ」
名雪がわりと真剣なトーンで尋ねると、入江はやおら胸を張り、どういうわけか目をキランと輝かせた。
「ふふ、私を見くびってもらちゃ困るわ小野くん。平気、心配は無用よ。何せ……アハハ、この私が二度も同じ失敗を繰り返すはずがないじゃない!」
「はぁ~そ~ですか~」
……あー、これはヤバいな。何となく。
その自信満々な眼差しが、逆に彼女の犯行当日における失敗を名雪に予期させた。
けれど、名雪は、
……でも、そっか。そうだよな。
「ま、ほどほどにな」
それ以上、何も言わなかった。
――こいつと俺は何か特別な関係ってわけじゃない。
だから、こいつが近い将来牢獄にぶちこまれようとも、俺には……。と、そういう、ある種の冷静で、冷酷な部分が名雪の中にあり、
それが今回、名雪のいかなる思考よりも上回った。
だから、素っ気なくそう言って、名雪はその場を離れた。
「ふん、余計なお世話よ」
入江の苛立ちげな呟きが背の向こうから聞こえる。
――俺は、別に間違ったことをしたつもりはない。
あの女とこれ以上関わり合いになるのは、どう考えたって適切ではない。
このとき、名雪はそう思っていた。
しかし、結果的にだ。
その判断を、彼はとてもとても僅かな間で、
心底後悔する羽目になった。