入江繭
名雪の通う中学校は、彼の家から歩いて十分の距離にある、わりと大きめな学校だ。
全校生徒の数はおよそ千五百人。クラス数も一学年あたり十四もある。
よって、いくら同期生といえどお互いに顔も名前も知らない生徒同士ってのも多く、とりわけ名雪の場合は、部活や委員会活動などに一切関与していない等の理由から、クラス外の生徒との交流はかなり希薄なものだった。
名雪がそれらの生徒たちの中で一応知っていると言えるのは、せいぜい昨年度の合同体育でともに汗を流した隣のクラス(だった)生徒たちくらい。後は知らない。もっとも体育で一緒だったクラスの連中とはいえ、名前までは分からない。興味もない。それが彼の本音だった。
……まぁ、だからだろうね。
「で、何であんたがここにいるの?」
「……奇遇だな。俺もちょ~ど今、お前に同じことを問いたかったところだ」
名雪の傍らには、苛立ちげに眉をピクピクと痙攣させた女の子。
彼の通う中学の制服。女子は紺のブレザーに灰色のスカート。
それらをしっかりかっちり着用した、女の子。
きっと昨夜に起きた名雪ホームランがとてもとても癪に障ったのだろう。その目尻はまるで親の仇でも見るように、素晴らしい傾きを描いている。
おいおい、あれはお前のせいだろ……とか思いながら、名雪は彼女の姿を横目に深ーいため息をついた。
――そう、つまり彼は、昨夜自分の部屋を襲った女の子が、自分の同期生であることを知らなかったのだ。
今日は始業日だった。
つい数十分前のこと。名雪が教室に入ると、新しいクラスメイトたちが揃っていた。
名雪はその人の群れの中から、昨年からの親友を目ざとく発見し、しばし談笑。
始業のチャイムが鳴ってから少し遅れて新しい担任が入ってきた。女の人だった。彼女はこれから始業式があるからって、名雪たちを口で校庭に放り出した。
そして、担任の言いつけを守った名雪が校庭に出てみると――これは運命のいたずらという奴か。目を真ん丸にした例の女の子が隣に立っていたのだ。
このときすぐに現実を直視し、そして胃に猛烈な痛みを覚えた名雪は、心の底でこう呟いた。
……あーそっかそっか。俺ってやっぱ不憫な奴なんだな~。
「それで、私がここにいるのはもちろん私がここの生徒だからだけど……あんたは何? 嫌がらせ? 私に対する悪質な嫌がらせのためだけに、あんたそのオトボケ面をここに召喚したの?」
「おい馬鹿女。誰がそんなくだらない動機で学校なんかに来るか。俺も同じだ。俺もここの生徒だからだよ――ってまぁ、たった今真剣に『退学』を検討し始めたところだがな」
しかもこの並びから察するに、こいつとはクラスが隣同士。この学校の形式上、体育の際は合同で行うことになる。
最悪だぁ。こいつとだけはあまり関わりたくないのに……おのれ、校長の野郎。
キッと、名雪は恨みを込めた眼差しで壇上の校長を見据えた。校長がクラス編成を行ったと思っているからである。
しかし、彼がいくら「あの禿げジジイ~、くただれ! おい、くただれ!」と暗黒の呪文を唱えた続けたところでしょうがなく、また、そうしているうちに抱えていたイライラも治まってきて、
「……はぁ、俺はなんて不憫な奴なのだろう」
名雪は隣の女の子を横目で見て、自らの不幸を嘆いた。
「ちょ、ちょっと! あ、あのさ、私の方見て不憫とか言わないでくれる。それ、何か私がすごーく残念な人みたいじゃない」
「いや、お前それほとんど間違っちゃいないだろ。お前ってすごく残念な人だよね。うん、だって俺知ってるよ。知ってる知ってる、お前の正体。お前ってアレしょ。実はこそどろ――」
瞬間、名雪の足の甲に、鋭い痛みが走った。
ははん、なるほど。どうにも女の子の滑った足がどういうわけかグルんとあり得ない軌道修正をして、まるで『狙い澄ましたかのように』名雪の足の甲を力のいっぱい踏んづけたらしい。
彼の口からは「かはっ!」と言葉にならない悲鳴が漏れ、額からは大量の脂汗が一斉に溢れ出す。
彼は顔も横に向け、涙目で自らとそう変わらない身長のこそ泥をキッと睨みつけた。
女の子は、えらい澄ました顔をしていた。
「……お、おい」
「昨晩のお返し。つーかここで『それ』言ったらマジ許すまじ」
「それ? それってあぁ、お前が実はこそどろ……」
「あ・ん・た・ね!」
「あぁはいはい~。お前がアレだったってのはNGなんだよね~。はい~分かりました~ご主人様」
「ふむ、よろしい」
くっそー、何が「ふむ、よろしい」だ、この野郎。偉そうに言っちゃって~。いっそのこと、「この馬鹿に足を踏まれました」って先生に言いつけてやろうかな。
名雪はそう即座に検討を始めたが、しかし彼が周囲を確認したところ、どうにもその一部始終を確認した者はいないようだった。みんな校長そっちのけでお喋りに夢中だった。
すなわち女の子の攻撃は、実に陰湿なものだった。
きっと性格も陰湿なのだろう。と、名雪は勝手に決めつけた。
「な、何よその目は?」
「いや別に。何でもないよー」
だから名雪は仕方なく、女の子のかかとを軽く蹴るだけにとどめた。
陰湿には陰湿な仕返し。
女の子は一瞬彼を睨んだが、それだけだった。
やがて、校長の絶好調な話は終了し、部活動の表彰などの項目が首尾よく消化された後、始業式はお開きとなった。
ただ、その中で名雪には一つ驚いたことが――、
お隣の女の子が表彰の場で生意気にも名を呼ばれたのである。
何でも陸上部の大きな大会で良い成績を残したらしい。
――『入江繭』。
その、聞き覚えのあるようなないような名が、表彰時に呼ばれた彼女の名だった。
……入江繭って、どっかで……。
それから名雪が一人で「うーむ」と首を傾げていると、『退場の仕方は出入り口付近での混雑を考慮して一クラスずつ順番に行います』とのアナウンスが流れた。
でもって、入江繭は自らのクラスが引き揚げとなった際に名雪の肩をポンポンと叩き、振り向いた彼にわざとらしく賞状を見せつけてきた。「ふふん、どうだ参ったか!」とでも言いたげな、それは大層自慢げな表情だったのだが――名雪があえて知らん顔すると、彼女はしょんぼりと肩を落として行ってしまった。
……あいつ、まさか俺如きにただ褒めてほしかったのか。
それとも、自分を散々馬鹿にした俺に「ごめんなさい。僕の勘違いでした。ああなた様ほどご立派な方がいましょうか」なんて台詞を吐かせたかったのか……。
まぁ九割方後者だろうと予想しつつ、名雪は、その垢ぬけた見た目に反して案外子供っぽい側面も持つ入江に、多少の好感を抱いた。
……いや、だからと言って関わり合いになるのはやっぱ絶対にごめんだけどね……。
心中で呟いて、名雪は一人、ウンウンと頷く。
と、そこに。
「おい名雪。お前まさか、『あの』入江繭さんと仲いいのか?」
名雪の後方。
彼より少し背の高い坊主頭が、彼の肩を叩いた。
……あぁ、そういやまたこいつと同じクラスだったっけ?
振り向いて、その人物と顔を見合わせる。
「蟹田よ、馬鹿を言うな。どこが仲良し? ったくお前変なことばっか言ってるとその髪引きちぎるよ。って、あ、もう全部ないか。お前ハゲか」
「おい! ハゲとか言うなよ! これ坊主、坊主頭だからな! こういうファッションなんだからな! そこ、そこ結構大事なんだからな!」
「はいはい分かった分かったから……はぁ、これだからハゲは」
「あの、聞こえてるよ! これだからハゲは……ため息。までちゃんと聞いたからね、俺!」
ハゲの名は蟹田蟹男。このようにいじられキャラである。
名雪と蟹田は一年時も同じクラスであり、名雪にとって彼は学内で最も親しい坊主と呼べる存在である。
ちなみに、彼はバリバリの坊主であるが、別に野球部ってわけじゃない。名雪と同じ帰宅部。
稀にそういう変わり者がいたりするのだ。
「それで、なんだお前? あの入江繭とか言ってたな。なんだ、入江繭ってそんなにすげぇ奴なのか?」
名雪は自身の前方をトボトボと力なく歩む入江繭を指さして問いた。
すると、蟹田が何故か自慢げな面になる。
「ふふふ、入江さんがすげぇか。だって、名雪? あぁそうさ! その通りだよ! そりゃすげぇよ! 何せ文武両道・才色兼備という言葉は彼女のためにあると言っても過言ではないってくらい、すっげぇぇからな!」
「ふーん、そっか。ま、しかし、あの後ろ姿を見る限りじゃ俺にはそうは思えんのだが」
「なっ! お前はまた何馬鹿なことを、入江さんの背から放たれるあの圧倒的なオーラ! 見よ、アレを見てもまだそんな世迷言を……って、あ、ありゃ? 何だぁれ? た、確かにあの姿はとってもそうは見えないかもしれんが……何か哀愁が漂ってるな」
「今にも『ドナドナ』が聴こえてきそうだな」
「だなー」
「……」
「……」
入江が醸し出す何とももの寂しい雰囲気のせいか、名雪と蟹田の間にどことなく寂しい風が吹いた。
……いや、すまん、入江。さすがにそこまで落ち込まれるとは思ってなかったんだ、俺も。
名雪が遠くから謝罪していると、蟹田は気を取り直すように言った。
「で、でも、入江さんは本当にすごいんだぜ。さっきみたく表彰されたのだって一度や二度じゃないし、陸部ではなんと一年の頃からエースを務めているって話さ。それに勉強の方だって常にトップクラスってか、なんと言っても彼女の成績は」
「五段階評価でオール五、だっけか」
「なんだよ。知ってんじゃねぇか」
「まぁな。正直まったく信じちゃいなかったが……」
当の本人からそのアホみたいに優れた成績を聞かされたときは『あぁ理想と現実の区別がつかない可哀そうな子なんだな……この子』と憐れんだ名雪であったが、けれど、彼の友、蟹田が発する情報の信ぴょう性はわりと高い。彼がそう言うのだから、入江が嘘をついたって線はないのだろう。
……それに、そっか。何度も表彰されているから、俺もあいつの名に覚えがあったわけか。
まったく、俺はとんだ大物にカンチョ―を食らわせちまったらしいなぁ。
名雪はこめかみを押さえ、うぅと小さく唸った。
「ときに名雪。取り立てて親しくもないってことは、お前と入江さんってどういう関係なんだ?」
「こそ泥と変態」
「はっ?」
「さぁ。俺が聞きたいくらいだよ」
真実を丸ごと伝えたところでとても信じてくれそうにはない。名雪は投げやりに答えた。
すると、蟹田はさながら探偵のように顎に手を添え、何やら難しい顔になる。
おい、似合ってねぇよ、その面。
「ムムム、おっかしいな。それだと不自然なんだよな」
「おい蟹田。それは何? 俺があの『顔だけは』一貯前に可愛い入江と会話するのがそんなに不自然って意味? おい失礼だぞ。俺泣いちゃうよ」
「いや、まぁそういう意味もあるけど」
あんのかい!
「でも、どっちかっていうと、入江さんの方がおかしいんだよな」
「はっ? お前、何言って……」
そう呟く蟹田に、名雪は驚きを通り越して戦慄した。
はっ? 入江がおかしい? いやいやお前っ、頭大丈夫? 何を今さら――、
――そんなのさ、分かり切ってんじゃん。
だってあいつ、こそ泥なんだよ。
しかし、名雪も最初こそ何の疑いもなくそう思ったのだが――よくよく考えてみれば名雪ビジョンの入江繭と、蟹田や、あるいはこの学校の生徒たちビジョンの入江繭はまるで別人であった。
どうにも、蟹田が興奮するように、この学内での入江繭は誰もが憧れるスーパーな人物……らしい(とても信じられないが)。
そのため、彼らの中に『こそ泥の入江繭』は存在しない。
奴がいるのは、俺の頭の中のみ。
昨夜、入江が『今回が初めてで……』だとか見苦しい言い訳していたので、おそらくそういう認識で正しいのだろう。
「そう、大体入江さんが男子と話すって行為自体が珍しいんだ。何せ入江さん、男子にめっきり興味ないって感じだからさ」
「ほーう。じゃあなんだ? あいつは女子の方に興味があるってか?」
名雪は面白半分で訊いてみた。
「まぁ、そういう説も出てるけど」
「出てんのかよ」
名雪は愕然とした。
なんかもう、ほんとに俺はとんでもない奴に手を出しちまったんだな、と嘆いた。
後悔先に立たずって奴である。
「いやでも、それもあくまで一説にすぎないんだ。何せ入江さんはこの学園のアイドルだからさ。皆が皆、彼女の恋愛事情には興味津々なわけでな、色んな説が飛び交ってるわけよ」
ほう、そっか。次はこそ泥が学園のアイドルときましたか……。
おい大丈夫なの? この学校。
「って。じゃあ何? そういった話をここでベラベラ披露しちゃてるお前も、つまりその一人なわけね?」
茶化すように言うと、蟹田は体から熱を放出させた。
「ムッ! さ、さすが我が友。ご名答……じ、実は俺、前から入江さんのことが大好きでして~そ、それで~」
「おい待て。お前、俺に告白してどうするよ? お前な、気持ち悪いから言うなら入江に直接伝えてくれよ」
そう、名雪が顔をポッと赤らめる蟹田を突っぱねると――、
「……あぁー。ほんとこれだから名雪は。まったく、お前ってなーんも分かってねぇのな」
蟹田は劇的に表情を変化させ、「ふっ」と、鼻で笑った。
何か馬鹿にされたっぽいので、名雪の声にトゲが生えた。
「おい、俺が何を分かってないって?」
「何って。いや全部さ。お前は入江さんのことをな~んも分かってない」
「……いや、知りたくないんだけど」
「入江さんはな、モテんだよ」
「あっ?」
「だから入江さんはモテんの。それはもう、すごく盛大に。だからな、去年の今頃から今日に至るまで、そりゃ幾人もの男子諸君が彼女の彼氏枠ただ一つを目指して勇気を振り絞ったわけさ」
「はぁー、そうなんすか」
どうやら恋バナをしたくてしょうがないらしい年頃な蟹田には、彼にとって都合の悪いい言葉は届かないみたいである。
名雪は、仕方なしに彼の話に乗ることにした。
「へぇー。で、結果は?」
『全滅、だったらしい』
グイン! と顔を近づけてきた蟹田が妙に禍々しく、ドスの利いた声音で答えた。
名雪は名雪で、こそ泥の恋愛事情になど当然興味ゼロなので、
「へぇー」。としか、リアクションできなかった。
「それに驚け。なんと全滅した勇者たちの中にはな、あの元サッカー部エースの『爽やか先輩』や、本命チョコを三桁もらっていたと噂される野球部の『イケメン先輩』までいたそうだ」
「ふーん」
えっ、と? 誰それ外人?
あー、でもでもそっか。それでもしかしたら女子に興味あるんじゃねとか囁かれてんのね、あいつ。
それはそれで――不憫な奴だな。あいつも。
「だからな名雪。そんな並みいるカリスマたちでさえ攻略が叶わなかった入江さんに告るってのはな、例えるなら九十九パーセント命を落とすと分かっていて、それでも断崖絶壁からダイブするような、そういう並々ならぬ勇気と覚悟が必要なのだ……って、お前? 聞いてる? 人の話」
「ん? あー聞いてる聞いてるー。ほんと誰が好きなんだろうねー、あいつ」
まぁ蟹田の例え話などまるで聞いちゃいなかった名雪だが、それでも耳をほじりながら、適当に相槌を打った。
すると、蟹田がまた神妙な顔して何かを考え始めた。
だから似合わないって。
「こんな話があるのだが」
彼はピンと人差し指を立てる。
距離が近いので名雪は一歩後退する。
「いやな、入江さんに振られた男子たちが口々に言うらしいのだが……何でも、入江さんが振った理由ってのが、『他に好きな人がいるから』。だ、そうなんだ」
「ふーん、そりゃまぁ、在り来りだな」
「在り来りだろ。でもな、考えてみろよ名雪。見方よっちゃそれって、入江さんにだって『好きな人はちゃんといる』ってことだぜ。入江さん、少なくとも恋愛してないってわけじゃねぇんだ」
「だから何?」
「分からねぇか? そりゃな、つまりこの世界、いいや普通に考えれば彼女にとって最も身近なコミュニティスペースとも言えるこの学内に入江さんのお目にかなう男が居るって話さ――でな、そう考えるとな、もしかしたら、その、そ、そいつがさ……」
? と、いきなりモジモジモードに入った蟹田に眺め疑問符を浮かべる名雪に、彼はポツリと、真っ赤な顔で、小さな声で……、
「おれ?」
「……」
「かな? とか思っちゃってな! は、ははは!」
お、Оh……。
激しく、そして過激に無い後ろ髪を掻く蟹田をしばらく呆然と見つめ――名雪は悟った。
蟹田が入江への告白を恐れる訳。けれど、その一方で未だに入江のことを諦められずにいる、その心理を。
そうか、蟹田。お前は、そんな僅かな可能性にかけているのか。
……はは、男だな、お前。
目尻を下げて、名雪は親友に尊敬の眼差しを向ける。
そして、男・蟹田の頭のてっぺんからつま先までをよーく見回して……、
――でも、ないな。
心の中で、呟いたのだった。