荻野の行動、雅也の決意
「ふむ……そろそろ、かな」
男は呟く。
荻野さんはずっと咳き込んでいて、俊貴はずっと縛られている手首のロープをほどこうとしている。
男の呟きは、初め意味がわからなかった。そろそろ……何がだろう。由季が帰ってくるにはまだ早い。そう思っていた。でも、今ならわかる。俺の体に、あいつ、なにかやったんだ。
ふわふわする意識。体の中から徐々に熱を帯びていく。熱くて、気持ち悪い。
「雅也?どうした?」
俊貴はすぐに俺の異変に気づいてくれた。
「……気持ち悪い……」
「えっ」
頭のてっぺんからつま先まで、全身が熱い。血液がお湯になってしまったんじゃないかと思うほど。
「顔赤いぞ……?大丈夫か?」
大丈夫とは言えない。でも、この状況だ。どうにもならないはずだ。
「……大丈夫じゃないけど……今は黙ってた方がいい気がする……」
「どう言うことだ……?」
「たぶんあいつ……俺になんかした……さっきから……熱くて、気持ち悪い……」
俺と俊貴でこそこそ話していると、男に気づかれた。
「……どうやら、時間通りのようだな」
「……お前、俺に……何した……」
「君は無防備に意識を失っていたんだ。大体の予想はついているだろう?」
やっぱり、俺が意識を失っている間に何かしたんだ。
「君にも、YK01と同じものを仕込んでおいた。だが、君は全身強化だ。影響は全身に出るだろう」
相手は男一人だ。でも、俺は意識を保っているのが精一杯だし、荻野さんは咳が続いていて大分体力を消耗している。唯一動ける俊貴も後ろ手に手首を縛られていて、状況は圧倒的に不利だ。
そんな中、男は俺たちになにか仕掛けるわけでもなく、窓の外を見る。
由季は、今どうしているだろうか。
「……雅也、くん……」
荻野さんの声、今は咳は出てないみたいだ。
「荻野さん……?」
「体調は……?辛くはないかい……?」
何でこの人は自分も辛いはずなのに俺の心配をするんだ。
「俺は……なんとかなります……、荻野さんは……?咳……、大丈夫なんですか……?」
「今はね……苦しいけど……なんとか、しのげてるよ……」
荻野さんは唇の端を少しだけ上げた。笑って見せたつもりなのかもしれない。でも、うまく笑顔にはなっていない。
「お前ら、お互いに強がってるんじゃねえよ。で?荻野さんはなにか話したいことがあって雅也を呼んだんだろ?」
「ああ……うん、彼なんだけど……外に向かって……HIF製薬と名乗っていたから……もしかしたら……あの、ニュースの関係者じゃないかと……」
あのニュース。たぶん、荻野さんも、俊貴も俺も同じものを想像しているはず。
「強制捜査のニュースだろ?……まさか」
「……HIF、は……10年前の事件に……関係してます……。その子会社に強制捜査が入って、その会社の人間が……俺たちを、人質にするってことは……」
「……あいつ、最後の悪あがきだって言ってた」
「そう……、なんだ。恐らくなんだけど……彼に戻るべき場所はない……だから、こんなことをしても無意味なんだ……」
無意味。その言葉はとても重い。今、男がやろうとしていること。今まで行ってきたこと。それはすべて無意味。数えきれないほどの同族が犠牲になった。生き残ったナハネ族の心に大きな傷を負わせたあの事件。
「無意味、か。言ってくれるな、荻野大祐」
会話が聞こえていたらしい。窓の外を見ていた男は俺たちに近寄ってくる。
「どうせ……マリアが来れば……お前、いや……お前たちは捕まるんだ……無意味以外に、何て言うんだよ……」
「……MSAAA、いや、杉崎雅也、私がなぜ、ここを最後の場所に選んだのか、わかるかな?」
男は俺を名前で呼ぶ。最後の場所と言う言葉。それは、恐らく男も結末を理解しているから。だからこそ、この男は悪あがきを続けるんだ。
「なぜ……?俺たちが……ここに、いたからじゃ……ないのか……?」
「確かにそれも好都合だった。だが、そうじゃない。私は研究者だ。この場所は私が必要とする施設が十分に整っている。道具と一緒にな」
この男の研究所には手術室のような部屋があった。
「まさかお前……!?ここを利用して……!?」
この病院を研究に使おうとしてたってことか……!?
「毒に冒されてるとは言え、頭の回転も早い。本当に君はいい材料だ。……さて、と」
男は乱暴に荻野さんを立ち上がらせる。
「お前!荻野さんに何しやがる!!」
「麻梨亜はもう建物の中に入った。ここに来るのも時間の問題だ。だがね、警察がここまで来る間に、できることもあるのだよ」
男はなにか手に持っている。なにか、筒のようなものを、荻野さんの腹に押し当てている。
「う……っ、ぐ、ぅ……!」
荻野さんの呻く声。筒が腹から離れる。荻野さんの腹部には微量の血痕。
男が手を離すとその場に崩れ、しゃがみこんだ。激しい咳は止まる気配がない。
「お、前……!荻野さんに……何を……!?」
「まさか、この男が喘息だったとは、少しは私にも運が向いているようだ」
男は荻野さんを蹴飛ばす。止まらない咳は、荻野さんの呼吸をどんどん制限していく。
「やめろ……!!」
俺は荻野さんを庇えるように男の前に出る。手首さえ縛られていなければ、俺が迂闊に薬を飲まされていなければ、もっと自由に動けたのに。
「喘息の発作を誘発する物質を投与した。この男はいつでも我々の邪魔をしてきた。早めに始末しておくべきだったが……今さらだ。そこでしばらく苦しんでいればいい。そのうち、麻梨亜は来る。もっとも、見られたくない姿だろうが」
男は荻野さんの前に出た俺を見る。すっと目を細め、つぶやいた。
「杉崎雅也、私は君に可能性を見ていた。だが、あのときは失敗だった。その時点で君を殺せなかったのは、私の落ち度であり、幸運だ。なぜなら、今、君はここにいる」
……この男は何を言おうとしているのか。あのときって、いったいいつのことだ……?
「君は一、二を争う高クオリティの実験体だった。だから、暴走したときは何かの間違いであれと願ったよ」
あのときっていうのは、俺が暴走したときのことか。
「私の研究は8割方成功している。君と、YK01に投与したものがそれを物語っているんだよ」
俺と由季は同じ毒薬を使われたはずだ。由季の症状はわからないけど、少なくとも俺は、全身が熱くてふわふわする。
「君とYK01の症状は違う。兵器に作用するように調合した特別薬だ。全身強化だった君は症状がより強く出ている。私の研究は間違っていなかった!!」
「……じゃあ、俺はどうなんだ。どうして俺にはなにもしない」
唯一、俊貴はこの男になにもされていない。俊貴だって兵器の能力はあったはずだ。毒を使えば俊貴の行動だって制限できるはずなのに。
「……斎藤、君はほとんど役立たずだった。適応率も低い、洗脳にもかからない。君にこの薬品を投与しても無駄だ」
「……へえ、なるほどな。でも、それは本当に無駄なのか?なにも効果がないと、言い切れるのか?」
俊貴は男に淡々と尋ねる。なんだか、自分にもその薬を投与しろと言っているようにも聞こえる。
「……君も物好きだな。わざわざ敵の懐に入り込むのか。……いや、君は昔からそうだったな」
男の意識は今、俊貴の方に向いている。今のうちに何か出来ることはないか……?荻野さんは大丈夫か?
荻野さんの咳はずっと続いている。が、荻野さんはげほげほ言いながら俺の手首のロープを外そうとしてくれている。
「荻野さん!」
「……げほ、げほげほ」
荻野さんはしゃべれていない。でも、荻野さんはひとりだけ縛られていなかった。今が……最大のチャンスなのかもしれない。
はらりとロープがほどけ、荻野さんは咳き込んでうずくまった。
「荻野さん!……ありがとうございます!」
荻野さんを楽な体勢にかえると、少しだけ咳がおさまる。
「……雅也、くん、げほ」
「……はい」
「……マリア……が、もうすぐ……来る」
確かに部屋の外から走る音が聞こえる。
「マリア、を……たのむ……」
「荻野さん……!?」
荻野さんは目を閉じて、ぐったりした状態で動かない。
ヤバイ、このままじゃ……荻野さんが……!?
「マリアちゃん!部屋はこっちだ!!」
リディナ先生の声。もうすぐだ、もうすぐ決着がつく。
「……来たか。余計なのもいるが……まあいい。荻野大祐はこのまま放っておけば死ぬ」
……俺は、荻野さんに託されたんだ。マリアのこと。
ふわふわして熱くて気持ち悪い。でも、それがなんだっていうんだ。
俺はまだ動ける。荻野さんにロープを解いてもらった。
俺は、マリアを守るんだ。
「杉崎雅也、君は本当に優秀だな」
あまり力の入らない体に鞭を打ち、立ち上がる。
男の皮肉とも取れる言葉。俊貴に向いていた男の意識は俺に移動した。
「俊貴、……荻野さんを頼む」
「ああ」
「気分はどうかな、杉崎雅也。気分は最悪だろう?その状態で立ち上がるのは正気の沙汰じゃない」
「……それが……どうした。俺は託されたんだ。だから、マリアを……みんなを守る」
「守る?何人もの命を奪った君が?守るだと?とんだ笑い話だ」
「そうだよ。俺は、自分の意図しない形で、たくさんの人の命を奪ってしまった。償わなきゃいけない。今俺ができる償いは、生きて、みんなを守ることだ。もう、誰も傷つけさせない」
俺が今言葉にしていることは所詮綺麗事だ。偽善者なのかもしれない。
もちろん、せっかく助けてもらったこの命は俺だって惜しい。でも、それ以上に俺は、俺以外の誰かが傷つくところは見たくないんだ。
この男の最後の悪あがき。狙いはマリアだ。
そのマリアはもうすぐやって来る。俺一人でどうにかできるなんて到底思ってはいない。でも、誰か応援が来るまで、警察が助けに来てくれるまで、なんとか、マリアを無事に守りきりたいんだ。




