捕らわれたナハネ族
それは突然だった。
俺がウィン先生と別れてバイト先に戻ると、託児所の先生が不安げな表情で俺に声をかけた。
「スギサキくん、ちょっといい?」
「はい、どうしました?」
「実は……少し前から近くに不審者がいるのよ……スギサキくんが戻ってきたらちょっと確認してもらおうと思って……」
確かに普段あまり見ないスーツの人物がキョロキョロとなにかを探しているようなそぶりを見せている。
「俺、ちょっと声かけてみますね」
「スギサキくん、気を付けてね……!」
部屋から出て、スーツの人物に声をかけようとしたその時だった。後ろから手が伸びてきた。ハンカチで鼻と口を覆われる。何かハンカチに染み込ませてあるらしい。意識が不鮮明になっていく。
「スギサキくん!?」
託児所の先生が俺の名前を呼んでいる。でも、返事できない。
……迂闊だったな……。狙いは、俺だったのか……。このあと、何が起こるっていうんだ……。
なにも想像できないまま、俺は意識を手放した。
「お前たち……!!私の娘に何をするつもりだ!!!」
荻野さんの声。でも、怒ってるみたいだ。なんだ?……この状況なにが起こってるんだ……?
「んん……」
「お兄ちゃん!!」
目を開けると由季が俺の顔を覗き込んでいる。俺は床に寝ているらしい。
「荻野さんは……?」
起き上がろうとして気付く。後ろ手に縛られている。
なんとか起き上がって、荻野さんの姿を探した。荻野さんは見覚えのない男につかみかかっている。
「さっき言ったはずだがね。君たち、ナハネ族には最後の悪あがきに付き合ってもらうんだよ。貴様の娘も一緒にな」
その言葉と共に荻野さんは突き飛ばされた。そのままバランスを崩して、床に倒れる。
「荻野さん!!」
荻野さんはゲホゲホと咳き込んでいる。
一番近くにいた俊貴が荻野さんの様子を見ているが、よく見れば荻野さん以外は縛られていた。
「MSAAA、目が覚めたようだな」
荻野さんを突き飛ばした男は俺に近づいてくる。忌ま忌ましいコードネームで俺のことを呼ぶ。
「俺の名前は杉崎雅也だ。そんな名前じゃない」
「まあ、名前などもはや些細な問題でしかない。君たちは、ここで我々と一緒に死んでもらう」
どう言うことだ。話が見えない。わざわざ人質にとっているのに、すぐに殺さない理由があるのか?
「なんですぐに殺さないんだ。こんな無防備な状態なのに」
「……我々の研究はまだ終わっていないんだよ、MSAAA。だが、我々はもう研究を続けていけない。ならば、その事実の中心にいた君たち共々証拠を消すしかない。我々の最後の研究でな」
最後の研究……何か俺たちにしようって魂胆なのか……?
「我々の研究は試験段階に入っている。……ここはモルモットには困らないからな」
やっぱりだ。こいつは俺たちナハネ族をまた、実験台として使うつもりなんだ。
「まあ、我々の時間は残されていない。警察に突入されればそこで我々も終わりだが……あとの処理は無能な警察が無能なりに何とかするだろう」
「お前たち……げほっ」
倒れていた荻野さんが起き上がった。咳はまだ止まらないようだ。呼吸する音にヒューヒューと、なにか変な音が混じっている。
「死にかけが何の用だ。貴様は足手まといだ。いっそここで殺しても我々は困らない」
「無責任にも……程がある……!私たちがお前たちのせいで……げほっ、どれだけ辛い思いを……!!」
「黙れ。本当に死にたいようだな」
荻野さんが壁際に追いやられた。男が荻野さんの首をしめてる。助けなきゃ……!
「がっ……はっ……ぁ」
「荻野さんっ!!!」
俺は動いた。縛られた手でうまくバランスはとれない。
「雅也っ!?気を付けろ!!!」
俊貴の声、でも俺は止まらない。男に体当たりを食らわせる。男の手は荻野さんの首から外れた。
「おのれMSAAA……!!!」
体当たり後、すぐさま男から離れた。俊貴が荻野さんに駆け寄るのが見える。荻野さんは苦しげに咳き込んでいた。
「……ふんっ、そうやっていられるのも今のうちだ。荻野麻梨亜は来る。君たちを助けるためにね」
「どうしてそんなことが言えるの?……それに、もしマリアちゃんが来たとしても、あなたたちには渡さないよ」
「YK01……貴様まで生意気な口を叩くのだな」
「私だって……そんな名前じゃない……!!私には杉崎由季って名前があるの!!」
由季が男の気を逸らしてくれた。そのうちに、俺は荻野さんのところに向かう。荻野さんは咳が止まらないようで、だんだん顔色も悪くなってきていた。
「俊貴!荻野さんは……?」
「俺がそばにいたところで気休めにしかなってない……。あいつに何されたかもわからんし……」
「げほっ、げほっ……斎藤、くん……雅也、くん……」
荻野さんが俊貴を呼ぶ。そして、俺の名前も。
『荻野さんっ!?』
俊貴と声がハモった。でもそんなことはお構いなしに荻野さんの次の言葉を待った。
「ごめ、ん……実は……先生たちにも……いってないことが……げほっ、あって……」
「ウィン先生やニコル先生に言ってないってことですか?」
「ああ……、実は……げほっ、喘息……持ち、なんだ……」
ゼンソク?聞いたことのない言葉だ。何も答えられずにいると、俊貴が息を飲む音が聞こえた。
「あんた……!この咳は喘息のせいなのか……!?」
「うん……ごめん……」
「バカ!しゃべるんじゃねえよ!?死にてェのか!?」
困った、会話に全くついていけてない。とりあえず俺がわかるのはそのゼンソクとやらで荻野さんの咳が止まらなくて体力がどんどん奪われていってるってことだ。
「な、なに?どういうことなんだ??」
「気管が炎症を起こして気道が狭くなる病気だ。咳が止まらなくなる発作が出る。下手すると呼吸困難になる。座ってる体制の方が呼吸しやすいと思うんだけど、困ったことに俺たちは縛られてるから、起こしてやれない」
呼吸困難……!?ヤバイんじゃないのか!?
「えっ!?ど、どうしたらいい……!?」
「焦るな、俺たちには今はどうしようもできない。耐えてもらうしかねえんだよ」
その時だった。外から声が聞こえてきたのは。
『おじさーーーん、聞こえてる?あなたたちが欲しがってるマリアだよ』
マリア!?まさか、ここに来るつもりなんじゃ!?
『今から私、そっちに行こうと思うんだけど、お願いがあるんだ』
男は由季とのにらみ合いをやめて、スピーカーのスイッチを入れた。
『ユキちゃんに迎えに来てもらいたいの』
男は由季を一瞥する。
『……何のつもりだ』
『別に、ただ不安だから迎えにきてもらおうと思っただけだよ。それに、あなたたちもわかってると思うけど、もう警察の人来てるし、突入しようと思えばできるって言ってたもん』
『……いいだろう、今から杉崎由季を向かわせる。下手な真似はするなよ、お前の動き次第で入院患者を殺せるのだからな』
男はスピーカーのスイッチを切り、由季の首に何かつける。プラスチック製のチョーカーのようなものだ。そのあと、由季の手を解放した。
「痛っ、何これ」
「そう易々と解放するわけがないだろう?保険だよ。遅効性の毒が仕込まれている。ナハネ族だから死ぬことはないだろうが、毒の効果には個人差があるからな」
「由季!!!」
「……私、どうなるの……?」
由季は静かに、男に尋ねた。
「なぁに、多少動けなくなるだけだ。早くいかなくていいのか?動けなくなるぞ?」
「……行ってきます」
由季は一度ため息をついた。そして階段を下りていく。
どうしよう、どうしようっ!?由季が毒を盛られてしまった!また、俺は由季に危険な思いをさせてしまっている……っ。
「……どうしようっ!?由季が!」
「落ち着け、少なくともあいつらが実験を始めない限りは俺たちが殺されることはないと思っていていい。由季だって実験台の一人だ。……まあ、本当に動けなくなる可能性はあるけどな」
俊貴はこんな状況なのにいたって冷静な風に見える。
「……どうしてそんな冷静でいられるんだよっ!?」
「お前が!……お前が混乱してる状況で俺まで冷静さを欠いたらどうしようもなくなるだろ。荻野さんだって不安なはずだ。たぶん由季は荻野さんの状況を外にいる誰かに説明してくれるだろうから、状況が動くまで……落ち着いて待ってろ」
……そうか、俺が冷静でいられないのがわかってたから、俊貴は敢えて冷静に、落ち着いて今の状況をみてたのか……
「……ごめん」
「いいよ、どっちにしろ今の俺たちは何もできないんだ」
今の俺たちは何もできない。毒を盛られた由季、床に倒れたまま苦しげに呼吸している荻野さん、人質のとの交換条件としてここに来ようとしているマリア。
この状況が、ひどくもどかしかった。




