煙、そして思い出
愛煙、嫌煙、様々な考え方や立場があると思いますが「1つの作品」として読んで頂けたらと思います。
私の思い出は、吸い込んだ煙と共に再生され、その再生された思い出は、吐き出した煙となって宙に舞い、そして段々と消えていく。
良き思い出も、悪き思い出も。煙草という1本の嗜好品。それは、世情が変わり、悪役となってしまった今でも私にとってはなくてはならない存在。
もし、この世から煙草がなくなってしまったら……。私という存在も、煙のように消えてしまうかもしれない。ベランダに立ち、都会の喧騒を見下ろしながらそんなことを考えた。
私はピースを愛飲している。写真でしかわからない祖父の顔。祖父は私が物心つく2歳の時、若くして天国へと旅立った。未熟児で産まれた私を、誰よりも可愛がってくれたという。写真の中の祖父は、病院のベッドの上で幼い私を抱いている。痩せこけた体が痛々しい。そんな祖父の愛した銘柄がピース。この甘い香りのする煙に包まれていると、祖父の愛に包まれている、そんな気持ちになる。天国から私が同じ煙草を吸っているのを見て、祖父はどう思うだろうか。
老朽化で今はなくなってしまった、かつての実家の縁側に2人で座り、お茶を飲みながらピースを喫んでいる光景が浮かんでくる。
思い出は煙に包まれ、私の中に取り込まれる。吐き出された煙は、思い出と共に空気と同化し、空へと広がっていく。
私は空を見るのが好きだ。
空へと向かって吐き出された煙、思い出が広がっていく光景。夜、星空が見えるとセブンスターの煙を思い出す。セブンスター、父が吸っていた銘柄。寡黙な父。仕事人間だった父。何かと衝突を繰り返し、大人になっても分かり合えていなかった私と父。でも、煙草を吸うようになってから分かったことがある。家庭を守るために必死だった父。家で寡黙だったのは家庭を守るための激務の裏返し。弱音を吐かなかった父。セブンスターの煙には、父の強さと言葉に出さない愛の味がする。
私は、新緑の季節が好きだ。
雪深い地方で生まれ育った私。新緑の季節は待ち望んだ春の訪れ。山や野原、川べりの草たちの緑色、緑色は故郷の色。春になると思い出す煙草がある。
わかば。母方の祖父が吸っていた銘柄。大工の頭領を勤め上げ、休日も畑や田んぼの仕事に駆け回り、ゆっくり座るのは晩酌の時だけだった。もう1人の祖父の好きだったこの煙草は、とても辛く、緑の香りがする。大工仕事の手を止めた時、畑仕事の手を止めた時、晩酌の時、いつもこの煙草が一緒だった。都会の暮らしが辛くなった時、諦めたくなった時、私はこのパッケージを手に取る。日焼けした祖父が、私に笑いかけてくる。頑張れよ、一服したらば。もう1人の祖父の声が蘇る。この煙草の辛さは、人生の辛さ。吐き出した煙に故郷の新緑が浮かんで見える。
私がよく行く街の煙草屋さん。都会の街角に佇むこのお店は、私が都会での生活に慣れつつ、どこか冷たい都会の人間関係に疲れた頃、まるで私を呼んでいるように思えた。どこかで失われていく自分の体温。初めてお店に入った私を、ご主人と女将さんは笑顔で迎えてくれた。足を運ぶ回数を重ねるごとに、失われつつあった体温が上がっていくような感覚を覚える。気付けば私は、このお店の常連さんになっていた。
自動販売機があるおかげで、店内まで足を運ぶお客さんは随分と減ったとご主人は言う。確かにそう……今の時代、人と関わらなくても、生きていくことができる。
でも、私は自動販売機で煙草を買うことはしないだろう。煙草が人と人を繋ぐ、ここに来るようになってから私はそう思っている。このお店で知り合った人たちは、都会で懸命に生きている。
お店のご主人は、今の世情を憂いながらも、商売繁盛、大当たり、という願掛けでラッキーストライクを吸っている。
「本当はキャスターが好きなんだけれどね」
と言って笑いながらその話をした。つられて私も笑った。
妻である女将さんは、ご主人の願掛けの話を聞きながら、キャスターを吸っていた。夫の代わりに好きな銘柄を吸ってあげているんだって。そこに夫婦の愛を感じた。
司法試験合格を目指して日々猛勉強している男性。絶対に希望を捨てないようにって、彼は10本入りのショートホープを1日1箱だけ、毎日買いに来るんだって。ホープ。希望。その男性と偶然店内で会った時に私は言った。
「頑張ってくださいね」
私の一言に彼は大きく頷いた。合格した暁には、1カートン買うんだって。彼ならきっと、難関試験を突破してくれる。そんな気がした。
どこか悲しい顔をしている大学生の男の子。ちょうど銘柄を変えてすぐに付き合っていた彼女と喧嘩別れしたんだって。だから、彼女と出会った時に吸っていたクールに戻したんだって。私にはちょっと馬鹿らしい話に聞こえたけれど、彼はとっても真剣だった。よほどその子のことが好きだったんだと思う。彼女とよりが戻ったら、2人でここに来てほしいと思った。KOOL、Keep Only One Lady。
店外にあるお店の自動販売機には、売れ筋の銘柄しか入っていない。私の吸うロングピースも、そこには入っていない。自動販売機に入らない銘柄が、お店の中では売られている。
ゴールデンバットを買いに来る若者がいる。彼は目下、小説家を目指して執筆活動中だそうだ。尊敬する作家は太宰と芥川。尊敬する文豪が愛した銘柄を彼は買いに来る。私は彼のサインを持っている。大きな賞を受賞して、天狗になる前に第1号のサインが欲しい。と冗談めかして言ったら、考えもしていなかったのか、真っ赤になり、うんうん唸りながら私のピースの箱にサインをしてくれた。その箱は大切に保管してある。彼の勧めてくれた本を読んでいる時は、ゴールデンバットのパッケージと彼の顔が浮かんでくる。
とある日の夕刻。仕事帰りにお店へと立ち寄った。煙草は足りているけれど、何となくお店へと足が向いた。すると、店内のテーブルに初めて見る人が座っていた。髪の毛の色は金色で、赤と青のメッシュが入っている。その髪をツンツンに逆立てて、近寄りがたい雰囲気。さながらビジュアル系のバンドマンと言ったところ。テーブルの上にはマールボロの赤いパッケージとzippoのライター、コーヒーカップが置いてある。ご主人が1カートンのマールボロを抱えて小走りに駆け寄って行く。彼は代金を支払うと、そのまま店外へと消えて行った。ご主人が私に気付いて声をかけてくる。
「いらっしゃい」
ご主人の顔を見ると、なんだか元気が出てくる。そう、だから私はこの店に足を運ぶのだ。きっとここで出会った皆もそうなんじゃないかと思う。今日は立ち寄っただけだと告げ、代わりにインスタントコーヒーを買い、さっきの彼のことを訊いてみた。彼は事実、バンドマンだった。メジャーデビューという大きな夢を抱えて、単身この街に移り住んできたのだという。私は読みが当たったことに苦笑した。
「彼は売れると思う?」
とご主人に問うてみた。
「売れてくれなきゃ困るよ」
微笑みながらご主人は答える。続けてこう言った。
「さっき彼が飲んでたコーヒー、うちの店のなんだ。売れてくれなきゃ、ツケを払ってもらえない」
ご主人はまた微笑む。
世情が変わって、私たち、煙を愛する者に対する風当たりも随分と変わってしまった。
夢を追いかける者に対する風当たりも、随分と冷たくなってしまったように思える。
街の喧噪を抜け、家路へと向かう私は今夜、どんな思い出を吸い込むのだろうか。
(了)
未成年の喫煙は法律で禁止されています。喫煙マナーを守りましょう。
本作品に登場するキャラクターの個人に焦点をあてた物語をスピンオフ作品として書いています。
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