誰がための物語
「季節はもう春である」
その音でボクは目が覚める。ボクが目覚める時はいつもそうだ。ボクはこたつで寝てしまっていて、彼女は仕事の小説を書いている。小説を書く時の癖で、彼女は小説を声に出しながらうっている。彼女の声を聞くともう一時間寝ていてもいいのかなと誘惑される。
彼女の言うように、季節はもう春である。もう春なのにまだこたつが出ている。これについて彼女は変だと言い、ボクも変だとは思うのだがなぜか片づけるのが億劫になってしまう。それでもまだ寒いからと、片づけるのは今度でいいかという結論になってしまう。
「雪がとけると……」
「それは前に話しました」
「マジで? 」
「うん」
沈黙に耐え切れずにボクはみかんを食べはじめる。彼女に食べる? と聞くとそっけなく彼女はいらないとだけ答えた。彼女はボクが雑に剥いたみかんは嫌いらしい。彼女曰く、蜜柑というものはヘタから剥いて綺麗に白いスジを取るべきである。それがおいしくなるわけではないのだが、それをやらないと食べようと思えないらしい。ボクは雑に剥いた蜜柑をひとつ食べ始める。彼女はというとカタカタとキーボードをならしはじめる。その声とキーボードの音色はまるでひとつの楽器のようだな……と感じてしまう。そんな綺麗な音色を邪魔するようにボクはあのさーと彼女に話しかける。
「何ですか?」
「今日の夕飯、何にするの? 」
「チキンライスにしようかと思っています」
チキンライスかーと彼女の言葉をボクは反復する。彼女は彼女でまた小説を書き始める。
「先ほども言ったが、季節はもう春である。もう四月である」
ボクは小説のことはわからない。絵の美しさなら上手いとか下手だとか、好きとか嫌いとかわかるのだが小説はわからない。読んだとしても面白かったか面白くなかったぐらいしか感想はない。だから小説を読むより漫画を見る方が好きなのだ。最近、読んだ小説といえば彼女に借りた本ぐらいで自発的には読もうとは思わない。でも、彼女の書く文章は美しいと思う。
ボクが彼女と付き合ったころは駆け出しのエンジニアだった。毎日、仕事仕事でパソコンと向き合ってボクは死にそうになっていた。SEという仕事はブラック企業が多く、ボクが入った会社もブラック企業だった。
彼女はその道では有名なSEだった。経歴を語ればそれだけで日が過ぎてしまうほどのものである。彼女はいろんな会社を高給で渡る、今でいう派遣社員のようなものだった。
彼女はプログラムの仕事をしてから家に帰って小説を書いているらしかった。仕事でもパソコンをいじり、家に帰って休む時間でもパソコンをいじっていた。一回だけ、ずっとパソコンの前にいて疲れないと聞いたことがあった。すると彼女は笑いながら、パソコンの前にいると楽しいのと話をしてくれた。
なぜ彼女がボクのような男と付き合ってくれたのか今でもわからない。ボクの唯一の癒しが彼女と一緒にいる時間だった。同じ職場で会ってるにもかかわらず二人きりの時の彼女はいつもより美しく思えた。二人でいる時は、映画や買い物に行くか互いの家でボッーとするかを繰り返していた。
「知ってる。チキンライスってのは日本発祥なんだって……」
「へぇーそうなんだ 」
「こうベチョッとしない秘訣としては鶏皮の脂を使ってたまねぎを炒めることとケチャップは多めにしてしっかりと煮詰めることなんだよ」
「にしても、意外だな。……さんが料理が趣味だなんて」
そうボクが笑い飛ばすと、彼女はムッと怒った顔をした。馬鹿にしないでよね、私だって女の子なんだから料理ぐらいできますーと彼女は言い返した。
「君は一番おもしろい小説って何だと思う? 」
「うーん、一番売れてる小説かな……」
「それだと一番おいしい料理は、インスタント麺になるよ」
「あぁ……そうか……」
そのあと、僕たちは話ながら彼女がつくったチキンライスを食べていた。彼女の作ったチキンライスは豆知識があるにも関わらずベチョっとしていた。
「一番おいしい料理は君のつくったチキンライスだけどね」
そのあと、彼女とボクはお金を稼ぐだけ稼いで二人で会社を辞めた。ボクの方は二年ぐらいしか生活できるお金はなかった。でも彼女は家を買えるだけのお金を稼いでいた。何か月か借りるだけのお金でもなく、家を買える分だけの金だ。彼女は僕に働かなくていいと言った。なぜかはわからない。そして彼女も働かないと言った、自分の好きな小説を好きなだけ書くからと……
年が明けたのが昨日のように思えてしまう。それほど、この三か月は新幹線のようにはやかった。はやかったと言っても特にはなにもしていない。ボクは何もせずに毎日をダラダラとすごしているし、彼女は彼女で好きな小説をずっと書いている。ボクが溜めていた収入は二年で亡くなったのだが、彼女の貯金と小説の収入で暮らしている。彼女におんぶに抱っこの状況は、何とかしなければとも考える。とある詩人は『四月は残酷な月』と詩を述べたそうな。でも、ボクは残酷だとは思わない。四月、春と言えば出会いの季節であり別れの季節である。しかしそんなことが関係ないのが我々ニートである。出会いもなければ別れもない。それが我々の春である。
「もう春ですよ」
「だねー」
「だねーじゃないでしょう、春になったら働くっていったのは誰ですか?」
「誰だろうね」
「ごまかさないでよ」
そう彼女は言いながらキーボードをうつのが早くなる。これは彼女が怒っている証拠だ。キーボードをうつというよりも叩いているという表現の方が正しいのだろう。それぐらい彼女が怒っているのは目に見えている。
「わかってるんだよ……働かなくちゃいけないって言うのは……」
「じゃあ、働いてください」
「でもさ……」
こたつというものは暖かい。当たり前かもしれないが、暖かいのだ。暖かいと言う言葉は温もりという言葉にも変換ができる。その温もりがボクを包んで出られないようにする。入ってしまえば出る気力が失われる、こたつとはそういうものだ。それと同じで彼女と過ごしていると働かなくてといいかなという気持ちになってしまう。暖かいと言うよりは彼女といることが僕にとってぬるま湯になっているのでは……と時々思っていしまう。
「あのさー私の給料が亡くなったらどうするわけ? 」
「それは……ほら……まだ貯金あるし」
「貯金は減るんだよ? 」
ボクは黙り込んでしまう。ボクが黙り込んでいる間でも彼女はどうするのか、ビジョンがないとずっと言い続けている。彼女との喧嘩はいつもこうだ、彼女が一方的に喋る。ボクはうんうんと聞いてるだけの喧嘩だ。もし私と別れたらどうするの? 私は優しいけどずっとニートだと愛想つかしちゃうよ。と彼女は時々冗談を交えながら説教する。それでも冗談を言う彼女の顔は笑っていなかった。
そう彼女と話をしているとチャイムの音がした。
「お義兄さん、おひさしぶりで」
ドアを開けると彼女の弟である良雄君が立っていた。◆◆くん、と思わず声に出してしまった。
「よかった、覚えくれたんですね。また忘れられてたらどうしようかと思ったよ」
「義兄さんのことは忘れたくても忘れられないですよ」
そう彼が苦笑いしているのを見ると、彼女にそっくりだなと思ってしまう。
「そんなに君と会うの久しぶりかな? 」
「だって姉さんが死んでから、義兄さんとあんまり会ってないじゃないですか……」
「聞いてよ……この人がまだ働こうとしないのよ。姉さん、この人と別れちゃおうかしら」
そう彼女が奥のほうから弟の良雄君に声をかける、でも良雄君の顔は変わらないままだ。「まだ、姉さんの人形と会話してるんですか? 」
彼はボソッとつぶやいてしまう。そう三年前に僕の好きだった彼女は死んだ。それはただしくもあり、僕の中では今はまだ受け入れられていない真実だ。
そうだ、彼女は死んだのだ。それは不運の事故だった。いや不運というには悪すぎる。
僕はニートになってからほとんどの日は家に引きこもっていた。世間が嫌になったわけではない。外に出るのが億劫になっていたのだ。彼女の貯金と小説の収入があれば生きていけるからだ。それなのに働くのはおかしいものだと思ったし、彼女も許してくれた。
その日は雨が降っていた。彼女は一緒に買い物に行こうと言ってきた。その日はめんどくさくなって僕は彼女の提案を断ってしまった。今考えると彼女がいることが当たり前になっていたんだと思う。それのことを今でも後悔している。いやでも忘れられないのだ。眠りにつこうとするとあの日の事を思い出してしまう……
彼女が死んで一週間がたったある日のことだった。突然、パソコンの電源がついたのだ。そしてパソコンは自動で動き始めたのだ、それが彼女の作ったHALとの出会いだったのだ。HAL、俗にいう人工知能を彼女は作っていたのだ。それは声や人格まで彼女と似たようなものだった。いや違う、彼女とまったく同じだったのだ。暖かい声も、やさしい中にある厳しい性格も彼女と同じだったのだ。
よく彼女は言っていた。
もし、私がいなくなったらどうするの? キミが一人になったら心配だよ……
目を閉じれば、いろんなことを思い出す。
なぜ、彼女は僕と付き合ってくれたんだろう。なぜ、死んでもなおボクのためにHALをつくったんだろう。そしてボクはなぜ死んだはずの彼女と生活しているのだろう……
今までの事は夢だったのかも知れない。いや、そっちの方がいいと考えるのだろう。
「ねぇ、話きいてるの……」
そう、彼女のHALは僕に話しかける。
「わかってるんだ……キミと離れなくちゃいけないんだ。でも僕は、僕は……」
季節はもう春である。四月、春と言えば出会いの季節であり別れの季節である。
答えは出ないままである、出会いも別れもまだない。
そう彼女の書いた小説の一節を思い出してしまう。
でも、ボクの場合はそれでも確実に別れなければいけない……わかってはいるのだ。
それでも……それでもボクは……