―第83話 セイブ・ザ・セイレーン ③―
――怒り、というものは戦場において最も唾棄すべきものだ。
『火事場の馬鹿力』とはよく言ったもので、脳のリミッターが外れることで一時的に限界を超えた肉体の行使が可能になるため、疑似的にではあるが『強くなった』実感は得られるかもしれない。
多勢に無勢や、勝ち目のない戦いにおいて士気の維持は文字通り生死を分かつものであるし、形はどうあれ『火事場の馬鹿力』を馬鹿にはできないだろう。
だが怒りとは、冷静な判断力を奪い、体に余計な力が入り、視野を狭くするものだ。
戦いの中で思考を放棄した者に生きる未来などない。大切な人を失った怒りでパワーアップした主人公が、強敵を倒して大逆転――劇画ならば王道とも言える展開だが、現実はそう甘くはない。
怒りに支配された戦士など、野生の獣となんら変わらない。
破れかぶれで突撃してきたところを四方八方から機関銃で蜂の巣にする。落とし穴を仕掛けて嵌ったところを滅多打ち。そんなことをしなくとも、暴れて暴れて、脳内麻薬が切れるのを待てば勝手に弱ってくれるのだから、ほら、後は嬲りたい放題だ。
だからこそ、『怒り』なんて激情に心を揺り動かされるようでは、鉄火飛び交う戦場で生き残ることなどできやしない。
「……レッシィ!!」
魔術の師であり『父親』であったフリスト=M=ウィンスレットの教えを心の内側で反芻しながら、クラウは冷静に怒っていた。
飛鳥と別れ、レイシアの捜索に向かったクラウだったが、彼女の居場所はすぐに分かった。同じ魔術師である以上、彼女の魔術が起動した痕跡を辿るのは容易だったからだ。
だが、そこで見た光景はクラウの理性を一撃で引き千切るほどの衝撃だった。
とめどなく血を流すレイシアと、彼女の上から短刀を振り下ろそうとする鴉の姿。
術式を組む時間すら惜しかった。駆けつけた勢いのまま鴉の顔面に拳を叩きつけ、レイシアを護る騎士として立ち塞がった。
「そのすかした顔、ズタズタに刻んで歪ませてや「急いでるんだすっこんでろ」ゲブゴォッッ!?」
口上もそこそこに、鴉が2本の苦無を逆手に構えたのと同時、クラウは既に自身の拳が届く至近距離まで滑り込んでいた。下顎目がけてのアッパーで、鴉はロケットの如く真上に打ち上げられた。首から上が天井を突き破るほどの威力に、鴉の身体が力無く垂れ下がったのを確認したクラウは、弾かれたようにレイシアの方へと振り向いた。
「な、なんで、あんたがここに……」
「喋らないで。すぐに治療しないと」
出血多量で今にも事切れそうなレイシアをそっと抱き寄せる。支給された隊服の内ポケットの中に、応急手当用のガーゼと消毒液が入っていたのは望外の幸運だった。
傷口に消毒液を吹き付けたガーゼを当て、強く圧迫する。だが、叫び出したいほどの激痛が走っている筈なのに、レイシアは額に脂汗を浮かべたまま苦悶の声をあげようともしない。
耐えているのかとも思ったが、それにしては反応が薄過ぎる。まるで麻酔でも打たれたかのように、痛覚が麻痺しているとしか思えない。
そんな事を考えている間にも、レイシアの容体は目に見えて悪化していく。生気を失いつつある真っ青な顔を見て、クラウはひとつの覚悟を決めた。
「レッシィ、先に謝っておく。あとでいくらでもぶっていいから」
「なに、よ……いったい、なんのはな、ん、んむうぅうっ!!??」
クラウは申し訳程度に軽く頭を下げ、力無く首を傾げるレイシアの――その柔らかな唇を奪った。
クラウにとっては(多分レイシアも)ファーストキスだったのだが、そんなことを言っている場合ではない。触れた唇を介して、クラウは組み上げた術式をレイシアの体内へと送り込んだ。
絶対破壊の力である“無二の結末”の対極とも言える、『終末幻想』第二の術式――“継ぎ接ぎの鼓動”。
触れた対象が破壊されるに至る情報――今は人間相手なので『死』に至る情報と言うべきだが――を読み取るまでは“無二の結末”と同じ。
違うのは、ここからだ。
(出血多量に、あとこれは……毒か? 刺された刃物に塗りこまれていたか……!!)
「んんんんーーーーーっっ!!??」
レイシアを死に追いやる要素をひとつひとつ解析し、それを破壊可能な情報として抽出。
先ほどのコンピューターの話に例えると、これは感染したウイルスの全情報を、PC内の膨大なプログラム群の中から抜き出して削除していくようなもの。確かに、理論上は(感染破壊されたデータはともかくとして)これでPCのリカバリーは可能ではあるが……それを手動で行うのがどれほど無謀で馬鹿馬鹿しい行為なのかは、言わずもがなだ。
熱暴走を起こしかねないほどに、クラウの脳神経は異常な速度による演算が行われていた。精神が端から消しゴムでガリガリと削られていくような感覚は、一歩間違えれば精神崩壊を起こして廃人と化す予兆だった。
頭の内側からハンマーで何度も叩かれたような鈍痛に堪えつつ、そっと唇を離す。2人の口元を細い銀色の糸が伝っていた。
時間としては10秒にも満たない。しかしクラウにとっては、膨大なデータの海の上で何百年も泳ぎ続けていたようなものだった。
(よし、死に至る可能性はすべて『破壊』できた。あとは……)
「…………歯ぁ食い縛れや、このレイプ魔が」
(さあ、どうやって言い訳しよう)
目の前に広がるのは、血色もよくなって林檎のような顔全体を真っ赤にし、復讐の昏い炎を両目に宿したレイシアの――鉄拳だった。
「この程度で済ませてやったことを感謝しなさいよね……!!」
「ふぁ、ふぁい……」
乙女の純潔を奪った(性的な意味ではなく)罪として、クラウはひとしきりボコられた。魔術や武器を使われなかっただけマシだったが、それでも執拗に顔面ばかりをグーパンチされては重傷に変わりない。奥歯が一本折れてしまったではないか。
さりとて、助けるためだったからと言い訳するのは男らしくないだろうし、恋人でもないのにキスだなんて、やっぱり女性にとっては相当の苦痛であっただろう。
ここは、日本に来てから覚えた最大級の謝罪の証『DOGEZA』を披露すべきだろうか。
「……クラウ」
「っ! な、なにかな……」
まさか、まだ殴り足りないというのか。流石にこれ以上食らうと立っていられない、クラウは背筋を震わせた。
それに今は戦闘中だ。ひとり奮戦してくれている飛鳥や単独で突っ走った鈴風が心配だし、他のメンバーの動向も気になる。
「その、ええと、さっきのことは確かに許してやるつもりはないけど、その……………………ありがと、助けてくれて」
そう言ってぷいっと顔を背けるレイシア。
最後の方は尻すぼみで蚊の鳴くような小声だったが、クラウにははっきりと聞こえていた。その一言だけで、クラウはこれまでの苦労や苦痛がすべて報われたような心地だった。
「……よし、それじゃあ他の皆と合流しよう。特に、飛鳥先輩が抑えてくれている奴は別格だった。手遅れになる前に駆け付けたい」
「そうね――って、クラウ後ろ!!」
クラウの背後を見て目を見開くレイシアだったが、心配など無用である。
振り返りざまに、横薙ぎの蹴りを一閃。無防備な背中を狙って放たれた3本の苦無を綺麗に叩き落とした。
「あれでまだ立てるんだ? 思っていたよりしぶとい」
「この……このコノこのこのコノコノこのテメえェェェえェェッッ! どこまでオレをコケにしやがる! オレは人間を超えた存在なんだぞ! テメェらみてぇな『進化』に置き去りにされたのろまな亀とは違ぇんだよぉっ!!」
頭から滝のような血を流しつつも、人工英霊・鴉は健在だった。
魔術付与がなかったとはいえ、急所を的確に抉った拳を二度も受けて、まだ戦えるだけの力を残していたとは。
「え? ……ああ分かった! そんな真っ黒な服着てるからなんでかなと思ったけど……そうか、君は人間から『進化』して害虫になったんだね! 道理でしぶとさだけは人間を超えているわけだ!!」
後ろのレイシアも、正面の鴉も、時間が止まったかのように表情を凍らせていた。
虫も殺さないような、気弱で穏やかな少年が、いきなり相手の存在そのものを否定するような悪辣な暴言をぶちまけたのだ。理解が追い付いていないのだろう。
だが、今のクラウにはそんな些細なことを気に掛ける精神的余裕はない。
怒りの数値が今にも振り切れそうなのを必死に抑えているのだ。師の教え通り、戦場で冷静さをけして失わないようにするために。
「テメェ、不意打ち食らわしたくらいで調子にのってんじゃねェぞ……!!」
「まだ向かってくるというなら重畳。こっちとしても、そう簡単に終わらせてやるつもりはなかったからね。……レッシィを傷付けた罪科、あの程度で済ませるつもりはないぞ」
だってそうだろう?
レイシアが死に瀕するような痛みと苦しみを、鴉にも同じだけ味わわせなければ不公平ではないか。
いや、同じだけでは足りない。大切なレイシアと、ゴミ以下の価値しかない鴉の命を同列に置くこと自体が許しがたい。
「百回殺してもまだ足りない。……こいよ。肉体も精神も、魂すらも、あんたという存在そのものをすべて破壊しつくしてやる」
突き出した握り拳から、親指だけを下に伸ばす。どういう意味なのか、問うまでもない。
再び血の気が失せたような顔色をするレイシアが気にかかったが、今は置いておく。
「さっきから何ワケわからねェことばっかくっちゃべってんだよ、このクソガキがぁぁぁぁっっ!!」
まずやるべきことは害虫駆除だ。
鬼気を滾らせ飛び掛かってくる鴉。その黒く濁った両の瞳が怪しく光ったように見えた。
「クラウ、あいつの目を見ちゃダメ! あいつは幻覚を見せてくる「知ってる、さっき『解析』したから」……え?」
成程、レイシアが心配していたのは鴉の能力のことだったようだ。だが、それはまったく問題にならない。
鴉に一撃を加えたのと同時に彼の情報を『解析』しておいたのだ。たった一度殴っただけで容易に分析できるほどに、鴉の能力情報は単純極まりなかったのだ。
「飛鳥先輩とは段違いに読み易かったからね。この程度の幻術、破るなんて造作も……ない!!」
苦無を突き立てようとする鴉の手首に向け手刀を叩き込む。怯んで隙だらけになった腹部に、槍のように研ぎ澄ましたつま先蹴りを刺し込んだ。骨を砕き内臓を抉る感触。
「ぐ、ぎいいいいいいいい!!」
だが、敵もさるもの。
あえて蹴りの衝撃に逆らわず、後方に身体を倒してダメージを最小限にしたようだ。
勢いよく10mほど吹き飛ばされたが、鴉は膝を折らない。だが、手負いの獣そのものといった唸り声をあげているところから、自分が劣勢であることはしっかり理解できているようだ。
「なんだ、なんなんだテメェは! どうしてオレの能力が効いてねェ!!」
レイシアには通用した手段が、この男相手にはまるで意味を為していない――彼の疑問も尤もだろう。
だが、わざわざ敵に解説してやるほどクラウは酔狂でもなければ慈悲深くもない。
分かったところで、『自分に作用した幻覚異常をすべて魔術で『破壊』して無効化している』クラウに対し、鴉がどうこうできる筈もない。
クラウが一歩、踏み込む。鴉が一歩、後ずさる。
「こっちもあまり時間がないんだ。命乞いしても無駄だからさっさと諦めたらどうだ?」
「……舐めやがって、舐めやがって、舐めやがってェェェ!!」
負け惜しみの咆哮をあげる鴉。それを機に一気に距離を詰めようとしたクラウだったが、突如前後の通路から続々と鈍い光沢を放つ金属製の獣――クーガーの群れが乱入してきた。両肩に備え付けられた機関銃の銃口が、一斉にこちらに縫い付けられた。
踏み止まった足の力をそのままバネにし、後ろのレイシアを庇うために飛ぶ。
「蜂の巣になりやがれやあぁァァァァッッ!!」
狭い一本道で、鴉は機械仕掛けの狼たちに前後からの一斉射撃を指示した。
まずい。レイシアは戦える状態ではない。瞬時に思考がいくつかの打開策を提示する。
――一方に向けて正面突破。
不可能ではない。だが、レイシアを庇いながらとなると銃弾を避けきれない。共倒れの危険すらある。
――レイシアを抱えて窓から飛び出す。
これが最善……いや、ダメだ! さっき外にも戦闘機型の無人兵器が何体か控えているのが見えてしまった。そうでなくとも、瀕死の重傷を負っていたレイシアに無理な動きはさせられない。
――床を叩き割って脱出する。
いや、床の材質解析に数秒の時間を要する。流石にその隙を見逃すほど鴉は愚鈍であるまい。
ないか、ないか、他に何かないか……!!
だが、この刹那の時間に都合よく天啓が閃くことはなかった。
ならばせめてレイシアだけでもと、クラウは彼女の全身を包み込むように抱きしめた。
「く、クラウ!?」
「護るから、今度こそ絶対、護るから……!!」
自分はどうなってもいい。どうせ遅かれ早かれ裁きが下る身だ。
だがレイシアに罪はない。母を殺され、様々な悪意ある人間に付け狙われ、それでも必死に立ち向かおうとしている彼女を、絶対に死なせるわけにはいかない。
“聖剣砕き”としての責務などではない。レイシアは、クラウ=マーベリックに残されたたったひとつの『希望』なのだ。
「きぃひゃはぁッッ! 殺ったぁ! 2人仲良く挽き肉になりやがれええェェェェッッ!!」
勝ち誇った鴉の狂笑がいちいち癇に障る。
本当に冷静だったら、鴉などに意識を向けるより先にレイシアを安全圏まで逃がすことを優先していた筈だ。まだまだ修業が足りないということか。
レイシアを押し倒す形で床に伏せる。これは、少しでも銃弾が当たらないようにするため――
「射線軸確保。これより敵対象を殲滅する」
――そう、彼の銃弾に当たらないようにするために、クラウとレイシアは極限まで身を低くした。
それと同時、幾多の雷光と、銃弾と、爆炎が2人の頭上を通り過ぎて行った。
鼓膜を貫く爆発音、むせ返るほどの硝煙と火薬の匂い、床に散らばる無数の薬莢。いきなり紛争地域の最前線に送り込まれたかのようだった。
「きゃああああああっっ!?」
「なんて火力だ、出鱈目すぎる……!!」
自分たちのほんの数十センチ真上で巻き起こっている銃火器の饗宴に、2人は額を冷たい床に押し付けて早く嵐が過ぎ去るのを祈ることしかできなかった。
……ほどなくして、音が止んだ。おそるおそる顔を上げてみると、そこは別世界だった。
磨き抜かれた大理石で作られた真っ白な床や壁は、見るも無残に砕け、黒く煤けてしまっていた。そこかしこに、高熱で端が溶けてしまっている金属片や、穴だらけになって転がっている鉄の猛犬の姿。残り火に照らされ、なんだか物悲しさを感じさせた。
それは、まるでアクション映画のワンシーン。テロリストの集団と激闘を終えた主人公が、爆発炎上する敵のアジトをバックにして佇んでいる――そんな一場面だ。
「無事か」
「今まさに、先輩のおかげで無事じゃなくなりそうでしたけどね!!」
しかし彼はどちらかというと、主人公というよりは、敵組織が作った秘密兵器のような立ち位置の方が相応しいだろう。
無尽蔵に火器と弾薬を創り出し、眉ひとつ動かさず、立ち塞がる一切合財を塵芥と変えていく人間兵器。
“鍛冶師”鋼刃九朗、ここに参戦。