―第75話 ソーサレス・ソーサレス ⑥―
クラウ君、ようやく色々しゃべるかと思ったら意外とセリフ少なかった。
「やっほ~♪ やっと帰ってきたんだ、もうもうっ待ちくたびれちゃったぞっ♪」
ウィンスレット邸へと帰宅した2人を出迎えたのは、気味の悪い猫なで声で話しかけてくる小柄な少女だった。蜂蜜色の髪と、黒一色のゴシックロリータ衣装という甘ったるい装いを見ていると、クラウは胸やけに似た不快感を禁じ得なかった。
「おやミストラル、君をホームパーティーに招待した覚えはないんだがね? 来るというならせめて一言あってもよかったと思うんだが……」
「んもうっ♪ つれないな~ミストとテレザちゃんの仲じゃないっ♪」
「親しき仲にも礼儀ありだよ、ミストラル。我々のような人の上に立つ立場であればなおのことだ」
“傀儡聖女”ミストラル=ホルンの軽口に、テレジアは少々の苛立ちを言葉に乗せて応じていた。
クラウはミストラルとも何度か面識があったが、はっきり言って好印象を抱いたことなどない。何かとテレジアとレイシア母娘に接触し、真意を読み取れない態度をとる食えない女。クラウは彼女にそんな印象を持っていたため、自然と警戒の色を強めていた。
「クラウ、ここまでで大丈夫だ。君はレイシアを迎えに行ってやってくれ」
《九耀の魔術師》同士の会話に自分が入り込む余地などない。そう分かってはいたが、クラウはここから離れるつもりはなかった。
「……いえ、今の僕の役割は貴女の守護です。この状況を差し置いて、責務放棄などできませんよ」
「あらぁ……♪」
言外にお前を『敵』として認識しているのだと、ミストラルも流石に気付いたようだ。
姫君を守る騎士が如くテレジアの正面に立ち、傀儡の魔女と対峙する。
「ご用件なら僕が伺いましょうか“傀儡聖女”様? わざわざテレジア様のご自宅まで来訪されたのです、さぞ火急の事かと存じますが」
「うふふ……♪ お気遣いどうもありがとう、新しい“聖剣砕き”さん♪ あなたもいるならちょうどよかった、今日は2人に用があったからねっ♪」
クラウの皮肉たっぷりで慇懃な対応に、ミストラルは満面の笑みで――底冷えするような気配を漂わせて――答えてきた。
「本当ならレイシアちゃんでもいいんだけど……」
「何の話ですか……」
『レイシアでもいい』、クラウにはその発言の意味がまるで理解できなかったが、テレジアには思い当たる部分があったようだ。
テレジアは乱暴にクラウを押しのけ、常に冷静な彼女らしからぬ憤激を表に出し叫んだ。
「ミストラル、お前、まさか……!!」
「ねぇテレザちゃん。……あなたの心臓、ミストにちょーだいっ♪」
――あまりに邪気の無い笑みで告げられたため、クラウは一瞬、彼女が何と言ったのか理解できなかった。
ミストラルの意図、完全無欠の『悪意』の奔流に気付いた時にはもう遅い。“傀儡聖女”の小さな手がクラウの胸にそっと置かれていた。
「っ!? アンサ――」
「どーんっ♪」
「クラウ!?」
自身の武器である“神導器”を呼び出そうとするが、遅い。胸骨を貫いた衝撃によって壁をぶち抜き20m以上先の庭園まで吹き飛ばされた。
今のは魔術と呼ぶほどのものでもない。ただ自己に流れる魔力を手の平から放っただけのおざなりなものだ。
「が、ごふっ……」
だと言うのに、このダメージ。
体の中をかき回されるような痛み。喉奥から鉄錆の匂いがこみ上げてくる。
骨を何本か砕かれ、内臓もやられているようだ。不意を打たれたとはいえ、あんな片手間のような魔術一発でこうも簡単に戦闘不能寸前まで追い込まれるとは。あの幼い外見とはあまりに裏腹すぎる“傀儡聖女”の実力に、クラウは驚愕を隠せなかった。
必死に己を奮い立たせ、両足に力をこめて立ち上がろうとするが、身体が言うことをきかない。負傷が深刻なのもあるが、まるで全身が雁字搦めになったように言うことをきかない。
「くそ、これくらいで……テレジア様!!」
肝心な時に動かないこの身体が憎らしくて仕方がない。何度も太ももを強打し、無理矢理にでも立ち上がれと発破をかけ続けた。
「まさか正面から攻めてくるとはな、ミストラル……お前のことだから、もっと陰湿で姑息な手で来ると思っていたが」
「じれったくなっちゃっただけだよ、テレザちゃんっ♪ テレザちゃんが大人しく『ローレライ』を明け渡してくれないから、こんなスマートじゃないやり方しか思いつかなかったんだからね♪」
「ほざけよ人形の魔女が。私の大事な息子と娘に手を出して、まともな死に方ができると思うなよ? ――“リア・ファイル”!!」
それと同じくして、2人の《九耀の魔術師》による一騎打ちの幕が開こうとしていた。
テレジアの魔女の鉄槌“リア・ファイル”は、首からさげているネックレスに埋め込まれた宝玉であり、あらゆる『悪意』ある攻撃を防ぐ究極の守りとして常時発動している。
よって、テレジア相手に不意打ちや闇討ちなどまったくの無意味であり、あっという間に生命力を奪われミイラ化するのが、彼女の命を狙ってきた刺客達の末路と決まっていた。
では、“傀儡聖女”の場合はどうか。
「さぁ、ダンスのお時間よっ♪ 来なさい、ミストの可愛い可愛いお人形さんたちっ♪」
舞踏会の主役気取りで高らかに歌い上げるミストラルの声に呼応し、天井から無数の人影が舞い降りた。
男が3人、女が2人。テレジアが読み取った情報はそこまでだが、よくよく観察すると、その誰もが既に命の灯を消した人間――死体であったことが分かる。
伊達にテレジアもミストラルと長い付き合いではない。彼女の魔術がどういうものなのか、分かっていない筈もない。相変わらず人の命を弄んだ、外道の魔術だと苦々しげに吐き捨てた。
これまで自分に敵対した者達の死体を操り、人形として使役する――反吐が出るような力だ。
「人形に戦わせて自分は表に出ない、そんなお前程度の力でこの“腐食后”を相手取るなど……その驕りこそがお前の敗因と知るがいい!!」
確かに、既に死んでいる人形相手に、生命吸収の力は通用しない。
見えない繰り糸に操られ、光を消した無数の眼がテレジアを貫く。
テレジアはじりじりと後退しつつ、緑に溢れた中庭まで足を伸ばす。それを退避行動と見たのか、死者とは思えない俊敏な動作で全方向から飛び掛かった人形達。
「緑の息吹に抱かれて眠れ」
……どうか安らかに、とテレジアは心の中で祈りを捧げた。
庭園に芽吹くあらゆる植物が、意思を持ったかのように死人の群れへと襲いかかった。
急成長して人間の身長を追い越すまでにその身を伸ばした観葉植物が、無数の枝葉で1人、また1人と人形達を包み込みこんでいく。
死人であろうと有機物には違いない。その身体を構成するあらゆる栄養素を吸収し、繭のように包み込んでいた葉々が開いた跡には、もはや塵ひとつ残ってはいなかった。
「お前たちの命は無駄にはならない。自然へと還り、そしてまた新たな生命の礎となる」
これが、理不尽に死んだまま生かされた者への、テレジアに出来るせめてもの慰めだった。
「まったく優しい子だなぁテレザちゃんは♪ もうもう隙だらけだよっ♪」
散りゆく命に意識を向けている間に、ミストラルの狂笑がテレジアの眼前に肉薄していた。だが慌てることもない。鋭く伸びた爪で首をかっきるつもりなのか、ぴんと五指を伸ばした右手で喉元へと突き込まれる――
「愚か者」
――が、テレジアの肌からほんの数ミリ離れた部分で、ミストラルの指先は停止していた。触れることは許されない、傷付けることは許されない。透明色の輝きを放つ皮膜が、テレジアの全身を覆っていた。
「ちっ」
今まで狂った笑みを絶やさなかったミストラルが見せる、初めての負の感情だった。苛立ちげに舌打ちし、曲芸じみた宙返りで距離をとった。
“リア・ファイル”の防御性能は、間違いなく世界最高峰のものである。
物理的光学的魔術的、ありとあらゆる攻性現象に対して使用者を守り抜く究極の守護者。それ即ち、“リア・ファイル”の主は世界で最も安全な場所にいることの証左でもあるのだ。
――では、テレジア=ウィンスレットには護衛など必要ないのではないか?
“リア・ファイル”の超性能を知る人間なら、誰もが一度はそう思うことだろう。対軍兵器でも街ひとつ壊滅させる魔術の激流であろうとも、意に関せずとばかりに防ぎきるこの絶対防壁を持ちながら――なぜ、どうして“聖剣砕き”という護衛を傍に置かなければならなかったのか。
その理由を知るのはほんの一握りの、彼女の『弱点』を知る魔術師だけであり――
「はあぁぁぁぁああっ!!」
――そして、ここには今、その牙城を崩すすべての要素が揃っていた。
テレジアの背後から、狂った魔女を追撃すべくクラウが跳躍した。“聖剣砕き”としての能力を全開にし、振りかぶられたその拳はまさしく『必殺』である。
クラウの戦闘スタイルは、魔術師らしからぬ肉弾戦でこそ真価を発揮する。それは彼が一切の飛び道具を持たず、かつ自身の特異な魔術式が、直接攻撃でしか発動しないからという理由だからなのだが。
「クラウ!? 駄目だ下がれ!!」
ミストラルの僅かな隙をついた強襲攻撃。格闘戦において他の魔術師の追随を許さないクラウであれば、何の心配もいらない筈なのに――テレジアは声を荒げて制止をかけようとした。
テレジアの頭上を飛び越し、“傀儡聖女”の脳天に向けて必滅の拳が叩きこまれる直前……
「――あは♪ それを待ってたんだよ♪」
悪辣な魔女が浮かべるドス黒い会心の笑みが、クラウの全神経を掌握した。
自分はおそらく死ぬであろう、という諦観じみた考えと。死にたくない、という悲鳴じみた激情。
この閃光に等しい時間の間に、その相反する2つの想いがテレジアの脳裏を何度も駆け巡っていた。
クラウが意識を飛ばしていたのは、ほんの5、6秒程度だった。
だが、その空白の時間に生じた出来事は、決して取り返しのつくものではなく、目を背けることも許されない。
「あ……ああ……あぁあああ……」
意味を持たない呻き声をあげるクラウの右腕には、べっとりと生暖かい何かが付着していた。そして、手の平に伝わる柔らかく脈動する妙な感触。
なんだ? この拳はいったい何を貫いたんだ?
目を開けばすぐに分かる事実にも、クラウは茫然としたまま理解が追い付かない。
「ク、ラウ……」
耳元で、囁くような震える声が耳朶を突く。それは自分の拳で打ち倒そうとしたミストラルのものではなく、
「テレジア、様……」
左の胸からどくどくと赤い液体を流して芝生へと倒れ込む、守るべき人の声だった。
眼前の光景が何を意味するのか、じわりじわりと停止していた脳へと流れ込んでいく。
「……く、くひひ」
そしてあまりに場違いに響き渡る、気が狂ったかのような哄笑。
「くひゃっ、クヒャヒャヒャヒャヒャははははははははははっ! やった、ついにやったぞ! あのいけ好かないテレジアをついにやってやったぞ! ざまあみろ! それもこれも全部お前がオレの言うことを聞かないからいけなかったんだ! そうだ、これは当然の報いってヤツなんだよ! ヒャーーッハッハッハッハ!!」
身体が千切れそうなほどに背中を反らし、壊れた人形のように高笑いしつづける魔女の姿。そして、完全に自分の意思と反して拳が放たれたという事実。ようやくクラウは事の顛末を理解した。
「あぁ、やっぱりだ、やっぱりオレの予想は間違ってなかった! “リア・ファイル”という最強の盾を持ちながら、どうして護衛なんて連れてたのか! 簡単だ。“聖剣砕き”は最強の矛であり、てめぇにとって唯一無二の天敵だったからだ! まさしく『矛盾』の故事そのものじゃねぇか! こんな簡単なことにどうして今の今まで誰も気付かなかったのか不思議でしょうがねぇぜ!!」
あまりの歓喜に人格までもが壊れたのか、耳を劈くミストラルの甲高い声が不快感を加速させるが、今はそれどころではない。仰向けに倒れたテレジアを抱えて必死に呼びかける。刻一刻と彼女の全身が冷たくなっていくのが、嫌でも伝わってくる。
「テレジア様、テレジア様! 僕は、ごめんなさ……こんな……!!」
「いいんだよ、君が気に病むことはない。……それよりよく聞くんだ。手遅れになる、前に……」
血の気が失せ、真っ青になっていく最愛の『母』の様子にクラウは何もできずに狼狽するしかなかった。だが、彼女が最後に何かを訴えようとしているのに、こんな腑抜けたままではいけない。空いた左手で思い切り自分の額を殴りつけ、力づくで冷静さを取り戻した。
「ミストラルの、狙いは……私とレイシアに流れる『血』の力。魔術師の、力の源である心臓だ。……奴はそれを使って、その忌まわしいシステムを……『ローレライ』を起動させる、つもりだ……」
どうして、この人は。どうして最後まで自分のことを二の次にして、他人のために何かを遺そうとするのだろうか。
ともかくこれ以上喋らせるわけにはいかない。『ローレライ』、2人のウィンスレットの『血』の力、ミストラルの目的、これだけの情報を即座に脳にインプットする。
「分かりました! もう分かりましたから、だからもう……!!」
彼女の死はもう避けられない。今生の別れが迫っているというのに、どうして自分は泣いていないのだろう。
悲しいのだ。泣きだしたいほどに悲しい筈なのに。こんな時でも涙というものを知ろうともしない自分の両目を抉り出してやりたかった。
「……レイシアと一緒に、日本へ行きなさい。そして“白の魔女”と、“黒の魔女”を頼りなさい。彼女達なら、きっと君の味方になってくれるから。あの子を……レイシアを、どうか守ってやってくれ」
死の間際に至ってなお、子供達のことだけを思い口にするテレジアの目には、既に何も映してはいなかった。
喋るだけでも痛いはずだ、伝えようとするだけで苦しいはずだ。それでも、本当に最後まで、泣き言のひとつもなく逝くつもりなのだろう。声を揺らしながらも、伝えるべきことを伝えきったテレジアは満足げな表情を浮かべていた。
「すべて、了解しました。……もう、大丈夫ですから」
だからもう、何の心配もしなくていい。だからもう、自分のことだけを考えてほしい。
けれど。この人はどうしようもなく『母親』だったのだ。
「すまない、ね……君には辛い役目ばかり背負わせて、悲しい目にばかり合わせてしまって。私は最後まで、よい母親には、なれなかったみたいだ……」
悲しげな笑みを浮かべる彼女の手を、ぎゅっと握りしめる。温度を失った冷たい手を、少しでも温められるように。
「僕は、あなたの息子で幸せでした。…………おかあ、さん」
彼女を『母』と呼んだのは、これが最初で最後だった。それに応えるように、彼女は震える手で、ほんの少しだけ自分の手を握り返してきた。
「…………あぁ」
テレジア=ウィンスレットが最期に浮かべたその微笑みを、クラウ=マーベリックは生涯忘れまいと、心に誓った。
もう動くことのない彼女の身体を、ゆっくりと芝のベッドへと降ろす。
すると、血に濡れた右手が淡く光り始めた。
「お? 来た来た♪」
その輝きはすぐに終息した。背後からの声を完全に黙殺し、光の元であった右手に握られていたのは拳大の真っ赤な宝石。
テレジアの心臓が変化したもののようだ。その穏やかな煌めきからは、彼女の意思を形にしたような力強さが感じられた。
「それを手に入れるために、随分苦労したんだよぉ♪ さ、クラウちゃん♪ それ、ちょーだい?」
ミストラルの言葉を引き金として、クラウの手足の神経が遮断された。
見えない糸に操られるかのように、一歩、また一歩と、忌むべき母の仇にこの形見の宝玉を献上すべく足を動かしていく。
原因はすぐに分かった。
クラウが先ほど受けた攻撃だ。人形遣いの名は伊達ではないのだろう。どうやらミストラルは、自分が触れた相手の動きをある程度自在にコントロールできるのだろう。死人だけでなく、まさか生者にまで適用できるとは思わなかったが。
――だが、そのせいでテレジアは死んだ。いや、殺させられたのだ。
ミストラルのすぐ正面に立つ。このまま右手に握りしめたままの宝石を差し出せば、何もかもがおしまいだ。
彼女は欲しかったおもちゃをプレゼントされた子供のように、無邪気にはしゃぎまわった。
「わーいっ♪ ありがとうクラウちゃんっ♪ あなたのおかげで、ミストがずっと夢見てきたことがやっと実現するんだよっ♪ ささ、クラウちゃんも祝ってくれていいんだよ、今日は記念すべき日なんだからっ♪」
ミストラルからの底無しの悪意にも、クラウは眉ひとつ動かすことはなかった。
今、この悪魔に向けるべきものは、悔し涙でも怒りの叫びでもない。
「そうですか。……じゃあ、ぜひ受け取ってください。これが僕からのプレゼントです」
「え? なになに開き直っちゃったのかな――――が、ぶぇっ!?」
万象すべてを打ち砕く、この拳のみ。
今度はミストラルが派手に吹き飛ぶ番だった。見るに堪えない彼女のにやけ顔を寸分の狂いなく殴り飛ばしたクラウは、全身の隅々まで魔力を駆け巡らせて彼女の支配魔術の糸を悉く引き千切った。
「な、なんで……ミストの“支配者の繰り糸”が、そう簡単に破られるわけ……」
「勉強不足だぞ“傀儡聖女”。僕の――“聖剣砕き”の前では、ありとあらゆる魔術式、そのすべてが破壊対象となる」
その言葉に、ミストラルも理解したようだ。
“聖剣砕き”の唯一にして最大の特徴――それこそが“終末幻想”と呼ばれる専用の魔術式。
火でも水でも雷でも光でも闇でも、はたまた神や悪魔といった存在であろうと。思念や信仰といった『概念』ですら、その根源が魔術に依存するものである限り、そのすべてを掌握し、破壊することを可能とする。魔術界史上最強にして最悪の『矛』である。
元来“リア・ファイル”の持ち主である“腐食后”に、代々の“聖剣砕き”が守護役として傍についていたのもこの能力故である。おそらく世界で唯一“腐食后”を害することができる存在を、なるべく味方に引き込んでおきたかったために、こういった手法がとられていたのだろう。実際、テレジアとフリストのように、代々の“腐食后”と“聖剣砕き”は密接な信頼関係・家族関係を築いてきた。互いを互いの抑止力とし、その特異な能力を悪用させないために。
「これは、僕の未熟さが招いた結末だ。どう言い繕おうとテレジア様を殺したのは、間違いなく僕だ」
だが、その超能力を習得して間もないクラウだったからこそ、ミストラルの付け入る隙が生じた。
最強の魔術師殺しである“聖剣砕き”であれば、さっきのように少し意識を集中すれば彼女の支配など容易に弾き返せるが……まだ完全にマスターしきっていないクラウ相手なら動きを掌握できると、ミストラルは考えたのだろう。
そしてその目論見は成功した。たった一撃、たったそれだけで魔術界でも最大堅牢たる“リア・ファイル”を打倒し得たのだから。
「よく分かってるじゃないっ♪ “腐食后”を殺害できるだけの力を持つ魔術師は、クラウちゃん以外いないんだからっ♪ だ、だから、ここでミストを倒したところで、クラウちゃんは大罪人として処刑されちゃうんだよっ♪」
「そうだろうね」
当然の話だ。
《九耀の魔術師》であるミストラルとクラウでは、発言力も影響力も違いすぎる。例え公の場に出て無実を主張したとて、彼女に握りつぶされるのがオチだろう。
だが、それは今は関係ない。
クラウは闘気を漲らせ、ゆっくりと悪逆の魔女と距離を縮めていく。
「と、取引しましょっ♪ 大人しくその石を渡してくれれば、クラウちゃんを逃がしてあげるっ♪ 魔術組織の手の届かない安全な所まで連れて行って、生活だって保障してあげるっ♪ どう、悪い話じゃないと思うなっ♪」
「それで? その後、レッシィをどうするつもりだ」
魔女の甘言に耳を傾ける要素など微塵もない。
自分の行く末などどうでもいい。裁判にかけられ、投獄されようが処刑されようが、それで贖罪となるのならむしろ望むところだ。
だが、その前に――
「僕は然る場に名乗り出て、己の罪をすべて打ち明ける。だけどそれは……“傀儡聖女”、お前の存在をこの拳で粉砕してからだ!!」
――約束したのだ。
残されたレイシアに降りかかろうとする魔の手を、すべて打ち砕くまでは立ち止まるわけにはいかない。
必滅の剛拳で、今度こそあの魔女の命を刈り取るために疾走する。
「丸腰で接近戦を挑むほど愚かじゃないんだよっ♪」
中天に浮かぶ月を背景に、ミストラルは屋敷の屋根へと飛び乗った。
「今回は見逃してあげるっ♪ けれど、もうあなたに心休まる日は来ないんだよっ♪ いつか必ず迎えに行くから、レイシアちゃんと一緒に、神様にでもお祈りしながら待っててねっ♪」
最後まで気持ちの悪い猫なで声のまま、ミストラルは夜の闇へと姿を消した。
追撃したいところだが、こちらも身体の内側からボロボロだ。これから《九耀の魔術師》と一戦交えるには分が悪過ぎた。
「……」
穏やかな笑みを浮かべたまま事切れた母の身体を抱き上げ、屋敷へと入る。
せめて、温かいベッドの上で寝かせてあげたかったのだが……彼女の寝室に入って、気付く。
(そろそろレッシィが戻ってきるだろう……だけど、それでどうする? 正直に事の次第を話すのか? ……レッシィなら信じてくれるだろうけど、そのまま“傀儡聖女”のところへ突っ込んでいきかねない。それじゃあ奴の思うツボだ)
一緒に逃げようと言っても聞いてくれるようなレイシアではない。必ず、母の仇を討つべく暴走を開始するだろう。そんなこと、長い付き合いなのだからすぐに分かる。
それに、遅かれ早かれテレジアの死は明るみになる。そうなると、自分はすぐに第一容疑者として追われる立場になる。そんな自分と行動を共にしてもらうのも難しいだろう。
ならば、取るべき道はひとつ。
テレジアの遺体を、あえて床の上に無造作に横たえる。この部屋で暴れた形跡を残すため、テーブルや調度品を床や壁にぶつけて破壊していく。
(レッシィが、僕を追ってくるように仕向けるしかない……)
心臓が軋むように痛い。
最愛の母を喪っただけではなく、これからもうひとりの『家族』に憎しみを向けられなければならないのだ。
きっとこれから先の旅路は地獄にしか繋がっていないのだろう。今は、涙を流せない自分の心の壊れぶりに感謝した。
「どんなに憎まれても、恨まれてもいい」
レイシアを守れるならばそれでいいと、必死に自分の心に言い聞かせる。
玄関の扉が開く音が聞こえた。――さぁ、ここからだ。
クラウ=マーベリックの、絶望に満ちた長い旅の始まりだった。
別れのシーンは難しい……