―第5話 Boy meets Little Devil―
扉を潜り抜けた飛鳥を待ち受けていたのは、灯りひとつ存在しない見渡す限りの暗闇の砂漠だった。
果てしなく広がる常闇の世界では、本来まともに歩く事すら困難である。
誰しも経験があるだろう。
星も月も出ていない夜に歩く街灯ひとつない道では、地面すら見えないのだ。
一歩先が平地なのか、段差なのか、はたまた奈落の底なのか。それすら理解できない暗闇を進む行為は本能的に恐怖を伴う。
しかし、炎の人工英霊、日野森飛鳥には無用の心配だった。
闇夜を駆ける飛鳥の全身から放たれている紅蓮の燐光。燃え盛る炎の明りではなく、蛍の光にも似た淡いものだ。
文字通り暗闇を切り裂きながら、昼間と何ら変わらないしっかりとした足取りで前進し続ける。
視界の問題は能力でクリアされているが、問題は道筋そのものだ。
今進んでいる方向で本当に正解なのか、また時間の感覚や距離感が希薄なため、いったいどれほど走り続けたのかも分からない。
本当に鈴風を救出できるのか、そもそもこの空間を抜ける事が出来るのか、一抹の不安が脳裏をよぎる。
「……ん?」
360度真っ黒な暗闇の中に、自分ではない別の光源が視界に入った。
それはまるで、果てしない砂漠の最中にぽつんと現れたオアシスのようだった。
もしかすると出口か、そうでなくとも手掛かりのひとつくらいはあってほしい。どうか蜃気楼ではないようにと祈りつつ飛鳥は光に向かって走っていった。
暗黒砂漠の一角にぽつんと現れた石室。
不揃いに成形されたブロックを積み立てて造られた壁、広さは学園のグラウンドとほぼ同じくらいのようだ。
灰色の石畳を踏みしめながら向かった部屋の中心には長大なシンボルが鎮座していた。
「なんだ、これ……?」
それはまるで墓標のようだった。
高さは6メートルほど、表面には解読不能の文字が刻まれており、壁や床に使用されている石材とは明らかに材質が違う。大理石の置物のようなつるりとした触感に、どこか神聖な印象を感じた。
改めて周囲を確認する。
まるで古代の神殿の一部分だけが切り取られたかのような一室。
何かを祀っていたのか、あるいはそれに蓋をしていたのか。
ぞくり、と寒気を感じた。
何かがいる。
少なくとも人間や既知の動物ではあるまい。
もっと人間の常識からかけ離れた、圧倒的な上位存在。そのような存在を、あえて呼称するのであれば――
「我が眠りを妨げるものは誰だ?」
――『神』、あるいは『悪魔』。
実在するのかどうかはさておき、飛鳥はそんな言葉を連想した。
年端もいかない少女のようなトーンの高い声、しかし石室全体に響いたその言霊はどこか荘厳な印象だった。
声の主を見極めんと、飛鳥は頭上を見やる。
いた。
石碑の頂点で、ひとりの少女脚を組んで座っていた。
距離が離れているせいか随分と小さく見える。
飛鳥の位置から分かるのは、銀を溶かして作ったような煌く髪、風に揺らめく漆黒のローブ。布地の端々が虫食いしており、一見するとただのボロ布のようだったが、それが更に彼女の異質さを加速させていた。
「フッフッフ、不遜にも我が領域に足を踏み入れた愚か者め。しかもどこの誰かと思ったら、まさか脆弱な人間とはな。ここが悪魔を統べる『魔神』であるこの我、フェブリルの居城と知っての狼藉であるか?」
悪魔、魔神。
かなり危険なキーワードが耳に入り、飛鳥は咄嗟に烈火の二刀を召喚した。
まさか、こんな唐突に神代の存在とエンカウントするとは夢にも思っていなかった飛鳥は内心かなり動揺していた
……だからこそ、ここまで気が付かなかったのだが。
少女――フェブリルが飛ぶ。
身に着けたローブが蝙蝠の翼膜のように風を受け広がり、数秒もしない内に飛鳥の眼前に『神』が降り立った。
…………あれ?
「…………んん?」
「ククク、我が威容に恐れをなしたか? だがもう遅い、我に出会ったのが貴様の運の尽きよー!!」
「…………」
「あ、あれれ?…………う、運の尽きよー!!」
ちまっ。
彼女が自分と同じ高さにまで降りてきて、ようやく飛鳥は気が付いた。
フェブリルはとても小さかった――否、あえて言い変えよう。
とてもちんまい悪魔だった。
身長はおよそ15センチほど。
銀色の髪、紅玉のような赤く大きな瞳。とても人間とは思えないほどの幻想的な美しさだったが、
「き……キシャー!!」
両手を大きく振り上げ、アリクイの威嚇ポーズのような構えで奇声をあげる姿がすべてをぶち壊していた。
思わず飛鳥は脱力してしまい、両手の烈火刃も霧散し消滅していた。
何だかとても疲れてしまいぐったりと肩を落とす飛鳥を見て、フェブリルはリスのように頬を膨らませていた。
「ぐぬぬ、馬鹿にしてぇ……ならば実力行使あるのみ! かくごぉー!!」
「――フッ」
自尊心を傷つけられたのか、怒り心頭で飛びかかってきたフェブリルに、飛鳥は溜息混じりの息を軽く吹きかけた。
「ギニャー! た、竜巻が、ツイスターがあぁぁぁ!!」
飛鳥にとってはそよ風レベルの息だったが、フェブリルにとっては突風に等しかったらしい。ぐるぐると目を回しながら墜落してしまった。
どうしよう、これ。
このまま放置して立ち去ってもいいのだが、もしかすると鈴風の行方を知っているかもしれない。
飛鳥はフェブリルの襟のあたりをヒョイとつまんで持ち上げる。なんだかハムスターでも相手にしているような気分になった。
「ともあれこの子が唯一の手掛かりなんだし。おーい、起きてくれー」
「うにうにうに…………ハッ!?」
手の平に乗せたフェブリルを指先で軽くつっついて起こす。目覚めた彼女はしばらく呆けた表情をしていたが、キョロキョロと周囲を見渡し――目が合った。
「…………」
「…………ふしゃー」
「もういいから」
「え、それじゃおにーさん外の世界から来たの!?」
「ああ……やっぱりここは地球じゃないんだな」
石碑の近くに腰を下ろした飛鳥は威嚇していたフェブリルを落ち着かせて話を聞かせてもらっていた。
それにより分かった事――おおよその予測は付いていたが、ここは自分がもといた世界ではないようだ。
と言っても、この世界にはフェブリル以外の住人は存在しておらず、複数存在する世界を繋ぐ連絡通路のような場所らしい。
「もともとアタシは《クリステラ》っていう世界で、魔神としてブイブイ言わせてたんだけど、人間達にこの空間に封印されちゃったわけ」
体が小さいのもそのためなんだよ、とフェブリルは身ぶり手ぶりを交えて説明を続ける。
それにしても、飛鳥の手の上でせわしなく動き回る彼女の姿はなかなかにユーモラスだ。悪魔を総べる魔神とやらはどこへ行ったのやら。
そんな微笑ましい光景に、緊急事態である事は分かっていても飛鳥の心はついつい和んでしまった。
「それにしても、この場所に人間が入ってくるだなんて思わなかったよ。こうやって誰かとお話するのもいつぶりのことだったかな……」
「フェブリルはここにずっと1人で?」
「うん、そりゃまぁ封印されてる身なもので。昔はどうにかして外に出ようと頑張ってたんだけど……無理だったのですよ」
そう言ってフェブリルは俯いてしまった。
そんな姿にチクリと心が痛む飛鳥だったが、いつまでもここで落ち着いてもいられない。
「……ところで。俺は人を探してここに来たんだけど、他に誰か見なかったか?」
「おにーさん以外に? 見てないけど…………んん、でも別の人間の匂いが微かにするカモ」
「匂いて。フェブリル、その方角分かるか?」
「うん、案内すればいいのかな?」
「頼むよ。ええと、そうだな。走るからどこかに入っててもらうか」
「こ、コラー! 急につまみ上げるんじゃない!!」
フェブリルを制服の胸ポケットに放り込み、再び走り出す。驚くほどにすっぽりとポケットに収まってむしろ飛鳥が驚いた。
石室を抜け、再び灯りなき地平へ。
焔の光を身に纏いながら弾丸の如く疾走する飛鳥の姿に、フェブリルは一瞬面食らっていたが、
「……お? お~こりゃあいいや!!」
風を切り裂き駆け抜ける、気分はさながらジェットコースター。
無理やりポケットに入れられて不満げだったフェブリルだが、どうやらその中が気に入った様子。ポケットの縁を掴んでキャーキャーと歓声をあげている。
「楽しんでるところ悪いが、ナビ頼む!!」
「おおっと、そうだった――そのまま真っ直ぐ!!」
「了解。飛ばすぞ、振り落とされるな!!」
両手に烈火刃の二刀を召喚し、踏み込んだ脚に更なる力を込める。
2つの刀身と踵からも炎を噴出し、文字通り爆発的な加速で駆ける、駆ける――
「いぃぃぃやっほぉぉぉぉぉう!!」
その疾走をアトラクションとして満喫していたフェブリルに対し、
(いっそ振り落としてやろうか、コイツ)
と思った飛鳥を責める事はできまい。
数分程爆走し続けた先に、道の終わりがあった。
そこに鎮座していた巨大な扉は、高さは10メートル近くあり、しかしそれを構成する鋼鉄の質感は人工的な印象が強いものだった。門戸は既に開かれており、向こう側には緑が生い茂る草原風景が蜃気楼のように揺らいで見える。
門の近くには足跡。
まだ付けられて新しく、高確率で劉のものである事が分かる。ようやく見つけた手掛かりに飛鳥は安堵の息を吐いた。
するりとポケットから抜け出したフェブリルが奥の風景を覗き込んだ。
「確かこの先は《ライン・ファルシア》だね。おにーさんが追ってる人もここを通ったみたいだけど」
「そのようだ。……よし、行くか。ありがとうフェブリル、おかげで助かった」
「どういたしまして、と言いたいんだけど……この扉、通れないかも」
「どうして?」
「アタシも何度も出ようとしてここを潜ろうとしたんだけど、門に触れると弾かれちゃうの。こう、バチバチーッてきて痺れちゃう」
「ふむ?」
そう言いながら、飛鳥は門に近付いて手を突き入れてみた。パチン、と静電気が走ったような音が耳朶を打った。
構わずそのまま一気に腕を押し込もうとするが、
「おにーさん、ダメ!!」
「むっ」
瞬間、正面の空間から目がくらむほどの稲光が発生した。
そして暴れ狂う大蛇のように、飛鳥の全身に襲いかかる雷の洗礼。すんでのところで手を引き抜くが、高圧電流によって危うく黒焦げになるところだった。
「……ほらね?」
大丈夫? と飛鳥の顔を覗き込むフェブリル。
制服が少々焦げてしまったが、飛鳥自身にはさしたる負傷はない。苦笑して無事を知らせる飛鳥だが、思わぬ足止めに思わず溜息をつく。
「成程、フェブリルがここから出られないのはコイツのせいか。だが……」
地面についた足跡からして、劉達は特に何の抵抗も無くこの扉を通行出来ているのだろう。
扉を見上げる。
ただの鉄扉かとも思ったが、どうやら機械的な部品が組み込まれており、先程の反発現象も魔法などといった不可解なものではなく、おそらく扉から発生した電磁障壁だろうと飛鳥はあたりをつけた。
――つまり壊せる。
そう結論付けた飛鳥は一歩後ろに下がり、生意気にも看守気取りで自身の行く道を阻もうとする鉄の檻を睨みつける。
「それじゃあやるか。フェブリル、ちょっと下がってな」
「え、え? おにーさん、どうするつもり?」
「決まってる。邪魔さからさっさとブッ壊すのさ」
飛鳥の返答は揺らがずよどまず、絶対突破あるのみ。
そう宣誓し、飛鳥は両の拳を強く握りしめた。
身体中に迸っていた電磁の爪痕を食い破るように発憤する焔を収束させて、眼前の扉を突破するための武器を創り出す。
――“緋々色金”起動。“烈火刃”形成開始。
本来、炎とは物質ではない。
そもそも炎とは、物質ないし気体が燃焼することで生じる、熱と光をともなう『現象』に過ぎない。つまりは、炎に物理的要素は存在し得ないということだ。常に揺らぎ、空気中に霧散し決して触れる事あたわず……それが炎というものだ。
しかし、飛鳥の炎はその法則を無視して物質としての特性を備えていた。
人工英霊が保有する能力のひとつとして『精神の具現化』という能力があげられる。
飛鳥の炎しかり、雪彦の氷しかり、彼等が発現させる超常現象は、精神という極めて曖昧な内燃機関より形成されており、そこに既存の物理法則は当て嵌まらない。
そこで、まず最初に飛鳥が習得したのは、触れることが出来るという奇想天外な炎であった。
飛鳥はその膨大な熱量を操作し、そして炎を鋼と化すことでその力を掌握したのだ。
その結果完成したのが“烈火刃”、飛鳥の精神から形成された炎を、鋼鉄として武装する能力である。
「“烈火刃”壱式・破陣」
飛鳥は眼前の炎を両手で掴み取った。
完成した武装は紅蓮色の両手剣。
しかし血流のように刀身を駆け巡る赤熱の軌跡、3メートルをゆうに越える全長は、まるで剣というよりも活火山の火口からとりだした溶岩塊のようでもあった。
切り裂くでも断ち切るでもない。ぶっ千切るという表現の方が似つかわしい荒々しき大剣だった。
「――ハッ!!」
踏み込んだ両足のバネと、大剣に込められた高熱を同時に解き放つ。
スペースシャトルの離陸を彷彿とさせる飛翔により、飛鳥は一瞬にして10メートル以上ある扉を飛び越える。――そして反転。剣を大上段に振りかぶり、上昇する炎の噴出を、逆に落下の推進力とする。
紅の流星が堕ち、衝撃と赤光が周囲に飛び交った。
大質量の烈火刃による高々度からの重撃、及び爆発により、雷電迸る鋼鉄の扉は頂点からひしゃげ、砕け、跡形も残らず爆砕した。
「…………うっそぉ」
およそ人間に為し得る筈の無い飛鳥の攻撃に、フェブリルはただ唖然とするばかりだった。
「これでよし」
新しい世界への道を塞いでいた機械仕掛けの檻はもうない。あとは、揺らぐ空間の奥に見える蒼穹へと一歩踏み出すのみである。
「……それじゃ、アタシはここまでだね」
飛鳥が扉に一歩踏み出すと同時に、フェブリルはポケットからするりと抜け出していく。先程までのはしゃぎぶりはどこにもなく、あまりに静かで自然な動作だった。
それは、ここでお別れ、アタシはここまでだ、と言外に主張しているようでもあった。
「フェブリル、ここに残るのか? ここから出たかったんじゃないのか?」
「そりゃあ、ね。でも、こんなナリでもアタシは人間から恐れられる魔神なんだよ。外の世界に出たらきっと、また皆に迷惑かけちゃう」
フェブリルはこの世界の虜囚である。
過去の彼女がどのような悪魔であったのかなど飛鳥には知る由もないが、封印などされている以上、相当に恐れられていた存在だったのは想像に難くない。
だが、例えフェブリルが大罪人だろうと悪魔だろうと、少なくとも飛鳥には関係の無い事だった。
力無く微笑むフェブリル、しかし飛鳥が彼女の表情から感じ取ったのは寂寥。
その瞬間、飛鳥の意思は完全に決定された。
「そうか、よく分かった。じゃあ行こうか」
「…………はい?」
ほんの僅かの付き合いではあったが、この誰もいない暗闇にフェブリルを1人置き去りにするのが咎められるほどには、飛鳥は彼女に感情移入してしまっていた。
飛鳥にとっては、フェブリルを連れていく事による目に見えないリスクを恐れるよりも、今の彼女の、泣きそうになるのをこらえて無理に笑う姿を見ているほうがよっぽど辛いものだった。
対するフェブリルは、ここでお別れする筈の相手から発せられた予想外の一言に空中でフリーズしてしまっていた。
いきなり何を言い出すのだ、この少年は。
貴方は大事な友達を追いかけてここまで来たのだろう?
なのにどうして、さっき出会ったばかりの自分の事などを気にかけようとしている?
自分がこの世界から脱出出来るという事よりも、突拍子もない飛鳥の思考にフェブリルは驚愕していた。
「別に、出してほしいだなんて頼んだ覚えはないよ? 昔は頑張って脱出しようと躍起になってたけど……そもそもアタシは」
「知ったことか。君が悪魔だろうが何だろうが俺には関係ない。そんな泣きそうな笑顔を見せられて、置いて行けるわけがないだろうが……それに、もしフェブリルの言う通り、外に出る事で何か迷惑だの災いだの起きるというのなら」
「……おにーさん」
「俺が責任をとる。だから恐れるな、前を向け、自分がやりたいと思う事を躊躇うな」
少なくとも根拠のない自信ではない。
日野森飛鳥には力がある。
故に、力が無いからという理由で何かを見捨てたり諦めたりする必要などなければ、そんな資格も無いのだと。
そんな不器用で優しい決意をこめた飛鳥の黄金色の瞳に見つめられ、フェブリルもまた決断する。
「……いいのかな? やりたい事をやってもいいのかな、自由になっていいのかな」
「それを決めるのはフェブリル自身だろうけど……少なくとも、そうすることは誰にでも与えられた当たり前の権利なのだと、俺は思うよ」
そう、当たり前。
現実世界では人間関係や社会のしがらみなどで、それを忘れてしまっている人がほとんどなのだろう。
それでもどうか、思い出してほしい。
私はこうなりたい、こうでありたい。
私はこんなことをしてみたい。こんなものが欲しい。
生きるという行為の原動力は、いつだって何かを強く求める心であったことに。
「フェブリル。君はどう生きたい?」
だからこそ。
生きるとは、自分が何をしたいのかを高らかに示すことから始まるのだ。
「アタシは……いろんな場所に行きたい。いろんな人とお話したい。アタシは人間が大好きだから。たくさんの人の笑顔に出会いたいよ」
「ん。よく出来ました」
小さくも力強いフェブリルの決意の声に、飛鳥は破顔して人差し指の先で、小さな彼女の頭を撫でる。
フェブリルは照れくさそうにしてそれに身を任せていた。
――扉を抜けると、そこは文字通り別世界だった。
先程までの暗闇から、いきなり光溢れる晴空に出たことで2人は眩しそうに目をひそめる。ゆっくりと視界をならしていき、改めて周囲を見渡した飛鳥達はその風景に心を奪われた。
雲ひとつ無い突き抜けるような蒼天に、周囲には色とりどりの草花に埋め尽くされた花園。
ほんの少し吸い込み辛い薄い空気は、ここが空により近い高地である事を理解させる。
現代の世界では中々お目にかかれない美しい自然の姿を見て、飛鳥はここは天国かと一瞬勘違いするほどであった。
そしてフェブリルは、
「い、い、いいい……」
「フェブリル?」
フェブリル壊れた蓄音器のような、声にもならない声をあげていた。
世界を移動したことで彼女に何か悪影響を及ぼしたのかと、飛鳥は心配したが、
「いいいいいやったアアアあぁぁぁぁぁ! 風だ空だ、水だ光だ、草だ花だ、うにゃああああ!!」
フェブリルは突然歓喜に満ちた絶叫をあげながら大空へと飛び上がった。
空の蒼を満喫するようにぐるぐると旋回していたかと思うと、今度は薄紫色の、ラベンダーに似た植物が群生する花の絨毯に向かって墜落。ごろごろと転がりながら胸一杯にその優しい香りを吸い込む。
体調不良どころか絶好調になったフェブリルの姿に、飛鳥は苦笑しつつ安堵した。途方も無い年月を、あの暗闇だけの死の空間で過ごしていたのだ。
感慨もひとしおだろう。
かなり過剰ではあるが、自然とのスキンシップを邪魔するでもないかと飛鳥は周辺の観察を始める。
先程自分達が通行してきた扉(扉そのものは完膚なきまでに破壊したため、正確には虫食い穴と言うべきだが)はすでに無い。こちらに足を踏み入れた瞬間、幻のように霞んで消えてしまっていた。
しかし、悲観する必要はないだろう。
どの道、またあの暗闇の世界を通って元の世界に戻れる確証など無い。それに、劉達を追っていけば、あちら側が世界の移動に使っている設備を用いて帰還する事も出来るはずだ。
「最悪、《八葉》からの迎えを待ってもいいだろうし……」
クロエをはじめ、元の世界にいる飛鳥の仲間達であれば、たかだか世界を跨いだ程度でこちらを捜索出来なくなるとも思えない。
そんな確信に近い信頼があるからこそ、飛鳥は異世界に足を踏み入れても大した危機感は抱いていなかった。
断崖近くまで移動する。
まずはここがどういった場所なのかを把握しようとする飛鳥だったが……
「これはまた……幻想世界かくありき、といったところか」
見下ろした光景には、地平線の彼方まで広がる遥かな雲海。
ここは雲を突き抜けた、数千メートルの高所にあたる事は理解出来た。しかし飛鳥を驚愕させたのはその点ではない。
――大地が浮遊していた。
真白の雲海に揺蕩う大小様々な浮島、その上には鬱蒼とした森林や、石造りの建造物など浮島によって様々であった。そんな神秘的な光景にしばらく忘我していた飛鳥。
そこに突如、
「おにーさぁーん!!」
声に振り向いた飛鳥の顔面めがけてフェブリルが飛び付いてきた。
息が出来ないので、彼女の首根っこを掴んでべりっと引き剥がす。その小動物を扱うかのような行動にフェブリルは目くじらをたてるでもなく、
「ありがとう! ほんっとーにありがとう!!」
飛鳥の指につままれたまま、ただ真っ直ぐに感謝の言葉を告げるのみだった。よく見ると、花畑を転げ回っていたためか全身が葉っぱと花びらまみれになっており、飛鳥は苦笑しながら軽く手で払ってあげた。
「どういたしまして、これで恩返しできたかな?」
「お、恩返しだなんて、アタシ、何もしてないよ!?」
「道案内してくれただろ? だからこれでおあいこってことで」
「お、おにーさ――」
「飛鳥」
「ふぇ?」
「名前だよ。日野森飛鳥。そういえば自己紹介してなかったか……」
「……ア、アスカ?」
「そうそう。お兄さん、なんて柄じゃないから」
感謝されることに慣れていないのか、慌てて手をパタパタさせるフェブリルに、ますます小動物チックな仕草だな、と飛鳥は1人和んでいた。
無理矢理にでも連れてきた甲斐はあったようだ。
嬉しそうなフェブリルを見てそう実感する飛鳥だったが、
(さて、これからどうしたものかな……鈴風も心配だが、この子も放っておけないし)
責任をとると言い放った以上、これから彼女をどうしようかという問題を棚上げするわけにもいかない。
しばらく思案していると、突然フェブリルから声がかかる。
「……よし、決めた!!」
「いきなりどうした?」
「アタシ、アスカの使い魔になる!!」
「……使い魔?」
「そう、使い魔! つまりアスカには、アタシの御主人様になってほしいのですよ!!」
使い魔というと、御伽話で出てくるような魔女や魔法使いが使役する蝙蝠や梟をイメージする。
そもそもの語源が架空由来のため、明確な定義があるのかどうか分からないが……たしか主とは絶対の主従関係で結ばれる存在だったか、と飛鳥は記憶していた。
「一応アスカが考えているようなイメージで合ってるよ。けどね、アタシ達悪魔が誰かの使い魔になるっていうのは、文字通り命を捧げるという事。どう使ってくれてもいいし、何をされても構わない」
「ちょっと待て、それじゃあまるで――」
「奴隷みたい、かな? でもね、アタシはそうしてほしいって思えるほどアスカに感謝してるんだよ」
「……いいのか? それは多分、フェブリルが欲しかった『自由』とは対極の生き方だろう。ようやく解き放たれたのに、それをいきなり俺が縛り付けてどうする」
本末転倒にも程があるだろう。そんな飛鳥の考えに、対するフェブリルはゆっくりと首を横に振る。
「そうじゃない、そんなことないんだよ。勘違いしないでよね、アタシはやりたいことをやる。だからまずは、アタシを自由にしてくれた人のために何かをしてあげたいんだ。それに、アタシは悪魔だよ? アスカが嫌だって言っても勝手に付き纏ってやるんだから」
悪戯そうな笑みを浮かべて、フェブリルは清々しい声で飛鳥への『従属』を宣言する。
ここまで言われて、気持ちを無下にも出来ない。諦めたように飛鳥は両手を上げて降参のポーズをとる。
「……分かった。けど一つだけ約束してくれ」
「何かな?」
「どんな理由があろうとも、決して自分の命を投げ出すような真似はするな。俺が君に望むのはただそれだけだ」
「無欲な御主人様だねぇ……」
「いいから。承諾するのか、しないのか」
「…………ふふ」
「…………はは」
お互いに困った表情をしているのが分かってしまったため、思わず二人して笑ってしまう。
「まったく、こんなにも人懐っこくてお人好しな悪魔がいただなんて。……ともかくだ。これからどうぞ宜しく、フェブリル」
「こちらこそ、だよアスカ。……それでは」
飛鳥の手から離れ、少し距離をとって飛鳥の目線の高さで浮遊したフェブリルは、ぱっぱと残りの葉っぱを取り払って全身の佇まいを整える。そして、まるで天使のような微笑を浮かべてフェブリルは宣言する。
「――『魔神』フェブリルの名の下に誓おう。
私はこの身の全てを以て、この日野森飛鳥の健やかなる人生の礎となろう。
雨が降れば、私が貴方の傘になろう。
道に小石が落ちていたならば、私がそれを取り払おう。
あらゆる困難にも挫けぬよう、私が貴方の支えとなろう。
全ては、貴方の笑顔を守るために」
先程までとはまるで別人のような仕草で、静謐に、粛々と。
悪魔でありながらどこか神聖な光景に、飛鳥は思わず見惚れてしまっていた。
さて、フェブリルの扱いも決まったところで、そろそろ本題に戻るとしよう。
少なくとも、劉と鈴風はこの世界のどこかにいる事は間違いない。
しかし、ここからは何の手掛かりも無い。
その上、浮島間の距離は数百メートル、または数キロ単位で離れてしまっている。
いくら飛鳥の能力でも長距離の飛行はできないため――やってやれないことはないが、精神力が保たない――浮島から浮島への移動手段が存在しない。
「フェブリル、使い魔の初仕事だ。俺を持ち上げて、向こうの浮島まで行ってみようか」
「あっはっはっは。お安い御用なのだ、と言いたいんだけど……すいません、無理っす。絶対落とす、絶対落ちる! その選択はバッドエンド一直線だよ!?」
駄目元でフェブリルに訊ねる飛鳥だったが、流石に人形サイズのフェブリルには文字通り荷が重かったようだ。
役目が果たせず、しょんぼりしてしまったフェブリルの頭を撫でながらこの状況の打開策を思案する。
「……ん? あれは、鳥か?」
ふと、太陽――異世界も星の巡りは同じなのだろうか、と飛鳥は一瞬判断に困ったが棚上げする事にした――がある方角の空から接近してくる翼を持った複数の影。眩い直射日光で影しか確認できないが……
「違う。あれは鳥じゃないよ」
フェブリルにはどうやらはっきりと確認出来ているようだ。――しかし鳥でなければ何だというのか。首を傾げる飛鳥をよそに、空からの来訪者は段々とこちらに向かって飛翔してきた。
「あれは……『天使』?」
その言葉に、ようやく目視でもその全貌が確認出来た飛鳥の心臓が凍りついた。
接近する翼の影が天使であった事にではない。
彼らが鎧と武器で完全武装していた事、そして明らかにこちらを敵と認識していることにである。
驚愕する飛鳥達の前に降臨する『天使』達。
太陽の光を反射し、鋭く輝く鋼の剣と槍。
全身を覆う深い蒼色の甲冑。
そして何より目を引く、背中から生えた一対の純白の翼。
まるで絵に描いた様な神秘的な光景だった。
(悪魔の次は天使ときたか……まったく、面倒事が次から次へと。こちとらそれどころじゃないというのに!!)
総勢10人で構成された天使の騎士団を前に、飛鳥は心の中でこの状況を呪う。フェブリルは飛鳥の肩にとまって四つん這いで「フーッ!!」と猫のように威嚇のポーズをとっていた。
抗戦か、逃亡か、それとも降伏するか。
飛鳥はここからの選択肢を思考していると、騎士の一人が憤怒に相貌を歪ませて前へと踏み出してきた。
肩近くまで伸びた若草色の髪が陽光に輝く。緻密な装飾が施された、空と同じ蒼の色の甲冑と額当て。既に腰から抜き放たれている片刃の長剣は、まるで彼女の持つ翼をそのまま刃にしたかのような湾曲した形状で、ぞっとするほどの冷たい輝きを放っている。
その姿を一言で言い表すなら、まさしく戦乙女だった。
偶然か必然か、飛鳥――人工英霊と因縁浅からぬ存在の名。彼女を表す言葉を、飛鳥は他に持ち得なかった。
「また現れたのか、異界よりの侵略者め……今日という今日は逃がさん!!この場で切って捨てる!!」
「ちょっ……!!」
問答無用の敵対の意志の発露に、飛鳥は思わずたじろいでしまう。
それは明らかに致命的な隙であったのだが、あえて彼女は攻撃をしなかった。
飛鳥もそれに気付き、若干平静を取り戻す。
「……構えろ」
「なに?」
「構えろと言っている。私は丸腰の相手に突然斬りかかるなど卑怯な真似をするつもりはない」
「だったらその前に話を聞いてくれ。俺は貴女達に危害を加えたりは――」
「もう一度言う……構えろ」
聞く耳持たず、交渉の糸口すら見いだせない状況に飛鳥は頭が痛くなってきた。
突然の雪彦の敵対、劉功真による鈴風の拉致、リヒャルト=ワーグナーとの瞬時の邂逅、そして眼前の天使――これでもかとばかりにのしかかってくる艱難辛苦のオンパレードに、そろそろ飛鳥は限界だった。
よくよく考えれば、どうしてこちらが下手に出なければいけないのか?
天使側は何かを勘違いしてこちらに刃を向けているのは明白だが、だからといって話もせずに殺しに来ようとする相手に、何故こちらが心を砕く必要があるのだろうか?
飛鳥は冷静に激怒していた。
否、最早言い繕いもしまい。
つまるところ飛鳥はキレてしまった。
「蒼刃騎士団、ブラウリーシェ=サヴァンの誇りにかけて、貴様はここで成敗する――覚悟しろ!!」
「黙れ」
「な、なんだと!!」
突然の変貌。
底冷えする様な暗い声で一喝する飛鳥に、今度は天使――ブラウリーシェがたじろぐ番だった。
フェブリルも主の異変を察知し急いで肩から離れる。
飛鳥の総身を焼き尽くしてしまいそうな程に強く燃え上がる異能の炎、ブラウリーシェは間近で受けたその高熱に苦悶の表情を浮かべていた。
「そんなに戦いたいなら望み通りにしてやる……ただし、来るなら覚悟を決めろよ。斬られて終わるか、焼かれて潰えるか、貴様の運命はその2つ以外に有り得ない」
赫怒の意思を示すように高々と昇る噴炎を両手に圧縮、“烈火刃”弐式・緋翼として形成し、ブラウリーシェに向け切っ先を構える。
先程までこの空間に巻き起こっていた炎の嵐が一瞬にして収束、それがすべて2つの刃に集約された事に戦慄するブラウリーシェを前に、飛鳥もまた名乗りを上げる。
「そちらが名乗った以上、こちらも応えるのが礼儀か……《八葉》第二枝団“雷火”副隊長、日野森飛鳥。ああ、別に覚えなくていい。どうせ無駄になる」
「吠えるなよ侵略者が! その大言壮語、すぐに後悔させてやる!!」
互いの衝突を阻むものは一切無し。
紅蓮の騎士と蒼穹の騎士の衝突から、この世界、《ライン・ファルシア》での戦いが幕を開けた。