―第70話 ソーサレス・ソーサレス ①―
話的には読み飛ばしてもいい部分。しかし、このへんで日野森飛鳥という人間について少し掘り下げたほうがいいかなーと思って作ったお話です。
「“傀儡聖女”――ミストラル=ホルン、ですか」
『はい……それも、彼女がどんな姿をして飛鳥さん達の近くにいるのか、まったく予測がつきません。厄介な相手に目をつけられてしまいました……』
クラウと話をした次の日の早朝。
昨日の疲労のせいか、普段よりも深く寝入っていた飛鳥は、まだ日も登り切っていない時間帯にクロエからのモーニングコールで目を覚ました。
国際電話越しのクロエの声は、フィルターがかかったようなくぐもった音声だった。周りを警戒して、誰にも聞かれまいと小声で話している――そんな状況が想像できた。
『彼女の目的は不明ですが……いつどこで飛鳥さんに牙を剝いてくるか分かりません、くれぐれもお気を付けください。私もなるべく早くそちらに戻りますので、それまで決して無茶な行動はなさらないでくださいね?』
こちらを慮るクロエの言葉に、飛鳥は一言感謝を述べて思案する。
昨日にクラウとレイシアから聞いた(レイシアから事情を聞いたのは鈴風だが)情報と、クロエの口からもたらされた今回の『敵』。それらを統合することで、飛鳥の頭の中には、おそらくミストラル以外誰にも知られていないであろうこの一連の事件の真相――ミストラル=ホルンの目的とやらが、おぼろげながら見えてきていた。
「クロエさん、ひとつお伺いしたいのですが」
『はい?』
「クロエさんや霧乃さんは、どこかの魔術団体に所属しているんですか?」
クロエには突拍子もない質問に聞こえたのだろう。少しばかりの無言の時間が流れた。
だが、そこは飛鳥至上主義のクロエ。特に疑問を差し挟むことなく答えてくれた。
『少なくとも私は、現在はどこの団体にも所属していませんね。霧乃さんは……ええと、確か《教会》とかいう所だったでしょうか。そこの司教様と懇意にされているらしく、食客扱いで名前を登録しているそうですよ』
「それって……初対面の相手に名乗るときに、自分の所属団体の名前も伝える習慣ってあるんでしょうかね?」
『ない、かと思います。理由としては、どちらかと言うとデメリットの方が大きいからです。魔道結社の名を名乗ることは、それ即ち《九耀の魔術師》の誰の下についているのかを主張するのと同じですから。《不滅の潔刃》なら“腐食后”の傘下である、といったように。ですが《九耀の魔術師》管轄の団体どうしは基本的に敵対意識が強いので……それを他者に伝えても、『私はお前の敵なんだぞ』といたずらに囃し立てる結果になることの方が多いでしょう』
どうしてそんなことを聞いてくるのですか? と問いたげな声色だった。
説明したいのはやまやまだったが、飛鳥もまだ推測の域を出ていない――もしかすると無意味な質問で終わるかもしれない。よってここでは、ただ気になったのでというだけの答えで応じた。
どちらにせよ、ミストラルが何かしらのアクションをとるとしたら、この数日以内には違いない。クロエが帰国して動きにくくなる前に本懐を遂げようとするのであれば、チャンスは今日か明日くらいしかないことになる。
頭の中でこれからの行動方針を組み立て終えた飛鳥は、ふと机の上の置時計に目をやる。――6時50分、学園に遅刻することはまずないが、そろそろ朝食の準備をしないといけない時間帯だ。
『飛鳥さん。先月の事件でご迷惑をおかけした手前、あまり偉そうなことは申し上げられませんが……』
「クロエさん?」
『どうか……誰かのためだからと言って、それでご自分の命を粗末をするようなことは、決してなさらないで下さい』
受話器の向こうから聞こえるクロエの、今にも泣きだしそうな声色に、飛鳥は電話を切るタイミングを完全に逸してしまった。
『この言葉が飛鳥さんの重荷になると分かった上で、あえて申し上げます……もし、飛鳥さんが命を落とすようなことがあれば、私は迷わず後を追います』
「なに、言ってるんですか……」
『冗談だとお笑いになりますか? でも、この決意は絶対に覆しません。1年前のあの日から、私は誓ったのです。……私のすべては、日野森飛鳥のためだけに捧げようと。それは決して誰にも……飛鳥さんですら、止めることはできませんよ』
少しの澱みもなく、むしろ誇らしげにそう言い切ったクロエに、飛鳥は返す言葉が見つからなかった。
なるほど確かに、これは飛鳥にとって最大級の『重荷』なのだろう。あなたが誰かのために命を捨てようとするのなら、そのせいで失う命がここにあるのだと――これはほとんど脅迫に等しい。だが、そうでも言わないと飛鳥の向こう見ずを止められないというのも事実だった。
まだ、ここで語るべき話ではないが……飛鳥とクロエの関係性は、好いた惚れたとか、恋だの愛だのといった次元を超越した所にある。無論、年頃の男女なのだし、互いにそのような感情がないわけではない。だが、根本的な部分からして、2人は『一心同体』とでも言うべき間柄なのだ。
「……それでも、俺は目の前で誰かが危険な目にあっていて、それを看過できるような人間じゃないですよ。見て見ぬふりなどしようものなら、それはもう俺じゃない。だから……」
『分かっています。そうやって、飛鳥さんが周りのみんなを守ろうとする意志までもを否定はできません。だから、私は……』
そういってクロエは慈しむように、包み込むように。柔らかな声で告げた。
『みんなを守るために戦う飛鳥さんを、私がお守りするんです。そうすれば、きっと誰も失わない。誰も、悲しまずに済みますから』
「クロエさん……」
飛鳥は無意識に左手で目を擦った。今にも涙腺が決壊しそうで、お互いに顔が見えない状態なのにも関わらず、慌てて誤魔化すように言葉を選ぶ。
「あ、あはは……なんだかまるで、口説かれてるみたいですね?」
『く、くどっ!?』
ああ、これは分かる。絶対に向こう側のクロエは顔を真っ赤にしている。真剣な空気がゆっきりと弛緩していくのに、飛鳥は内心ほっとした。が、
『そ、それは……その……実は、そういう意図を含んでなかったと言えば、嘘になります』
「…………えーと」
聞いてもいないのにそんなことを暴露された。
いけない、これはいけない。話の方向性がすり替わったのはいいが、代わりに妙な空気になってきた。軽く酔ってしまいそうな、ほわほわとした甘酸っぱい雰囲気が流れはじめる。
『最近は、リーシェさんやリルちゃんが家にやってきて、いつもそちらの方ばかり気にかけてらっしゃいましたし……それに鈴風さんとの距離が、以前よりも何だか近くなっているようにも見えましたから……』
「えーと、クロエさん? いきなり何の話でしょうか……」
『飛鳥さん!!』
「は、はい!!」
本当に酔っ払ってるんじゃあるまいか、と勘違いしそうなほどにヒートアップしていくクロエの――これは、やきもちだろうか? こういう時の返し方など、恋愛経験皆無の飛鳥には知る由もなく。
『私はそんなに……女性として、魅力がありませんか?』
いや、本当に何の話だ。先程までの会話からどうやったら、クロエの女性としての魅力についてという話に発展するのか。
だが、クロエが明らかに今にも号泣しそうな状態で、そしてこの答えを間違ったら大惨事になること請け合いだったので、飛鳥は必死に脳をフル回転させた。
「何言ってるんですか……クロエさんは凄く魅力的ですよ。いつも俺のことを一番に考えてくれて、それに、その……すごく、可愛いですし」
こちらも顔を真っ赤にするのを止められそうもなく、早口で捲し立てる。ひゃうっ! と電話の向こうでクロエが息を呑む声が聞こえた。
これは紛れもない本心だ。
常に一歩下がって飛鳥のことを立ててくれる大和撫子のような心遣い。そして、この世のものとは思えないほどの、手を触れることすら躊躇われるほどの美貌。煌めくプラチナブロンドの髪と吸い込まれそうなほどに透き通った碧眼。妖精や天使と形容してもまだ足りない――そんな彼女の姿に目を奪われてしまったのは一度や二度ではない。
今でこそ、同居生活で見慣れたから表情に出さずにいられるが……出会った当初は本当にドキドキしっ放しだったのである。
少し落ち着いて考えてみると、おそらくクロエは不安だったのだろう。クロエは飛鳥のことを大事に思っている――それこそ先の発言通り、いないと生きていけないと思わせるほどに――しかし、飛鳥の方はどうなのだろうと。いてもいなくても変わらない、その程度の存在なのではないか。自分1人だけで空回っているのではないか、と。
『か、かわいい……かわいいって、あしゅかしゃんが、かわいいって……』
だが、その心配はもう不要のようである。というか完全にトリップ状態に入ってしまった。これぞ、クロエ=ステラクラインが日野森飛鳥の前でしか決して見せない『デレ』の極み。通称激デレモードである。
飛鳥はそんな彼女の豹変ぶりに苦笑いしつつ、ふと考える。
クロエの言うように、ここの所は新参者のリーシェやフェブリルばかりの世話をしていたし、人工英霊になったばかりの鈴風を心配して、なるべく気にかけていたのも事実。元々才色兼備でひとりで何でもできるクロエのことを、蔑ろにしていた……とまでは言わないが、意識を向ける優先順位が低くなっていたことは否めない。
加えて、異世界騒動からこっち、バタバタしてばかりの日々でまとまった休みもなかった。飛鳥は《八葉》の用事が、クロエは生徒会の仕事があったためすれ違いの多い生活リズムだったのもある。
普段から一番、公私を問わず飛鳥を支えてくれているのはクロエなのだから、それに対して何の労いもないのは不公平だろう。
「ふむ……ところでクロエさん。次の日曜日はお暇ですか?」
『にゃんでしゅかぁ……? にちようびぃ……?』
未だに激デレモードから帰ってこないクロエだったが、
「いえ、今の事件が一段落したらになりますが、たまには2人でどこかに出かけませ『行きます』んか……って、即答ですか」
ふとした思いつきで言った飛鳥の言葉に光速の切り返しで応じてきた。
『行きます。絶対に行きます。他の予定などあっても即キャンセルしますし、それまでに何があっても“傀儡聖女”を叩き潰して、あらゆる手段を用いて万難を排し、その日を空けます。これは決定事項であり、もはや神ですら覆すことは許されません。というか邪魔する者は神だろうと皆殺しです』
いきなりキリッとした声で捲し立ててくるクロエの反応は、ある意味予想通りだった。クロエが一番喜ぶこと――そう考えると、これ以外思い浮かばなかったのだ。
『飛鳥さん。これは俗に言う『デート』と解釈して、よろしいのですよね?』
「そ、そうです、ね……」
『なるほどなるほど………あ、ごめんなさい。少々お待ちくださいね』
一旦受話器を置いたのだろう、硬い音が少しばかり聞こえた数瞬の後………「いよっしゃああああぁぁぁぁぁぁっ!!」という歓声が電話口の遠くの方から聞こえた気がした。
完全にキャラが崩壊している。いくらなんでも喜びすぎだ。
(でもまあ、喜んでもらえてよかった……のか?)
一抹の不安はあったものの、飛鳥だって男の子だ。クロエほどの絶世の美女が、自分にこれほどまでに好意を示してくれて悪い気などするはずがない。
いつも知的で冷静な彼女が、飛び跳ねながら(見えはしないがその光景は簡単に想像できた)歓喜を露わにしている様子はなんだか微笑ましくもあった。
『そ、それでは……! それでは早速どこに行くのか綿密なプランをですね……!!』
鼻息荒く話しかけてきたクロエに、飛鳥は、そろそろ時間もないので一度切ってもいいですか、と言い出したくても言い出せなくなってしまった。……これがひとつの悲劇を生むとも知らずに。
「それは別に帰ってきてからでもいいじゃないですか」
『何をおっしゃいますか飛鳥さん! デートは既に始まっているんですよ! こうやって2人でデートコースを話し合って、ランチは何が食べたいだとか、映画を見るならどんなのがいいだろうとか、最近話題の遊園地がオープンしたんですよとか! そんなとりとめのない会話を楽しむことこそが、楽しいデートの第一歩でしょう!!』
「そう、なん、ですか……」
『そうなのです。……あぁ、そういえばご存じですか? もうすぐ『エヴァーグリーン』の中に、温水プールのある室内リゾートが開園するそうですよ。もうすぐ夏到来ですからね、よかったら飛鳥さんには私の水着をえら「今日はなんだか乙女センサーと空腹センサーがダブルでビンビンと反応してたからたまにはこっちから起こしに来ましたよそんなわけでおはようございますっ!!」ん、で……』
いきなりスパーンッ! と飛鳥の部屋の障子が勢いよく開かれ(飛鳥の家の部屋はすべて和室)満面の笑みを浮かべた鈴風が、のしのしと2人の会話をぶった切りながら踏み込んできた。
――チク、タク、チク、タク。
時計の秒針の音だけが、飛鳥の部屋の中に木霊する。鈴風は右手をあげた状態で固まり、飛鳥はいきなりの乱入に面喰った表情のまま固まり、そして一切の音声が途絶えた受話器の向こう側から――無音なのにも関わらず――身の毛もよだつような極寒の空気が流出し始めていた。
いち早く停止状態から復帰した飛鳥は、恐る恐る電話に耳を近づける。
『飛鳥さん……そこにいる女に、電話を代わっていただけますか』
「いや、クロエさん……鈴風は別に悪気があったわけでは『代わって、いただけますか』あ、はい」
飛鳥の訴えはクロエの、ほんの1分前までのハイテンションとは対極の、何の感情も含まない冷たい声で一蹴された。震える手で携帯電話を鈴風に手渡す。
「え、え? いきなりなに? ……え? あたしに代われって?」
飛鳥は何も答えなかった。この後鈴風に降り注ぐ災厄に対して、知らぬ存ぜぬを決め込むことにしたのだ。
「俺……朝食作ってくるな」
そう一言だけ告げて、飛鳥は自分の部屋を後にした。
何があったのかさっぱりな鈴風は、所在なさげに飛鳥の携帯を握りしめていたが、取りあえず受話器に耳を当てて声をかける。
「も、もしもーし……」
階段を下りたあたりで、2階の飛鳥の部屋から「フギャーーーーーーーッ!?」という断末魔が鼓膜を響かせたが、飛鳥は全力で無視することにした。
さて、少し遅れたが朝食の準備だ。確か、昨日のカレーがまだ残っていた筈だ。台所に入り、コンロに置いたままの鍋の蓋を外す。
「くー……かー……けぷっ……」
――パタン。
はて、どうしたことか。一晩の間に、鍋に作り置きしていた筈のカレーのルーが綺麗に消え去っており、代わりにはち切れんばかりに腹を膨らませて寝息を立てる動物性タンパクがひとつあるだけだった。
「…………取り敢えず、煮込むか」
特に躊躇うこともなくコンロに点火。しばし待つ。
1……2……3……はい。
「あづぢゃぢゃちゃぢゃあぁぁぁぁっ!?」
蓋が弾け飛び、中から文字通り火の付いた勢いで具材――もとい、フェブリルが飛び出してきた。調理台の上でコロコロ転がりながら熱を冷まそうと必死にもがくフェブリルをひょいと摘み上げる。
「おはよう」
「………………おはよう、ございます」
「言いたい事があるなら聞こうか」
「……お、美味しく食べてね?」
こてんと可愛らしく首を傾げて冗談をのたまうチビ悪魔に、飛鳥はそろそろ堪忍袋の緒が切れそうだった。
ともあれ、今更この子にああだこうだ言っても聞きやしないのはいつものこと。
「次やったら骨まで食べられるくらいにトロトロになるまで煮込んでやるからな」
「何だか食欲をそそる言い方だけど、やろうとしてることはスプラッタ以外のなにものでもないよね?」
こうやって釘を刺すくらいが、フェブリルを甘やかし過ぎる飛鳥の限界だ。
フェブリルはふわふわと浮き上がり、使い魔としての指定席である飛鳥の右肩にしがみつく。
「今日もいろんなことがおきそうだねっ!!」
「……だな」
何ともなしに言った言葉なのだろうが、真実的を射ていた。
嵐の前の静けさ――願わくば、その嵐に巻き込まれないまま今日という一日を終えたいと思うが、きっと無駄だろう。
溜め息をひとつ。せめて朝くらいは変に思い悩まずに過ごしたいものだが。心配性の飛鳥ゆえの欠点なのかもしれない。
気を取り直して朝食の準備だ。
時間も少なく、かつ用意する人数分が多いものだから、あまり手間のかかるものを作っている暇はない。冷蔵庫を見てすぐ見つけたのは卵1パックとベーコン。こうなれば選択肢はひとつだ。
「フェブリル、トースターに片っ端から食パン詰めて焼いていってくれ」
「あいあーい」
ここは効率よく分担作業だ。
年代もののポップアップ型のトースターに、フェブリルは小さな体で食パンを持ち上げ、慣れた手つきで放り込んでいく。流石にこれ以上つまみ食いはしないだろう、飛鳥は自分の料理に集中することにした。
フライパンを熱し、ベーコンを3枚並べて投入。パチパチと脂が弾けてきたら、空いた左手で卵を2つ持ち、ベーコンの上に割り入れる。自慢にもならないが、飛鳥は3つまでなら片手で同時に卵が割れる。磨き抜かれた主夫スキルの賜物である。
焦がしてしまわないように、少量の水を入れて、蓋をする。3分ほど蒸し焼きにすれば、これでベーコンエッグ一人前の完成である。
しかし、なにせ8人前だ。2つあるコンロをフル稼働させ、急ピッチでベーコンエッグを量産していかなければならない。
「珍しいですね、寝坊ですか?」
「?……ああ、姉さんおはよう。いや、さっきまでクロエさんと電話してたから」
フライパン二刀流で奮闘する飛鳥の背中に声をかけたのは、既に気品ある着物姿に身を包んだ姉だった。
流石は白鳳学園理事長。朝一番から一部の隙もない佇まいだ。この辺り、寝癖を一切気にしないまま家に突撃してくる鈴風や、パジャマ姿のまま食卓につくのが当たり前なリーシェは見習うべきである(鍋の中で寝ていたフェブリルは論外)。
綾瀬は袖をたすきがけにし、特に言葉を交わすことなく自然な動作で朝食の準備に加わった。
「ごめん、手伝ってもらっちゃって」
「たまにはこんな日もあるでしょう。それに……最近はあまりお前とちゃんと話す時間もなかったですしね」
食器棚から人数分の皿を取り出しつつ、綾瀬は申し訳なさそうな顔を向けてきた。
姉の言い分も尤もだ。
綾瀬は理事長という多忙な立場ゆえ、まともに同じ時間を過ごせるのは朝食の時くらいだ。夜も帰宅が遅く、ほとんどが飛鳥達が寝静まった頃になるため、姉弟水入らずの時間など無いに等しい。
チンッ、とトーストが焼きあがった音を合図に、フェブリルが近づいてくる。
「アスカ、アタシはみんなを起こしてくるね」
飛鳥からの返答を待たず、空気を読める使い魔は宙に浮かびながら台所を後にした。飛鳥はそんならしくもない気遣いに感謝しつつ、ベーコンエッグを皿に盛り付けていった。
「五行聖祭の影響か、最近姉さん、いつにも増して忙しそうだけど。……無理してないか?」
「お前に心配されるほどやわではありませんよ。それに、それはこちらの台詞です。水無月から大まかな事情は聞き出しましたが、また厄介事に首を突っ込むようですね」
理事長としてではなく姉として、綾瀬は少しばかり批難の意思をこめて飛鳥を睨む。
「リーシェとフェブリルが来た時もそう、先月の一件もそう。ただ巻き込まれただけのものもあるでしょうが、それにしても、お前は常に争いごとの最前線に望んで立っているようにしか見えません」
「……それは、否定しない。なまじ俺には力があって、それで目の前に助けられる人がいて、動かないなんてあり得ないから」
先ほど、クロエにも言った言葉だ。
別に、自分が世界で一番強いと思っているわけでもなければ、救世主になりたいわけでも、ましてや誰かから称賛されたいわけでもない。助けたいから助ける――いや、これもきっと違う。
これはきっと義務感だ。力を手にした以上――それがどんなに不本意な『力』だったとしても――決して目を逸らしてはならないものがあるのだと、飛鳥は考えてしまうのだ。
「お前の生き方は、随分と息苦しそうですね」
そんな思惟を読み取ったかのように、綾瀬は冷たく言い放つ。
「結局のところ、お前は他人がいなければ生きていけないのですね」
「……? それは、当たり前なんじゃ……」
「そういう意味ではありません。要するにお前は、自分が何をすべきか、どうしたいのかという答えを常に他者に求めている。……誰かが困っているから助ける、その考えまでもを否定するつもりはないですが。ですが結局のところ、それは『状況』に対する反射に近い行動に過ぎない。そこにお前の意思はあるのですか? それで、自分の為すことに責任を持っていると言えますか?」
「…………」
――言い返せなかった。
リーシェ達に助けを求められ、それに応じたのも。美憂が誘拐され、彼女を助けるために敵陣に飛び込んだのも。それは自分の眼前に、そういった危機的なシチュエーションが用意されていたから。常に自分が当事者であったから、応じない選択肢がなかっただけではないのか。
極論になるが――仮に飛鳥が人工英霊でも何でもない、事件とは無関係なただの高校生だったのであれば。もし同じ場所に立っていたとしても、足を踏み入れることはなかったのではないだろうか。
「何の打算もなく物事に首を突っ込むのは、純粋なのではなく、ただの思考放棄です。被害者が善で、加害者が悪などと、それが勝手な決めつけなことくらいお前にも分かるでしょう?」
「クラウとレイシアさんのことを言ってるのか?」
「それもあります。ですが、今回に限った事ではありません。――常に考えなさい。あらゆる物事を疑いなさい。そして何より、お前自身の意思とは何たるのか周囲に示し続けなさい。それができて始めて『自分の行動に責任をとる』と胸を張って言えるのだと、私は考えます」
脳の中心をハンマーでガツンと叩かれたような衝撃があった。
まるで禅問答だ。飛鳥は即答することもできず、料理の手も止めてしまっていた。
「いけませんね。つい説教じみた事ばかり喋ってしまいました。……ところで、手元が留守ですよ」
「え……あ! うわわっ!? 焦げてる焦げてる!!」
気付いた時にはもう遅い。フライパンの中身は見事な炭と化していた。というか濛々と黒煙が上がっていたのに気付かないとは、どれだけ茫然としていたのだ。
飛鳥が振り向くと、滅多に感情を表に出さない姉にしては珍しく、くすくすと含み笑いをこぼしていた。
「相変わらず詰めが甘いですね、お前は。……今朝は私の分は結構です。いいから他の子達の分を作ってあげなさい」
「ごめん。先に出るの?」
「私がいては話しづらい事もあるのでしょう? あまり気を遣わせるのも何ですからね」
朝食の準備を一通り終え、姉は足早に家を後にする。
「……いってらっしゃい」
「いってきます。お前も遅刻などしないように。……あの少女がいるからと言って、欠席は許しませんからね」
レイシアがいるのを言い訳に学業を疎かにしないように、ということか。正直、飛鳥は彼女の監視で家に残ろうかと考えていたので、完全に読まれていたようだ。
鮮やかな藍染の背中を見送り、飛鳥はようやく人心地が付いたようだった。
(自分の行動に責任を持つ……今の俺に足りないもの)
少し考えたところで分かるものでもない。なので玄関先で云々うなっていても仕方がないのは理解しているのだが……それでも、考えてしまう。
『大きな力には相応の責任が伴う』とはよく聞く台詞だ。飛鳥もそれには同意するし、自分自身それを意識して行動もしているつもりだった。
――では、『責任』とはなんだ?
力があるから、力の無い人を助ける行為は『責任』とは言わないのだろうか? そうでないのなら、今までの自分の戦いとはいったいなんだったのか?
(……いや、これ以上考えるのはよそう)
家の中からドタバタとした複数の足音が近づいてきた。
変に思い悩んで鈴風たちに無用の心配をさせるのも良くない。飛鳥は気をとり直して、今、目の前にある問題に集中することにした。
(今日、レイシアさんどうしようか……)
困った人を助けることが本当に、必ず『善』たりえるのか。もう完全に捻くれ者の発想です。