―第67話 シークレット・シューティング ③―
それは、空に煌々と輝く美しい満月が印象的な夜であり。
それは、狼男や吸血鬼といった魔的な存在が今にも出てきそうな――惨劇がよく似合う、そんな夜だった。
日中はカトリック教徒や観光客で賑わうサン・ピエトロ広場も、深夜となってはその人通りはないに等しく、ただ暗闇と静寂の中に包まれていた。
かのキリストの使徒のひとり、ペテロを祀っている大聖堂も、今の時間は神聖さよりもどこか不気味さを感じさせる。そんな大聖堂を背にして、レイシア=ウィンスレットはひとり大通りを歩いていた。
「ああもう、真っ暗じゃない。……もう最悪。帰ったら絶対お母様にネチネチ小言言われちゃう」
人っ子ひとりいない石畳の道の中心で、レイシアは思わず愚痴をこぼしていた。
別に夜遊びをしていたわけではない。れっきとした魔術師としての仕事を終えた帰りなのだから、本来であれば別段母親から怒られるいわれなどないのだ。
しかしそんな言い訳は、彼女の母であり、また世界最強の魔女でもある“腐食后”テレジア=ウィンスレットには一切通用しない。
(夕方までにしっかりきっちりスマートに仕事をこなして帰ってくる。そうやって大見得はって出てきちゃったからなぁ……はぁ、自分で言ったことも守れないような奴は《不滅の潔刃》のいい面汚しだーとか、絶対言ってくるに決まってるし)
テレジアが統括し、そしてレイシアが所属する魔道結社――その名を《不滅の潔刃》と言う。
魔道結社とはその名の通り、魔術師によって作られた組織のことであり――中には『組織』という機能を果たしていない団体もあるが――世界中に大小様々な形態で存在している。
どのような活動をしているのかは、それこそ団体ごとにそれぞれであり、一概に定義するのは難しい。魔術という概念を徹底的に探究することを至上の目的とする学者集団のような所もあれば、レイシア達のように魔術的な災害や犯罪に対する抑止力として日々奮闘する、警察にも似た活動を行う組織も存在していた。
特に《不滅の潔刃》は、ここバチカンを中心にイタリア全土の治安を影ながら支えている、世界でも有数の大魔術組織であった。レイシアはその一員としてつい先ほど、『透明になる魔術を使って多くの女性を盗撮していた魔術師』という犯罪者(というか女の敵)を華麗にしょっ引いてきたところなのだ。
……いや、事件そのものは夕方あたりに既に解決していた。問題はその後であり、レイシアがここまで帰宅が遅れてしまった原因にあった。
(それもこれも全部、あの“傀儡聖女”様に捕まっちゃったせいよね……)
テレジアと同じく《九耀の魔術師》のひとりである、“傀儡聖女”ことミストラル=ホルン。任務終わりを見計らったかのように現れて、有無を言わさず近くのレストランで一緒に夕食をとることになってしまったのだ。
《九耀の魔術師》の面々を各国に分散させるという『天秤協定』の取り決めにより、現在はロシアに常駐している筈の彼女が、何故ここイタリアに滞在しているのか――それも、今日だけでなく、彼女は何度もレイシアに接触してきている。理由を聞いてみると、
『ふふっ♪ ミストはね、レイシアちゃんにはすっごくすっごく期待しちゃってるんだよ♪ だ・か・ら、今のうちにツバ付けとこうかなって思ってるだけなんだよ♪』
『どうして、私なんかを……』
『レイシアちゃんは自分で思ってるよりも、ずっとずっと才能に満ち溢れているんだよ♪……いつかきっと分かる時が来る、レイシアちゃんはいずれ、この世界になくてはならない存在になる』
有り体に言えばスカウトだった。はっきりと言葉にはしていないが、ミストラルはレイシアを自分の傘下に迎えたがっている――そんな言いぶりだった。
しかし、いくらレイシアが“腐食后”の娘とは言え、彼女自身は際立って優秀な魔術師というわけではない。“セイレーン”と称されるほどの、高い水の魔術に対する適正があるとは言え、魔術師の世界全体で言えば、良くて中の上レベルだろう。彼女以上の使い手など、それこそ世界には掃いて捨てるほど存在する。
(本来なら、《九耀の魔術師》に目を掛けられて喜ぶべきなんでしょうけど……どうにも“傀儡聖女”様相手だと素直に喜べないのよね)
外見だけならレイシアよりもずっと年下の子供にしか見えないが、実際は、何十年経ってもその見た目が変わっていないという年齢不詳の魔女。はっきり言って、『胡散臭い』というのがレイシアの感想だ。
(立身出世、魔道の追求……そんなものに何の価値があるっていうのかしら)
ともあれ、ミストラルの思惑など分かる由もなく。気にしたところで今の自分にはどうこうすることも出来ないし、またするつもりもない。
レイシアは今の生活が気に入っている。《不滅の潔刃》の一員として、家族や仲間と馬鹿をやりながら楽しくやっている今が好きなのだ。
大通りを抜け、脇の路地に入る。コツ、コツ、と石畳を叩く足音だけが夜の空に響く。
――静かな夜だ。
空を見上げれば雲もなく、満天の星と月が眩しいほどに輝いていた。
一人歩きには勿体ない。どうせなら誰かと一緒に散歩しながら見ていたい、そんな空だった。
(どうせだったらクラウとでも――って、なに考えてんのよ私は!!)
脳裏に浮かんだひとりの少年の顔を、慌てて頭を振って追い払う。
一緒に歩いたから何だというのだ。あの単なる腐れ縁の、気弱でヘラヘラとした笑い顔がいつも癪に障る男と一緒に……だなんて。
“腐食后”の懐刀にして、“聖剣砕き”の名を継承した《不滅の潔刃》随一の魔術師。そんな彼に対して、レイシアは嫉妬やら憧憬やら、いろいろと複雑な感情を抱いていた。
幼い頃から共に魔術を学んだ兄弟弟子であり、互いに切磋琢磨してきた好敵手とも言える間柄であるが。最近背も高くなって男らしくなってきたとか、時折見せるほんわかとした笑顔にたまにドキッとすることとか……いや、ないない。そんな感情など微塵もない。あの男はただの幼馴染だ、腐れ縁だ。それ以上でもそれ以下でもない。
(……もういいわ。アホなこと考えてないでさっさと帰りましょ)
堂々巡りになりそうだった思考を打ち切り、レイシアは足を速める。住宅街を抜け、レイシアはほどなく自宅へと辿り着いた。
《九耀の魔術師》の住居とは言え、ウィンスレット家はそれほど豪華絢爛な暮らしをしているわけではない。二階建ての、周りより少しばかり敷地の広い、かろうじてお屋敷と言っても問題ないくらいの邸宅だ。
しかし、邸宅内には“腐食后”お手製の魔術結界が十重二十重に張り巡らされており、要塞の如き鉄壁の防衛網が常に敷かれているのだ。
「あれ、電気消えてる……?」
一切の明かりが付いていない自宅を見て、レイシアはどこか違和感を覚えた。
本来この結界は、レイシアはおろか他の《九耀の魔術師》ですら容易に突破できない次元なのだが、母親が『身内』と認めた人間に対しては作用しない。自分と母親、そして家族同然の付き合いであるクラウの3人だ。
人の気配はするから、実は留守にしていただけというオチはなさそうだ。……だからこそ、不自然か。
(お母様が私より先に寝ていたことなんて一度もない。それに……今日はクラウと一緒に仕事って言ってたから、アイツもここにいる筈だし)
2人揃って就寝しているなど、尚の事ありえない。言い様のない不安を感じたレイシアは、2階の母親の寝室へ様子を見に行くことにした。
神経を研ぎ澄まし、なるべく音をたてないよう階段をゆっくりと上っていく。
(え……?)
廊下の突き当たりにある母親の寝室の扉が開け放たれていた。風を受けてキィキィと扉が揺れていることから、寝室の窓も開け放たれているようだ。
馬鹿な、今は3月だ。いくらなんでも暑いからと言って風を通すような気温ではない。純粋な寒さとは違う、体の内からこみ上げる悪寒に耐えつつ、レイシアは一歩、また一歩部屋へと近づいていく。
誰かいるのは間違いない、だが異様なまでに静かすぎる。警戒値を最大まで引き上げて、レイシアはそっと寝室内を覗き見た。
「あれ……クラウ?」
そこに見えたのは、母親ではない、もうひとりの見慣れた背中。部屋の中心で茫然と立っていたクラウ=マーベリックの姿だった。なんだアンタか、とレイシアは張り詰めていた空気を一気に弛緩させ、大きくため息をついた。
「あ……レッシィ……」
「あ……じゃないわよクラウ。なんだってお母様の寝室に、それも電気もつけないでぼーっと突っ立ってたワケ? 大方寝ぼけて部屋間違えたんでしょ、まったくアンタは昔からドン臭い――」
緊張していたのを隠すかのように、矢継ぎ早に言葉を繰り出すレイシアだったが、ブリキ人形みたいにぎこちない動作で振り向いたクラウを見て絶句した。
「アンタ、その顔……」
彼の頬にべっとりと付いていた赤い液体――いや、言い繕いようもない。それは返り血だ。
全身の血液が凍り付いたようだった。なんで、どうして、いや待て、その血は誰のものだ? はは、何を言っている、そんなの簡単じゃないか、そんなもの床に転がっている『ナニカ』のものに決まっている。
無意識に一歩、後ずさる。状況の理解に頭が追い付かず――いや、理解したくないが為に、思考すら凍結していた。
「…………」
忘我して動けないレイシアを見て、クラウは逃げることも、弁解することもなく彼女の反応を待っていた。逃げるな、現実を直視しろと、レイシアに無言の訴えをしているかのようだった。
泥沼の中に頭まで浸かっているような心地だった。まともに呼吸することも出来ないまま、レイシアは――見てはならないという理性からの警鐘を必死に押し殺しながら――視線を足下へと移動させる。
「――は、ひ」
お母様、と言葉にしたつもりが、喉奥からは意味をもたない呻き声が鳴っただけだった。
こんな状況だと言うのに、うつ伏せに倒れた彼女の、薄い水色の長髪が床に流れているのを見て――ああ綺麗だな、などと見当違いの感想が浮かんでいた。
母のお気に入りだった純白の寝間着は今や鮮やかな朱色に染まっており、おびただしい出血であったことが窺える。
が、当のテレジアの表情は眠っているかのように穏やかなもので、とても殺された人間の顔とは思えなかった。
――しかし、今のレイシアは状況を冷静に分析する余裕など微塵もなく。
眼前の光景――倒れ伏した母親の血飛沫を全身に浴び、そしてその右手には、未だ微かに脈動を続ける彼女の心臓を掴んで離さない男の姿。
即ち。
誰が母を殺したのか……などと、この光景を前にして迷う要素などありようがない。
「そんなこと……君には関係ない」
「――――――――は」
事もあろうに、母親を殺したこの男は、その娘に向かって「そんなこと」と、「関係ない」と宣ったのだ。
何もかもが限界だった。頭の中で入り混じっていた、悲哀も絶望も恐怖も混乱もすべて、憎悪という真っ赤な絵の具で塗り潰された。
懐から取り出した“ウィリタ・グラディウス”に全力で魔力を注ぎ込む。床にぶちまけられた血液の海が、吸い寄せられるようにレイシアの魔女の鉄槌に集結し、赤黒い刀身を作り出した。それは死者に鞭打つ所業だったのかもしれないが――今の逆上したレイシアには、一秒でも早く眼前の男に母殺しの報いを与えることしか頭になかった。
「クラァァァァァウッ!!」
「……無駄だよ。君じゃあ、絶対に僕には勝てない」
「ッ!? ふっざけんなぁぁーーーーッ!!」
赤刃を大上段に振りかぶり、クラウの脳天めがけ力任せに斬り込んだ。呼吸も技もない、はっきり言って素人同然の打ち込みだったとはいえ、この至近距離からの、それも魔術による身体強化を加えた上での神速の剣だ。
一切の戦意を見せず、構えすらしていなかったクラウに対応出来るようなものではない。
だが、
「う、嘘……」
ガラスの割れるような音が寝室に響き渡った。クラウの、まるで蠅を追い払う無造作な手の一振りでレイシアの魔剣は粉々に砕け散ったのだ。
これが力の差。同門で年も近しいというのに、2人の間にある力の隔たりはあまりにかけ離れていた。
なんだこれは。無様にも程がある。
自分は母の仇に一矢報いることすら許されないのか。
それもその仇とは、自分が弟のように思っていた家族同然の少年だという。
レイシアの視界が悔し涙でにじみ、なおのこと惨めさが加速した。
喪失、裏切り、絶望、憎悪。ありとあらゆる負の感情が全身を蝕み、レイシアは今にも崩れ落ちそうだった。しかしそんな彼女に追撃をかけるわけでもなく、クラウはただ能面のような無表情のまま佇んでいた。そこには内気で口下手だった、かつてレイシアが知っていた少年の名残などどこにもなかった。
いったい何があって、この少年をここまで変貌させたのか。レイシアは摩耗しきった僅かな意識で考える。
「どう、いう……どういうことなのよ、クラウ……どうしてアンタがお母様を……」
「……」
クラウはおもむろに背を向け、窓枠に手をかけた。逃げる……いや、見逃すつもりか?
《九耀の魔術師》を手にかけたのだ。普通に考えれば、目撃者をそのまま放っておくなど愚中の愚だろう。
「なによ……お母様は平気で殺しておいて、私は殺せないとでも言うつもり?」
「知りたかったら、追ってくるといい」
「……なんですって?」
そう一言だけ言い残し、クラウは窓から外へと飛び去っていく。
追うべきかどうか一瞬判断に迷うが、今の自分では追い付いたところで返り討ちだろう。それに、目の前で事切れている母親をこのままにしておきたくはなかった。
「お母様……」
膝を折り、覚めない眠りについた母の横顔をそっと覗き込む。涙の一滴でも流れるかと思ったが、我ながら薄情なことに涙腺が緩む気配すら感じられなかった。
悲しくないわけがない。たったひとりの肉親だったのだ。
辛くないわけがない。厳しくはあったが、それ以上に愛情を注いでくれた優しい母だったのだ。
そして、憎くないわけがない。そんな愛する母親を、顔色ひとつ変えずに奪い去っていったあの男を。
「追ってこい、ね。……上等じゃない」
嘆き、悲しむのは今ではない。ただそれだけ。
故に、レイシア=ウィンスレットは力強い足取りで立ち上がる。物言わぬ最愛の人を抱きかかえ、ベッドへ横にする。
本当に、ただ眠っているようにしか見えない穏やかな死に顔。無念ではなかったのか。息子同然の人間に殺されて、悲しみも怒りも、戸惑いすらもなかったのだろうか。
何もかもが疑問だらけだ。
だが、仮にこの惨劇の裏にどんな真実があったとしても、クラウ=マーベリックがテレジア=ウィンスレットを手にかけた事実は消えない。
「絶対に、許してなんてやるものか……」
――復讐だ。
今はそれしか考えなくていい。それ以外の感情など、すべて憎しみで塗り潰してしまえ。
「……っ!」
それでも、じわりと視界が滲んでくるのを止められそうにない。
――違う! こんなのじゃあ駄目だ!!
涙なんていらない。それは弱さだ。
レイシアは服の袖で乱暴に両目を擦って、その弱さの発露を無かったことにした。
ほどなくして、階下から複数の足音が近付いてきた。おそらく、屋敷の結界消滅を察知して駆け付けた《不滅の潔刃》の仲間たちだろう。
(……ちっ、面倒ね)
だが、レイシアはそんな彼等の来訪を歓迎するどころか、むしろ疎ましく思っていた。
レイシアとしては、この事件をあまりおおっぴらにしたくはなかったのだ。それは、《九耀の魔術師》の死亡という出来事が魔術界を激震させる一大事であるため、なるべく情報を規制したかったからだ。
そして、なによりも、
(あいつだけは、絶対にこの私自身の手で裁く)
他の魔術師に、自分の獲物を横取りされるわけにはいかない。
「っ!? レイシアさん、これは……」
背後から、寝室に足を踏み入れた仲間の女性が息を呑む声が聞こえた。
「分からないわ。私が帰ってきた時には、既にもう……」
自分でもぞっとするほどに、喉奥から平静で冷淡な言葉がつらつらと出てきていた。
ああ、なるほど。
復讐とは、憎悪とは。これほどまでに人間の精神を変貌させるものなのだ。
それはいい。それは好都合だ。
愛する母の死がくれたこの憎悪で、あの“聖剣砕き”を完膚無きまでに叩き潰す。唯一の肉親を喪った悲劇の少女を演じながら、レイシアは心の奥底で昏い微笑を浮かべていた。