―第59話 シルフィード・セイバー ③―
リーシェさんは出るタイミングを計り損ねて出られなかったんじゃないんだよ?ホントだよ?
荒れ狂う水爆と烈風が過ぎ去った後、リーシェが目にしたのは、地に伏せている水の魔女と、よろめきながらもしっかりと地に足をつけ立つ風の戦乙女の姿だった。
そんな鈴風がこちらに向かって小さくブイサインしてくるのを見て、リーシェは安堵の息をついた。
「やれやれ、見ていてヒヤヒヤしたぞ……」
それにしても、とリーシェは考える。
先の戦い――鈴風が人工英霊に覚醒した直後に比べ、戦い方や能力の運用効率があまりに劇的に向上していた。
彼女とて、こちらの世界に帰還してから何もしていなかったわけではない、ということなのだろう。見えない場所での自己分析や訓練を重ねた成果であるのは、本人に聞かずとも分かることだった。とはいえそれは、彼女の先天的な戦いに関する才覚があってこそでもあるのだろうが……リーシェが懸念しているのはそこではない。
(スズカが実戦に参加してから、まだ2ヶ月もたっていない。……いくら何でも、適応が早過ぎないか?)
『実戦』とは、『殺し合い』とは、そう簡単に適応できるものではない。
どれほど技術があろうと、どれほど鍛練をつもうと、死の恐怖を前にしてそのすべてを十全に発揮するのは困難を極める。
剣道の試合で全力を出せるのは、防具をつけて、なおかつ得物が竹刀であるため死を怖がらなくて済むからだ。仮に防具など身に付けず、互いに真剣を持った状態で、さあ練習どおりにやってみろと言われても、自然と身体は竦んでしまうものだ。
それを克服するためには、心を鍛える他に方法はない、とリーシェは考えている。
一朝一夕でどうなるものではない。鉄火交わる戦場で何度も生死の境を彷徨い、自身の生命を掴み取るための思考と行動を決して絶やさずにいられることで、初めて『人並み』の戦士になれる。
要するに、『経験』なしに至れる境地ではないということだ。
(これも人工英霊の為せる業、なのだろうか)
自分とて真っ当な戦士ではないのは自覚している。
肉体から記憶まで研究者の手によって作られた人工英霊の亜種である有翼人。
しかしそうである前に、ブラウリーシェ=サヴァンは『騎士』なのだ。戦いや力というものに対して、誰よりも正々堂々に真摯に向き合う者なのだ。
(……複雑だな)
ああ、これが『嫉妬』という感情なのか。リーシェはそんな心にかかった靄を意識しないように、制服の胸元のリボンをぎゅっと握りしめた。
今は瑣末な事に心を乱している場合ではないのだ。何故ならば――
「リーシェ先輩。何も……聞かないんですか?」
少し後ろからかかってきたクラウの声に、リーシェは振り向くことなく応じる。
「聞きたいのはやまやまなんだが……生憎、まだ終わってないぞ」
そう、まだ『初戦』が終わっただけなのだ。レイシアとの戦闘で、リーシェが加勢に向かわなかった理由はここにある。
リーシェ以外に、今この場にいる人間――鈴風、クラウ、気絶したレイシア……そしてもうひとり。
「覗き見とは結構な趣味を持っているようだが、これ以上看過するつもりはないぞ。……姿を見せろ」
リーシェの凛とした声が、雨空に力強く響く。
鈴風とクラウはどうやら気付いていなかったようだ。戦闘後の弛緩しかけた雰囲気を無理矢理打ち消し、慌てて周囲を見回していた。
「――――――――キヒヒッ」
喧しい雨音に混じって、実に耳障りで下卑た笑い声がリーシェの鼓膜を突いてきた。
全身に力をこめる。スカートの収納口から『あるもの』を取り出し、鷹のように鋭い双眸で次の対戦相手を待ち構えた。
そこは無音だった。静寂だった。
何の音もないという状況だけで、水無月真散の心臓は、緊張とか恐怖とかそんなマイナス的要素で止まってしまいそうだった。
(ああ、この静けさが痛いっ! でもでも、これ完全に私がお膳立てしちゃった展開ですよねー、どう考えても自業自得なのですよねー……)
真散はここ郷土史研究部の主である。一番偉いのである。だというのに、
「さて、この愚弟と何を話していたのか、詳細漏れなく一から十まできっちりと報告してもらいましょうか」
何故自分ひとりだけ床に正座しているのだろうか。そして何故理事長が本来の自分の席に堂々に座っているのだろうか。
暴君。そんな言葉が脳裏をよぎったが、口にすると間違いなく命が無いのでとりあえず沈黙しておく。
「姉さん……流石に正座はやりすぎなんじゃ――」
「お前も何を無関係に突っ立っているのですか。お前の席もあそこですよ」
何とか真散に助け舟を出そうとする飛鳥だったのだが……綾瀬理事長が有無を言わさぬ剣幕で真散の隣の床を指差したので、渋々といった様子で腰を下ろした。正座で。
「(やーいやーいなのです。ひとりだけ無事でいようだなんて甘いのですよー♪)」
「(折角助けようとしたのにその言い草……! 性格悪いなアンタ!!)」
諦めの滲んだ表情で座りこんだ正座仲間を、真散は満面の意地の悪い笑みで出迎えた。
しかしそんなふたりの掛け合いを、理事長が圧倒的絶対零度の目線で見下ろしていたので、慌てて居住まいを正した。
そうだ、遊んでいる場合ではない。考え方によっては綾瀬理事長がこの場に来たのは好都合かもしれないのだ。
「真散。先の話を聞くに、お前も魔術師である――この認識で間違いはありませんね?」
綾瀬理事長は机に両肘をつき、会話の口火を切ってきた。そうです、と真散は頷きを返しここまで飛鳥と話した内容を共有していった。
「それにしても、私が魔術師と聞いても驚かないのですね? 飛鳥くんもでしたけど」
真散と日野森姉弟は、鈴風ほど親密ではなかったにせよ、幼馴染と呼んで差し支えないほどの長い付き合いではあった。
そんな身近な人間が、いきなり「実は魔術を使えるのですよ」などとのたまっているというのに、ふたりとも拍子抜けなほどに冷静であったのが、真散はどうにも釈然としなかった。
真散が魔術を学び始めてから、まだ1年と少しと言ったところ。まだまだ『見習い』に過ぎない身ではあるのだが――
「俺は、霧乃さんからそれらしいことを事前に聞いてたから」
隣の飛鳥からの返答は、なるほどと納得できるものだった。
自分が魔術師であることを吹聴したことはないが、流石に霧乃相手に隠し通せるものではなかったのだろう。
同じ屋根の下で寝泊まりしている上、彼女は《九耀の魔術師》だ。同属の気配くらい察して当然ということか。
「お前がマーべリックを気にかけている時点で、概ね予測できたことです」
綾瀬理事長の回答は、真散にとっては聞き逃すことが出来ないものだった。
「理事長……? もしかして、クーちゃんの『事情』を御存知なのですか?」
「当然です。この学園をとりしきる者として、受け入れる生徒の人となり程度、調査しておいて然るべきでしょう」
馬鹿を言ってはいけない、と理事長は小さく溜息をついた。
確かにそうだ。一般的な学園ならともかく、ここは白鳳市だ。
元々からこの街に住んでいる身としては、感覚が麻痺しがちになるが……ここは最先端の科学技術を発信する『宝の山』なのだ。外から来た科学者や研究者にとって、ここはあらゆる場所、あらゆる人がそんな『宝』の情報を握っているように見えるのだろう。
故に、侵入者に対して最大限の検閲――警戒とも言える――を行うのはごく自然な流れだろう。それが学生だとしても同じことだ。
「クラウ=マーべリック、15歳。イタリア出身。《九耀の魔術師》のひとりである“腐食后”テレジア=ウィンスレットに師事していた有能な魔術師――調べられたのはこの程度ですが」
それだけ、と綾瀬理事長は言っているが、警察でも特殊機関でもないいち学園のレベルで調べた内容としては相当なものである。
だが、肝心な部分までは調査しきれていなかったようだ。
「そこまで御存知でしたら話は早いのです。……私が飛鳥くんに相談しようとしていたこと、それは――」
本題はここからなのだ。意を決して真散が口を開こうとしたその時、
――てちてちてちてちてちてちてちてちてちてちてち!!
雨水ではない、窓ガラスを小刻みを叩く音が聞こえてきた。
「フェブリル!?」
窓際を見やると、制服姿のお人形――ではなく、チビ悪魔ことフェブリルが血相を変えて涙目でガラスを必死に叩いていた。
飛鳥が急いで窓を開けて彼女を部屋に入れてやる。随分と遅い帰りだったが……他の面々は一緒ではなかったのだろうか?
「た、大変、大変なの! えーと、帰り道にね、朝に見た歌ってる水色をしたまほーつかいが襲って来て、それで、それで、クラウを追いかけてきたらしくて、それをスズカとリーシェがアスカを呼んできてって!!」
「落ち着くのですよリルちゃん。それじゃあ何を言ってるのか――」
身ぶり手ぶりで必死に伝えようとしてくれているのは分かるのだが……かえって内容が支離滅裂になっている。ともかく冷静になってもらおうと、真散はフェブリルをなだめようとしたのだが、
「……つまり、ここに戻る途中に、水を操る魔術師がクラウ君を狙って襲って来たのか。で、今鈴風とリーシェがそいつを食い止めてると」
「何ですかその以心伝心っぷり!?」
いとも簡単にフェブリルの真意を読み取った飛鳥に、真散は戦慄を覚えた。
いったい何なのだ、このふたりの関係は。ツーと言えばカーの関係なのだろうか。『あれ』と言うだけで内容が通じるような熟年夫婦の掛け合いがそこにはあった。
緊迫した空気が流れる。飛鳥はずぶ濡れ状態の使い魔の全身をハンカチで拭いてやりながら、綾瀬理事長に視線を向けた。
「姉さん、悪いけど……」
「分かっています、手遅れになる前に早く行きなさい。《八葉》にはこちらから連絡しておきます」
「助かる」
必要最低限のやりとり。
それでもあの姉弟の間には、確かな意志の交錯があったのだろう。綾瀬理事長が僅かばかりに表情を曇らせたのを、真散は見逃さなかった。
「フェブリルはここにいな。水無月さんも、俺達が戻るまでは学園から出ない方がいい」
真散が返答しようとした時には、飛鳥は窓を開け放ち縁に足をかけていた。
外は未だに滝のような雨が降り注いでいる。飛鳥は苦々しく灰色の空を一瞥した後、一切の躊躇いを見せることなく飛び降りた。
「あ、飛鳥くん――!?」
ここは4階だ。大丈夫だと知っていても、思わず叫んでしまった。
フェブリルと一緒に窓の外へと駆け寄る。落下地点には既に人影はなく、遥か遠くに雨を切り裂くように疾駆する飛鳥の背中がなんとか視認できた。
「アスカ、大丈夫なのかな……この雨じゃ」
「雨が降っていると、何か問題があるのです?」
いつの間にか自分の肩の上に乗っかっていたフェブリルの心配そうな様子に、真散は首を傾げて問い掛ける。
「だって、アスカにとって雨、というか水は――」
「問題ありませんよ」
主を慮る使い魔の言葉を、主の姉である綾瀬が遮った。
「そんな事はあの子もとうの昔に承知しています。そんな『弱点』を、仕方ないと言ってそのまま放置しているほど、あの子は愚かではありませんよ」
椅子の背中にもたれかかり、綾瀬理事長は小さく笑みを浮かべ言い放った。
それは理事長としての言ではなく、弟を信じる姉としての信頼と誇りに満ちた微笑みだった。
(この雨では、流石に能力の使用は難しいな)
人工英霊としての身体能力を如何なく発揮し、飛鳥は弾丸のようにひた走る。
鈴風達が交戦している場所はおおよそ見当がつく。おそらく鈴風が能力を解放して戦っているのだろう、不自然な風の流れが感じられた。
道なりに走ってやる道理はない。学園の柵を飛び越え、崖と言っても過言ではない急傾斜を落下スピードを一切殺さず落ちるように走りぬけていく。
殴りつけるように全身を襲う雨粒と轟風が煩わしい。こんな環境下では、まず炎は出せない。
(紅炎投影は論外。烈火刃もおそらく役には立たないか。……今の俺にある武器は、文字通り体ひとつというわけだ)
飛鳥の能力――炎を統べ、炎を武装する“緋々色金”にとって、『水』というものは不倶戴天の敵と言っていい。
多少の水量なら片っ端から蒸発させるが、この滝にも等しい水勢にはいくら何でも対処しきれない。たとえ無理矢理武装を創ったとしても、あっという間に崩れて消える鈍物しかできないだろう。
大幅なショートカットを終え、道路上に降り立った飛鳥は舌打ちする。
(この状況……『奴ら』が指をくわえて見ているとは思えない)
飛鳥にとっての懸念材料とは水の魔術師だけではない。
《パラダイム》――飛鳥と同じ人工英霊達によって構成された『犯罪組織』。事実上の抑止力であった《九耀の魔術師》がいない以上、奴らが動き出すとすればこの機をおいて他にない。今回の魔術師の襲撃も同じ理由なのだろう。
この白鳳市は間違いなく荒れる。1+1の計算よりも簡単に導き出せる答えだった。
(鬼のいぬ間に何とやら、か。この1週間はとんだ逆境だな)
だからと言って、クロエや霧乃に頼りきりなど飛鳥の矜持が許さない。
幸いにも、今の飛鳥には肩を並べて戦ってくれる仲間がいる。昔とは違う。
「無茶だけはしてくれるなよ……!!」
そんな大切な仲間の危機を思い、飛鳥は更に両足に力をこめた。
雨も嵐も、この疾走の勢いを妨げることはできない。混沌を見せる戦場を打開すべく、真紅の一刀が荒天を切り開く。
雨が降ったら役立たず――どっかの大佐も言われてましたが、弱点が分かっているなら対策のひとつやふたつ考えるというもの。飛鳥が考えた『対策』は既に今までの話で出てきています。単純だけど確実な対策が。