―Intermission04 5月31日・後編 ―
寒い。
「ぶ、部長?…………今、なんて」
下顎が震えて、自分の歯がガチガチと鳴るのが耳障りだった。
もうすぐ夏だというのに、どうしてこんなにも寒いのだろうか。
思考が雲のように千切れてまとまらない。
「なんです、聞いてなかったのですか? 楯無さんは相変わらずですね」
間違いなく聞こえていた。ただ疑っただけなのだ。
自分の耳は本当に正常なのか。村雨蛍が――厳しくも優しい剣道部の先輩が、本当にそんなことを言ったのか。
ついこの間まで、共に竹刀を握って切磋琢磨してきた。清廉で、優美で、実直で、そんな彼女が剣を振る姿は『舞姫』とも讃えられた。
しなやかで、それでもけして折れない、柳のような強さを持つこの人が、鈴風にとっては憧れであり目標でもあった。
だから、おかしいのだ。
「初めて人を殺した感想はいかがでしたか――そう言ったのですよ」
こんなことを言う人を、鈴風は知らない。
悪魔のような酷薄な笑みを浮かべ、全身が凍りついてしまうような濃密な殺意を漂わせる目の前の『誰か』が、自分の知る村雨蛍であるわけがない。
「いったい、なんの……何の話ですか」
「ふふっ、とぼけなくても構いませんよ。これでも私は、《パラダイム》という組織に所属する人工英霊でして。ここ1ヶ月の間、貴女の身に何がおきて、何があったのか。すべて知っていますよ?」
蛍は世間話のような口調で、実にあっさりと「私は貴女の敵だ」と言ってのけた。
意識がぼんやりとする。
足元がおぼつかない。
夢でも――それもとびっきりの悪夢をだ――見ているような心地で、喉から声が出ない。
「いやいや、貴女が人工英霊になってからのデータを拝見しましたが……実に素晴らしいですよ。私も部活の先輩として鼻が高かったです。発現直後にも関わらず、すぐさま自身の力を掌握し、実戦に挑んだ適応力。そして何より……」
「あ……や……」
ダメだダメだ。その先を聞いてはならない。
理由は分からないが絶対に駄目だ。
手術台に拘束され、腹を切り裂き解剖されているような最悪の感覚に、鈴風は耳を塞いで逃げ出したくなる。
だが、動けない。下半身が石になったかのように、完全に『逃げる』という指示を受け付けなくなっている。
「フランシスカ=アーリアライズ。貴女が彼女を――」
もう、間に合わない。
昏い狂気を纏った女は、心の底から鈴風を称賛した。
「何の躊躇いもなく殺したことが! 私は歓喜しました。ああ、この世界に『勇者』は実在したのだと! 正義を掲げ、悪を弾劾する――そんな英雄的行為を当たり前のようにやってのけたのですよ、貴女は!!」
――――――――――――言葉が、出ない。
そう、普通に考えればこれはおかしいのだ。
《ライン・ファルシア》で繰り広げた最後の戦い。
あの黒鉄の蜘蛛を操る白髪の女は、異世界に住まう有翼人をただの餌としてしか認識しておらず、ジェラールを利用してリーシェの『兄殺し』という悲劇を演出した。
彼女は紛れもない『悪』であり、許されざる存在だった。
だから殺した?
「その様子だと、どうやら『人を殺した』とすら考えてなかったようですね? ますますもって素晴らしい」
その通りだ。
鈴風は自分の意思でフランシスカを手にかけた。
それを成し遂げたことを、勝利したことを心から喜んだ。
この過程には本来、普通の人間であれば避けられない通過儀礼が抜けてしまっている。
なぜ気付かなかった?
どうして、どうして!?
「人はどんな相手であれ『殺人』というものに強烈な抵抗を覚えるものです。仮に、殺さなければ殺される――正当防衛だったとしても、そう簡単に割り切れるものではありません。罪悪感に苛まれ、精神を病んでしまったという事例も珍しくありませんよ」
蛍の言葉はまったくもって正論だ。
それこそ紛争地域のような、殺し殺されるというのが当たり前の環境に放り込まれれば、生きるために割りきるしかない。
いずれ、大勢の人を手にかけても心を乱さないようにもなるのかもしれない。 蛍のように、人斬りに酔いしれて心のたがを外してしまうかもしれない。
だがそれは結果論だ。
蛍とて最初から殺人狂であったわけではない。
(人を殺しておいて、なんであたし……何とも思わなかったの!?)
しかし鈴風には、殺人という行為に対して、忌避感も葛藤もまるきり存在しなかったのだ。
百戦錬磨の軍人でもなければ、血を好む戦闘狂でもない。
人を殺したことなんて考えたこともない、日常に生きるひとりの女子高生に過ぎなかった。……それがなんだ?
――悪いやつがいました
――じゃあ殺そう
恐ろしく単純で純粋な論理が自分の中に成立していて、それをおかしいとすら思わなかったことに――鈴風は心臓を鷲掴みにされた思いだった。
「さぁて」
「――――ッ!!」
ねめつく視線を受けて、鈴風は恐怖で全身を強張らせた。
そうだ、考えている暇はない。
今、目の前に敵がいるというのに何をぼうっとしているのか!!
一瞬で意識を切り替え、いつでも武装できるように力を漲らせる。
「どうして、部長が《パラダイム》なんかに……知ってるんですか、あいつらは平気で人体実験するような、人の命を何とも思っていない――」
「く……ふ、ふふふっ」
「何が、おかしいんですか……」
「人の命を何とも思っていない――そんな台詞、今の貴女がよく言えたものですね?」
「後輩いじめとは感心しませんね、村雨さん」
「あら」
「クロエ先輩……?」
部活棟の近くがやけに騒がしいかと思ったら、意外な2人が口論しているのが見えた。見る者を不快にさせる粘ついた笑みを浮かべる蛍と、その隣で、血の気をなくして顔を真っ青にしている鈴風の姿。
しかも内容が内容だ、生徒会長としては見過ごすわけにもいかなかった。
「人通りがなかったからいいものの、あまり白昼堂々とする話には思えませんが……?」
「それは失礼致しました。……ああ、そういえば会長、先日はどうも」
「?……何のことでしょうか?」
とぼけたように首を傾げるクロエに対して、蛍は先程までの笑みを消し、妖刀を思わせるような鋭い眼差しを飛ばしてきた。
無論、ただの挑発である。
小刻みに握った拳を震わせている悪女に向かって、魔女は追い打ちの言葉を撃ち放つ。
「ああ、思い出しました。そういえば先日、『サイクロプス』の近くで盛大に嘔吐されていたのは貴女でしたか。大変汚らわしい光景でしたので、つい記憶から消去していました」
今度は、蛍が完全に言葉を失う番だった。
先程までの会話の内容からして、蛍は鈴風を相当に追い詰めようとしてたようだ。
そんな彼女の仇討ち――などでは決してなく、単なる意趣返しと言ったところか。
「どうしました、顔が真っ赤ですよ?」
「……い、いいえ、お気遣いなく。では私はここで、失礼致します」
流石に日中の学園内で事を構えるつもりはないようだ。はっきり言って、口でも力でもクロエは蛍よりも遥か上を行っている。
相手もそれを重々理解しているのだろう。早足で離れていく様子からは明確な焦りが見てとれた。
「――次は殺します」
「それは楽しみですね、お待ちしています」
すれ違いざまに互いに叩き込まれる殺意の応酬。
何も知らない生徒が見ていたら、卒倒してしまいかねないほどの血生臭い殺気が2人を中心に放出されていた。
振り向くことは無く、背中越しに蛍の気配が遠ざかるのを確認したクロエは、目の前で放心したままの鈴風の頭を軽く小突いた。
「何を道端で呆けているんですか。頭をぶつけすぎて、ついにボケましたか?」
「…………」
おかしい。
普段の彼女なら、すぐさま噛みついてくるか、憎まれ口のひとつでも叩いてくるかと思っていたのだが……しかし期待した反応はなし。随分と滅多打ちにされてしまったようだ。
「貴女のような阿呆がひとりで悩んでいても、答えなど出るはずないでしょう。面倒ですが話してみなさい、何を考えているのです?」
「……先輩。あたしって、やっぱり変なのかな」
鈴風はうつむいていた顔を上げ、力を失った表情でぽつりぽつりと語り始めた。
いくら敵とはいえ、手にかけたことに対して自分が何の感情も抱かなかったこと。悩むことも苦しむこともなく、ただ『正義』を貫いたというあまりに異常な純粋さ。
一通り聞き終えたクロエの感想は、
「……はぁ。あれから1ヶ月も経ったというのにようやく気付いたのですか。飛鳥さんが心配していた通りですね」
「飛鳥が……?」
「貴女の考え方がおかしいことくらい、最も身近にいた飛鳥さんがお気付きにならないはずがないでしょう?」
茫然とする鈴風に、クロエはなるべく感情を入れずに淡々と話し始めた。
「そもそも、フランシスカは飛鳥さんと2人で倒したのでしょう? 私から言わせれば、飛鳥さんが貴女にとどめを委ねたこと自体が不自然でした」
飛鳥は『家族』や『仲間』が傷付くことを何よりも忌避する。
そうなるくらいなら、傷付くようなことは自分がすべて引き受ける――そんな自己犠牲ここに極まれりという人格の持ち主だ。それは普段の言動や、あらゆる戦況に対応する戦術形態にも表れている。
そんな彼が、どうして鈴風と共にフランシスカを倒すという判断をしたのか。
「そ、それは……あたしが人工英霊になって、背中を預けてもいいって――」
震える声で答えようとする鈴風だったが、最後まで言葉が続くことは無かった。クロエの手が彼女を胸ぐらを掴み、壁に強かに叩きつけたからだ。
「がっ!?」
「……あまり調子にのっていると、本当に縊り殺しますよ?」
声は平静でありながら、クロエの感情は完全に憤怒に振り切っていた。
このまま絞め殺さんばかりの激情の発芽に、鈴風の唇がわなわなと震えていた。
「飛鳥さんはいつだって、私達が戦わないことを望んでいる」
危険な目にあってほしくない、人を殺して欲しくなんかない――飛鳥は盲目的にそう願っている。
『サイクロプス』でクロエが駆けつけた際もそうだ。
飛鳥はクロエが来たことに対して、喜びよりも、彼女に手を汚させてしまったことに、自身の力の無さを強く悔やんでいた。
「じゃ、じゃあどうして……」
「鈴風さん。貴女、飛鳥さんが「戦うな」と言ったら素直に従いますか?」
小さく首を横に振った鈴風に、クロエは大袈裟に溜息をついた。
幼馴染である彼女が理解できずに、たかだか1年の付き合いである自分はすぐに理解できた、と言うのも皮肉な話ではあるのだが。
「だから飛鳥さんは、貴女は『戦いの恐ろしさ』を、『人を殺す』というのがどういう意味なのかを教えようとしたのです。……普通なら、殺す恐怖、殺される恐怖を目の当たりにして、戦うことを委縮するでしょう。ある程度強い精神を持っていれば、その苦痛に耐えながらも、死の恐怖というものをしっかり胸に刻むはず。少なくとも命を軽んじるような真似はしなくなるでしょう」
あ、という蚊の鳴くような呟きが鈴風の口からもれた。
ようやく気がついたかと、クロエは呆れを通り越して失望の表情を見せた。
「飛鳥さんは、取り返しがつかなくなる前に、貴女に戦いを諦めさせたかった。最初の戦いで人を殺す経験をさせて、それで諦めてくれるのならば重畳。せめて、少しでも戦うことに躊躇いを覚えてくれれば上出来だとお考えだったのでしょう。……それを貴女は」
考えもしなかった、だと?
どこまで人を虚仮にしたら気が済むのか。
手を離し、鈴風を解放する。ぺたんと地面に膝をつく彼女に、クロエは続けて言い放つ。
「……来週から、私と霧乃さんはしばらく日本を離れます」
「え……なに、いきなり……」
いきなり話が変わったことに、鈴風は頭がついていっていないようだったが、クロエは構わず言葉を続ける。
「飛鳥さんには既にお話ししていますが、《九耀の魔術師》が一同に会する集まりに出席しなければなりません。……その間に、飛鳥さんの周りで何かよからぬことが起きる可能性が非常に高い」
《九耀の魔術師》の雷名は、特に抑止力として強い効果を持つ。核爆弾と同じだ。使わなくとも、存在そのものが争いを抑制している。
だが、それが一時的とは言え遠方へと離れるのならば、その間に行動をおこす輩には大勢心当たりがある。
先の村雨蛍が所属する《パラダイム》だけではない。
霧乃も懸念していたようだが、自分達以外の《九耀の魔術師》による干渉が入る可能性も十二分にあるのだ。
それだけ、この白鳳市という場所には『価値』があると、クロエは考えている。だからこそ、
「……こんな女に、飛鳥さんを任せなければならないなんて」
大きく事態が動き出すであろうそんな時に、飛鳥と共に戦える人間がこの様では心配でならないのだ。
クロエは頭に手をやり煩悶する。
「鈴風さん。私は貴女が何に悩んでいようが、どこでどうのたれ死のうが興味はありません。ですが、もし飛鳥さんの御心を乱すような真似をすれば……私は貴女を絶対に許さない」
「…………」
「言っておきたいのはそれだけです。……せめて、私達が発つまでには立ち直っておきなさい」
鈴風の返答を待つことなく、クロエは踵を返して歩き出す。
クロエはいちいち恋敵を慰めてやるほどお人好しではない。
しかし心のどこかで、楯無鈴風はこの程度で立ち止まるような女ではないと、確信にも等しい予感を感じていた。
「まあ、この程度で潰れてくれるようなら、私もいちいち思い悩んだりはしませんけど」
少年漫画のライバルキャラではあるまいに。
憎まれ口で発破をかける形になって、クロエは心中複雑だった。
「……ふんっ!!」
鈴風は両手で自分の頬を思い切り叩き、無理矢理自分の心を奮い立たせた。
少しばかり覚束ない足取りで立ち上がり、スカートについた土埃をぱっぱと払う。
「クロエ先輩に心配されるなんて、あたし、ほんとダメダメだ……」
彼女の言葉は冗談など微塵もない、嘘偽りのない本心だろう。
仮に自分の行いによって飛鳥を悲しませるようなことがあれば、間違いなくクロエは鈴風を殺しに来る。
「殺されるのは嫌だもんね……頑張らないと」
頑張ると言っても、鈴風には考えるべき事柄が山積みだった。
部活の先輩であった村雨蛍が、実は『悪の組織』の一員であったこと。
クロエと霧乃がいなくなる来週に来たる、見えざる脅威。
そして、楯無鈴風という人間の精神の異常性。
(考えなきゃ、悩まなきゃ。そして何より、うずくまって走るのをやめちゃダメだ)
馬鹿なら馬鹿なりに全力でやるしかない。
後悔しないように。
胸を張って彼の隣に立てるように。
だから、
「……とりあえずは、クラウくんに土下座かな」
今できることに、全身全霊でぶつかっていこう。
そうやって見える答えもきっとある。
そう自分に言い聞かせ、苦痛も苦悩も呑み込んで歩き出した。