―第2話 Before Trial―
しばらくはベタなラブコメ。
――7年後。
2029年4月25日、午前6時35分。
「よし、こんなところかな」
日野森飛鳥の朝は早い。
平日は毎日6時前に起床し、まず5人分の朝食を用意することから始まる。
今日の献立は炊き立ての御飯に大根の味噌汁、焼鮭の切り身、ほうれん草のおひたしに特製の出汁巻き玉子。
これぞ日本の食卓といった光景が、年季の入った和机に並んでいた。
そろそろ皆を起こしに行こうか、と考えていると、
「おはようございます飛鳥さん、朝からお疲れ様です」
「おはようございますクロエさん。……あれ、今日は珍しく遅いですね?」
「はい、朝食の準備をお手伝いさせて頂こうかと思ったのですが……ごめんなさい、寝過ごしてしまって」
遅かったようですね、と残念そうに呟いた少女の名はクロエ=ステラクラインという。
腰元まで伸びたプラチナブロンドを揺らすその姿は、まるで中世のお姫様のようだ、などと彼女と出会った当時の飛鳥は思っていた。
それにしても珍しい。
普段のクロエは飛鳥とほぼ同じ時間に起床し、一緒に朝食の準備をするのが通例だった。……と、言っても特に約束しているわけではなかったが。
それに飛鳥は家事大好き人間であるため、こういった朝の支度を苦に感じた事もなく、少なくとも彼女を咎める理由は存在しなかった。
どうやら寝坊――と言うのも正確ではないのだが、少なくともクロエにとってはそうだった――したのだろう。
ちょっぴり寝癖がついたままになっていることからまだ起き抜けのようだ。透き通った川のような髪の流れが一部分だけ明後日の方向に氾濫しているのは中々にユーモラスである。
いけないと思いながらもつい噴き出しそうになってしまう。
しかし、視点を彼女の髪から全身に向けた瞬間、飛鳥は気付いてしまった。
「ところでクロエさん」
「はい?」
「……大変言いづらいのですが」
「???」
飛鳥は頬を赤らめ、目をそらす。
何事かと首をかしげるクロエだが、ここに至ってようやく気付いた。今の自分の姿は寝起きであるということに。
彼の視線を辿っていくと、そこは自分の胸元。パジャマのボタンが上3つまで外れて盛大にはだけていた。
「あの……見えてます」
「――ッ!?」
そして、下着が丸見えになっていることをようやく認識。
目が泳いだままの飛鳥、フリーズするクロエ。
チッ……チッ……と壁時計の秒針の音だけが二人の間に響く。
(ああしまった、今日は勝負下着ではありませんでした……じゃなくて!)
「しっ……失礼しましたぁぁぁっ!!」
脱兎のごとく、クロエはドタバタとした足取りで走り去って行った。
普段はしっかりしているのに、朝だけはどうにも抜けてしまっている彼女だった。
いつも通りの日常に飛鳥は苦笑を浮かべていると、
「朝から騒がしいなぁもう……ってうわっ先輩!?」
制服姿の少女がクロエと入れ替わりで居間に入ってくた。
肩口で切り揃えられた亜麻色の髪。朝もまだ早いにもかかわらず、眠気など微塵も垣間見えないぱっちりと開いた大きな目は、クロエとは対照的で、気が強く活発なイメージを与える。
楯無鈴風。
飛鳥とは10年来の幼馴染であり、互いの家も徒歩1分という素晴らしい距離である。
飛鳥が朝食を作るようになってからは、毎日のようにそれをたかりに来るのが当たり前になっており、飛鳥も特に驚く事なく鈴風を居間に招き入れた。
「クロエ先輩どしたの? 顔真っ赤だったけど……飛鳥、いったいなにしたのさ?」
クロエが自分の部屋に飛び込んでいくのを後ろ目で見届けた後、鈴風は訝しげな視線を飛鳥に向ける。
「あー、なんだろうな?」
何を言っても藪蛇にしかなるまい。
クロエの名誉を守るためと保身を半々に、飛鳥は言葉を濁す。疑念の眼差しのまま、むぅと唸る鈴風だったが、
「……まぁいいや。それよりごはんごはんっ……おおっ、今日はだし巻き玉子だ!!」
空腹が優先したのか飛鳥への追及を止め、今日の献立に一喜一憂する。ちなみに飛鳥特製の出汁巻き玉子は鈴風の大好物であった。
うまく話をそらせてほっとした飛鳥は、
「まだ食べちゃだめだぞー。ちゃんとみんなが揃ってからな」
「わかってるよぅ。というかあたしは犬ですか、そんなに我慢できないように見えますか?」
見えるから言っているのだが……と条件反射で答えそうになったが、間違いなく厄介なことになるので、飛鳥はすんでのところで言葉を飲み込む。
さて、そろそろ他の面々も起きてくる時間だ。
目の前のわんこに気を取られている場合ではない。飛鳥は早く準備を済ませてしまおうと再び動き出した。
「ごっはん、ごっはん♪ 飛鳥~、あたしごはん大盛りね!!」
鈴風はいつの間にやら座布団を敷いて、いつもの自分の席にどっかと座りこんでいた。手伝うつもりはまったくもって無いようだ。
これもまた今更な光景であり、飛鳥は軽く溜息をつくのだった。
午前7時00分。
いただきます、と朝の食卓に響く5人分の声が重なった。
食卓を囲むのは飛鳥、何故か落ち込んだ表情でおひたしを口に運んでいるクロエ、凄まじい勢いでご飯をかきこんでいる鈴風、そして、
「悪い綾瀬、醤油とってくれ」
焼鮭を頬張りながら、味付けが薄かったのか醤油を催促する作務衣姿の偉丈夫と、
「……塩分の取り過ぎです。もう少し薄味に慣れて下さいな」
そう言いながらも、仕方のない人ですねと手元にあった醤油差しを隣に座る男性に手渡す着物姿の女性。
「ふむ……飛鳥、また腕をあげましたね」
「ありがと姉さん。味噌汁の出汁を変えてみたんだけど、口に合って良かった」
飛鳥の姉、日野森綾瀬が弟の手料理に賛辞を送る。
彼女の出で立ちはこの和室にあまりにも調和していた。
薄く紫陽花の柄が描かれた藍色の着物を身に纏い、飾り気は少ないが気品が感じられる髪留めで長い髪を結っている。
細く吊り上がった両の眼は力強さを感じさせ、着物姿と相まって貫禄すら感じられた。
一足先に食事を終えた彼女は手を合わせ、
「さて、私は先に学園に行っています。3人とも遅刻などしないように」
『雅』と表現すればいいのだろうか。
立ち上がり、部屋を出て行くまでの動作一つとっても彼女の立ち居振舞いは様になっていた。
「流石は綾瀬さんですね、ああいった気品のある姿には憧れます」
「あれでウチの学園の理事長ですからね。お偉いさん相手に舐められないようにって頑張ってるみたいです」
綾瀬は、飛鳥達が通う《私立白鳳学園》の理事長を若くして勤めている。
自分たちには解らない苦労もあるのだろう。誇らしさと心配がないまぜになった表情で、飛鳥は姉の背中を見つめていた。
綾瀬が退出をするのを見送った後、作務衣姿の男性もまた重い腰を上げた。
「それじゃあ、俺もそろそろ行ってくるわ」
「和兄、今日は戻ってこれるの?」
和兄と呼ばれた男性――高嶺和真は申し訳なさそうに手を合わせた。
「あぁ……悪い、またしばらく帰ってこれそうにねぇんだよ。すまねぇけど綾瀬にも謝っといてくれ」
自分の口で伝えてほしいところだが、和真の仕事を知っている飛鳥はあまり強くは言えなかった。
昨年めでたく姉と入籍し、名実ともに日野森家の主となった和真であったが、今でも彼は『高嶺』の名字を名乗り続けている。
夫婦別姓であることに、和真と綾瀬の間でどのような意味があったのか――あまり不遠慮に踏み込める話題でもないため、飛鳥には測りかねていた。
「ともかく気をつけて。あんまり姉さんを心配させないように」
「お前は俺のおふくろか……ま、ともかく後は頼むな」
これから和真がどこに行くのか、彼がいったいどのような『仕事』をしているのか。誰よりもそれを理解していた飛鳥は、言葉は少なく、ただ無事に帰ってきてほしいことだけを伝えた。
手をヒラヒラと振って部屋を後にする義兄に向け、横合いから空気を読まない声が滑り込んできた。
「いってらっしゃーい。あ、和兄さん、お土産はお菓子がいいなー」
「相変わらず食い意地張ってんな鈴風……今後嫁の貰い手が見つかるのか、お前の兄貴分としちゃあ心配でならねぇわ……」
「んなっ!? よ、余計なお世話だっての! それに、いざとなったら……」
(待て、そこで何故こちらを見る)
頬を赤らめこちらに視線をやる鈴風と目が合ってしまった。不穏な、というかどこか甘酸っぱい雰囲気が仄かに流れ出したが、
「いざとなったら……何ですか?」
「すいません何でも無いですごめんなさい!!」
それは一瞬の内に霧散した。
クロエが浮かべた微笑みの後ろには夜叉が居た。それは鈴風が条件反射で土下座してしまうほどの恐怖であった。
なんだか場の雰囲気がグダグダになってしまった。
場を和ませようとしたのだろうと信じながら、飛鳥はため息交じりで鈴風達の漫才にも似た掛け合いを見つめていた。
午前7時50分、通学路。
「綾瀬さんも和真さんもお忙しいのですね」
「はい、2人ともしばらくは家には帰れそうにないみたいで……」
「そうですか…そうなると、しばらくは家では飛鳥さんと2人きりですね」
ほんの少し、隣を歩く飛鳥との距離を詰めてきたクロエはそう言って微笑みかけてきた。
飛鳥と2人きり、という環境は彼女にとってはまたとないチャンスであった。
クロエ=ステラクラインはとある事情で約1年前、はるばるイギリスから日本にやってきた。
現在は飛鳥達の計らいで、日野森家にホームステイしつつ、留学生という名目で白鳳学園に通っている。
当初は飛鳥達とも数々の軋轢があったものだが、同じ屋根の下で過ごしていくうちに今では家族同然のように扱ってもらっている。中でも飛鳥に対しては格別の感情を抱いており、クロエ自身、これはきっと恋という感情なのだろうと漠然と感じていた。
しかし、彼女の立場上、いつまでも日本に滞在できるとは限らない。
いつか必ず、自分の想いを彼に伝えなければ――そう決意を新たにしていたクロエ。だが、そうは問屋が下ろさないといわんばかりに、
「それで、よかったら今日は私と――」
「そんなことより飛鳥、昨日の話考えてくれた?」
「剣道部の助っ人の事か? あれはもう断っただろうに」
「そうなんだけどね……やっぱり、ダメ?」
横合いから鈴風が2人の会話を奪ってきた。
クロエが飛鳥に対してアプローチをかけているのは誰が見ても明らか、焦っているのは鈴風も同じだった。
鈴風から見ると、クロエはいきなり自分と飛鳥の間に乱入してきた『お邪魔虫』なのである。
とは言え鈴風はクロエのように、飛鳥といわゆる男女の仲になりたいと考えていた訳ではない。
恋人云々というよりは親友というポジションが一番しっくりくる、と鈴風は考えていたのだが……ああも堂々と飛鳥にアタックを仕掛けるクロエを見ていると、どうにも腹の虫が収まらない。
単なる対抗心か、女としての本能か。
自分でも、何故クロエに噛みつこうとしているのかよく分かっていない鈴風であった。
あけすけな乱入にむっとしたクロエは、若干の怒気をはらませて鈴風に注意する。
「ちょっと鈴風さん、飛鳥さんが困っているでしょう?」
「むむ、先輩には関係ないでしょ。これはあたしと飛鳥の問題なんですから」
「関係あります、私は飛鳥さんの家族なんですから。それにさっきの助っ人とは何ですか、私はそのような報告を受けていませんよ?」
「明日が剣道部の大会なのは知ってるでしょ。けど1年の子が怪我しちゃったから団体戦に出られなくて……」
「ああ……確か篠崎美憂さんでしたか。確か、先日交通事故に巻き込まれて腕を挫いてしまったと」
飛鳥もそのことは聞いていた。
鈴風がどれほど剣道に対して真剣に取り組んでいるのかも、どれだけ今回の大会に懸けていたのかも――伊達に長い付き合いではない――理解していた。
そのため、飛鳥としては快諾したいところだったのだが、それはどうにもフェアではない。
単純に自分が剣道部員ではないからというのもあるが、一番の問題は飛鳥自身だ。
自惚れでも何でもなく、飛鳥は自分の身体能力ならば、誰が相手でも勝ってしまうという確信を持っていた。
自分はもはや、人間と呼ぶにはあまりに破格のポテンシャルを所持している。
銃弾の軌道すら見切る事ができるというのに、今さら高校生の竹刀程度に当たるはずがないのだ。
そして飛鳥と違い、鈴風は普通の人間だ。
だからこそ、自分がその中に介入してしまってはスポーツマンシップ、というより懸命に切磋琢磨する鈴風達への冒涜であると飛鳥は感じたのだ。
「だからと言って助っ人など許可出来ません。外野の人間を頼って得た勝利など意味がないでしょうに」
「……分かってるよ、そんなの。それでも」
「それでもだ鈴風。部員でもない人間がしゃしゃり出て、それで勝っても嬉しくないだろう? 鈴風が今までずっと頑張ってきたのは知ってる。だからこそ俺もそんなことで鈴風や剣道部の皆に泥を塗りたくはないんだよ」
優しくゆっくりと言い聞かせる飛鳥に、鈴風はむぅと唸っていた。
やはり彼女としても、部外者を巻き込んでまで大会に出ることを良しとは思っていないようだ。
「……そっか、そうだよね。よーしそれじゃあ団体戦に出れない分、個人戦で賞を総ナメにするまでよー!!」
この分なら大丈夫だろう。すぐに気持ちを切り換えられるのは彼女の美徳だ。
正直言って、鈴風がどうしてもと頼んできた場合、飛鳥は助っ人を引き受るのもやむなしと考えてはいたが……今の様子なら心配なさそうだ。ひとまず安心かと息をついた。
……あれ、そういえば? とここで飛鳥は先の会話の流れを遡ってみた。
「クロエさん。さっき何か言ってませんでした?」
「うう……なんでもないです……」
割と勇気を出していて切り出したにも関わらず、なし崩しに話が終わってしまってずぅんと落ち込むクロエだった。
今日は和真も綾瀬も家に帰らない。
折角なので飛鳥と2人で放課後デートと洒落こみたかったのだが……それを言い出せるような雰囲気ではなくなってしまった。
空振りに終わったアプローチに彼女は哀愁を隠せずトボトボと歩いていく。
「ほらほら早く行くよー、置いてっちゃうよー!!」
いつの間にか随分と先に行っていた鈴風が、ブンブンと大きく手を振って2人を呼ぶ。
「ああもう、待ってください――ってうきゃあ!!」
クロエは慌てて彼女に追いつこうとしたが、急に走り出したため躓いて転びそうになる。
嗚呼、泣きっ面に蜂とはこのことか。
前のめりになりながら、
(る~る~、私は地面とキスしてるのがお似合いという事ですね、そうなんですね……)
地面に激突する一瞬の間に異様なネガティブさを発揮するクロエだった。
「――っと!……大丈夫ですかクロエさん?」
だが運命は彼女を見放さなかったようだ。
飛鳥がすんでのところで彼女を抱きとめていた。危ない危ない、と飛鳥は安堵していたが、如何せん抱きとめかたが悪かった。
前のめりになったクロエを背後から抱きとめた事で、飛鳥の手に広がる魅惑の感触。
この心地よい柔らかさは、もしかして――
「あ……あぅ……」
ゆでだこの様に顔を真っ赤にして振りかえったクロエと目が合った。
何故かその表情に嫌悪感は見当たらず、羞恥心と言うよりはむしろ喜悦の混じった感情が見え隠れしていた。
そこにほんの少しクロエが身をよじったことにより、更に両手がふにょん、という音が聞こえるかの如く柔らかで豊満な感触に沈み込んでいく。
砂糖菓子のような甘い誘惑に飛鳥の思考は完全に麻痺していた。
(結構、ご立派なものをお持ちのようで……って何をじっとしている!!)
「っご、ごめんなさい!!」
「い、いぃぃぃえこちらこそ、お粗末さま(?)でした!!」
雷のような反応で両手を離脱させ、クロエと距離をとる飛鳥。
ぺこぺこと頭を下げあう2人だったが、飛鳥は照れくさそうに頭をかき、クロエは頬を赤らめながらも満開の花のような笑顔を見せていた。
「…………あ、あはは」
「…………えへへ」
そして、そんな『甘酸っぱい青春ラブコメ』を見せつけられていたもう一人。鈴風は静かに決意する。
「……うん、とりあえず蹴っとこう」
だらしなく鼻の下を伸ばして歩いてくる(鈴風にはそう見えている)あの男に、乙女の純情とかその他いろんなものを込めた渾身の一撃をお見舞いしてやろうと、鈴風は利き足に大きく力をこめた。
午後12時40分。
昼休みである。
飛鳥は弁当を片手に校舎の屋上へと繋がる重い扉を押し開けた。
空を見上げると雲ひとつない快晴。清涼な空気を大きく吸い込んだ後、周囲を見渡す。
「何だ、こんなところにいたのか?」
「飛鳥か。……どうした? 何やらダメージを受けているようだが」
いまだに鈍痛が残る、鈴風の一撃を受けた腹部をさすりながら、屋上の一角に寝転がっている男に近づいていく。
季節はすでに春本番とはいえ、屋上の風はまだまだ肌寒い。
こんなところでよく昼寝できるものだと思いながら、飛鳥は男の横に腰を下ろし、溜息混じりで今朝の出来事を語り始めた。
「あっはっは! 楯無も相変わらずだな。まあ学園のアイドルたるクロエ会長の胸に触るだなんて役得があったんだ、当然の報いだろう」
「いや笑ってるけどな……あいつ、なまじ武道の心得があるから結構な威力だったんだぞ? 朝飯を戻さなかった自分を褒めてやりたい」
そう言いながら目の前の親友、霧谷雪彦に目を向ける。
色素の薄い長髪を後ろで縛っており、後ろ姿だけ見ると女性と見間違えてしまいそうな線の細い体躯。しかし黒縁の眼鏡からのぞく蒼の双眸は氷のようで、視線を合わせた相手を文字通り凍りつかせんばかりに鋭く尖っている。
その目つきの悪さで誤解されがちだが、雪彦自身は人当たりのいい朗らかな性格だ。
「そういえば当の楯無だが、お前に剣道部の助っ人を頼んでいなかったか? ……飛鳥、結局断ったのか?」
「ああ、理由はどうあれ俺が出るわけにはいかんだろう。真面目に剣道に取り組んでいる人への冒涜だ」
「考えすぎだと思うがな……まあ確かに、お前が出たら試合にはならないだろうが」
否定も肯定もせず、飛鳥は無言のまま空を見上げる。そんな姿に、雪彦はかねてから思っていたことを問いかけた。
「今回の件に限ってじゃないが……お前は妙に周りから一線を引きたがっているように見える」
いきなり何を、と問いかけようとするが雪彦に手で制される。レンズごしの眼が、いいから聞けと飛鳥に訴えかけていた。
「お前がほかの皆に対してその力で負い目を感じているのは分かっている。だがな、それを人間関係に当て嵌める必要が本当にあるのか? それに楯無と会長がお前をどう思っているのか、気付いていない訳ではないだろう?」
「それは……だがそれを言えばお前はどうなんだ、雪彦?」
「俺は元々そんなに人付き合いの良い方じゃあない。日々の糧を得て静かに生活出来れば何の文句も無いからな。……だがお前はそうもいかないだろう。あの2人のようにお前を慕い、必要とする人間をお前は無視できない――お前が“人工英霊”であろうと、そうでなかろうと」
それは飛鳥が常に頭を悩ませている課題だった。
飛鳥が今の身体になってからずっと考えていた事。
自分はこのまま、のうのうと普通の生活をしていていいのか。自身の能力のせいで何の関係の無い人を――関係の有る無しの問題ではないのかもしれないが――危険に晒してしまうのではないか。
英雄は孤独だなんてマンガの世界だけの話だと思っていたが、いざ自身がそれに近い立場――飛鳥は自身を英雄視したことなどただの一度もないが――になるとそんな発想が現実味を帯びてくる。
雪彦の問い掛けに、飛鳥は一言も発する事は出来なかった。
簡単に答えを出すべきではないのかもしれない。
どんな選択をするのであれ、自分はその選択の責任を取らなければならないのだから。
「……いや、すまん、出しゃばり過ぎたな。だが一度考えてみてくれ。俺としては、楯無や会長、それにお前の落ち込んだ姿は見たくないからな」
「……雪彦」
「ん?」
「いい奴だな、お前……」
「……やっぱり忘れてくれ。柄にもないことをしゃべり過ぎた」
特にからかう意図はなく率直な感想として飛鳥は呟く。
しかし、思えば結構恥ずかしい発言だった様な気がする。遅れてそれに気付いた雪彦は慌てて飛鳥から目を背ける。
と、そこに、
「あ~飛鳥、こんな所にいた! 探したんだよー、もう」
「飛鳥さん、お昼を御一緒しませんか?」
噂をすれば、だろうか。
鈴風とクロエが、飛鳥を見つけるや否や――互いを牽制しあうように――彼の両隣へと座りだす。男同士の語り合いの場が、あっという間に姦しい桃色空間へと早変わりした。
皮肉めいた苦笑を隠そうともしないまま、雪彦は静かに立ちあがる。
「あれ、ユッキーいたんだ?」
「ああ、俺の存在は気にするな、後は若い男女に任せて退散するよ」
「はい、飛鳥さん。あーんしてください」
「ちょぉぉぉっとおぉぉぉっ! どさくさに紛れて何しようとしてるんですかぁ!!」
「なんです鈴風さん? 同じことがしたいなら霧谷くんにすればいいでしょう?」
「結構です!!」
雪彦が打ちひしがれていた。
華麗に立ち去ろうとしたのだろうが、鈴風の心ない一言が胸に突き刺さったようだ。
飛鳥は無言で哀愁漂うその背中に合掌した。
「ささ、昼休みも長くありませんし早く食べちゃいましょう。それでは飛鳥さん、あ、あーんして、ください」
「だからさせるかってえの!!」
「ちょっと2人とも、近い、近いって!!」
2人の顔が、触れ合わんばかりまで飛鳥の目の前に近づいてきている。端から見たら、もはやキスする寸前にしか見えない。
結局、昼休み終了のチャイムが鳴り響くまで仁義なき女の戦いは続いていた。
午後3時10分。
「――と、言う訳で現代の科学技術はここ10年で飛躍的で向上したとされている。何故か分かるか……楯無!!」
「…………むにゃ?」
今は現代史の授業中だ。
2029年現在に至るまでの科学技術の変遷という、飛鳥にとっては実に興味深い授業の内容だった。
しかし隣に座る、否、机に突っ伏して爆睡をかましている楯無鈴風にとってはそうでもなかったようだ。
つかつかと鈴風の席に歩み寄る社会科教師。
その気配に気づいたのか、うにうにと眠気眼で顔を上げる鈴風。
「たてなしぃ……」
「お……おはようございます?」
すでに結末は確定していた。
数秒先の鈴風の未来を幻視した飛鳥は静かに目を逸らす。「ぴぎゃす!?」という奇妙な叫びが隣から聞こえたがきっと空耳だろう。
そんな中、疲れた様子で教壇に戻った教師と目があった。
「はぁ……それじゃあ日野森、答えろ」
特に難しい問題でも無く、飛鳥にとっては常識そのものだったため特に狼狽する事も無く立ち上がり、すらすらと答える。
「AIT……アストライア・インダストリアル・テクノロジー社による技術革新が主な理由です」
2019年、当時は無名の企業であったAIT社が発表した超高密度相転移金属――ウルクダイトを皮切りに世界の技術レベルは爆発的な発展を見せた。
この金属は、外部からの電気信号によりその形状、及び形態――ここでは固体、液体、気体への変化を指す――を変化させるものであった。
実例を出すと、家屋建築の際に、鉄骨の形状のデータを電気信号としてウルクダイトに打ち込むと、そのデータ通りの形の鉄骨に『変身』する。一度その形状を記憶したウルクダイトは、外的要因により破損や変形が生じたとしても自動的に最初の形状に再構築されるのだ。
このウルクダイトの発表が、世界中の金属産業にとってどれほどセンセーショナルであったかは言うまでも無い。
『設計図』さえあれば、理論上質量が許す限りどんなものでも精製する事が出来るのだから。
それ以降も、AIT社は既存の科学技術を遥かに超越した発明を発表し、それに追従する形で世界の技術開発は日進月歩の発展を見せるようになったのである。
しかし、AIT社の技術は外部の科学者の研究でもほとんど解明する事が出来ず、AIT社自身もそれを秘匿していたため、今日における技術競争は事実上AIT社のひとり相撲などと揶揄されているのだ。
ギリシャ神話において人類に文明の象徴たる『炎』をもたらした神の名前になぞらえて、この一連の科学技術の革新のことを『セカンド・プロメテウス』と呼称している。
「その通り。この白鳳市にAITの本社が構えられている事もあって、ここは技術発信都市だなんて言われてるくらいだしな……それでは、今日の授業はここまで!!」
日直の号令が終わり、放課後になる。痛みが残る脳天を押さえながら鈴風が恨めし気な声で、
「……起こしてくれてもよかったじゃん、この薄情者めぇ」
自業自得だろうに、と飛鳥は深い溜息をついた。
さて、なにはともあれ放課後だ。
一身上の理由で、特に部活に所属していない飛鳥は別段学園に用事も無い。
夕飯の献立どうしようかと主夫さながらの思考をしていると、突然鈴風が手を合わせて、
「お願い飛鳥! 今日だけ剣道部に来てくれない?」
「まだ引っ張るのかその話題……」
違う違う、と鈴風は手を横に振った。
どうやら明日の試合に向けて飛鳥に最終調整を手伝ってもらいたいそうだ。
特に断る理由も無いので承諾することにした。
「ありがと! それじゃあ剣道場で待ってるから、早く来てねー!!」
弾けるような笑みを浮かべ、バタバタと走り去っていく鈴風を見送った後、ふと飛鳥は窓の外を見る。
高台に位置する白鳳学園からは都市全体を広く見渡す事ができた。
かつての白鳳市は田舎の地方都市に過ぎなかった。窓から見える風景も、どちらかと言うと自然の緑が多く占めていた記憶がある。
しかし、今飛鳥の目に入る風景はどこまでも灰色だった。
舗装されたアスファルトの道路、所狭しと立ち並ぶビルディング。それが飛鳥には、自然に対する墓標のように見えてならなかった。
「……人は科学によって『進化』の道を閉ざされた、か」
かつて、とある男に投げかけられた言葉を無意識の内に呟いていた。しかし、その言葉がどういう意味なのか、飛鳥は未だその真意を測りかねていた。
――同刻、屋上。
「人は科学によって『進化』の道を閉ざされた」
蒼天を仰ぎ、スーツ姿の男が呟いた。
整えられた金髪が風を受け大きくたなびくが、男はそれを気にも留めず視点を青空から地上に向ける。その視線の先には3人の男女。
袴姿で赤髪の少年の手を引く天真爛漫といった印象の少女。それを咎めるように2人の間に割って入ろうとしている制服姿の異国の少女。そして、
「ならば、その道を切り開くのは他でもない、人自身の力だ」
2人の間で困惑している燃えるような赤い髪の少年を見据え、小さく笑う。
「科学がもたらす『進歩』を凌駕し、人が『進化』の道に至るために」
これより先は『試練』の道。あらゆる困難と苦痛、絶望と理不尽が待ち受ける未来。
倒れてもいい。
痛みにもがき、泣きじゃくってもいい。
だが諦めるな。
振りかえるな。
淘汰など以てのほかだ。
「さあ、始めよう」
歩みを止める事なく進み続ける者を、リヒャルト=ワーグナーは求め、称賛する。
遍くすべてを踏破し、誰も見ぬ地平に辿り着くか。
それとも途中で膝を屈し、そこですべてを終わりにするか。
それを見極めるための戦いを――――これより開幕しよう。