―第42話 Assault Battery ②―
迂闊だった、と夜浪霧乃は後悔の念を禁じ得なかった。
「弟くんが抵抗もせずに連れ去られたってことは、そうしないとならない理由があったから……おおかたウチの生徒の誰かが人質にでもとられたか」
「……私は行きます」
「待てって言ってんでしょうが」
すぐにでも飛び出しかねないクロエの肩を掴んだ霧乃は、正直どう動くべきなのか判断しきれない状態だった。
刃九朗からの連絡を受けた霧乃は、まず周辺に敵意のある存在がいないかどうかを確認することから始めていた。
とはいえ広い学園の中を自分の足で草の根かきわけて探し出すわけではなく、こういう時にこそ“黒の魔女”の本領が発揮される。
自分の意識を影に溶け込ませ、学園内に存在するすべての影に対して視覚を共有する。そもそも、影のできない空間などそうそうありはしないのだ。それは、ひとりひとりの生徒にできる人影、建物の影、草むらの奥の奥にまで至る。
霧乃が感知可能な範囲は半径200メートルほどだが、学園全体を余さず視認するには充分だった。
これにより、学園内及びその近辺に敵対勢力がいないことは確認できた霧乃だったが、
(さて、私はどのレベルまで手助けするべきなのかしらね……)
下手に騒ぎたてるのもまずいだろうと、霧乃は次にとるべき判断を下せずにいた。
考慮すべき点はいくつかある。
まず、飛鳥を連れていった人物が誰であるのか――より正確に言えば、どれほどの勢力の者なのか。
いくら人質をとられていたとしても、飛鳥の戦闘能力は常人とは明らかに隔絶している。相手の一瞬の隙をついて電光石火の救出劇など、はっきり言って人工英霊であれば朝飯前と言ってもいい。
逆に言えば、今回の相手にはそれが通用しなかった。
それだけで、今回の敵が誰なのかはかなり限定される。
(考えられるとすれば3つ。弟くん狙いだとすれば、一番有り得るのは《パラダイム》だろうケド……AITが絡んでる可能性も大いにある。まさか……この状況で《教会》が出張ってきたわけじゃないわよね?)
《パラダイム》の単独犯であれば、助力に対して何の問題もない。《八葉》に連絡した後、霧乃自身もすぐに追跡に移るつもりだ。
問題は残り2つの場合だ。
相手が《教会》の場合、言ってしまえば身内の犯行だ。
そうなると、むしろ霧乃がひとりで事に当たらなければならない。
魔術師が目に見える形で白鳳市の一般人に危害を加えたとなると、極めてまずい事態になるのだ。手遅れになる前に、内々で『処分』する必要があるのだが……少なくとも今、《教会》がこのような事をする理由がない。
可能性はゼロではないが、おそらく違うと言っていい。
問題はこの件に、白鳳市――いや、世界の科学を代表する企業であるAIT社が絡んでいる場合だ。
相手側の思惑によりけりだが……飛鳥を表立って救援することにより、AIT社の力の矛先が魔術師勢力に向けられることが危惧された。
《八葉》の総裁である断花浄雲は「徹底抗戦もやむなし」と発言してはいたが、それでも避けられる火種は避けるべきだ。
何より立ち向かう相手が大きすぎる。
こうなると、《九耀の魔術師》である霧乃も動きづらい。
『天秤協定』により、霧乃達はひとつの勢力に肩入れすることを制限されている。禁止されている、と言うわけではないのだが……これは事実上の不文律なのだ。
強大過ぎる力――それは物理的とも、影響力という意味でもだ――を持つが故に、彼女達の立場は常に『中立』が求められる。
それゆえに、動けない。
ともかく《八葉》にだけには連絡すべきかとも考えたが、あの総裁の鶴の一声で全面戦争なんて始められたら目も当てられない。
こうなると、『組織』ではなく『個人』の力でしか飛鳥を助けることは許されない。刃九朗は今のところ組織とは関係のない無所属の人間なので、飛鳥の救援に向かっても問題はないと言える。
「カタカタカタカタ……」
この世に絶望したような表情のまま、足下に転がって小刻みに震えている人工英霊の少女も一応該当するのだが……まだ早いだろう。
いくら天才的な戦闘技能を持っていても、実戦経験が数えるほどしかない新米を先の見えない戦場に送りだすには抵抗がある。
それに教育的指導と称して少々やり過ぎてしまったらしく、どの道すぐには復帰しそうにない。
ちなみに同じ理由でリーシェも該当するが、霧乃は彼女が戦うところをまだ見たことがない。そのため選択肢には入らなかった。
(それとも……『彼』に頼んでみるべきかしら)
もうひとりだけ……いるにはいる。
霧乃も白鳳学園に就任した後に知ったことなのだが……まさかこんなところに『彼』がいるとは思わなかった。
数多いる魔術師の中でも飛び抜けて強大な力を持つ『彼』ならば、能力的にも申し分ない。
問題は当の本人が承諾するかどうかだが、考えていても仕方がない。
真っ白に消沈した鈴風を放置し、目的の場所に向かおうとした霧乃だったが、
「霧乃さん……何があったんですか」
一番知られたくない奴に呼び止められ、小さく舌打ちした。
「ん~、何ってなによ? あたしゃ今、鈴きちに『愛の鞭』を施している最中で忙しいんだけど?」
「とぼけないで下さい。先ほど探査術式を使ったでしょう、それも学園全体を覆うレベルの。……いくら貴女の頭の中がスチャラカだったとしても、何の理由もなくあれほど大規模な魔術を使うとも思えない」
「スチャラカ言うなや」
軽口で応じる霧乃だったが、こういう時ばかり察しの良い愛弟子の的確な指摘に冷や汗を流していた。
探査術式を使ったのは失策だった。
同じ《九耀の魔術師》であるクロエには容易に気付かれてしまったのだ。確かに周囲の安全の確保には成功したが、そのせいで最悪の『爆弾』に火を付けてしまったらしい。
「飛鳥さんが電話に出て下さりません。……何か関係、あるんですね」
「……ちっ」
これ以上誤魔化すこともできそうにない。苦々しく思いながら、霧乃は今起きている状況を話しはじめた。
「あんた自分の立場分かってんの!? この一件、《九耀の魔術師》が絡んだらヤバいことになるかもしれないって言ってんでしょうが!!」
肩を掴んできた霧乃の手を乱暴に振り払いながら、クロエは一瞬の躊躇いも迷いもなく歩き出した。
(……まただ。また私は肝心な時に傍にいられなかった)
先日の異世界騒動の時もそうだ。
自分が迂闊にも負傷などするものだから、飛鳥を異世界などという危険地帯へひとりで送り出す羽目になってしまった。
いざ合流した後も、結局自分はほとんど力になれてはいなかった。
あの時、彼の隣で、彼を支えていたのは、間違いなく自分ではなかった。
(もう、いやだ。これ以上蚊帳の外に甘んじるなど耐えられない……!!)
霧乃の言い分ももちろん理解している。
クロエ=ステラクラインは《九耀の魔術師》――その中でも、世界に存在するありとあらゆる『光』を従える“白の魔女”の称号を持つ者として、その行動には常に大きな責任を伴わなければならない。
そんなクロエが、AIT社と正面切って激突する可能性の高い戦いに出るなど正気の沙汰ではないのだろう。
……理解している。
「けれど、それがどうしたというのですか」
だが、納得できるかどうかは別の話だ。
世界のパワーバランス、魔女の責務、自分には避けては通れないしがらみだらけで雁字搦めになっている。
しかし、飛鳥の危機はその何事よりも優先される。
そもそも比較対象ですらない。
「考えなしに動こうとするんじゃない。あんたのその向こう見ずな行動が、周囲にどれだけ影響与えるのかを――」
「私に指図するな」
たった一言。
無表情のまま、抑揚のない声色で言い放たれたそれは、しかし怒れる猛獣の咆哮に等しかった。
すべてを拒絶する『白』の意志が、『黒』の制止を完全を凍結させた。
「あ、あんた……」
「立場? 影響?……なんですかそれは。たった今、飛鳥さんが苦しんでいる、命の危機に瀕しているかもしれないんです」
1年前のあの日から、クロエ=ステラクラインは誓ったのだ。
――私のすべては飛鳥さんのために。
故に《九耀の魔術師》という立場や、それに伴う周囲への影響など考慮するにも値しない。
呆れとも諦めともとれる表情で、霧乃は深く溜息をついた。
「もう一回だけ言っとく。あんたのその決断が、後々世界にロクでもない軋轢を加えることになるかもしれない。……それでも、行くつもり?」
「当然です」
即答。
この選択は決して軽いものではない。
霧乃が再三忠告しているように、クロエの行動はあまりにリスクが高い。クロエ自身はもちろんのこと、その周囲に与える影響から来る結果も、覚悟した上で進まなければならない。
「元より、飛鳥さんを見殺しにしないと成立しないような世界であれば……」
だが、そもそも前提が違う。
厳密な意味では、クロエは『選択』などしていない。
《九耀の魔術師》が動くというのがどういうことなのか、彼女はそれをすべて理解している。理解した上で、
「そんな世界、私が滅ぼしてやる」
彼女は、日野森飛鳥以外の『すべて』を切り捨てる。
失うであろうものに対して一顧だにせず、それに一切の疑問も抱くことなく。
背後で霧乃が息を呑む気配を感じた。
これ以上無駄な問答をするつもりはない。
再び歩き出した彼女の背中を止める声は、今度こそ完全に無くなっていた。
(ああもう、これだからあいつにだけは話したくなかったってのに!!)
霧乃にはこれ以上クロエを止める手立てがなく、そのまま彼女を見送るしかなかった。
最悪、力尽くでも止めるべきかとも考えていたが……情けないことに、先のクロエから放たれた凍て付くような殺気に気圧されてしまった。
飛鳥に心酔しているクロエの理性ある暴走は、ある意味予想通りの展開だったのだが、まさか彼女があれほどまでに振り切った感情を出すとは思いもしなかった。
世界とひとりの男、どっちを取りますかという質問に対して、考えすらしないとはどういうことか!!
霧乃は『恋は盲目』という言葉を思い起こしたが、クロエの場合そんなに可愛らしいものではないだろう。
あれは、クロエのあの眼差しは、自分のすべてを捧げ尽くした者の目だ。
『献身』ではなく『隷属』。
もしも――絶対に有り得ない話ではあるが――飛鳥がクロエに『死ね』と命令したならば、間違いなくクロエは喜んで死ぬ。
――私は、あなたなしでは生きていけない。
こうやって言葉にすると、まるで口説き文句の定型文だ。
しかし、クロエにとっての飛鳥とは文字通りそういう事なのだろう。
(一途な女ほど厄介なものはないって言うケド……ああくそ、お門違いだって分かってるケド、怨むわよ弟くん)
霧乃は苛立ち混じりに頭をガシガシとかく。
ともあれ、この場にいない人間を愚痴ったところで事態は変わらない。
毒を食らわば皿まで。あるいはやけっぱち。
こうなったら後先のことなど知ったことか。
クロエに暴れられるよりは百万倍ましだ、という理由で《八葉》に連絡をとることにした。
「おら鈴きち、さっさと起きなさい! 緊急事態よ、いつまでも昇天してんじゃないってぇの!!」
「ごめんなさいごめんなさい生きててごめんなさい…………ふぎゃんっ!?」
未だ足下でピクピクしていた鈴風の背中を思い切り踏んづけて無理矢理覚醒させた。
なに、なに? ときょろきょろ視線を彷徨わせていたが、悠長に目覚めを待ってやる時間はない。
霧乃は寝起きガールの頭を掴んで、ぐりっと自分の方に目線を合わせた。鈴風の首がいい感じにねじれて、グキッと鳴ってはいけない音が鳴った気がしたが気にしない。
「ぐ、ぐびが……じぬ、じんでじまう……」
「はいはい今はそういうリアクションいらないから。今は真面目なお時間よ。ちょっと携帯貸してくれない? 《八葉》に連絡とりたいから」
「……え? はちよーのれんらくさき?」
「え?」
「え?」
「……あんた、まさか」
きょとーん、と首を傾げる鈴風の様子を見て、霧乃は思わず口元をひくつかせた。
つまり、霧乃も鈴風も《八葉》への連絡手段を持っていない。
考えてみれば、2人とも《八葉》に赴いたのは一昨日が初めてであり、刃九朗とランドグリーズの一件のせいで、顔合わせや連絡先の確認などまったくしていなかったのだ。
ちなみに、飛鳥以外では唯一《八葉》所属の知り合いである沙羅の連絡先も分からなかった。
「……ふ、ふふふ。成程、これが天の配剤というやつね。神は常に我等を試しているのだと…………って、ふっざけんじゃねぇわよおおぉぉーーーーっ!!」
「なんで怒られてるのかまったくさっぱり見当がつかないんですけど生きててごめんなさいっ!?」
だったらお前がちゃんと聞いておけよ――と霧乃にツッコミが入りそうなものだが、基本的に自分の不手際は常に棚上げするのが夜浪霧乃である。
クロエもこの辺りは共通しているため、もしかすると魔術師というのは決まってこういった思考の持ち主なのかもしれない。どうでもいいが。
「うっせえ! こうなりゃやむを得ないわね。……走るわよ!!」
「え、なんで、走るってどこにぎゃぼんっ!?」
状況がまったく飲み込めない鈴風の首を掴んだまま、霧乃はここから距離にして10kmはある《八葉》に向けて全力疾走を開始した。
……ちなみに、連絡先であれば綾瀬が知っていたのだ。飛鳥の保護者なのだから、当然といえば当然である。
少し考えれば分かりそうなことを、『魔女』と呼ばれるほどの賢者であるはずの霧乃の頭からはすぽんと抜け去っていた。