―第39話 Nameless Blacksmith ③―
――あなたは、何をするために生まれてきたのですか?
存在理由。
単純にして究極の哲学たる命題だろう。
しかし実際のところ、いちいちそんな瑣末な事を気にしながら日々を送っている人間などそうはいまい。
何故ならば、生きるのに理由など必要ないのだから。
生の対義語は死であり、生きることを止めるとは即ち死を意味する。
そして、理由もなく死を選ぶ人間などいはしないのだから、必然的に人は――というより、あらゆる生物は生きようとするのは当然のこと。
中には、自身の存在理由というのを必死に考え、そして行動する者ももちろん存在する。
何かを成し遂げたい、自分以外の誰かのために何かをしてあげたい、あらゆる快楽を享受したい……方向性は皆違えど、それはひたむきな『願い』であり――『欲望』から来るものだ。
欲望と言うとマイナスのイメージが強いだろうが……そもそも『夢』や『希望』といった概念も、方向性が違うだけでつまるところは同じ『欲望』なのである。
それに、『死にたくない』というのも立派な『欲望』だ。
つまり、人は何らかの『欲望』を以て日々を生きていると言っていいのだろう。
ではここで、もうひとつ質問をしよう。
ここに、死ぬことが全く怖くない人がいます。
しかもその人には何かをしたいという欲望がまったくありません。生きてても死んでも、どちらでもいいと思っているほどに。
――さて、彼に生きたいと思わせるには、いったいどうすればいいのでしょうか?
すずめ荘、205号室。
六畳一間のこの一室には何もなかった。
昨日、唐突に引っ越してきた男を主とするこの部屋には、文字通り何もない。
「……朝か」
部屋の主である鋼刃九朗は、遮光のためのカーテンすら設置していない窓から直接降り注ぐ朝日を受け、眩しそうに右腕で両目を覆った。
現時刻、午前10時30分。
一応、学生となった身にとっては完全に遅刻確定の時間だった。
本日より転校生として朝一番に紹介する――昨日に霧乃からそう聞いていたのを思い出したのだが……しかし、遅刻というものを認識はしていても、刃九朗は慌てるなり諦めるなりといった反応を見せることはない。
転入生という肩書きを得たとしても、それに抗う理由もなければ、逆に従う理由もないのだから。
一階に下りる。
大勢の人間で飲めや歌えやの大騒ぎだったリビングは、昨日の光景が幻であったかのようにしんと静まり返っていた。……心の中に、隙間風でも吹いたかのような感覚。それが寂寞の感情だということに、刃九朗は気付かない。
遅めの朝食をとろうかと思ったが、冷蔵庫の中にはまともに食べられるものは入っていなかった。……ビール缶と酒瓶しか見当たらなかった。
犯人ははっきりしていたし、予想外でも何でもなかったので、そのまま扉を閉めた。
――ぐぅぅ。
誰だろうと、どんな状況だろうと、腹が減るのは自然の摂理。
どうでもいいところで自分の人間らしさを実感した刃九朗だった。
「不味いな……」
近くのコンビニで購入したおにぎりに対する感想を呟きながら、刃九朗の足は自然と学園に向かっていた。
学園を選んだ理由としては、この街の地理など殆ど頭に入っておらず、まともに分かるのがこの白鳳学園だったから。この選択に他意などなかった。
中庭にある大時計を見ると、既に正午を周っていた。
芝生の上に腰かけ、数名のグループが談笑しながら食事をとっている。少なくとも、ひとりで食事をしているような生徒はいないようだ。
自分には随分と場違いな所のようだった。踵をかえし、校舎内をあてもなく歩き出す。
グラウンドでは制服姿のままの生徒達でサッカーの勝負が繰り広げられていた。
今は来週に中間試験を控えている時期だ。
テスト対策のため、普段働いていない脳を急激稼働させている生徒たちが、溜まった鬱憤をボールに向けて発散させているようにも見えた。
ふと、男だらけの大乱戦の中でひとり、一際精彩を放つ女戦士が混ざっていることに気付いた。
「因数分解が分からなくて、何が悪いんじゃあああああああっ!!」
「いや俺が知るかよそんなことぶごげらああぁッ!?」
妙な奇声をあげながら、その女生徒が猛烈な勢いでシュートを放つ。戦車砲の如く放たれたサッカーボールが、金髪のゴールキーパーを木の葉のように吹き飛ばしていく様を、刃九朗は茫然と眺めていた。
超速シュートによって撃沈した金髪の男子が、他の男子生徒に肩を借りて退場していった。いったいどれほどの威力だったというのか。
「む、あの女は」
よくよく見ると、あの必殺シュートを放った女ストライカーの顔に見覚えがあった。昨日一昨日と、自分と刃を交えた『炎』の男の傍らにいた少女――楯無鈴風という名であったことを思い出す。
ちなみに、たった今保健室に運ばれていった金髪の男――矢来一蹴とも面識があったことに刃九朗は気付いていなかった。
再びグラウンドに視線を戻すと、そんな鈴風の圧倒的パワーの前に相手チームはかなり委縮してしまっているようで、次のキーパーを決めあぐねているようだった。
そこで、昨日の話で飛鳥と鈴風が人工英霊という自分に近い存在であることを知っていた刃九朗に、ちょっとした好奇心が芽生えた。
「人手が必要か?」
「おろ?」
試合を中断せざるを得なくなっている面々に向け刃九朗が声を飛ばすと、そんな10人以上の視線が一斉に振り向いた。
唯一、既知の間柄であることに気付いた鈴風が小さく驚きの表情を浮かべていた。
「ゴールキーパー。俺が代わっても構わんか?」
「たしか刃九朗くん、だったよね。いきなり出てきて何を言い出すのかと思ったら……ふぅん、あんたならあたしのシュートが止められるって言うのかな?」
珍妙な乱入者に一瞬面食らう鈴風だったが、刃九朗の意図を悟ったのか鼻を鳴らして挑戦的な視線を向けてきた。
「先ほどの蹴り程度であれば造作もないが」
「ぐぬっ!?……上等じゃないのさ」
挑発の意図などない――と言えばおそらく嘘になる。
理由としては、人工英霊とやらの実力を少しでも体感しておきたかったためだが……単に面白そうだったから、というのもあった。
勝負師魂に火が点いたのか、鈴風は三日月型に唇を歪ませ、見るものを戦慄させるような笑みを浮かべる。実際、サッカーに参加していた他の生徒達はあまりの迫力に思わず後ずさっていた。
しかし、刃九朗の表情はそんな迫力に呑まれる気配すらなく、あくまでも涼しげだった。
「先に言っておくが……加減は無用だ。お前の全身全霊とやらを見せてみろ」
「言われなくてもそのつもりだよ」
見えない火花を飛ばしながら、2人はそれぞれのポジションにつく。
この凄絶な雰囲気を察した他の生徒達は、身の危険を察して既にグラウンドの外まで退去していた。
故に、勝負は自ずと一対一。PK対決となる。
「さぁて、覚悟はいいかな? ブッ飛ばされても文句言わないでよね」
鈴風は凶暴な笑みを浮かべ、右脚を大きく振り上げた。
……どうでもいいが、その瞬間彼女の下着が丸見えであった。指摘する暇などなかったのでそのまま無視する。
滑り落ちる断頭台の如く蹴り抜かれたボールは、火薬でも仕込んでいたような炸裂音と共にゴールネットへ迫ってきた。
――計測。
軌道は真正面、そのまま動かなくともブロックできるコースだ。
しかし弾速は軽く300キロを超えており、凄まじい回転により竜巻を纏いながら地面を抉りつつ接近していた。まず、常人には絶対に撃てない威力の蹴脚であった。
衆人環視の中で、何の躊躇いもなく人工英霊の性能を発揮しているのだが、大丈夫なのだろうか。
ともあれあの威力、直撃などしようものなら間違いなく一蹴の二の舞となって保健室へと直行――それで済めばむしろ幸運だ――である。
だからと言って、避けてしまってはただの腰抜け。
これはどちらも(ある意味)地獄行きという八方ふさがりだった。
「ふむ」
「なんとぉ!?」
ことサッカーに関して、刃九朗はド素人である。
しかし、鈴風のシュートの破壊力や進入角度など、すべてを瞬時に計算し尽くした上での行動に迷いはなく。
「か、片手で止めやがった……!!」
一瞬の攻防、その決着に観客のひとりが驚愕の声をあげた。
鈴風が放った殺人シュートを、しかし刃九朗は無造作にかざした右手だけでそのまま掴み取っていた。
ギャリギャリと高速回転するボールの摩擦により、手の平に赤熱しそうなほどの高熱が発生していたが気にも留めない。この程度で損傷しているようでは電磁加速砲など扱えはしまい。
鈴風の蹴りは、想定していたよりは軽かった。
来日前から幾人かの人工英霊と交戦し、その力を測って来てはいたが――それらに比べると、眼前の少女の力は一際軽いと感じられた。
もしかすると、まだ全力ではないのかもしれない。発破が足りなかったのだろうか?
シュートを止めたことに関して特に感慨も湧かなかった刃九朗は、回転を終えたボールをひょいと鈴風の方へと投げ返した。
もう一度だ、と無言の要求をするように。
対して、ボールを受け取った鈴風は背筋に冷や汗が流れるのを感じていた。
先のシュート、紛れもなく全力であった。直接の蹴りではなくサッカーボール越しとはいえ、こうも容易く止められてしまうとは思いもよらなかったのだ。
飛鳥と刃九朗の戦いに結局間に合わなかった鈴風にとって、この勝負は間接的ではあれ雪辱を晴らすチャンスと考えていた。
直接交戦した飛鳥が彼に対して特に恨みつらみの感情を持っていない以上、鈴風がどうこうと言うのは筋違いではあるのだろうが……
(理屈じゃないんだっての。あの鉄面皮、一瞬でも崩してやらなきゃ気が済まないってね)
要するに、単なる意地である。
一昨日の件も、本来であれば誰よりも一番に飛鳥の助けとなるべく駆けつけるべきだったのに、実際はランドグリーズに足止めを喰らって立ち往生するのみだった。
客観的に見れば、人工英霊としての実戦経験がまだ二度目であった新人としては、それでも十二分の活躍であった。
飛鳥もそれは評価していたし、鈴風も理解はしている。
だが、もどかしさは拭いきれず、理解はできても納得するには至らず。
――本当に、あたしは飛鳥の背中に追い付いたのか?
眼前に巌の如く立つ男が、文字通り『壁』と見えた。
追い付く? 前進し続ける? 壁を打ち砕く? ああ、どれもこれも、お前の決意は軽すぎると、鈴風の心に無言の刃を突き立てているようで。
(ふざけんな……あたしはっ!!)
募る苛立ちをそのまま足の力へ変換し、再びの勝負へと出た。
適切なシュートを行うための体運び、ボールの軌道制御、そのすべてを思考の彼方に追いやって。
そして右脚に風神を宿した。
遠巻きに2人の勝負を眺めていた観客達も、鈴風の放つ不穏さに気付いた。
周辺の風が鈴風の下へと集う。それは彼女の背後に集束し、不可視のカタパルトとして放たれる蹴脚を後押しした。
「これなら、どうだぁっ!!」
誰もが目を奪われていた。
しかし、その軌道を誰も視認できなかった。
人間の動体視力を遥かに超えた蹴撃によるシュートは、完全に殺戮兵器の域に到達していた。
これならば、さしもの鋼鉄の男でも避けて通るしかあるまい。もし受けきれるものならやってみるがいい、と鈴風は放たれたボールの行方を目で追う……だが。
「――ああっ!?」
直後、鈴風の心臓が凍りついた。
勢い任せで放たれた砲弾は、ゴールポストを大きく横に逸れていた。
それだけだったらまだいい。
しかし、ボールが向かう先の光景にこそ、鈴風は絶望したのだ。
「美憂ちゃん――――っ!?」
元・部活の後輩であった少女。
鈴風が超人達の戦いに足を踏み入れるきっかけとなった、最初の被害者。
篠崎美憂が、きょとんとした表情のまま固まっているその場所へと。
逃げて、という叫びなど間に合わない。
瞬きの間に彼女の体に到達するその超疾の弾丸の前には、誰もが全身を凍結させる他なく――
否、ただひとりだけが、動いていた。
直後、鼓膜を打ち破るかのような爆発音がグラウンド全体に響き渡った。
あまりの轟音に、鈴風は一瞬身体をよろめかせるが、それどころではない。瞬きを何度か行い、爆発源――美憂が立っていた場所へと意を決して視線を向けた。
「え、え、あれ……?」
そこには、何が起こったのかまったく理解できずに、ぽかんと口を開けたまま硬直している美憂の姿があった。かすり傷ひとつなく、無事であることにひとまず安堵する。
そして少し視線を横に向けて、先の爆発と美憂が無事な理由――そのふたつが氷解した。
「あいつが……やったの?」
いつの間にか刃九朗の右手に握られていた拳銃。
いまだ硝煙が燻っているその銃口の先が、ちょうど美憂に迫るボールの軌道上に向けられていたことによって。