―第36話 Be caution with Slapstick!! ④―
「紅茶、置いておきますね」
自分が参加しても力になれそうにないと判断したのか、申し訳なさそうな顔をしたクロエが、飛鳥と沙羅の前に紅茶が入ったティーカップを静かに置いた。
お礼を告げた飛鳥に小さく笑いかけると、邪魔にならないよう少し離れた距離で椅子に座りこんだ。
変な気遣いなど無用ですのに、と沙羅は困った表情を見せていたが、無理に言及することでもない。
「つまり、日野森さんはランドグリーズが貴方たちの“祝福因子”に反応して行動を起こしたのではないかと……そうお考えなのですわね?」
眼鏡の端を少し指で持ち上げながら言う沙羅に、飛鳥は小さな頷きを返した。
人工英霊とランドグリーズには、SPT由来の存在であるという共通項がある。
人間と機械であるという時点で、関連性などないこじつけだと言われればそこまでだが……そもそも人工英霊も、人間に対して“祝福因子”と呼ばれるナノマシンが投与されることで成立している。
「突拍子のない考えだとは思いますけど。そう考えると、もうひとつ聞こうとした点も説明がつくかもしれない」
もうひとつとは、と首を傾げる沙羅に対し、飛鳥はゆっくりと確かめるように自分の意見を言葉にしていく。
刃九朗の戦闘があれほどまでに激化した要因――闘争本能をとことんまでに助長され、目の前の敵を完全撃破しなければならないと、強迫観念じみた命令が飛鳥の脳裏に刻まれていた点。
脳内麻薬の過剰分泌などではあるまい。
ならば異世界での人工英霊どうしの戦いでも同じ現象が起きた筈なのだから。
しかし、こう考えればどうか。
人工英霊とランドグリーズ内に存在するSPT由来の部分から、『自分達以外の同族を排除するべし』といった命令が発信されているのだとしたら?
「オーバーテクノロジーの恩恵を受けた人間と機械間の同族嫌悪といったところですか……それが本当なら、SPTの開発者はよほどのSF好きですわねぇ」
冗談混じりに言う沙羅であったが、表情はまったく笑っていなかった。
例えば、“グラディウス”OSを発表したのはAIT社であり、開発したのは、ブーステッドアーマーと同じくアルヴィン=ルーダーというAIT社所属の技術者であるわけだ。
自社の製品の需要をより高くしたいと考えるAIT社の思惑と、より高性能のOSを造り上げたいという技術者としての観点を鑑みた場合、さて両方の希望をまとめて叶えるにはどうするのがいいか。
答えは実に簡単、『競争』である。
別に珍しい理屈でもない。それこそ近所のスーパーマーケットでも似たような事をやっているのだ。
隣のスーパーでは卵1パック198円で売っていたので、こちらのスーパーでは同じものを1パック98円で販売しましょう。
お互いにそれを繰り返し、値段で勝負できなくなってきたら、次は素材の良さで勝負しよう。むこうは普通の卵ですが、こちらの卵は高級鶏からとれた産みたてですよ。
軍事兵器とて同じだろう。舞台がスーパーマーケットから『戦場』に変わるだけである。
ただでさえ戦争は軍需企業に巨万の富を約束しているし、実戦に勝る技術発展など有り得ないのだから。
そういえば確認しておくことがあった。
飛鳥はテーブルの端でいじけたようにぐでんと突っ伏していた鈴風の肩を軽く叩いた。
「鈴風。昨日の戦いの時、何か違和感はなかったか?」
「んぅ~……違和感って?」
鈴風は瞼をこすりながら気だるげに身を起こした。
寝てやがったよコイツ、と飛鳥は思いながらも、彼女の唇の端に涎の痕が付いているのには触れないことにした。
「いつもよりイライラしたとか、暴れたくて仕方なくなってたとか」
「そんな、キレやすい若者じゃないんだから」
「いーからお答えなさい」
「……あえて言うなら、引っ張られてたような感じかな」
近いな、と飛鳥は思った。
鈴風の言から察するに、違和感こそあったがそこまで強烈なものではなかったようだ。
そもそも彼女は実戦経験がまだ少なく、剣林弾雨吹き荒ぶ戦場に身を置くような真似もほとんどしたことがないのだ。
そんな環境下で正確に自身の精神を分析するのも困難ではあったのだろうが。
「しかし、ランドグリーズは随分と執拗に鈴風さんを狙っていたように見えましたね」
おずおずといった様子で横合いからクロエが会話に参加してきた。
鈴風と共に戦っていたクロエの視点では、相手はこちらから接近した時には迎撃行動に移っていたが、距離を離すと途端に見向きもしなくなったそうだ。
しかし鈴風相手にはそうではなかったらしく、3体がかりで彼女を包囲しようとする動きがよく見られたらしい。
「おかげで術式構築に集中できたので、こちらとしては楽でしたが」
「「えっ?」」
鈴風のことを評価するのはクロエとしては珍しい。飛鳥と鈴風は驚いて目を見開いた。
失礼な、といった表情でこちらを睨んでくるクロエの視線をスルーしつつ、飛鳥は再び考え込んだ。
飛鳥が起動状態のランドグリーズを見たのは昨日が初めてだ。
それはランドグリーズの視点でも同じこと。昨日初めて、敵である人工英霊の姿を確認したとなれば、暴走したきっかけとしてもタイミングとしても符合する。
「あれ? そう考えると、あいつはつまり……」
この理屈で考えると、ランドグリーズの攻撃を受けず、なおかつ人工英霊である飛鳥との衝突を助長された鋼刃九朗はあちら側――つまり機械側の人間、という立場になるのだろうか?
だが、刃九朗はランドグリーズの事を知らないと言っていた。
少なくとも、ランドグリーズと何かしらの結託をして襲撃してきた様子はなかった。
それを抜きにしても、あの男には色々と気になる部分がある。
人工英霊と酷似した、しかし明らかな差異のある武装形成能力。
そもそも《九耀の魔術師》である霧乃でさえ、彼がどういう存在なのか測りかねていたくらいなのだ。
「本人に聞いてみた方が早い、か」
謎が謎を呼ぶ、とは言い過ぎかもしれない。
だが、昨日の事件をきっかけに、何かとてつもなく大きな『何か』が動き出すのではないのか、という言い様のない不安を飛鳥は感じていた。
すっかり温くなってしまった紅茶を一気に飲み干す。
きっと高級な銘柄で、折角クロエが淹れてくれたものなのに、と飛鳥は申し訳ない気持ちになった。
さて、『料理上手な理事長先生の弟』こと日野森飛鳥には、毎週火曜日だけの日課が存在する。
学園を出て数分歩いた場所にぽつんと鎮座している、今時珍しい瓦葺き屋根2階建ての古びた建物。
夕焼けの光が照らす様は、見る人が見れば強い郷愁を感じるであろう。よく言えば歴史情緒溢れる日本家屋。……ぶっちゃけて言えば、ボロ屋である。
入口に立て掛けられた、これまた年輪だか染みだかで味わい深くなっている木の表札からは、かろうじて『朱雀荘』と読み取れはするのだが……完全に名前負けしてるよね、というこれまでの住人達の総意により、もっぱらここは『すずめ荘』と呼ばれていた。
白鳳学園の学生寮として機能しているこの場所。
台所の中で、飛鳥とクロエはせっせと夕飯の準備に勤しんでいた。
「それじゃあ、今日のリクエストはー?」
「「なんでもー!!」」
「なんでもが一番困ると、何回言えば分かるんだろうな君たち……」
お腹すいたー、まだー、まだー、と居間の方から餌をねだる雛鳥達の群れの鳴き声をBGMに、飛鳥は家から持参したヒヨコの刺繍が可愛らしい黄色のエプロンを身に纏った。
「飛鳥さん、今日は何にしましょうか?」
「お豆腐が安かったので、麻婆豆腐でも。後はたしか……ピーマンと筍があったので、酢豚も作りましょうか」
「……完全にここの冷蔵庫を掌握してますよね、飛鳥さんって」
隣のクロエが、火を吹く怪獣がプリントされた緑色のエプロンを身に付けつつ、感心したような、呆れたような目を向けてきた。
ちなみにこのふたつのエプロン、昨年のそれぞれの誕生日に鈴風からプレゼントされたものである。
飛鳥のヒヨコ柄は、単純に飛鳥の名前が鳥だからという理由だったが……凶暴な怪獣柄を見ながら、これはどういう意味での選択なのでしょうか、とクロエは感謝しつつも複雑な表情をしていた。
さて、何故そもそもこのふたりが学生寮で夕食作りをしているのか。
別段大した事情ではないのだが、この習慣が始まったのはちょうど1ヶ月前のこと。
「飛鳥、お前今日から寮の子達にご飯作ってあげなさい」
という理事長の――いや、どちらかというと姉としての強権で、有無を言わせず飛鳥をこの『すずめ荘』に連行したのである。
昨年度の三年生の卒業に伴い、学生寮を利用する生徒の数は激減した。
新入生も大半は地元の人間であったため、本年度の寮利用者はなんと僅か3名。その上、内2名は海外からの留学生であり、残る1名はあまりに生活能力に乏しかった。
このままではまともな寮生活が送れないだろうという理由で、急遽、家事万能人間である飛鳥が派遣された次第である。今日のように会長の仕事が空いている時には、クロエにも手伝ってもらっていた。
どうやら近日、2名ほど住人が追加されるそうだが、だからといってその2人にすべてを委ねるわけにもいかないだろう。
「ねー飛鳥ー。ごはんまだぁー?」
「いいからお前は勉強してろ!!」
「あ、そこは4番じゃなくて1番ですよ」
鈴風には夕飯ができるまでテスト勉強を命じていたのだが、空腹に耐えかねて足をじたばたさせていた。
それにしても、今彼女の隣で勉強を教えている紫紺の髪の少年は留学生の子ではないのか、しかも後輩ではないのか?
そんな子でも分かるような問題をきれいに間違えているだなんて、当分は徹夜でテスト勉強に付き合ってやらなければならないだろうか――水溶き片栗粉をフライパンに投入しながら、教科書片手に悪戦苦闘する幼馴染の行く末が心配でならない飛鳥だった。
ここ数日で、随分と悩まなければならない事が増えてしまったものだ、と飛鳥は嘆息した。
しかしその大半は、飛鳥個人にとっては他人事である。
それでも自分の悩みのように思えるのは、ひとえに飛鳥が無意識下でのお人好し(お節介?)であるからということに、本人は気付いていない。
典型的な苦労人の性分であった。
何だかんだと言いながら、無事に夕飯が完成。
みんなでテーブルを囲んで、さあいただきます。
「おお……おおおおぉ……よきにはからえ、よきにはからえーーーっ!!」
朝から騒がしかったフェブリルには、約束通りお皿てんこ盛りの卵焼きを贈呈。飛鳥お手製のミニミニフォークを二刀流に構え、黄金色の大海原に突撃していった。食べ物ひとつで簡単にご機嫌とりができるので、飛鳥にとっては扱いがとても楽ちんであった。ちょろいとも言う。
だが、ここに本日最大の、飛鳥にとって頭を悩ませる出来事が待ちうけていた。
「う~んっ! やっぱ弟くんが作るごはんは絶品ね。これ食べると、あー私帰ってきたんだーって実感できるわー」
「辛さが足りんな」
「なんで、さも当然のようにここでメシ食ってるんでしょうかアンタ達は……あと辛さが欲しけりゃ豆板醤あるからそれ使え!!」
文句があるなら食べなくてよろしい、とは決して言わない。
それは作り手の傲慢であり、力不足であるからと飛鳥は考えているからであるが……今はそんな話はどうでもいい。
幸せそうな顔をしながらご飯を頬張るスーツ姿の黒髪美人と、豆板醤をどばどばと投入した麻婆豆腐を口に運ぶ鉄面皮を前に、飛鳥は本日最大級の溜め息をついた。
夜浪霧乃と鋼刃九朗。
新しい住人とはこの2人だったのだ。
話を聞くに、ほとんど強行軍で来日した霧乃達には、衣食住のアテがまったくなかった。イギリスでも、あまり一か所に留まらない根無し草のような生活を送っていたらしい。
そんな事情はどうあれ、今の霧乃は白鳳学園の教師である。
道端で野宿するなど体裁が悪いにもほどがあるし――野宿するつもりだったことに驚くべきなのかもしれないが――ホテル住まいができるほど資金に余裕もなかったそうだ。
「だったらここの寮監やりなさいって、綾瀬がね。んで、その流れでこいつもまとめてお世話になることになったわけよ。……んぐんぐ、くあ~っ! あービールが美味いったらありゃしないっ!!」
シャツの首元を盛大に緩めながら缶ビールを一気飲みした霧乃先生は、我関せずと隣で黙々と酢豚を平らげている刃九朗をくいと指差した。
当の刃九朗は飛鳥の視線に気づいても、箸を動かす手を止める気配がまったくない。文句を言いながらも、飛鳥の料理が気に入ったようだ。
うん、よかったよかった……ではなくて。
「まさか……お前も学園に転入してくるつもりか」
「俺はどうでもいいと言ったのだがな。行く理由はないが、別に断る理由もない」
なんという事なかれ主義か。いや、ある意味唯我独尊なのだろうか。
本来なら、昨日の件で色々と聞いておきたかったのだが……何故だろうか。
もうこの雰囲気では真面目な話なんて無理無理、と飛鳥は諦めてしまっていた。
どちらにせよ、ここには込み入った話を聞かせるべきでない無関係な人もいるのだ。どの道諦めるほかなかった。
「貴様も大変なのだな」
「何故にお前が知ったような口をきけるのか。そしてその一端を担っているのがお前だということを察しろ」
無表情のまま慰めの言葉を放つ刃九朗に、飛鳥はドスの利いた声でツッコんだ。飛鳥と刃九朗は昨日が初対面だが、今更遠慮や礼儀を気にしても意味がない相手だというのはお互いに理解していた。
もういいや、今日は疲れた。
牛飲馬食を再開したふたりから距離をとり、飛鳥は他のメンバーに目を向けた。
「ほーらほらほら! リーシェちゃん一気、一気なのですよ!!」
「こ、これが噂に聞く『新人歓迎会』という名の試練か!……ならば負けるわけにはいかん。ブラウリーシェ=サヴァン、推して参る!!」
「ちょっ、それお酒じゃないですか!? 一気はダメ、っていうか未成年が飲んじゃダメですって!!」
「ああーーんっ? クーちゃんはあたしの酒が飲めないってのかー!!」
「しかも確信犯だこの人! ああああリーシェ先輩ストップ、ストーーーーップ!!」
居間の中心では、『すずめ荘』の寮長である水無月真散が主催するリーシェ歓迎会が繰り広げられていた。
おそらく霧乃が持ち込んだ酒が混ざっていたのだろう。
グラス片手に素敵にトリップする真散、腰に手を当て決死の覚悟で琥珀色の液体を飲み干そうとするリーシェ、それを必死に制止しようとする紫紺の髪の留学生。
リーシェはもうすっかり郷土史研究部に馴染めたようだ。先輩に追い詰められた新入社員みたいなことになっている彼女を見て、飛鳥はうんうんと頷いた。
そんなリーシェから助けを求めるような視線を感じたが、きっと気のせいだろう。
「あうあうあ~……」
「この程度の問題も解けないですって? どんだけ勉強サボってましたのよ貴女は! ええい、この問題が終わるまでご飯はお預けですわよーっ!!」
「お、鬼ぃーーーーっ!!」
「あーあ、ご愁傷様だなー楯無」
「なぁに他人事気取ってますの一蹴、あなたも似たような成績でしょうが。……いい機会ですわ、一蹴も参加なさい。楯無さん諸共、徹底的にしごいて差し上げますわ」
「ちっ、藪蛇だったか。ここは戦略的撤退を――ってぬおっ!?」
「うふふ、仲間だ、仲間がいた」
「ちょっ、おま、楯無、離せ! 目が怖ぇんだってゾンビみてぇだぞ!!」
部屋の一角では、学園屈指の成績優秀者である加賀美沙羅が、鈴風と一蹴を捕まえて夜の大勉強会を開催していた。逃げる一蹴の足をしっかと掴み、うすら寒い笑みを浮かべる鈴風の姿に飛鳥は軽く引いた。
来週に迫ったテスト対策。
元々は飛鳥が鈴風の勉強を見てやる予定だったのだが、
「日野森さんではどうせ甘やかしてしまうでしょうから、ここは私が引き受けますわ。フフフ、スパルタも真っ青の教育手法を披露して差し上げますわよ」
「飛鳥助けてぇーーーーっ!!」
無理でした。
レンズ越しの瞳を爛々と輝かせる沙羅の迫力に、飛鳥は無言で首肯することしか出来なかった。
ここは騒がしいですから別の部屋にいきますわよ、と両手で鈴風と一蹴の首後ろを掴んで引き摺っていく。涙ながらにドナドナされていく鈴風達を、飛鳥は強く生きろと言って見送る他なかった。
この阿鼻叫喚の食卓の中、飛鳥は外の縁側にちょこんと座りこむ白金色の背中を見つけた。
会話にも参加せずにひとりで佇む彼女の背中は、明るいこと、楽しいことにもあえて背を向けているように感じられた。
誰よりも強い背中は、きっと誰よりもか細いもので。飛鳥の足は自然と窓際へと向かっていた。
夕焼けが過ぎ去り、星の見えない夜の空を、クロエはひとりでじっと見上げていた。
故郷の空とはまるで違う。
思い出の中にある空は、宝石を散りばめたような数多の星の煌きが、真っ暗闇を真昼のように照らしていた。
しかし、光化学スモッグで覆われてしまっているこの街の空は、クロエにとっては妙な閉塞感を覚えさせるものだった。
「……」
故郷の空が恋しいと、何度も思った。
緑も、土も、星の光も、そのすべてが人工物で上書きされてしまったこんな街、一刻も早く出ていきたいと考えたこともある。
元を正せば、彼女は望んでこの白鳳市に赴いたわけではなかった。
それはすべて、『魔女』としての使命がゆえ。
しかし、その使命は1年前の時点で既に終了していた。
自身の生地であるイギリスにて、あらゆる魔術勢力の抑止力となる使命を帯びた《九耀の魔術師》クロエ=ステラクラインは、本来ならばここにいてはならない人間なのだ。
我ながらデタラメをしているのだと、自覚はしている。
日本所属の《九耀の魔術師》である夜浪霧乃と、自身の立場を入れ替えてまで、自分はこの街にいたいと強く希ってしまった。
これはただの我儘だ。駄々をこねる子供と一緒だ。
それでも、自分はこの我儘を押し通す。
世界の万人が、彼女の決断を蛮行であると批判しようとも、かつての仲間――《教会》の魔術師達に命を狙われることになったとしても。
「クロエさん?」
背後からかかった声に、クロエはゆっくりと振り返る。
初めてだったから。
ここにいたいと、誰かの傍にいたいと心から思ったのは、生まれて初めてだったから。
馬鹿みたいに優しくて、いつも自分以外の人のことばかり心配していて。
誰かが傷つくのが嫌だからと、誰よりも自分自身を傷つけている。そんな、愚かで愛しいお人好しのために、こんな強いだけの私でも、何かをしてあげたいと……心からそう思ったのだ。
「みなさん、楽しそうですね」
屋内では、未だに飲めや歌えや泣けや騒げやといった様子。
それとは対照的に、クロエが座っている縁側は、まるで窓を境に世界を切り取ったかのように静寂そのものだった。
クロエには、まだこういったどんちゃん騒ぎには馴染みきれていない部分がある。いつもどこかで心に一線を引いて、一歩下がった場所からみんなを見つめている。
『魔女』には分不相応な場所だろうと、一種の諦めにも似た感情を抱いていた。
「いや、なに他人事みたいに言ってるんですか。そろそろ収拾つかなくなってきそうなので、クロエさんも手伝って下さいって」
「え、いや、私は」
「聞く耳持ちません。ひとり素面でいたのが運の尽きです、いいからあの酔っ払いどもを止めに行きますよ」
そんなクロエの心中などお構いなしに――いや、きっと彼は理解した上でだろう――意地悪な笑みを浮かべた飛鳥に手を掴まれて、ぐいぐいと賑やかな喧騒の中へと引っ張り込まれていく。
「ああ、もう……仕方ありませんね」
観念したように呟くクロエだったが、その表情は確かに笑顔だった。
まったく、世界屈指の大魔術師に酔っ払いの仲裁を頼む人なんて、世界中探しても彼くらいなのではないか。
そしてそれに応じる自分も自分だ。我ながらなんて滑稽で、なんて馬鹿馬鹿しい。
それでも、これがクロエ=ステラクラインの望んだ日常だ。
手に入るはずがないと諦めていた、キラキラと輝く宝石箱のような何気ない日々がここにはあった。