―第1話 Alteration―
混沌、叫喚、悲鳴。
全方位を破壊と絶望で彩られた深紅の空間。
そこは巨大な蛇なとぐろを巻いているような炎の渦であり、または地面や周辺の瓦礫にぶちまけられた血痕の赤で満ちて。
あかい。
アカイ。
赤い。
紅い。
少年の網膜には、最早その色しか認識できないほどに。
すべては、炎の中から始まった。
「う……ア……」
朦朧とする意識の中、少年の意識は覚醒した。
身体に力が入らず、やけに気だるい。そのまま再び眠ってしまおうか、などと一瞬少年は考えたが、意識の断絶を許さないといわんばかりに全身を燃えるような激痛が走る。
呻き声を上げながらゆっくりと瞼を上げると、そこは砂埃と瓦礫に覆われた小さな檻だった。
尖った石片が腕や脚に突き刺さっており、拷問器具にでも拘束されているような、言いようのない恐怖を感じた少年は弾かれるように瓦礫の山から這い出ようとした。
やっとのことで瓦礫の山から脱出した少年だが、眼前に広がる光景の凄惨さに、瞼が裂けてしまうのではないかと思えるほどに目を見開く。
少年の記憶に間違いが無ければ、ここは白鳳市、羽州国際空港。
市の沖合にある人工島に設立された海上空港であり、日本でも有数の国際空港として機能している場所であった。
窓際から見える滑走路。
上空から飛来してくる鋼鉄の巨鳥。
国際色豊かな人々の往来。
そのすべてが少年にとっては新鮮そのものであり、どんなアミューズメントパークよりも彼の心を躍らせた。
そしてもうすぐ自分は家族と一緒に、あの大きな飛行機に乗って海の向こう側へと飛び立つ。目的地はイギリス、ロンドン。少年の姉が突然風邪をひいてしまって、一緒に行けなくなったのは残念だったが……父の古い友人という、とある人物の招待を受け、一家はいざ空の旅へと踏み出そうとしていた――――記憶はそこで途切れていた。
現在少年の視界に映るのは、搭乗口に繋がるだだっ広い待合室――だった場所。
剥き出しになって大きくひしゃげた鉄骨。
ゴミ焼却場のように乱雑に積み上げられた石や金属やコンクリートの山々。
そしてそれらを彩っている真っ赤なデコレーション。
天にも届かんばかりに燃焼し続ける炎の柱を見て……ああ、誕生日ケーキのキャンドルにしては火の勢いが強すぎるんじゃないか――などと少年は茫然と考えていた。
「おかあさん、おとうさん………どこ……?」
人の気配がどこにもなかった。
自分は迷子になったのだと認識した少年は、あてもなく歩き始めた。
一歩踏み出すたびに全身が悲鳴をあげる、涙が滲み、大声で泣き叫んでしまいたかった。しかし、ここで心が折れてしまうと自分はもう二度と歩けなくなってしまう、必死に歯を食いしばって歩き続けた。
普段の少年を知る人物が今の彼を見たのであれば、気弱で口数も少なく、いつもいじめられているばかりだった少年が、これほどの行動力を秘めていたことに驚愕していたことだろう。
空を見上げると、すでに空は夜の帳に覆われていた。しかしその漆黒を覆い尽くさんばかりの炎の彩りが、まるで夕焼けの空のように少年の視界を埋め尽くしていた。
瓦礫の灰色と炎の赤色のみが、世界のすべてだった。
どれだけ歩いたのか、どこをどう歩いたのか。時間の感覚も全身の感覚も希薄になっており、少年はいつ倒れ伏してもおかしくない状態だった。
視界が陽炎のように歪み、暗転しかかる。このまま歩いていても意味がない、誰かがきっと助けに来てくれる――そんな誘惑に屈し、もうこのまま眠ってしまおうかと考え始めたその時。
どしゃっ。
「…………!!」
何かが地面に落下した音が、少年をはっとさせた。
既に聞き慣れてしまった瓦礫の落下音とは違う。石や金属がぶつかったものではない、おそらくもっと柔らかい――あえて言うなら人間が叩きつけられたような!!
「――ふむ、これも駄目か」
知らない男の声が少年の耳に入ってきた。
この状況で始めて確認できた、自分以外の生存者。その声の方を見やった少年は思わず……瓦礫の影に身を隠した。
本来ならば、一も二も無く助けを求めるべき場面だろう。
しかし、少年の視界に映る男――正確にはその周囲の光景が、それを許さなかった。
駄目だ、行くな!!
死にたくなければ今すぐ逃げろ!!
少年の中の生存本能がけたたましく警鐘を鳴らしていたのだ。
――そこは『実験場』だった。
その周辺は、炎とは違う『赤』で彩られていた。
バケツに入った塗料を転んでぶちまけてしまったように、周囲の壁や床に赤色の液体が付着していた。
むせ返るような錆びた鉄の匂い、うず高く積み上げられた人間の山。
理解するな、目の前の現実を認識してはならないと心のどこかがブレーキをかけようとしている。
「あぁ……ぐ、うぅ……」
頭が、痛い。脳の中に手を入れられて掻き混ぜられているようだ。
思わず嘔吐しそうになるのを必死で押し殺す。
その作業に集中する事によって、ぎりぎりのところで発狂してしまうのを免れていた。
「『祝福』投与者2342人に対して、不適合者2280人、暴走による自滅56人……まったく、散々たる結果だな」
背を向けて離れたくはあったが、恐怖に委縮し身体が動きそうにない。
隠れた瓦礫の隙間からそっと男の様子を窺う。
金色の髪に碧眼、少なくとも日本人ではないという事は少年にも理解出来た。
男の視線は手に持つ書類の束――この時勢に紙媒体の情報記録は珍しかった――に向けられており、何やらぶつぶつと呟いている。
疑問は思考を冷静にする。
男が何をしているのか、という疑問に埋没する事で、少年は若干ではあるが平静を取り戻していた。
「……適合者は5人、か。これだけの労力を消費しておいてこの程度の成果とは、もう少し実験方法を見直す必要があるか?」
少年の体が未知の恐怖で震えていた。
微かに聞こえてくる情報で理解出来たことはふたつ。
ひとつは、この惨状は目の前の男が意図的に造り出したものであると言う事。
そしてもうひとつは、今すぐ逃げないと殺される。
そう結論づけ、ゆっくり、ゆっくりと身体を起こそうとしたが、
「ふむ、そういえば…………ひとり足りないな」
「――――ヒ」
――目が、合った。
声にならない悲鳴、蚊の鳴いたような音が喉から漏れた。
コツ、コツ、と高級そうな革靴から鳴る乾いた音が近付いてくる。
心臓を鷲掴みにされた感覚に、少年は呼吸を忘れて硬直したまま動けなかった。
「やあ、こんばんわ」
「あ……ウァ……」
すぐ正面まで近付いてきた男は少年を見て微笑を浮かべていた。
この凄惨な場にはあまりにも似つかわしくない邪気のない表情に、少年は声を出すことができなかった。
危害を加えてくるでもなく、まるで昆虫標本でも見ているかのようにしげしげと少年を観察する男。その不快極まる視線に対し、唯一の抵抗といわんばかりに必死に男を睨みつける少年。
不躾に『観察』されたまま、1分ほど経っただろうか?
ほう、と小さく驚いたような声をあげた男は、おもむろに少年の右手を掴んで持ち上げる。唐突の事態に、少年は悲鳴をあげる事も忘れされるがままになってしまう。
「成程……おめでとう、君は成功だ!!」
「…………え?」
この男はいきなり何を言っている?
今の状況を忘れて唖然とした声を出す少年に男が言葉を続ける。
「ああ、すまない。いきなりの事で私も我を忘れてしまった。……私はここでとある『実験』をしていたんだがね? なかなか成功しなくて頭を抱えていたんだよ」
自分の喜びを共有したい、といったように嬉々とした表情で男は語り出す。
「そこに君だ! 詳しい事はもっと君の身体を分析してみないと分からないが……“人工英霊”として『適合』しているのは間違いない。だってそうだろう? その身体で生きているのだから」
その身体で生きている――意味が分からない。
しかし、男の視線が自身の首より下に向けられているのに気付き、釣られて下を見る……あれ?
ここに至るまで少年はあまりの危機的事態に忘れていたのだが……周囲の火焔、建物の崩落、どれも人間が生き残るには絶望的な状況であったわけだが。
はて、自分はどうして無事だったのだろうか?
奇跡? 偶然?
いやいや、百歩譲ってそうだとしてもおかしいだろう。
だって、ほら。
自分の身体を見下ろしてみると……そこには自分の腕と同じくらいの大きく尖ったガラス片が――
「ァ……ああアアアあァァぁぁっっ!!」
――深々と、自分の左胸に埋め込まれていた。
今、始めて自分の身体状況を自覚した少年は、狂ったように絶叫した。
全身でじたばたと暴れまわり男の拘束を振りほどく。地面に強かに身体を打ちつけるがそれどころではない。
――なんで、なんで!?
――なんでこんなにも、痛くないんだ!?
「さて……見たところ、まだ『能力』は発現していないようだ……もうひと押し、か?」
芋虫のように地面をのたうちまわり全身をかきむしる少年だったが、男の背後にあった死体の山――その一部分を見て、突如その動きを停止させた。
衣服は鮮血の赤に染まり、全身は焼け焦げ首から上だけ見ても個人を特定する事は困難であったが、少年には一瞬で理解出来た――理解出来てしまった。
「ん?……ああ、君のご両親だったね、あれは」
集積場のゴミのようにうず高く積み上げられた無数の遺体の中に、見間違える筈もない――少年の、父親と母親のなれの果ての姿があった。
思考が停止する。
目の前が真っ暗になる。
絶望に絶望を重ねがけされ、少年は糸の切れた人形のように力を失い膝を着く。
「やはり予想通りと言うべきか、『祝福』の適合率は年齢を経るほどに低下するようだ。それが証明出来ただけでも、彼等の死には価値があったといえるのだろう」
「…………」
「おや、どうしたのかね?……出来れば、まだ壊れないでほしいな。これから君を分析しなければならないのだ、貴重な検体にこれ以上傷が付いてはいけないからね」
「……………な」
「おや?」
「ふ――ざけるなああアアアアアアァァ!!」
――どうして、どうしてだろう。
自分が何をした、父と母が何をした。ここにいた人達が何をした。
どうして殺した。どうしてそんなに簡単に人を殺せるのか。そして、そんな酷い事をしておいて。
――どうして貴様は笑っている。
「おお……!!」
感嘆の声を上げ、男はその現象を見つめていた。
空港中で立ち上り、燃焼し続けていた炎という炎が、まるで巨大な掃除機に吸い込まれていくように少年に向かって渦を巻いて収束していく。少年の黒色の髪が、吸収した炎が浮かび上がったかのように紅く輝き始めていた。
胸に突き刺さっていたが硝子の刃が瞬時に融解、全身の細かな裂傷を含めて傷痕ひとつ残さず再生していった。
「『炎』の能力……対して珍しくもない、ありふれた能力だが、これは……」
火災はすべて鎮火していた――男の眼前で燃焼し続ける存在以外は。
少年を守るように噴出される深紅の煌きを、男は興味深そうに観察していた。
憤怒に満ちた双眸が見開かれた。
怒れる竜を彷彿とさせる真紅の色に変化した瞳の視線を、ぎろり、と笑みを浮かべる男に叩きつける。
――理不尽だ。
自分も、父も母も、大勢の人達が炎に焼かれて苦しんでいたのに、どうしてこの男だけがこんなにも平然と笑っているのか。
おかしいだろう?
こんな事はあってはならない。
たとえ相手が『神』であろうとも、このような理不尽を許していい筈がない。
償いを、贖いを。
そうだ、だからこそ。
――今すぐ貴様は焼かれて朽ちろ。
「あああああアアアアァァぁぁっっ!!」
「ぬうっ――!?」
右手を突き出し、その掌から洪水の如く荒ぶる炎が暴れ出た。
男も咄嗟に手を出し、透明な障壁で炎を防ぐ。今まで涼しげな表情を崩さなかった男が始めて苦悶に顔を歪ませていた。
「素晴らしい、素晴らしいぞ! 私の予測は正しかった! やはりそうか、力を得るには、力を渇望しなければならない。ならば求められるのは何物でもない、強烈で明確な『意志』の力だ! おめでとう少年。君は今、間違いなく『進化』の道への第一歩を踏み出したのだ!!」
炎を防ぎながらも、男は感激に身を震わせていた。
少年が力を得て、そして今自分に牙をむいている事に、誰よりも男自身がそれを祝福していた。
「グゥ……ウ……」
少年が巻き起こした炎も、数分と持たずに霧散してしまう。力尽きて、再び地面に倒れ伏してしまった。
今度こそ完全に意識が保っていられない事を自覚した少年は、最後の力を振り絞って頭上で佇む男を射殺さんばかりに睨み付ける。
その眼光を受け、完全に炎が消沈し夜の闇に覆われた空間で男は諸手を上げて告げる。
「今の君では、私は決して倒せない。……強くなりたまえ。私を倒せるほどに、あらゆる困難も理不尽も踏破出来るほどに『進化』してみせるがいい。君にはその『義務』と『資格』があるのだから」
背を向けて悠然と立ち去っていく男の背中、それを最後に少年の意識は暗転した。
2022年、白鳳市・羽州国際空港で起きた大規模な爆発事故。
2000人以上もの死者を出した凄惨な事故でありながら、結局爆発の原因を突き止めることはできなかった――これが表向きの顛末だった。
だが、この事件の真実を知る者は、口を揃えてこう語る。
――あれが、すべての始まりだったのだ。
――人は『進歩』する生物である。
人は弱い生物であった。獅子の如き鋭き爪牙もなく、鳥のように大空を駆ける翼も持たない。
されど、人には『知恵』があった。遥か太古、その手で『火』をおこしたその瞬間から、人の『進歩』は始まったのだ。
道具を用い、技術を培い、人はあらゆる獣を制し、熱帯や氷河、天空や深海とあらゆる環境を踏破していった。
いずれは地球上のすべてを掌握し、外宇宙すらその支配下に置く事すら可能となるのだろう。
「人類は進化の頂点である」とある生物学者の言葉だ。まさしく彼の――彼女だったかもしれないが――その言葉は真実なのだろう。
しかし、私は思うのだ。
――人は『進歩』を続けてきた。しかしそれは『進化』ではなかったのだ。
長い歴史を経て地球上の生物の頂点に立った人類だが、その肉体は未だ脆弱そのものだ。
考えてみてほしい。
例えば、寒い場所に赴くならば服を多く着込むだろう? しかしそれは寒さを克服したのではなく、外的要因によって寒さという脅威を取り除いたに過ぎない。
どれほどの時がたっても、人間そのものは変わらず『弱者』なのだ。
『進歩』し続ける人類の叡智こそが、人類を『弱者』たらしめるなどあってはならない。
……嘆かわしい、と私は思う。
人はもっと強くあるべきだ。
『進化』していくべきなのだ。
そのために求められるものはただひとつ。
なに、決して難しいことではない。
ただこれだけの事。
自分の脚で、地に立って、前へと歩け。
《2012年著 リヒャルト=ワーグナーの手記より》
主人公は確かに異能を持った能力者です。だがしかし、この物語においてそれは『チート』足り得るものではなく、そして絶対にこの小説に『主人公最強』のタグが付くことはありません。