―第26話 Lady Black ④―
話が、進まない……!!
「あれはいったいどういう事ですか!!」
昼休みの理事長室に、クロエの怒声が木霊した。
冷静な彼女らしからぬ絶叫であったが、今回ばかりは無理もない。
『あれ』とは言うまでもなくあの女――夜浪霧乃のことである。
《九耀の魔術師》どうしの接触は御法度だと分かっているにも関わらず、まさかの学園内で大々的に鉢合わせ。
彼女の滞在期間中、いかにクロエと霧乃が接触せずに済むのか、飛鳥とああでもないこうでもないと打ち合わせしたのに――《八葉》に監禁、という線も本気で検討するくらいに――まさかの初日で完全粉砕されてしまった。
「夜浪霧乃がどういう存在なのか、綾瀬さんが一番よく御存知でしょう!!」
「ここでは理事長と呼びなさい、クロエ生徒会長。あとうるさい」
「しかしですね!!」
「キィキィと喚くなと言っているのです……」
喉元に氷刃を突き付けるような綾瀬の低い声に、クロエは一瞬呼吸を忘れて恐怖した。
クロエにとって日野森綾瀬という女性は、日本滞在中の保護者であり、ここ白鳳学園の生徒会長と理事長の関係であり、そして何より想い人の姉である。
クロエは三重の意味で綾瀬に頭が上がらなかったのだ。
(こ、怖過ぎますよぉ……逆らっちゃダメ逆らっちゃダメ)
とはいえ、それとは関係なく綾瀬は怒ると凄まじく怖い。
怒鳴り付けるようなことはしないが、こちらに向けてくる極冷の視線は。《九耀の魔術師》であるクロエすら震え上がらせた。
また、椿の花をあしらった簪で髪を結い、気品ある藍染めの着物を事もなく着こなす艶姿は、クロエが思い描く、これぞ日本の女性像といったものを完膚なきまでに体現していた。
そのためクロエが出会って来た人々の中でも、彼女はあらゆる意味で『最強』の人物なのだ。
そんな魔女の尊敬と畏怖を一身に受ける綾瀬は、さも面倒そうに理事長用の椅子にもたれかかった。
「性格に少々難はありますが、夜浪先生の教師としての能力は確かです。当校も人材不足でしたからね、むしろ雇わない理由がなかったわけです……ただ、貴女が聞きたいのはそういう意味ではないのでしょう?」
「当然です! 霧乃さんは『魔女』なんですよ、間違いなく厄介事になるに決まっているじゃないですか!!」
「貴女もその同類でしょうに。……まあ実を言うと先日、霧乃の方から言ってきたのですけれどね」
「まさか……脅されたんですか!? 言うこと聞かないとこの学園爆破するぞとか、飛鳥さんを攫って食べちゃうぞ(性的な意味で)とか!!」
それは由々しき事態である。
あの真っ黒女がどこで何をしようと知ったことではないが、飛鳥に対して害を為すようであれば、全身全霊をもって排除しなければならない。
かなり暴走ぎみの思考に気炎をあげるクロエに、
「うるさい。……三度目はないと心得なさい」
「申し訳ありませんでした」
綾瀬はたった一言で、ぴしゃりとその狂奔を凍結せしめた。クロエは反射的にフェブリルよろしく「イエス、マム」と応えそうになったほどである。
ともかく、クロエは四肢を震わせながらも、霧乃が学園にやってきた事情を伺うことにした。
本人を問い詰めてもよかったのだが、どうせ適当なことを言ってはぐらかされるに決まっているのだから。
理由だけ聞けば、成程納得と言えないこともなかった。
そもそも霧乃が日本に来た理由は、先日電話口でも聞いた『鋼鉄』の男――鋼刃九朗の調査依頼であったわけだが、それはどちらかというと来日するきっかけに過ぎなかったのかもしれない。
ライン・ファルシアでの騒動の前後で、クロエ達を取り巻く環境は大きく変動しつつあった。
《パラダイム》による学園襲撃に始まり、『異世界』などという不可解極まりない存在の露呈、鈴風の人工英霊化、そして駄目押しで《八葉》屈指の最大戦力である高嶺和真の、事実上の戦線離脱ときた。
「あの人は殺しても死なないような男ですから、大して心配はしていませんけれど」
夫が行方不明になった妻の発言とはとても思えなかった。
もう慣れた、といった綾瀬の物言いではあったが……心配でないはずがない。内心では強く心を痛めているのだろう。
つまるところ、事態は動乱の兆しを見せているにも関わらず、それに対応できる人材が今の白鳳市にはほとんどいなかったのだ。
クロエとて強大な力を有する身ではあるが、まだまだ17歳の若輩。
単純な経験不足故に、不測の事態にはどうしても順応しきれない部分もある。
そういう意味では、夜浪霧乃は適任だったのだ。
《九耀の魔術師》として申し分ない戦闘能力を保有し、各方面の知識や冷静な判断力もある。
そして最も大きな理由としては、彼女は味方として信頼に値する。
「私も大抵、姉馬鹿なのかもしれませんね。……これから先、きっと飛鳥が命の危機に直面する事態は爆発的に増大する。一緒に戦えない私ができる事は、少しでもその負担を和らげられるように、1人でも多くの信頼できる人間を近くにやることくらいですから」
危険の渦中に立つ飛鳥を助けてやりたい――綾瀬と霧乃の意見は、この一点でのみ完全な一致を見ていた。
《九耀の魔術師》どうしの相互不可侵条約である『天秤協定』を無視するというリスクを負ってでもなお、大事な弟の一助になることを優先した2人の姉心だったのだ。
卑怯だろう、とクロエは思った。
これでは反発している自分の方が悪者ではないか。
だが、そんな事よりもクロエは悔しかった。
2人がそう決断したということは、つまりクロエ一人には任せられないと言っているも同然だったのだ。
嫌が応にも思い知ってしまう。
自分は誰よりも強い力を持っている。
しかしそれだけだ。
誰よりも強い力を持っているだけの歩く災害に、どうして大事な家族を任せられようか。
「……飛鳥さんは私がお守りします」
それでも、だ。
これだけは、譲れない。
飛鳥とはまだ1年程度の付き合いでしかないが、今のクロエにとってはそれこそがすべてなのだ。存在意義と言っても大袈裟ではない。
我がままだと分かっていても退くつもりはない、と瞳に意思を込めるクロエに対して、
「……愚弟も随分と愛されたものですね」
「あいっ!?……いえ、その、わたしは」
「今更違うとでも言うつもりですか? 奥手なのか大胆なのかはっきりしない子ですね」
綾瀬は手を頬に当てて、困ったような、呆れたような、どちらとも言えない笑みをこぼした。
クロエはうーん、と若干考え込んでしまう。
いや、飛鳥のことが好きかどうかと聞かれれば全力で好きと答えられる。
一緒にいると安心するし、手を繋げばドキドキするし、自分以外の女性が彼に近付くと苛立ちを抑えきれなくなる時もある。
「それが恋じゃなければ嘘でしょうよ」と沙羅に断言されるほどに、クロエは飛鳥にお熱なのだ。
けれど、クロエには自信がないのだ。
――魔女が恋などできるのだろうか?
そもそも、クロエと飛鳥の出会いは、男女のそれとしては最悪の部類に入る。
1年前の邂逅をあまり思い出したくはないが、当時は殺し合い――といってもクロエ側からの一方的なものだったが――をしていた間柄であって、現在のように同じ場所で生活できている時点で奇跡に等しい。
随分と迷惑をかけてしまったのだ。
それ故に、今の自分の感情が純粋な恋心なのか、罪悪感からくるものなのかが分からない。
いや、精神が破綻した『魔女』である自分に、恋心などという上等な感情がきちんと備わっているのだろうか、と悩むことを止められないのだ。
「クロエ。貴女が『魔女』である自分の事を疎ましく思っているのは知っています。……しかし、少なくとも私は、貴女という人間を好ましく思っていますよ」
「綾瀬さん?」
そんなクロエの逡巡を察したのか、綾瀬の口調が柔らかくなっていた。
「生徒会長としての仕事ぶりを見るに、統率力があり考え方もしっかりしている。礼儀も弁えているし、気立てもいいですしね。飛鳥絡みのことになればすぐに暴走するのが欠点ですが、度を過ぎなければご愛嬌でしょう」
「え、ええと?」
「もっと自分に自信を持ちなさいな。そうやって中途半端に一線を引こうとするから、いつまでたっても飛鳥を落とせないんですよ?」
何故だろうか、霧乃の話がいつの間にか自分の恋愛相談にすり替わっていた。でも話を逸らさないで下さいとも言えなかった、怖いし。
それにしても……クロエの自惚れでなければなのだが、どうにも綾瀬は2人をくっつけたがっているように思えた。
「落とすとか、落とさないとかではなく……こういうのは、その、飛鳥さんご自身のお気持ちが大切だと思うのですが……?」
「――ハッ」
ものすごい嘲りの表情を浮かべながら鼻で笑われてしまった。嘘偽りない考えを口に出しただけなのだが。
いつも毅然として冷徹ささえ感じられる綾瀬であるが、何故かこういった男女間の話となると人が変わったかのようにヒートアップするのだ。
理由は定かではない、追求すると取り返しがつかなくなりそうだから。
そして一度この状態になると、もう逃げられない。
「私、なにかおかしい事を申し上げましたか……?」
「ええ、おかしいですとも。ちゃんちゃらおかしいですとも。端から見ていてこっ恥ずかしいほどに『恋する乙女』している分際で、よくもまあそのような消極的な言葉が出てくるものですね。私には貴女の考えが理解できません」
「私には今の綾瀬さんのキャラが理解できません……!!」
「お黙り。ともかく、そんな戯けた考え方では先が思いやられるというもの。……そこに座りなさい。その腑抜けた恋愛観、叩き直して差し上げましょう。今の貴女に足りないもの、それは…………『がっつき』です!!」
「がっつき!? 押しではなくて!?」
この後、昼休み終了直前まで日野森綾瀬による『鈍感な男を落とすための肉食系乙女講座』が延々と展開された。
おかしい。こんな話を聞くためにわざわざ理事長室に乗り込んできたのではなかった筈なのに。
いったいどこで間違ってしまったのか?
「そこっ! ぼうっとしないで話を聞く!!」
「ひゃ、ひゃいいっ!?」
クワッ! と目を見開きこちらを一喝する綾瀬の声に、クロエはそんな思考を中断せざるを得なかった。