―第25話 Lady Black ③―
得るものがあれば、失うものもある。
そんなことは分かっていた。
それでも、そう簡単に割り切れれば苦労はしないと、鈴風は思った。
「退部するというのは本気だったのですね、楯無さん」
「……はい」
夏も近付いているというのに、がらんと静まり返った剣道場の空気は妙に冷たい。
その中心で正座をしている2人――剣道部を去ると明言した楯無鈴風と、剣道部部長である村雨蛍は、互いに神妙な面持ちで向かい合っていた。
切り揃えられた前髪から覗く蛍の相貌はどこまでも穏やかで、威圧感などまるで感じられない。日本人形のような愛らしさと、すらりと伸びた長身を併せ持つ彼女は、まるで絵に描いたような大和撫子だった。
「篠崎さん、泣いていましたよ?」
「……でも、それでも覆すわけにはいきません」
「どうしてそこまで頑なに、とは聞かないほうがいいのでしょうね」
そんな蛍の気遣いに、鈴風は申し訳なさそうに笑った。
――あたし、人間じゃなくなったんで。
――だからもう皆と一緒に部活はできないんです。
そう言えたならばどれほど楽か。
人工英霊として再生した鈴風の身体能力は、既に常人と比較する事自体が無為に感じられるほどに隔絶されていた。
《ライン・ファルシア》帰還後、部活に参加して鈴風は思い知った。
対戦相手の剣の動きが文字通り、止まって見えた。
ほんの少し集中すれば、相手の視線の動きや筋肉の収縮運動を読み取って、次の行動を先読みするなんて芸当すら難なく実現できたのだ。
いやまったく、宮本武蔵にでもなった気分だった。
こんな馬鹿みたいな神業を体得するには才能も必要だろう。
なによりも、長年の人生を剣の道に捧げ抜いてようやく到達できるかどうかというほどの努力と研鑽が必要だろう。
それを、何の努力もなしにこの身に宿してしまった己が、皆と肩を並べて頑張ろうだなんてふざけた話だ。
「これはあたしの我がままです。あたしは自分勝手に、皆の気持ちも考えずに途中で剣道を投げ出した卑怯者です」
仕方がなかった、などと言い訳するつもりはない。
人工英霊になると決めたのは、真実、自分自身の意思によるものだ。
飛鳥達と同じ道を選ぶという意味が、他の道を捨てるのと同義であることなど分かり切っていたのだから。
砂を噛むように呟く鈴風に対して、蛍は柔和な笑みを返した。
「私は、それが悪いことだとは思いません。諦めや挫折とは、自分の道を模索している証です。……私達が、一生のうちに成し遂げられる事なんてほんの一握り。最初にこうありたいと、決めた事を最後まで貫き通せたならそれが理想なのかもしれませんが、人間応々にして壁や艱難にぶつかるものです」
「部長?」
普段は穏やかで口数の少ない蛍の急な饒舌ぶりに、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。何か彼女の琴線に触れるものでもあったのだろうか?
そんな鈴風の内心を察してか、蛍はばつの悪い表情で小さく笑った。
「ごめんなさい、少々熱くなってしまいました。たかだかひとつ年上の若輩が何を偉そうに、と思ったかもしれませんが。……それでも、貴女が自分を貶めるような言いぶりに我慢ならなくて」
先輩のちょっとしたお節介ですよ、と蛍はひとつのたとえ話をした。
「そうですね……例えば五輪に出場する事を夢見て努力している選手がいたとします。将来を有望視され、金メダル間違いなしと言われるほどに周りから期待されていました。しかしある日、その人は大怪我を負ってしまい、医者からもう二度と運動は出来ませんよと宣告されてしまいました。……さて、楯無さんがその選手だったならどうしますか?」
「うーん……諦めてたまるかーって必死にリハビリしますかね。折角五輪に出られるまでに頑張ったんですから、そう簡単に諦めたくないですもん」
「ふふ、貴女らしいですね。私ならば……選手になる道を諦めて、後輩を育成する教師としてやり直そうとするでしょうか。そんな考え方を貴女はどう思いますか、挫折した弱い人間の考えだと思いますか?」
「……思わないです。その人だっていっぱい悩んで、悩んで。悩み抜いた上でないと出せなかった答えだと思いますから。目指してきた夢を諦めるのは辛いけど、新しい道を見つけてもう一度歩き出すのを弱さだなんて言えませんよ。きっと、すごく勇気のいる決断だったんだと思います」
「まるで、今の貴女のようですね」
「……あ」
成程、どうやら部長にはすべてお見通しだったようだ。してやったり、といった悪戯っぽい笑みを浮かべる蛍に鈴風は思わず小さく唸った。
やりたくないから部活を辞めるつもりなのか、と蛍は露ほども思っていなかったのだ。剣道を続ける事はできなくなったけれど、それは目指すべき新しい道が見つかったから。
何と言う事は無い。
同じ見解に対してただ視点を変えただけに過ぎない。
別に見つけた道を選んだがために、今の部活を辞めなければならなくなったと負い目を感じていた鈴風。
今の部活を辞めることになったとしても、それは新しく目指すことができる道が見つかったからなのでしょう、と蛍は寿ぐ。
「剣道が嫌になったから、というような後ろ向きの理由でないことくらい、貴女の目を見れば分かりますとも。貴女が誰よりも懸命にこの部活に取り組んできたことも分かっているつもりです。そんな貴女がここを去らねばならないほどの事情となれば、きっととても大切な事なのでしょう?」
「……はい」
「ならばそれを責めるなど、お門違いも甚だしい。ならば頑張って行ってきなさいと後押しするのが、今の私にできる唯一のことですよ」
「部長……ありがとうございます。でも、どうしてここまであたしに?」
言ってしまっては何だが、これはたかだか、いち生徒が部活を辞める程度の話に過ぎない。
鈴風がどれだけ有望な部員として評価されていたとしても、蛍の発言はあまりに深刻めいているように感じられた。
「(私にとっても、他人事ではありませんから)」
「え?」
悲壮を滲ませた表情をする蛍の呟きを、鈴風は聞き取ることはできなかった。
「いえ……ともかく、私がお話したかったのはこれだけです。負い目など感じなくていいのですから、胸を張りなさい。でないと日野森さんに笑われてしまいますよ?」
「へ? いや、飛鳥は別に関係――」
「あるんでしょう?」
ぐうの音も出ないとはこの事か。反論もできずに鈴風は項垂れる他なかった。しかし――グゥゥ。
「あう」
「あらあら」
ぐうの音は出なかったが腹の音は鳴った。
いい話で終わりそうだったのに、最後の最後で締まらないのが楯無鈴風と言うべきか。羞恥に顔を真っ赤にする鈴風を見て、蛍は口元に手を当てくすくすと笑っていた。
そして無情にも昼休み終了のチャイムも鳴る。
折角持たせてくれた飛鳥の弁当を食べ損ねてしまった鈴風は心の中で涙した。
とほほと空腹を嘆きながら退出した鈴風を見送り、ひとり剣道場に鎮座する蛍は考えていた。
楯無鈴風。
今時珍しい、一本筋の通った清々しいまで実直な少女について。
「本当に、世は無情ということでしょうか」
剣道部の中でもひときわ輝いていた彼女を、蛍は妹のように可愛がっていた。だと言うのに、あれほどまでに純粋無垢な少女を、これから自分は血みどろの戦いに引きずり込まなければならないのだ。
それを思うと心臓がきしりと悲鳴をあげた。
窓の外から見える欅の木が不自然に揺れる。そして、そこから風音に混じって蛍にとっては実に耳障りな声が響いてきた。
「キヒヒッ! おいおい蛍さんよぉ、まさか今更になって戦いたくない、だなんて言い出さねぇだろうなぁ?」
「……鴉ですか、覗き見とは相変わらず趣味が下劣ですね」
声の方向に視線のみを向ける撫子の麗貌は、仮面を付けているかのようにぴくりとも動かない。先の穏やかさとは正反対の、抜き身の刀にも似た凄絶な気配を漂わせていた。
少々の苛立ちを声に乗せ、蛍は声の主へと問いかけた。
「学園内は私の管轄だった筈です。なぜ貴方がこちらに来ているのですか?……つまらない理由であれば、即刻その首、斬り飛ばしますよ?」
「おおこわ。俺だって好き好んでアンタみたいな辻斬りのいる場所になんざ来やしねーよ。用ってのはアレだ、こないだできた新入りってのはアンタの知り合いなんだろ? それで上からのお達しでな、アンタが妙な仏心を出さないか様子を見てこい、だってよ」
随分と信用されていないものだ、と蛍は毒づく。仏心など自分とはまず無縁のものであるだろうに。
――人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬る。
鴉の言う『辻斬り』こそが村雨蛍の本質であり、それ以外の要素はまるで存在しない。
故に、
「ならば無用の心配であると伝えなさい。《パラダイム》に仇なすあらゆる万象を斬って斬って斬り捨てる。村雨蛍は、心身これ一振りの刃であるのですから」
斬らぬ生き方など考えられない。
たとえ立ちふさがる相手が誰であろうと、蛍は迷わず斬ってのける。
たとえそれが――
「へいへい。それじゃあ伝えとくぜ。反逆者の人工英霊は、2人まとめてアンタが刀の錆にするってよ」
可愛い後輩だった少女だとしても。
煩わしい鴉の気配が消失した後も、蛍は無表情の仮面を外すことができなかった。
「えぇ、えぇ……これが世の定めだというのなら是非もなし。私は迷わず貴女を斬ります、楯無さん」
自身に言い聞かせるように、閑散とした剣道場に蛍の声が木霊する。
必殺の決意か、それとも悲劇に対する慟哭か。
それは当の蛍自身にも分からなかった。