―Intermission02 5月2日・午後 ―
専門用語の嵐。
「和に――高嶺隊長が行方不明!?」
クロエが断花重工入口で、沙羅とどつき漫才を繰り広げていた頃。
同施設内、社長室。
眼前の老人から告げられた事実に、日野森飛鳥は驚愕で表情を凍らせていた。
「ええ。君が向こう側に飛ばされたのとほぼ同じタイミングで、彼からの定期連絡が途絶えました。それから現在に至るまで連絡はおろか、探査衛星による位置検索にも反応しない。文字通りの行方不明です」
大企業の総裁が鎮座する場所にしては、この社長室はあまりにも簡素であった。
飾り気のないグレーの絨毯の上に設置されているのは、大小様々な書類が収められた古びた木製の本棚。来客用のソファーとガラス机に、飾り気のない、しかし長年に渡って愛用されたのだろう、その表面からは深い年輪を感じさせる無垢材のデスクがあるだけだ。
その重厚な木机に座りこみ、淡々とした口調で言を発する老人こそ断花浄雲。
断花重工代表取締役であり、また《八葉》の総裁を勤める人物でもある。飛鳥個人として言えば、対人外用戦闘術――断花流を師事する『先生』でもあった。
今日の目的は検査を終えたリーシェを迎えに来ることだった。
しかし、こちらに到着するや否や、突如社長自らの呼びだしが施設内アナウンスで大々的に放送されてしまい(ちなみにこの時、クロエからの着信があったのだが気付かなかった)、社員達の疑惑の目線を一身に受けながら、肩身の狭い思いをしつつこの社長室に出頭したのだった。
(和兄が任務で何日も連絡がつかないのは別に珍しくもないが……『月読』の探知にも引っかからないというのは異常だ。いったい何があった?)
義兄である高嶺和真の音信不通に対し、飛鳥は心配――というよりは疑念が先に立っていた。
八葉第二枝団――第二師団、ではない――通称『雷火』の隊長である和真の戦闘能力は、飛鳥でも全く歯が立たない異次元の強さだ。
体内組成からして人間と異なる人工英霊でもなければ、クロエのように超常現象たる魔術の使い手というわけでもない。
正真正銘ただの人間だ。
しかし、彼の拳は鋼鉄を容易く貫通し、生身で光学兵器の直撃にも耐えて見せる。
何を隠そう、彼こそ1年前に発生した最新型戦闘車両の暴走を、その拳ひとつで鎮圧せしめた男なのだ。
故に、高嶺和真という男を真正面から撃破するのであれば、それこそ練達した人工英霊をダース単位でぶつけるか、あるいは一個師団レベルの軍隊が要求されるだろう。
飛鳥が知る人間の中で、間違いなく彼こそが『最強』であった。
「その日の夜、彼は君と同じく白鳳学園にいました。失踪の原因があるとすれば、その時学園にいた『何か』、という事になります」
「では《パラダイム》――リヒャルト=ワーグナーでしょうか」
「おそらくは。……とはいえ、彼がリヒャルトに遅れをとるとも考えにくい。殺害された可能性も否定しきれませんが、潜伏して彼を追跡していると見た方が自然です」
殺害、という言葉に一瞬心臓が停止しそうになった飛鳥だったが、続く総裁の推理に安堵しながら同意した。
和真とリヒャルトの因縁は、おそらく自分とのそれよりも長く、根深い。
何となくの予感でしかないが、あの2人の『決着』は今よりもっと先、もっと大きな場面で終結するものなのではないかと思った。
「それで、自分はどうすれば? 捜索の任であれば拝命致しますが」
「しばらくは彼からの連絡を待ちましょう。先の通り、意図的に連絡を絶っている可能性もあります」
飛鳥個人としては、今すぐにでも和真を探しに飛び出したい衝動でいっぱいだった。だが、自分の独断専行がどれほど周囲に迷惑をかけるかも理解していたため、ここでは表に出すことはしなかった。
これからの事をどうするべきなのか、飛鳥は浄雲に向き直る。
「『雷火』の隊長不在の期間が長いと、《八葉》としての士気にも影響します。……そこで飛鳥君、副隊長である君を暫定的に『雷火』隊長に任命します。和真君が戻るまでの間ではありますが、第二枝団隊長としての各権限を君に預ける事に決定しました」
「……は?」
いかにも好々爺然とした柔らかい口調で告げられた、突然の辞令。
予想だにしない展開に、飛鳥は開いた口が塞がらなかった。
「アスカ、お話終わったの?」
「あ、ああ……一応な」
覚束ない足取りで社長室を後にすると、扉の前で待っていたフェブリルが目線の高さまで浮かび上がってきた。
退屈だったー、と愚痴をこぼしながらいそいそと飛鳥のジャケット、その胸ポケットの中に入り込んでくる。かなりくすぐったかった。
ちなみに、現在の飛鳥の服装は《ライン・ファルシア》にいた時の制服ではなく、私服だった。
八葉から支給された特殊繊維製のジャケットをベースに、飛鳥の意見を反映してとある人物が彼専用にした一品だ。
外見は、炎を反映した紅い髪と同色に仕立てられたフード付ライダース。しかしその表面には高度の防弾、耐熱処理を施しており、飛鳥の炎の余波で燃えてしまわないよう配慮されている。
いかに自分の意思で燃えないように能力を操作できるとはいえ、どうしても燃え移ってしまう時もあるのだ。実際、異世界騒動で飛鳥が来ていた制服は、半分以上が自身の炎で焼け焦げて使い物にならなくなっていた。
また最近では、フェブリルがポケット内に入りたがるようになったため、ポケット内の裏地をコットン地から、肌触りがよく滑らかな質感のキュプラ素材に切り替えているなど、やたら芸が細かい一着だった。
「うにゃあ……やっぱり飛鳥のポケットに入ると落ち着くなぁ……アタシはもうこの肌触りに病み付きなのですよー」
ポケットの中からひょっこりと顔だけを出し、うっとりとした心地で目を細める小さな相棒の姿に、
(おーおー、とろけてるとろけてる。無理言って夜行さんに仕立て直してもらった甲斐があったな)
先程のショッキングな話を一時忘れて和む飛鳥だった。
ふと窓の外を見やると、そこは空港の発着場並みに広大な空間に人型の戦車達ずらりと並んでいた。
(『ブーステッド・アーマー』……遂に八葉にも配備されるか)
武装した機械の鎧の迫力に、飛鳥は少しだけ身震いした。
しばらくこの最新鋭科学の尖兵を観察したい好奇心に駆られたが、リーシェを待たせてもいけない。
後ろ髪を引かれる思いで、飛鳥はこの場を後にした。
「……なんだこの状況は」
研究開発棟、第三研修室。
社内の受付で話を聞き、リーシェがいるというこの一室の扉を叩いた飛鳥とフェブリルを出迎えたのは、
「アスカ頼む、助けてくれぇ」
山積みの教科書に埋もれて悶絶するリーシェと、
「助けてほしいのは僕の方なんだがね、ブラウリーシェくん。まさか君がこれほどまでに物分かりの悪い生徒だったとは」
それを見て、困り果てた表情で眉間を抑える長身の男性だった。
女性と見間違えそうなほどに線の細い体躯に、腰まで伸びた銀色の髪。黒縁眼鏡を軽く押し上げる姿にはどこか妖しげな色気が感じられ、そんな彼と目線があった飛鳥は言い様のない悪寒を感じていた。
「リーシェの監査役とは夜行さんの事でしたか。……難航してます?」
「ああ、飛鳥くん……丁度いいところに。君からも発破をかけてくれたまえよ。彼女の記憶領域を以てすれば、この程度の常識すぐに覚えられる筈なのに!!」
お手上げだといわんばかりに両手を振り上げる美丈夫――来栖夜行の様子を見て、飛鳥はこの混沌とした状況を理解した。
異世界からの客人であるリーシェを現代社会に適応させるためには、何はともあれ一般常識を詰め込む事から始める必要があった。
今でこそ大分マシになったが、こちら側に来た直後はそれはもう酷い有様だったのだ。
例えば、彼女の身の回りのものを揃えに街へ出た際には、
「人混みでまともに進めないな……ああそうか、飛べばいいのか」
往来のド真ん中でいきなり翼を現出させて、通行人の視線を一身に集めたまま大空へと飛び上がったり、
「あれは鋼鉄の獣――ここで会ったが百年目、斬って捨てる!!」
街中を行き来している清掃用ロボットを、かつて飛鳥達と交戦したクーガーと勘違いしていきなり抜刀。鈴風と2人掛かりで、必死に羽交い締めにして止めたのは記憶に新しい。
(駄目だコイツ、早く何とかしないと――)
そう危機感を覚えたのは本当にすぐのことだった。
ゴールデンウィーク明けには、クロエと同じく留学生として学園生活を送ることになるのだ。
ともかく可及的速やかにこの天然騎士さんに『常識』を叩きこむために、急遽この集中合宿が開催されたのだ。
「す、すまんアスカ……どうやら私はこれまでのようだ。私の頭は、活字と数式に蹂躙されてもう限界なんだよ…………ああ、兄様が呼んでいる。いまそちらに参りますぅ……」
「「行くなああぁぁぁっ!!」」
教本の山に押し潰されながら、胡乱な目をしてかなり危ない事を口走ったリーシェに思わず駆け寄った。
軽く頬を叩いても目が覚めず、やむなくフェブリルにフライングデビルフラッシュ(過去鈴風にも炸裂させた飛び蹴り)を指示。彼女の額にプチドロップキックがペチンと当たった衝撃で、ようやく正気を取り戻した。
「ヤコウの教え方が下手なのが悪い。本に書かれた内容を片っ端から暗記するなど、私の性に合わないのだ」
未だに痛みが残るのか、赤くなった額をさすりながら愚痴をこぼすリーシェに、飛鳥も夜行も苦笑いするしかなかった。
彼女の手元にある本を覗いてみると、どうやら近代史の勉強中のようだ。
そこで気分転換になればという事で、夜行に代わりしばらく飛鳥が教師役を引き受ける事になった。
《ライン・ファルシア》で鈴風達に人工英霊について講義した時もそうだが、飛鳥はこうやって誰かに物事を教えるのが好きなのだ。
実際、手先でくるくるとマーカーを躍らせながら、リーシェの正面にホワイドボードを移動させている飛鳥はやけに楽しげな様子だった。
「そういえば、《八葉》の話ってほとんどしたことなかったよな?」
「えーと、この場所がそうなんだよな? アスカやヤコウが所属する組織で、確かスズカは正義の味方などと言っていたが」
「人知れず悪を成敗するヒーローみたいな? こないだテレビでやってたの」
「正義の味方、ねぇ……順序立てて説明しようか。《八葉》っていうのはそもそも、この断花重工の一部署なんだが……」
断花重工は歴史の長い企業である。
造船、航空機械の製造を主としており、国内でも三指に入るシェアを獲得している。特に21世紀に入ってからは災害地への救助や、深海や氷河、火山といった極地の調査を主目的としたマニピュレータ開発で一大市場を作り上げた。
ここでいつの間にかポケットから離れ、リーシェが向かっている机の上に座り込んでいたフェブリルが手を上げる。
「『まにぴゅれーたー』って?」
「有り体に言えば作業用ロボットかな。例えば火事が起きた際に、生身の人間では危険で入っていけない場所を捜索できるレスキューロボットとか。後は火星探査のために送り込まれた移動探査機、半自動的に動いて地表の様子を調べてくれたり。2010年代は特に外宇宙への進出を目指した研究が盛んだったんだ」
「ん? 今は違うのか?」
「違う、というわけではないんだろうけど。……それどころではなくなった、と言うべきなんだろうか」
10年前のAIT社の台頭によって起きた世界技術の変革――通称『セカンド・プロメテウス』により、それらの発展、及び用途も大きな変動を強いられることとなった。
自己保存、自動修復機能を有した奇跡の鋼材である『ウルクダイト』や、人間の脳波パターンを解析し、使用者の思考をそのまま機械の動きに反映させる制御回路など。
当然それらの画期的な技術は、すぐさま世界中で競うようにして取り入れられた。
「しかし、各国で真っ先に作られたものと言えば、壊れてもすぐに復元する銃火器や、人間さながらの動きを可能とする自律兵器。『セカンド・プロメテウス』がもたらしたものとはそういうものなんだよ」
「……人間って昔から、新しい技術を手に入れたらすぐに戦いの道具にしたがるよね」
「全くもって真理ですね……耳の痛い言葉だ」
核心を突いたフェブリルの呟きに、夜行はばつの悪い表情をした。
世界有数の大企業である断花重工とて例外ではなかったのだ。
急激に移り変わった世界の需要に対し、これまで行われてきた災害救助や開拓といった生活を助ける開発を、180度軍事転換する必要性が出てきたのである。
どんな武器とて人を守るための道具には違いない。
そういったものが警察や自衛隊へ配備され、民間の平和を守っているとなれば、一概にそれを悪と断じることはできないだろう。
「そして問題はここからだ。身の丈に合わない、あまりに急激過ぎた科学技術の発展の弊害として、扱う側の人間がそれを制御しきれなくなってきたんだ」
「『セカンド・プロメテウス』の技術は、本来であれば約70年先の未来にできると想定されていたものだそうです。しかし、だからといって我々人間の頭の中も未来を先取りできるわけじゃない。あまりにオーバーテクノロジーだったのです」
和真が解決した車両暴走事故はその最たるものだろうし、人工英霊やリーシェ達有翼人もそういったオーバーテクノロジーの産物なのだ。
その危険性は、先の事件で飛鳥もリーシェも身を以て実感している。
「その技術とやらがなければ私もこの場にはいなかったわけだから、あまり真正面から否定もできんが……しかし、そのままでいいのか?」
「もちろん、いいはずがない。ひとたび暴走すれば、あっという間に大勢の人が死ぬ――そんな危険性を孕んだものが、今では世界中にゴロゴロいるわけだし。そこで結成されたのが、今俺のいる《八葉》という組織なんだ」
《八葉》という組織の成り立ちは、断花重工内で『セカンド・プロメテウス』からの技術を用いた製品に対する信頼性、安定性をより確かなものにするための試験運用やデータ解析を行う部署だった。
超技術で作られた武器兵器が、暴走や悪意のある人間に奪われてしまうといった不慮の事態を想定し、集められた人員には、当然そういった状況に対応できるほどの能力が求められたのである。
「いずれ会うことになるだろうけど……第一枝団のヴァレリアさんとか、第八枝団の竜胆さんなんか、はっきり言って化け物だぞ。普通の人間のはずなのに、人工英霊の俺がまるで子供扱いなんだから」
「あ、アスカにそこまで言わせるほどの人材が何人もいるのか、ここには」
「もう万魔殿じゃないの、ここ」
それが結果的に最先端技術のるつぼを作り出す事になり、民間企業が保有するにはあまりに破格の武装勢力として成立したのだ。
「理由はどうあれ、我々には人殺しの兵器を造ってしまったことに対する責任があります。そのため、《八葉》は治安維持組織としての活動を始めたのです……身から出たさびと言われればそこまでですけどね。これでは、お世辞にも『正義の味方』とは呼べませんか」
研究・開発部門である第六枝団『月読』――その隊長を勤める来栖夜行にとって、《八葉》での活動はせめてもの罪滅ぼしと考えているのだろう。
自嘲ぎみに『正義』を否定する夜行に、リーシェもフェブリルも複雑な表情を見せていたが、
「どんなものだったとしても、善悪を決めるのはそれを使う人次第だ。人の命を顧みない非道を為すAITや《パラダイム》とは違う、ヤコウ達は人々を救うために色々なものを造っているのだろう? ならば誇りこそすれ、恥じる必要などどこにもあるまい」
「せいだくあわせのむ、だっけ? 善いことも悪いことも、全部受け入れて頑張ってるヤコウ達は偉いと思いますっ!!」
「ええっと……励ましてくれてるのかな?」
不器用な2人のエールに、飛鳥も夜行も自然と笑顔がこぼれていた。
……随分と話しこんでしまった。
こちらの世界に馴染むための勉強も一段落していいでしょう、という夜行からの御墨付きを頂いたところでリーシェは教本の山から解放された。
社内のカフェテリアで一息つきながら、飛鳥達はこれからの予定を考えていた。
時刻は午後2時を周ったところ。
今日はこれ以上の予定はない、しかし遊びに行くにも直接帰宅するにも中途半端な時間だ。
「えぇ……このまま帰るなんてつーまーんーなーいー! どこか遊びにいこうよー、観光つれてってよー!!」
「観光ねぇ……」
「こら、あまりアスカを困らせるな。……私はアスカに任せるから好きに決めてくれ、どこにでもついていくからな」
まさしく天使と悪魔といった2人の対照的な主張を聞きながら、しばらく確認していなかった携帯端末をポケットから取り出した。
そういえば、こちらに到着してから3時間以上経過しているが、バタバタしていたせいでまともに確認していなかった。
そして着信履歴の画面を表示したのは、
【着信 クロエさん 146件】
狂気すら感じさせる不在着信の数字に、頭の中が真っ白になった。
ちなみにメールも相当数入っていたようだが全力で見ないことにした。
いきなり彫像にように固まってしまった飛鳥の、あまりに不自然な様子を訝しんだ2人だったが、おそるおそる端末の画面を覗き込むと、
「「うわぁ……」」
引いた。
携帯電話というものを見た事のない二人でも一瞬で理解できたようだ。
これ、ヤバくない? と小声で同調した。
まずい、まずい、まずい……大きく頭を振って現実に帰還した飛鳥は、ともかく現状を冷静に、正しく認識するために大きく深呼吸。
結論。平謝りあるのみ。
何故か手の震えが止まらない。
戦々恐々の面持ちでリダイヤルのキーに触れようとした飛鳥を、
「もう、その必要はありませんよ……?」
背中にやんわりと触れた小さな手が制止した。
鈴の鳴るような透き通った声、しかしそれを聞いた飛鳥は心臓を鷲掴みにされたような感覚だった。
無数の銃口を向けられるよりも、触れるだけで身体が消し飛ぶ荷電粒子砲の光よりも、何より背後から浴びせかけられた冷たい一声こそが恐ろしかった。
それは仲が悪いはずのリーシェとフェブリルでさえ、互いの身を抱きしめながらプルプルしているほどであった。
寒い。
背筋を氷柱に変えられた心地に、わぁすごい、人間って視線だけで凍え死ぬことができるんだー、と思わず関心。
地球温暖化もこれさえあれば一挙解決なのではないだろうか――などと考えていると、
「こっち、向いて下さい」
「はい」
どうやら一時逃れの現実逃避すら許されないようだ。
覚悟を決めて恐る恐る振り返った。
「……さあ、飛鳥さん? 何か言い残したいことはありますか?」
「すいませんでしたあああっっ!!」
後日、彼の使い魔はこう語った。
アタシも長いこと生きてきたけど、あれ以上に鮮やかなジャンピング土下座は見たことがない、と。
「本当に心配したんですからね? また事件にでも巻き込まれたのかと思って…………それが来てみれば、両手に花でティータイムだなんてあんまりです。まったく、まったくまったくまったくもう!!」
「返す言葉もございません……」
「あ、足が、痺れ……なんだこれは、新手の拷問なのかぁ……」
「あのぉー、クロエ? もう足の感覚がないんですけど? そして、そろそろ周りの視線が痛いんですけど?」
クロエのお説教が始まってかれこれ1時間。
カフェテリアの真ん中で正座させられている飛鳥達は限界だった。それは足の痺れにというよりは、この滑稽極まりない光景を痛ましげな面持ちで見ていく社員達の視線に。
ちなみに、関係ないはずのリーシェとフェブリルまでもが正座させられているのは、
「『連帯責任』って素敵な言葉だと思いませんか?」
出鱈目だと、その場にいた誰もが思った。
しかし、誰もクロエの言葉を否定できなかった。
こちらに向けられた絶対零度の眼差しを前に、反抗しようという意思すら出てこないのだ。
クロエ=ステラクラインの性格は、誰よりも飛鳥が一番よく知っているという確信がある。
心配性で嫉妬深く、何かあれば基本力押しで解決しようとする彼女ではあるが、多少の心配や嫉妬はむしろご愛嬌だろう。
戦慄するほどの電話着信もメールの嵐ももう慣れた。
それはいい、別に何という事はない。
問題は今のように怒らせてしまった場合だ。
比喩でもなんでもなく、逆らえば死ぬ。
それを印象付けたのは1年前、クロエが白鳳学園に転入してきた頃。
見目麗しい彼女の容姿に惹かれて交際を申し込む大勢の男子の中に、酷くしつこい輩がいた。学園内で四六時中クロエに付き纏い、事もあろうに自宅にまで付いてこようとしていたのだ。
「貴方の事は好きでも何でもないので、もう諦めてください」とクロエがぴしゃりと言い放っても、その男子生徒は諦める様子もなく更にストーカーまがいの行為を続け……ついに彼女はキレた。
「もう消えて下さい」
抑揚のない口調で呟いた途端、男の眉間に“クラウ・ソラス”の銃口を突き付け、何の躊躇いもなく引き金を引いたのだ!!
すんでのところで飛鳥が防いだため、殺人事件にならずには済んだのだが……その男子生徒は二度と彼女の前に姿を現さなくなった。
これでも諦めなければ、むしろ男の一途な想いを称賛すべきだ。
即ち、怒ったクロエは点火寸前の爆弾どころか核弾頭に等しい。
不用意な一言が、その瞬間この世とサヨウナラになりかねないのだ。
しかし日野森飛鳥は人工英霊であり『反逆者』。
怖れや不安を抱くなど許されず、不倒不屈の精神を絶やす事はそれこそ死に等しい。
――言ってやるのだ。
――ここは男らしくガツンと言ってやる場面なのだ!!
意を決して顔を上げる。そして、
「そろそろ勘弁していただけないでしょうか……!!」
……ある意味、日野森飛鳥はここで一度死んだのだ。
キャラ崩壊など知ったことかと、恥も外聞もかなぐり捨てて深々と頭を下げる飛鳥の姿はむしろ男らしくもあり、傍らのリーシェとフェブリルは思わずほろりと涙した。
さしものクロエも罪悪感を感じたのだろう、凍りつくような視線が困惑に揺れていた。
「漫才の次はコントでも始めたんですの?」
と、そこに救いの天使が手を差し伸べた。
クロエをここに連れて来た後、仕事に戻っていた沙羅が帰って来たのだ。
そもそもクロエがこの場所に来たのは、飛鳥達を糾弾するためではなく緊急事態を《八葉》に報告するためである。
お説教にかまけて本来の目的を忘却していた事にようやく気付いたらしい。
「ごめんなさい、やりすぎました……」
しゅんと項垂れるクロエの言葉でようやく正座から解放された。
随分と脱線してしまったが、気を取り直して。
「しかし、《九耀の魔術師》である霧乃さんが手を焼くほどのものって何でしょう?」
飛鳥も霧乃とは旧知の仲だ。
彼女がどういう存在なのかはクロエ同様よく理解していた。
《九耀の魔術師》とは、俗な言い方をするのであれば『世界最強の9人』だ。
『魔術』という存在自体ほとんど表沙汰になることがないため、一般的にその存在は認知されていない。
しかし実際に、世界中の国家は彼ならびに彼女達の動向を厳重に管理しようとしている。
運用次第では単身で一国相手に喧嘩を売る事ができる存在だ。
軍事面ではもちろんのこと、外交の点でもこの上ない切り札として利用できるのだから、おいそれと手放すわけにもいかない。
「私が日本にいるのを知っていてここに来るぐらいですからね。余程のものには違いないでしょうけど」
「『天秤協定』――リーブラ・アレンジメンツですわね」
強大過ぎる《九耀の魔術師》の力をよりよく制御、管理するために、日本・アメリカ・中国・ロシア・インド・イギリス・フランス・イタリア・エジプトの9ヵ国間で締結されたのが『天秤協定』だ。
その中に、《九耀の魔術師》は複数人同じ国に集まってはならないという規則がある。
これは言わずもがな、戦力の一点集中を避けるため。
それにより霧乃が、既にクロエがいる日本に来るというのは大きな問題なのだ。1秒たりとも日本にいてはならない、というわけではないが……やむなく入国するとしても、滞在には大きな制限がかけられるのだ。
「魔術の使用は一切禁止、滞在期間は1ヶ月以内、あとは……他の《九耀の魔術師》との接触は一切禁止――でしたっけ?」
「はい、私も今の立場になってから直接霧乃さんと会ったことはないんですよ。……けど、飛鳥さんや《八葉》目当てで日本に来るということは」
「間違いなくクロエとも鉢合わせしませんこと? 完全に協定破る気満々ですわね……」
逆に言えば、それだけのリスクを承知の上でこちらと接触しようとしているのだ。
飛鳥にとっては、もうひとりの姉といっても差し支えない人物だ。
もちろん心配でもあるのだが……どちらかというと、今度はどんな厄介事を持ってくるのかという気持ちで胃が痛くもあった。
「ともかく、《八葉》の各隊長にはご報告しておきましたので。期間中はここに監き――滞在してもらって、極力私との接触を避けるようにすれば、何とか……?」
監禁、と言いかけたクロエの失言には全員で気づかないフリをした。
しかし、暫定とはいえ自分は第二枝団の隊長になってしまったのだ。……間違いなく自分に押し付けられるだろうな、と飛鳥は溜息をつくのを止められなかった。
クロエも加えて4人での帰り道。このまま帰宅するのではなく、途中の句芒駅で一時下車する事にした。フェブリルの意向でもあったが、そもそも今日は家に帰っても姉が仕事のためいないのだ。
そのため夕飯は外食にしようかという心積もりもあった。
「おおーーーーーッ!!」
ポケットの中からキラキラとした目で周囲を見渡すフェブリルをよそに、正面の大型ショッピングモール『エヴァーグリーン』に歩を進める。
新進気鋭のデザイナーが設計したという前衛的な姿のオブジェクトが鎮座し、立ち並ぶショーウィンドウには、いかにも高額そうな有名ブランドの洋服をきたマネキンが煌びやかに陳列されていた。
30階層の建物内は吹き抜けになっており、ステンドグラスの天井から差し込む陽の光は虹が架かったのように色鮮やかだ。どこもかしこも見たことのない煌びやかな光景で占められている光景は、リーシェとフェブリルにとっては、さながら巨大なびっくり箱のように見えていることだろう。
「これはもう探検するしかないよね、ヤッホーイ!!」
「あ、こらフェブリル! 悪いリーシェ、あいつのこと頼めるか?」
「仕方あるまい。……ところで、奴を捕まえたら私も色々見てきて構わないか?」
「いいよ。俺達はこの辺りにいるから好きに見ておいで」
その言葉にリーシェは頷き、遊園地に来た子供のように鉄砲玉となって飛び出していったチビ悪魔を追って駆け出した。
なんだかんだで彼女も楽しみだったようだ、入り乱れる人々を掻き分けながら進む足取りが若干浮き足立っていたのは気のせいではないだろう。
この場に残ったクロエと2人、困ったような笑みを交わす。
あっちにいったりこっちにいったりと、忙しなく飛び回るフェブリルが捕まるのはしばらく先になりそうだ。
特に目的があるわけではないが、こういった場所は見ているだけでも楽しいものだ。ゆっくりと歩き始めた飛鳥の隣に、極々自然な動作でクロエが並んだ。
「そういえば、こうやって2人で歩くのは随分久しぶりな気がします」
「ああ……異世界事件の後始末もありましたし、戻ってからもリーシェとフェブリルに付きっきりでしたからね」
付かず、離れずといった2人の距離。
ほんの少し手を伸ばせばすぐに相手の手に触れられる、なんとももどかしい2人の距離。
友達と言うにはあまりに近く、恋人と呼ぶにはほんの少しだけ遠い。
友達以上、恋人未満。
しかし、そんな簡単な言葉で表現できる関係でもない。
――この小さな手を握ってあげられたら、彼女は笑ってくれるだろうか。
――この大きな手で、私の手を握ってほしい。けれど、私にその資格があるのだろうか。
通じ合っているのに、通じ合えない。
あまりに不器用で、あまりに遠回りな2人の関係。
そんな躊躇いがちな距離を縮めることができるとすれば……
――私が欲しかったのは、たった少しだけの勇気
「…………あ」
モール内に流れ出した少女の歌声に、誰もが立ち止まっていた。優しく穏やかで、しかし凛とした少女の声だ。
有名な歌手ではないようだ。
飛鳥もクロエも知らなかったし、周囲の人達も口々に、この歌手が誰なのかと疑問の声をあげていた。クロエだけはどこかで聞いたような? と首を傾げていたが……
「飛鳥さん……?」
「いや、その……嫌だったら、ごめんなさい」
今は、そんなことはどうでもよかった。
遠慮がちではあるが、それでもしっかりと握られた彼の手の温もりを感じていたから。
ぷいと背けられた彼の表情は覗い知れないが、慣れないことをしてきっと真っ赤なのだろう。クロエは微笑みながら、少しだけ前を歩く飛鳥の手を握り返した。
触れるだけで壊れてしまいそう それがなによりも怖かった
いつもそう どうしてもあと一歩が踏み出せなくて
わかってるんだ 意気地無しなわたしが悪いんだ
大切だから手離したくないからって 逃げてばかりじゃ変えられない
私が欲しかったのは たった少しだけの勇気
傷つくことが怖くって 傷つけることが怖くても
きみと一緒に歩いていきたい だからあと一歩を踏み出して
きみの笑顔が見たいから 小さな勇気をわたしにください
勇気のカケラ レイシア=ウィンスレット
色々と挑戦的な回でした。恋愛ものって難しい。ラストに出てきた歌手ですが、実は後々メイン級のキャラとして出てきます。