―Intermission01 5月2日・午前 ―
イタリア料理……って言っても『なんちゃって』ですけどね。
「うぅ、ん……」
朝だ。
新しい朝だ。
希望の朝だ。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が、どこか遠慮がちに彼女の瞼をくすぐっていく。白金色の長髪をゆらゆらと揺らしながら、彼女――クロエ=ステラクラインは温かな布団の中で身をよじった。
「……起きなきゃ」
ねむけ眼をこすりながらのそのそと身を起こしている、そんな脱力感溢れる光景ですら、彼女が主役であれば、1枚の絵画のようなどこか神秘的に見えてしまう程に美しかった。
しかし、クロエの部屋――というより日野森家に存在する個室は、片っ端からすべて畳張りの和室なのであって。
結論だけ言えば、天蓋付きのキングサイズのベッドで寝起きしていそうな深窓の令嬢を思わせる容貌を持つ彼女が、六畳一間の個室で布団に包まっている様子はあまりに――本人に自覚があろうとなかろうと――アンバランスというか、コメディの一幕に見えてならなかった。
「……おはようございます」
寝惚けた状態で中空をぼんやりと見つめたまま、クロエは誰に向かってでもなく朝の挨拶をした。
只今、午前5時50分。
実は低血圧な彼女が起床するにはかなり辛い時間だ。
でも起きなきゃ。起きなければならない。
ここ1年近く前から始まったクロエの習慣。それは、そう特別なものではなくて――
「顔、洗って……寝癖、直して……それから、ええと……」
《ライン・ファルシア》から帰還して数日後、大型連休のとある1日。
魔女の休日――色々と大変なこともあるけれど、今日は羽を伸ばして一休み。
夏が近いとはいえ、まだまだ早朝は肌寒い。
寝起きで少しだけ重い頭を引き摺るように洗面所に行き、きんと冷えた水で顔を洗う。瞼と意識をしゃっきりとさせた後、部屋に戻って髪を整える。
腰近くまで伸びた薄い金色の髪。
手入れが面倒だし、鈴風のように肩のあたりまでばっさりと切ってしまおうかと思うこともあった。
だが、髪は女の命。
綺麗ですねと彼に褒めてもらったあの日から、毎日のお手入れは念入りにするようになった。
私服に着替える。
空色のニットカーディガンに、膝下まで丈が伸びたクリーム色のティアードスカートが最近のお気に入りだ。
姿見の前でくるりと一回転。
おかしいところはないだろうか、ちゃんと似合っているだろうか?
ぱんぱんと頬を軽く叩いて。
さあ、今日という1日を始めよう。
朝食の準備をしようと台所へ降りてくると、そこには既に先客がひとり。
荒々しい炎のように揺らめく紅い髪と、見る人を穏やかな気持ちにさせてくれる柔らかな笑顔が、何だかちぐはぐなもののようで。
それでも、そんな猛々しくも優しい少年こそが、彼――日野森飛鳥という人なのだとクロエは思った。
「おはようございます、飛鳥さん」
「クロエさん? おはようございます……今日は休みなんですから、たまにはゆっくり寝ててもよかったのに」
そうはいかない。
ひとりの女性として、男性の前で寝惚けた姿など見せられないでしょう、とクロエは内心で叫んでいた。
思えば、男の子とひとつ屋根の下で暮らす――その相手が、好ましいと思っている人であれば尚更だろう――というのは、中々にとんでもないことなのだ。
だらしのない所を見せたくはない、という気持ちも勿論あったが。
彼は毎朝早起きしていて、皆の食事を作ったり、家中の掃除をしていたり、洗濯をしていたり、何もしていないところを殆ど見たことがなかった。
――そんな彼の前で、ぐーすかと惰眠を貪っているわけにはいかないではないか!!
ただでさえ彼は忙しい身だ。
家事全般をこなして、学園に通いながら《八葉》の仕事にも注力している。
それを言えば自分も同じなのかもしれないが――それでも、自分の方が年上なんだし、色々と頼ってほしいと思うクロエだった。
「それを言うなら飛鳥さんもです。後は私がやりますから、のんびりしていて下さい」
「え、あ、でも……」
「でもも、なにもありません! いいから、朝食の準備は私に任せて新聞でも読みながら待ってて下さい!!」
何か言いたげにしていた彼を無視し、背中を押して台所から追いだすことにした。
この家事大好き人間さんは、無理矢理にでも仕事場から引き剥がさないとまともに休んでくれないことを、クロエはここ1年の生活でよく理解していた。
しばらく、心配そうな彼の視線を背後から感じていたが……どうやら観念したらしい。居間の方へと足音が消えていった。
「……さて、やりますか」
壁にかけたエプロンを纏い、いざ。
日野森家の住人で、現在まともに料理ができるのは飛鳥と自分だけ。
綾瀬や和真もできない訳ではないのだが……自分達とは忙しさの次元が違う。あの2人に頼ってしまう事態になるのは申し訳が立たないのだ。
更に言えば、クロエは居候の身である。
できる限りのことはお手伝いしなければ、と考えるのは至極当然のことだった。
元々クロエは料理が得意な方だ。
立場上、多くの国を行き来していたこともあり、本格的なものは流石に難しいが、それでも国際色豊かなレパートリーを持っている。
(でも、郷土料理は不評だったんですよね。大味過ぎるとか、散々だったのですよねぇ)
イギリス料理は総じて不味い――偏見もおおいにあるのだろうが、当のクロエは否定できなかった。
味付けや調理法のバリエーションもさほど多くなく、素材をそのまま焼くなり煮込むなりしたものが大半であったため、舌の肥えた日野森一家にはどうにも相性が悪かった様子。
そういうわけで、今朝はイタリア風。
まずは、たまねぎやセロリ、にんじんといった色とりどりの野菜をトマトベースのスープで煮込んだミネストローネ。
じゃがいもがあったので、下茹でしてフライパンに投入。細かく刻んだベーコンやアスパラガスと一緒にオリーブオイルで炒めて、最後にみじん切りにしたパセリを添える。
パンは、最近近所で見つけた評判のお店、そこで買ったフォカッチャを。
ここのパンが本当に美味しいのだ!!
(少々、多く作り過ぎたかも? ……大丈夫か、大食らいの子が増えましたし)
トマトを煮込んだ爽やかな酸味が鍋の中から漂ってきた。
少しだけ、味見。……よし、と小さく頷く。
ふらふらと寝ぼけたままやってきたフェブリルも交えて、いただきますをする。
小さな彼女に合わせて、食器もミニミニサイズのものを飛鳥が作っていた。実に器用な人だ。
「あむあむ……うまーっ♪」
「うん、すごく美味しい。クロエさん、また腕をあげましたね。洋食ではもう敵わないかもしれません」
心の中でガッツポーズ。
こと料理に関しては、クロエよりも彼の方が大先輩だ。
料亭でも開けるのではないかというほどの腕前――贔屓目はない、初めて彼の料理を食べた時からそう思ったのだから――の人からの御墨付き。
これは嬉しい!!
料理は愛情なんて言うけれど、大嘘だあんなもの。
愛情が料理を美味しくするのではなくて、美味しい料理には自然と愛情がこもっているものだ。
(毎日練習した甲斐があったというもの……!!)
とどのつまりは、努力、努力。
弛まぬ練習と試行錯誤の末に認めてもらったことは、やっぱりとても嬉しいもの。
飛鳥もフェブリルも、嬉々としながら大量の料理をみるみるうちに平らげていく。
「しかしこのパンも美味しいですね、手作りですか?」「実はこれ、近所にある《スヴァンフヴィート》っていう小料理店のもので、朝はパン屋さんもやってるんです」「あ、そこ知ってる!!この間スズカと一緒に行ったことあるんだけど、ケーキがすごく美味しいの」「いつの間に……まだこっちに来て日が浅いのに、色々やってるんだなぁ」「リルちゃん、野菜もきちんと食べなさい」「苦いの、や」「「食え」」「……はい」
食事をとっている居間にはテレビは無い。
しかし、自然と会話が弾んでいつだって賑やかな食卓だ。
「「「ごちそうさまでしたっ」」」
3人揃ってぺろりと完食。
満足げな表情の飛鳥とフェブリルを見て、クロエの口元が自然と綻んだ。
――美味しいものを食べれば、誰だって笑顔になれる。
かつて飛鳥から聞いたその言葉が、彼女が料理の練習を始めたきっかけ。
誰よりもクロエ自身がそれを実感している。これはきっと、誰にだって出来る素敵な『魔法』だ。
「それじゃあ、行ってきます。リーシェと一緒に夕方には戻りますので」
「観光しよう観光! この間話してた、しょっぴんぐもーる? ってところ行ってみたい!!」
「いってらっしゃい、車には気を付けて下さいね。リルちゃんは、あんまり我がまま言って飛鳥さんを困らせないように」
そう言って、フェブリルを頭に乗せたまま出ていく飛鳥を見送った。どうやら飛鳥は《八葉》での精密検査を終えたリーシェを迎えに行くらしい。
(うう、なんて間が悪い……折角一緒にお出かけしようと思ってたのに)
予め彼の予定を聞いておかなかった自身の迂闊さを呪った。
ついていこうかとも思ったが、クロエが《八葉》に顔を出すと色々と面倒な事が起きるのだ。
そのためあまり我を通すわけにもいかず。
ちなみに綾瀬も和真も仕事で数日前から家を空けていたため、ぽつんとひとり、家に取り残されてしまう形になってしまった。
時計を見ると9時を周ったところで、今から寝直すというのは少々不健康な気したる。仕方がないので学園の友人でも誘って買い物にでも行こうかと思案していると、玄関の電話機が鳴り始めた。
小さく咳払いをし、受話器を取ってたおやかな口調で応対した。
「はい、日野森でございます」
『あんたは若奥様か』
ガチャリ。
世界で最も聴きたくない相手の声(というよりツッコミ)が受話器ごしに流れてきた瞬間、反射的に電話を切ってしまった。
(あれー、幻聴かしら。幻聴ですよね。うんうん幻聴に決まっています)
そうひとりで納得して背を向けようとしたが…………おいコラ現実逃避してるんじゃねえ、と電話機からけたたましい着信が鳴り響く。
今度はさも面倒臭そうに、溜息をつきながら受話器をとって一言。
「セールスなら結構です」
『ええっ!? ちょっと待って下さいよ、今ならこの羽毛布団がとってもお買い得なんです…………ってなにさせんのよ』
「知りませんよ、貴女が勝手にノリツッコミやったんでしょうが。……で、何か御用ですか霧乃さん?」
何が悲しくてたまの休日にこんな人と漫才などしなければならないのかと、クロエは朝から憂鬱な気分になってしまった。
『いやいや、ちょっと弟くんにお願いがあってさー。今いる?』
『飛鳥さんならいませんよ。例えいらしたとしても、貴女のためにわざわざお呼びするつもりは毛頭ありませんが」
「あんたねぇ、それが元師匠に向かって言う台詞かい……』
電話越しに大きな溜息をつく女性――名前を夜浪霧乃という。
本人の言う通り、過去クロエには彼女の薫陶を受けていた時期があり、現在は同僚とも言える関係なのだ。
「天衣無縫、問答無用、傍若無人、近所迷惑の権化である“黒の魔女”ともあろう方が、他人にお願い事とは珍しい。明日は天罰の槍でも降りそうですね」
「え、なに、あんたなんでそんなに不機嫌なのよ?……っていうか近所迷惑ってなに、ロンギヌスが降るってなに、頼みごとひとつで地球滅亡とかどんだけよ!!」
軽快なツッコミが冴えるその口調からは想像出来ないが、彼女もまた『魔女』のひとり。世界に9人しか存在しない、魔術の真理に到達した超越者――《九耀の魔術師》の一柱である。
魔術というものに少しでも携わっている人間であれば、正しく天上人にも等しき存在。
畏怖と羨望を以て見上げ、敬服し頭を垂れるべき魔術の神。
そんな彼女に対し、
「耳元で叫ばないで下さい、うっとうしい。用なら私が聞いてあげますからさっさと話して下さい、3秒で」
『なんでこんな上から目線なのかしらコイツ……』
尊敬もなにもあったものではない痛烈な切り返しで言葉の暴力を浴びせかけられるのは、他でもない。
クロエもまた《九耀の魔術師》、“白の魔女”の称号を持つ頂点の者であるためだ。
まぁ、それを抜きにしてもクロエは霧乃が嫌いなため、自然と毒舌で対応してしまうのだ。
何故ってそれは、霧乃が飛鳥を『弟くん』と呼び馴れ馴れしく接して、日本に来るたびに彼を誑かそうとするから。
そう、彼女こそが正真正銘の悪の魔女なのだ!
渋々――本当に渋々で霧乃の話を聞くことにした。
現在、彼女はイギリス・ロンドンより電話しているらしい。
『ちょっちこちら側で厄介なものを見つけてね。どちらかっていうと私ら『魔術』側よりも、AITとか絡んでそうな『科学』サイドの代物。私ひとりの手には負えなさそうだから、《八葉》に頼んで調べてもらおうと思ってね』
どうにも要領を得ない依頼である。
どれほど頭の中がスチャラカだったとしても、霧乃は世界最高レベルの魔術師だ。
そんな彼女が手に負えない存在とは一体何なのか?
「どのようなものなのです?」
『人間よ、多分。頭のてっぺんから足の先まで、血と骨と肉で構成された、ただの人間。……だってのに、そいつ。魂が鋼鉄でできている』
「……謎かけですか、それ?」
『違うわよ。ああ、もう、口で説明するのが難しいったら! ともかく、近いうちにそいつ連れてそっち行くから。ヨロシク!!』
「え、ちょっと、こっちに来るって……?」
ブツリ。
捲し立てるように用件を伝えるだけ伝えて、反論する前に一方的に電話を切られてしまった。
こちらの話を聞こうとしないのは相変わらずのようで(同じ穴のむじな、とは絶対に思わない)、ツーツーと途切れた電子音を聞きながら、溜息をひとつ。
(また面倒事を。流石に無視もできませんか……何はともあれ、ホウレンソウですね)
報告、連絡、相談はとても大事。
これは集団社会に属している以上、自分ひとりの判断で決めるわけにもいかない事。
特に今回の霧乃の来日、間違いなく厄介な事が起きるだろうと確信したクロエはやや慌て気味に外出の準備を始めた。
これは既存の法や規律に縛られない『魔女』としては珍しい考え方である。
そういう意味では、彼女は《九耀の魔術師》の中でも極めて特異な存在なのかもしれない。
《八葉》の施設がある場所へは市内を通るモノレールで向かう。
財布から定期券を取り出し改札を通り、休日の家族連れや友人、恋人らしき団体で賑わうホームでひとり待つ。
白鳳市民の移動手段として最もポピュラーであるのが、この四象環状線だ。約60分ほどで白鳳市内をぐるりと1周でき、クロエも遠出の際には必ずといっていいほどここを利用する。
家から最寄りの駅であるここ朱明駅から、目的の駅である玄冥駅まではおよそ20分の道のりだ。
(お昼までには着きそうですね。飛鳥さんと合流できれば良いのですが……)
先程電話もメールもしてみたのだが、まったく返信が来ない。
普段の飛鳥はこういった連絡には即応してくれるため、こうも音信不通となると圏外か、おそらく手が離せない状況なのだろう。
先日の異世界騒動の件もある、その報告に時間をとられている可能性が最も高い。
そういえば、始末書や経費が大変な事に! と飛鳥が嘆いていたのを思い出した。
とても学生の台詞とは思えない、むしろ下っ端サラリーマンのように慌ただしくしていた彼の姿が、なんとも痛ましかった。
(お手伝いして差し上げたいのだけれど。……はぁ、こういう時『魔女』の立場が疎ましく思えますね)
クロエはその道においてはVIPそのものである。強すぎる立場上、あまりいち組織の内情にまで干渉するのはよろしくない。
朝方飛鳥に同行せず、極力《八葉》に直接顔を出さないようにしていたのもそのためだ。
『――ひぃっ!? あ、“白の魔女”クロエ様!? ど、どどどどどどのような御用向きであらせられますですでしょうか!?』
(そこまで怖がらなくても……)
アポ無し訪問はまずかろうと、先ほど《八葉》の方に電話を入れた際の受付嬢の反応である。
いや、受付嬢の反応は無理もなかったのだ。
例えるならば、世界展開している大型チェーン店の社長が、いきなり田舎の系列店に現れた際のアルバイトの反応と言おうか。
それでも「ひぃっ!?」は無いだろうと、さしものクロエもかなり落ち込んだ。
オレンジ色の車体をした電車がホームに停車する。
子供向けアニメのキャラクターが表面にでかでかと描かれているのを見て、思わず苦笑してしまった。
クロエは高架路線を走るモノレールの窓際に立ち、流れていく街並みをぼんやりと眺めていた。日本情緒溢れる下町の雰囲気が、みるみる内に近未来的な高層ビル群に移り変わっていく。
ここ白鳳市は、東西南北の地域で大きくその特色が異なる。
朱明駅周辺、日野森家のある南部地域はそれほど都市開発が進んでおらず、小さな商店街や古き良き日本家屋が立ち並ぶ、どこか懐古的な印象だ。
西部、白秋駅周辺はいわゆるオフィス街。大小様々な企業が乱立し、日夜問わずスーツ姿の往来が目立つ。特に機械工学系、情報技術系の発展が目覚ましく、今や世界随一の大企業であるAIT――アストライア・インダストリアル・テクノロジーの本社もここにある。この区画こそが、白鳳市が『技術発信都市』と言われる所以でもある。
今は通らないが、句芒駅を中心とした東部地域は、超大型ショッピングモール《エヴァーグリーン》をはじめとした繁華街が広がっている。様々な最新技術の見本市ともされ、南部地域とは対照的にラディカルな都市風景が印象的だ。
(古きも、新しきも、人が創り得るすべてを詰め込んだような。混沌都市だなんて、メディアで揶揄されるのも解りますね)
ひと駅過ぎればそこは別世界。
目まぐるしく推移する窓の外の光景を見ていると、本当に同意できてしまう。
そうこうしている内に、車内アナウンスが目的地への到着を知らせてきた。
北部地域の玄関口である玄冥駅。改札を抜けると、緩やかな風に若干の潮の香りが混ざっていた。
遠方に広がる青い海。
大手家電メーカーの工場や、空の玄関口である羽州国際空港、この区画の大半は大型の人工島――メガフロートで構成されていた。
自然の緑などどこにも見当たらない。
更に、ぎらぎらと照り付ける太陽光を地面のアスファルトが反射して、眼前のだだっ広い道路には陽炎が生じ、実に暑苦しそうだ。
この不快極まる光景を見たクロエからは、段々と先へと進む気力が削がれていく。
(相変わらず息苦しい場所……仕方がないとは分かっていますけど)
森や山の自然に囲まれた故郷で長年生活していたクロエにとっては、鼻をつく排気ガスの匂いや、地面を覆う灰色の絨毯に覆われた、この人工物しか存在しない環境に馴染むのは困難だった。
徒歩の往来はないに等しく、道路と信号しかない殺風景な道路をひとり歩く。
資材を運搬している大型トラックとすれ違い、巻き上がる砂塵に顔を顰めた。
20分ほど歩き、太陽が真上に差しかかろうかという頃。
搬送用の大橋を渡り、クロエはようやく到着した。
(よく考えたら、私ひとりで来るのは初めてでした。どこに行けばいいんでしたっけ?……そもそもどうやって通れば)
大柄の警備員が待ちうける通用門を前に、思わず踏みとどまってしまう。敷地面積約300万平方メートルを誇る《断花重工》の威容に、世界有数の魔女でさえ思わず息を呑んでしまった。
普段は飛鳥達と一緒に車で来ていたため、自分ひとりで、しかも徒歩で来たクロエは、どうしたらいいんだろうと門の手前でおろおろと狼狽していた。
……警備員が明らかに可哀想な子を見る目をしていたのにも気付かずに。
「……ここは強行突破で」
「アホ言ってんじゃないですわよこの田舎魔女!!」
「ぴぃっ!?」
もういいや面倒臭い無理矢理押し入ったらいいじゃない、とクロエが危険な結論を出しかけた瞬間、脳天に鋭い衝撃が奔り、思わず口からヒヨコのような悲鳴が漏れた。
「な、何者ですか!?…………あら沙羅さん、ご機嫌よう」
「今更取り繕っても遅ぇんですわよ。困った事があったらすぐ力に訴えるのは止めて頂きたいですわね、特に貴女みたいな歩く災害は特に!!」
背後からの気配に振りかえると、そこにはクロエのよく知る女性が両手を腰に当て、怒気を滲ませながらこちらを睨みつけていた。
よれよれになるまで着倒した白衣、おしゃれの『お』の字も感じられない瓶底眼鏡、手入れなどまるっきりされていないのがすぐに解るほどにぼさぼさの黒髪。何日も研究室に籠もってたんだろうなぁ、といつも通りの彼女の様子に思わず苦笑い。
《ライン・ファルシア》侵入の際にクロエのサポートを行った天才科学者にして親友――加賀美沙羅は、往年のヤンキーさながらに舌を巻いた口調で捲し立ててきた。
「よかったぁ……どこからどうやって入ればいいのかさっぱりだったので困ってたんです。いやぁ、この広い場所で知り合いと出会えたのは僥倖でした」
「私にとってはとんだ奇禍ですわ! こんのクソ忙しい時にこんなメンドくさい女に捕まるなんて……」
「沙羅さん、飛鳥さんがどちらにいらっしゃるかご存知ですか?」
「人の話をちったぁ聞きやがりなさい、こののほほん魔女!!」
叫びに叫んで疲れたのか、肩で息をする沙羅をどうどうと諫めた。
すると彼女はこめかみに青筋を浮かべて、射殺さんばかりの狂視線をこちらに向けてきたが、クロエには全くもってその意味分からなかった。
駄目だコイツ、まともに取り合ってたら血管千切れるわ、と小声で呟いた沙羅は大仰に溜息をついてクロエを手招きした。
「しょうがありませんわねぇ……ほらクロエ、さっさと行きますわよ。いつまでもこんな所で漫才やってると、周りからアホみたいに思われますわ」
「漫才しているつもりはなかったんですけど?」
「私もですわよコンチクショウ!!」
ドカドカと足音騒がしく門を通っていった沙羅を追い、クロエも慌てて駆け出した。
思えば、随分と予定が狂ってしまったものである。
たまの休日だというのに、のんびり羽を伸ばすのもままならないとは。
「本当に、やれやれですね」
「本当に、やれやれですわね!!」