―第22話 天使の生まれた日―
フランシスカを倒した直後を描写していないのはちゃんと理由があります。
「……どうやら、終わったようですね」
遠望の空へと伸びる一条の光。
それがすべての決着であると悟ったクロエは大きく息をついた。
飛鳥と別れ、リーシェの下へと向かっていた彼女ではあったが、実のところ広域知覚の魔術によって、散り散りになっていた彼女たちの状況を最初から理解していたのだ。
ジェラールの暴走、それをリーシェが自らの手で食い止めたこと。鈴風が人工英霊として覚醒し、飛鳥の助太刀に入ったこと。
そして、
「ねぇ、クロエ……どうしてアスカを助けに行かなかったの?」
「飛鳥さんが、それを望まなかったから」
フランシスカとの戦いにおいて、飛鳥がクロエの助力を拒んだということも。 フェブリルの問い掛けに、純白の魔女は寂しげな笑みで応じた。
飛鳥があの兇悪極まる人工英霊を打倒したことは、我が事のように喜ばしかった。だが、それを支えたのは白金色の髪の魔女ではなく、亜麻色の髪の人工英霊だった事が何よりも苦々しく、悲しかった。
それは魔女としてのジレンマだとか、複雑な事情からくるものでは一切ありはしない。
(私は、鈴風さんに嫉妬している)
同じ目線で、支え合って前へと進んでいけることの、なんと羨ましいことか。ずっと1人で戦い続けてきた飛鳥にとって、背中を預けられる相棒が見つかったことは何よりの吉報であろう。
喜ばなければ。
祝福すべきだ。
よかったですねと、彼に笑いかけてあげなければ。
「…………はは」
――できる訳ないだろう!!
ふざけるな、そこは私の居場所なのに。
どうしてそうやって、いつも、いつも、いつも!!
もし許されるのならば、今すぐにでもあの場に乱入して、あの能天気な暴走女を。
――この手で縊り殺してやるというのに!!
「クロエ……クロエ!!」
「――――ッ」
耳元からのフェブリルの大声により、漆黒に塗り潰されそうだったクロエの思考がすんでのところで浮上した。
肩に掴まる小さな悪魔を見やると、全身をかたかたと小刻みに震わせながらも、心配そうな表情でこちらを見つめていた。
「だいじょうぶ?……何だかすごく泣きそうな顔してたよ」
「泣きそう、ですか?」
怖い顔、と言われたならば理解もできるが――甚だ不本意ではあれ、だ――悲哀という感情を読み取られてしまっていたことに、クロエは驚愕を隠せなかった。
「悲しんでなどいませんよ。……私は『魔女』なのですから」
嬉しいとか。
悲しいとか。
そんな人間みたいな感情を抱くことなど、魔女には決して許されない。
どちらかというと、自身に言い聞かせるようにクロエは淡々と呟く。
痛みを堪えるような彼女の言葉に、フェブリルは何も応えることができず、ただコートの襟を掴む手に力を入れるだけだった。
クロエ=ステラクラインが畏怖の象徴、飛鳥や鈴風を軽々と凌駕する力の化身であったとしても。
その横顔が、触れれば簡単に解けて消えてしまいそうな、粉雪にも似た儚さを感じさせて。
いつの間にか、フェブリルの身体の震えは止まっていた。
とんてん、かんてん。
木材を切り分け、石を積み立て、崩れ落ちた街並みを翼持つ人々が忙しなく駆け回っていた。
「……もう、行くのですね」
「はい、俺達がこの世界で為すべき事は無くなりましたから」
フランシスカとの激闘から一夜明けたオーヴァンの一角で、飛鳥達は元の世界への帰還の時を迎えていた。
先の戦闘で、天変地異が通り過ぎたかのように集落施設は甚大な被害を蒙ったが、奇跡的にも人的被害は存在しなかった。
と言うよりも、リーシェとミレイユ、メトセラを除く住人達は、昨日何が起こったのかを綺麗さっぱり忘却してしまっていたのだ。
別れを惜しむ老婆の声に、飛鳥は改めて確認する。
「しかし、本当にいいんですか? このままこの世界に残るだなんて」
「ええ。例えこれまでの記憶が偽りのもので、我々が人工的に作られた存在であったとしても、私達は有翼人です。今更その生き方を変えることなどできませんし、その必要性も感じませんから」
この世界と有翼人の出自に関しては、昨日の時点で飛鳥達が全住人に打ち明けていた。
それが受け入れ難い真実だったとしても、リーシェのように真っ直ぐに向き合って欲しかったから、という鈴風きっての願いだったからだ。
残酷な現実を突き付けられたとしても、彼女達は変わらなかった。
悲観し、絶望したとしても、それでもかけがえのない今を生き続けるのだと。
兵器実験場としてのこの異世界に嫌気がさして、自棄になったり自分達の世界への亡命を希望する人も出るかもしれないと飛鳥は危惧していたが……どうやら杞憂だったようだ。
最後まで毅然とした面持ちのまま、オーヴァンの主であるメトセラは一礼の後に背を向け、立ち去っていった。不変であり続けることが、自分の生きる道なのだと示すように。
「飛鳥さん、そろそろ」
背後からクロエの声が飛ぶ。どうやら準備が整ったようだ。
後は鈴風が来れば、この広大な青空も見納めとなる。そう考えると、飛鳥は小さな寂寥を感じていた。
それにしても、遅い。
あの嵐のような幼馴染は、今朝方から姿を見せていない。
見かけないといえばリーシェもだ。自分が知らない間に随分と仲良くなっていたみたいだから、おそらく別れの挨拶を済ませているところなのだろうな、と飛鳥はあたりを付けていたのだが……
「ゴメンゴメン! お待たせしちゃった?」
「ちょうど良かった、これから戻るところだから挨拶を…………って、リーシェ?」
聞き慣れた快活な声の方に振り向いた飛鳥は唖然とした。
そこには屈託の無い笑みを浮かべた鈴風と――何故か背中に大量の荷物を括り付けた翼の騎士の姿。
その、明らかに旅立ちの格好で現れたリーシェを見て、飛鳥もクロエも一瞬で事情を理解した。
クロエは無言で眉間を指で押さえており、
「一応聞いておこう。……何だそれは」
飛鳥は恐る恐るといった声で2人に向かって問いかけた。
鈴風は待ってましたとにっかりと笑い、
「なにって、決まってるじゃない」
「私も行く。……お前達と共に行かせてほしい」
そしてどこまでも高らかに、騎士らしく実直で清廉に、リーシェはそう言ったのだ。
「私がこうやって生きていられるのは、ひとえにお前達のおかげだ。……これは、大きな借りだ」
「……それだけじゃないだろう?」
「ああ。私は兄様の遺志を継いで、誇り高き騎士で在り続けると誓ったのだ。そう考えたら、まず騎士として私ができることはなんだろう、と思ってな……そうすると、恩人であり友であるお前達の力になりたいと――そう、思ったのだ」
ジェラールを助けられなかった――その事実はリーシェと飛鳥、2人の心に同じようで異なる傷跡を残していた。
リーシェの場合は今更言うまでもないだろうが、飛鳥にとってはミレイユと約束したにも関わらず、彼ひとりだけをを救えなかったことが、この世界における唯一にして最大の後悔であったのだ。
言い訳をするつもりは一切なかった。だが、
――大丈夫です。だって、仕方がなかったんですから。
飛鳥にとってはミレイユのその言葉が、悲哀を堪えながら浮かべた張りぼてのような笑顔が、どのような剣や銃よりも最も深く彼の精神に斬り込んていた。
後悔を礎に、悔恨を糧として。
誰かを護りたいと決意し剣を握った者として、2人は等しく希ったのだ。
強くなりたいと。
「私は、兄様やミレイユ達のような、理不尽に哀しみ、不条理に苦しんでいる人々を護りたい……だから、私はより広い世界を知らなければならないのだ。知らなかったから、手が届かなかったからと言い訳したくはないから。……だから頼む。どうか私を、お前達の剣にして欲しい」
その嘆願を撥ねつける言葉を、飛鳥は持ち合わせていなかった。
どこまでも2人は似た者同士だった。
鏡合わせになった自身の慟哭を聞いているようで、痛いほどに相手の気持ちが理解できたのだから。
「……分かった、分かったよ。その気持ちは俺だって同じだ。一緒に行こう、リーシェ。けれどそれは、剣にするとかじゃなくて共に戦う仲間としてだ」
「……ああ!!」
堅く握手を交わす2人に、多くの言葉は必要なかった。
真っ向から交錯した互いの視線が既にすべてを物語っていたのだから。
――強くなろう、一緒に。
「さあさあ、いざ旅立ちだね!!」
「俺達にとっては家に帰るだけなんだけどな。……ところでフェブリル。一応確認するけど、本当に俺について来るつもりなんだな?」
「もっちろん! 使い魔として、どこまでもお供するんだからね! ……ごほうびは期待してもいいですか? 主に食事面で」
「帰ったら腹一杯食べさせてあげるから、楽しみにしてな」
「イヤッホォォーーウッ!!」
弾けるような歓声をあげながらグルグルと飛び回るフェブリルに苦笑しながら、飛鳥達は《ライン・ファルシア》の最後の光景を目に焼き付けることにした。
眼下に拡がる白雲の大海、舞い上がる白い羽を陽光が照らし、見上げた空が宝石のようにキラキラと輝いていた。
ひとしきり異界の空に別れを告げた後、空間湾曲によって開かれた帰還への途に真っ先にフェブリルが飛び込み、それに続く形で鈴風とクロエが足を踏み入れていった。
残る飛鳥とリーシェが、煌めく蒼天に背を向けて空間の歪みに向けて歩き出した時、
「リーシェちゃーーーん! アスカさーーーん!!」
「ミレイユ?」
翼をはためかせ、小さな有翼人の少女が2人の下へと舞い降りた。ミレイユは大きく息を切らしながら、必死にこちらに向かって叫びかけた。
「ありがとーーーーっ!!」
しかし、すでに帰還への一歩は踏み出されている。
2人は完全にこの世界から隔絶されようとしており、感謝の言葉を告げる彼女の姿もおぼろげにしか視認できない。
それでも、ミレイユの透き通った声は次元を越えて確かに飛鳥達の耳に届いたのだ。
「私達を助けてくれて……護ってくれて、ありがとーーーーっ!!」
喪失の悲しみを振り切って、千切れんばかりに大きく手を振るミレイユ。
別離の涙を流しながらも、それでも彼女は大輪の花のように綺麗な笑顔を見せていた。
後悔の傷を抱えた2人の騎士は、それを見て小さく涙していた。
……その理由を問うのは野暮であろう。
失ったものがあった、後悔もあった。
それでも、それでも確かに、護り通せたものがあったのだ。
だからこそ、膝を屈して立ち止まる事なく、飛鳥達は前へと進んでいける。
いつだって、正義の味方の戦う原動力は、感謝の言葉と輝く笑顔だと決まっているのだから。
帰還してからはあまり大きな出来事もなく、飛鳥達は元の生活へと戻っていった。
こちら側の世界では、飛鳥達は突然の神隠しにあっていたようなものだが、そこは《八葉》の手配で特に心配される事もなく学園生活に復帰した。
どのような手配だったのかはあえて聞く事はしなかった。
学園への復帰後、飛鳥がクラスメート達に「このリア充が!!」とか「女の敵!!」などと殺意に満ちた罵倒の嵐を受けたことから、なんか無茶なアリバイ工作をされたんだろうなぁと察したためだ。
今回の事件に巻き込まれた篠崎美憂に関しては、人工英霊となって鈴風達を襲った前後の記憶を喪失していた。
“祝福因子”を喪失し、元の人間の身体に戻ったことによる影響ではないかと言われているが、しばらくは保護観察対象として《八葉》での監視が入るようになっている。
意識の混濁も見られたため、現在は通院しながら剣道部への復帰に向けてリハビリに励んでいた。
また、学園の屋上に突き刺さっていた筈のモノリス――異界へと通じる門は跡形もなく姿を消しており、まるであの日の出来事が夢であったかのように学園は平穏を保っていた。
ただし、学園で残った唯一の異変。
その次の日に霧谷雪彦は休学届を出しており、行方知れずとなっていた。飛鳥も心当たりを探ってはみたが、手掛かりのひとつも見つけることはできなかった。
(雪彦……お前はいったい、何をしようとしているんだ)
そして、異世界よりの来訪者であるリーシェとフェブリルの扱いをどうするのか。
これが最大の問題であり、飛鳥は帰り道で随分頭を悩ませていた。
「今更ひとりくらい『留学生』が増えてもそう変わりはしません、好きになさい」
「あのぉ……アタシは?」
「飛鳥。毎日ちゃんとエサをやるのですよ」
「ちょっと待とうかおねーさん!? ペットじゃないよ、ほら言葉話してるじゃない、意志疎通できてるじゃないのさぁ!?」
以上、2人を日野森家に連れてきた時の、家主たる綾瀬とペット認定されたフェブリルの会話である。
飛鳥もではあるが、日野森家の面々はやたらと不測の状況への適応が早い。
流石は白鳳学園理事長というべきか、トントン拍子でリーシェの『留学生』としての待遇を整え、そしてフェブリルのために何故かハムスター用の巣(ワラでできた球状のもので、内部が空洞になっている)を買ってきていた。
わくわくと期待に満ちた眼差しでそれを渡してきた綾瀬に根負けし、フェブリルは渋々巣穴に入ってはみたが、全身にワラが針のむしろの如く突き刺さり絶叫していた。
そんなこんなでばたばたと毎日が過ぎ去り、飛鳥達が一息つけるようになったのは、月を跨いで5月――大型連休が開始された頃であった。
「お花見、ですか?」
「はい。確か今年はまだだったでしょう?」
「おっきいお弁当だねぇ……どこかお出かけ?」
大きな重箱を抱えて台所から出てきた飛鳥を見て、起きてきたばかりのクロエとフェブリルが首を傾げた。
今年は桜前線がかなり遅かったようで、5月現在でもちらほらではあるが桜がまだ残っていた。
折角の日本の美だ。
葉桜に変わってしまう前に、ぜひとも新入りの2人に見せてやりたいという考えからの提案だった。
リーシェとフェブリルの歓迎会としても適切だろう。「何それ?」とお花見の趣旨を知らないフェブリルに、飛鳥は簡単に説明してあげることにした。
「……つまり、それは」
「ああ、桜の木の下でみんなで食べるんだよ」
瞬間、フェブリルはキラキラと目を輝かせた。
花より団子を地でいく彼女にとって、桜がどうこうと言うよりも飛鳥の手料理が食べられることに興奮しきりだった。
「タマゴは!? 玉子焼き入ってる!?」
フェブリルは先日飛鳥が振舞った出汁巻き玉子がいたく気に入ったようで、ここ最近の食卓は鈴風との奪い合いが恒例となっていた。
食べ盛りの子が増えた事により食費は嵩張るばかりなのだが、使い魔の少女が浮かべる満面の笑みの前では、飛鳥はすべてを許せるような気持ちになっていた。
後はリーシェと鈴風である。
鈴風は言われなくとも来るだろうが、リーシェはまだ《八葉》内の施設で精密検査を受けており、日野森家に入居するのはもう少し先の話であったのだ。
どうにか外出許可がもらえれば良いのだが……
「やほー。リーシェ連れてきたよー」
玄関から鈴風の声。リーシェも一緒のようだ。
杞憂で済んだと解って飛鳥はほっと胸を撫で下ろした。
騒がしい足音を響かせながら居間に入ってきた鈴風の後ろからは、いつもの毅然とした態度からは考えられない風に、おずおずとリビングに足を踏み入れてくる少女の姿があった。
「こ、こんにちは……」
一瞬、飛鳥の頭が真っ白になった。
緊張しているのか、ぎこちない仕草でしゃちほこばっているリーシェの格好はとても『女の子』だった。
彼女の服装は、黒地のハイネックカットソーに、茶色のチェックを基調としたエプロンドレスを重ねて、清楚で穏やかな印象を与えている。
向こうでは鎧姿の彼女しか見ていなかった飛鳥は、いきなりこのような可憐な容貌を見せられて無意識に心臓が高鳴っていた。
飛鳥の異変に気付いた鈴風とクロエから「あれ、思わぬ伏兵が?」「……やはり、シメますか」といった不穏な言葉が聞こえてきたが、飛鳥は持ち前の危機回避能力で聞こえないふりをすることにした。
「……あー、その、その服。よく似合ってる」
「えぅ!?……あ、ありがとう」
女性がおめかししてやってきたというのに、黙っているわけにもいかない。
慣れないながらも何とか賛辞の言葉を贈ることができた飛鳥に、リーシェは頬を赤らめ、はにかみながら答えていた。
「どうやら、この家における上下関係をしっかりと叩き込んだ方がよさそうですね」
「飛鳥がデレデレしてる……なんかムカっとしたぞ」
「鶏ガラ女のくせに色気づきやがってー!!」
そして、そんな甘酸っぱい空気を消し飛ばさんと、飛鳥の背後からは絶対零度の視線×3が猛襲していた。
空は快晴。
気候も穏やかでぽかぽかと差す陽の光が心地よい。
公園の一角、一際大きい桜の木の下にレジャーシートを敷いて、飛鳥とクロエはゆっくりと重箱を開いていった。
色とりどりのおかずをこれでもかと詰めており、そのうち一段は食いしん坊万歳の2人のために真っ黄色になっていた。
まだかまだかと食事の合図を待ち構える欠食児童2人の視線に耐えかね、溜息をつきながら飛鳥はいただきますの音頭をとった。
それと同時に、
「はぐはぐはぐはぐはぐはぐはぐ!!」
「っちょ!? リルちゃん玉子焼き食べすぎ! あたしにもよこせ!!」
「ヤダ!!」
重箱を埋め尽くす玉子焼きの絨毯が、すでに半分近く消失していた。
鈴風がぎょっとしながら諸悪の根源がいる方向に振り向くと、そこにはリスのように頬を膨らませたフェブリルの姿。その口元には食い散らかされた玉子の残骸がへばり付いていた。
案の定、玉子焼き争奪戦を始めた2人を遠目に、飛鳥とクロエは花を愛でながらゆっくりと食を進めることにした。
ちなみに『リル』とはフェブリルの渾名である。
フェブリルちゃん、がちょっと呼び辛いということでクロエが命名した。
「リルちゃん? 食事はお行儀よく、ね?」
「イ、イエスマム……!!」
「誰がお母さんですか」
低めの声で小さく告げるクロエの声に、フェブリルはピキーン! と背筋をたてて固まってしまった。
早くも日野森家における縦社会が確立されつつあり、飛鳥は何だか切なくなってしまった。
「……綺麗だな」
お弁当をめぐる大戦が勃発している隣で、リーシェはひとり桜を見上げていた。
花見の風習は日本独自のものらしいが、桜を美しいと思える感覚は、異世界含め全国共通なのだろう。
「こっちにはもう慣れたか?」
「ああ、この世界は不思議だな。鋼鉄の塊が飛んだり、走ったり……箱の中で人間が喋っていたり」
車やテレビのことだろうか。
確かに向こうの世界とは文明レベルが違いすぎるわけで、きっと彼女の眼には奇々怪々な光景に見えているのだろう。
「知らないことだらけで、不安じゃないか?」
「いいや。知らないことが楽しいんだ。新しいことを見て、聞いて、触れて。私は今生きているんだな、と実感できている」
今までそう感じたことなんてなかったと、リーシェは少しばかり高揚した声で話してくれた。
生まれたばかりの騎士の少女にとっては、この世界で見るもの聴くもの触れるもの、そのすべてがとても新鮮で、キラキラと輝く宝石箱のように感じられていた。
リーシェはひらひらと舞い落ちる桜の花びらを掌で受け止め、それを指先でそっと撫でる。
「今なら胸を張って言える。私は生きていきたい。誰に憚ることなく、私自身の意思で」
それは誰にだって許された、当たり前の権利だろう。
生きなければならないという義務感と、生きたいという意思は雲泥の差だ。
創られた生命、創られた過去。
それはすでに決定された事で、覆しようのないものだ。
それでも、未来を夢見て今を一生懸命に生きることは、自分自身の意思によってでしか為し得ない。
「それが人間だ。乱暴な物言いになるけど、やりたいことを、やりたいようにやってみるといい。それが自ずと、ブラウリーシェ=サヴァンというひとりの人間の生き方になるんだから」
「ありがとう。その言葉、よく覚えておくよ」
2人して微笑みあい、前進の決意を新たにした。
そういえば、まだ彼女は全く弁当に手をつけていない。無くなる前にはやく食べてくれと飛鳥は促したのだが、
「ケプッ」
「足りない、足りないぞ~!!」
「ごめんなさい飛鳥さん、この2人が……」
時すでに遅し。
フェブリルはお腹をパンパンに膨れさせて横たわっており、鈴風は未だ満足できないのか空になった重箱を持ったまま不満げな声を漏らしていた。
そんな阿鼻叫喚の光景の端っこで、クロエが申し訳なさそうな視線をこちらに向けていた。
「……私の分は?」
「「あ」」
憤怒に震えるリーシェの声に、思わずハッとして立ち上がる食いしん坊2人。
引き攣った顔で互いの視線を交錯させ、だらだらと滝の様な汗を流していた。
プチン、と音がした。
ああこれが堪忍袋の緒が切れる音なんだー、と飛鳥はちょっぴり感動した。
「そうかそうかぁ、私だって楽しみにしていたのにお前達は何の気遣いもなく全部食べちゃったのかアハハハハハ…………よし、死ねぇ!!」
「「ちょっ、待っ……!?」」
地面に落ちた桜の花びらを舞い上げながら、リーシェの雷が落ち、2人の悲鳴が空に木霊する。
それは仲の良い友達同士の無邪気なじゃれあいのようなもので、声を張り上げながらも、誰も彼もが笑顔だった。
これにて《ライン・ファルシア》における一連の騒動は幕を閉じることになる。
リヒャルト率いる《パラダイム》の目的は未だ不明で、雪彦も行方不明のままと、事態は停滞の一途ではあるが……
「イイ子だからじっとしていろ……痛くしないから」
「嘘だ、絶対嘘だ! だって目が全然笑ってないモン!!」
「ちぃぃっ、ここは戦略的撤退。リルちゃん、GO!!」
「え、そこは自分が囮になるってところじゃないの!? 脆い、友情って脆すぎる!!」
3人の追いかけっこを苦笑を交わしながら見つめながら、飛鳥は思う。
(……大丈夫、何とかなるさ)
らしくない考え方だと自分でも驚いたが、この光景を見ていると不思議とそう思えてならなかった。
「とりあえず貴女達……今日の夕飯抜きです」
「ヒドイ!?」
「ちょっ、私もか!?」
「……おにばばー(ぼそり)」
「鈴風さぁん……貴女だけ二度とごはんを食べられない身体にして差し上げましょうかぁ?」
「フギャーッ! ちょっ、飛鳥ヘルプ、ヘルプミィーーーーッ!!」
「なにやってんだ君たち……」
穏やかな風が吹く。
地面に落ちた桜の花びら達が空へと飛び上がり、リーシェの新たな門出を祝福するように舞い踊っていた。
閑話を2つほど挟んだ後、ようやく第二章が始まります。別名、メカと男の戦い編。