―第19話 兄と妹―
『過去』とはただの記憶ではない。
それは自身が生きてきた証であり、未来へと進む道標でもある。
では、『過去』が存在しない者はどうやって生きればいい?
何を目指して、どこへ向かえばいいのだ?
「兄様」
「……リーシェ」
だというのに。
どうして彼女は前を向いて、そこに立っていることができるのだろうか。
まったく同じ存在であるはずなのに――向かい合う偽りの兄妹の双眸には、対照的な光と闇が宿っていた。
とめどなく腹部から流れる鮮血を意にも介さない様子で、翼の戦乙女は嵐吹き荒ぶ戦場に舞い降りた。
想定外の闖入者に、鈴風もジェラールも思わず動きを止めて、大地に降り立ったリーシェを茫然と見つめていた。
「身内の問題に巻き込んでしまってすまなかった、スズカ。後は任せてもらえないか?」
「な……そんな事言ってる場合かぁっ! 腹に風穴空けられといてアホ言ってんじゃないよ! あたしは大丈夫だから、戻ってさっさと手当てしてもらいなさい!!」
「悪いが聞けない相談だ。決着は私自身の手でつける。いくらお前が戦えるようになったところで譲るつもりはない」
顔面蒼白の状態で、しかし確固たる意思で告げるリーシェに、鈴風はつかつかと彼女の傍まで駆け寄って激昂の叫びをあげた。
――自分が言えた義理ではないが、この翼の騎士様はどうしてこうも命知らずで頭でっかちなのだろうか!!
しかし、こうも思う。
何故リーシェは瀕死の状態をおしてまでジェラールと戦おうとするのか。
先の彼の発言から、鈴風も2人が兄妹であるという関係性が張りぼてであった事は理解できていた。
騎士としての責務か?
仲間を傷つけられた事に対する報復か?
どれも今のリーシェにはぴんとこない。
「頼むよ、スズカ。理由を問われても言葉にし難いが……ここで逃げ出してしまっては、私は一生後悔する。そんな気がしてならないんだよ」
「リーシェ……」
立っているだけでもままならない様子でなお、力強い笑みを絶やさないリーシェに鈴風はようやく得心した。
リーシェは今戦っているのだ。
目の前の兄だけではない、きっと自分自身との戦いでもあるのだ。
悲壮でありながらも勇壮なリーシェの決意ある眼差しに、鈴風は呆れたような微笑を浮かべて一歩後ろへと下がった。
覚束ない足取りで戦場に赴く白翼の背中を見守りながら、鈴風は思った。
自分だったらどうしただろう?
もしも、これまでの人生――飛鳥や家族、友人達と共に生きてきた16年間が、実はすべて実在しなかった偽物の想い出だったとしたら。
それは鈴風にとっては戦うべき理由を完全に喪失させるに足る、絶望の衝撃に他ならない。
しかし、だからといって自分のすべてが否定されたりはしないのだ。
泣き虫だった幼馴染を助けてあげたい。
痛みに耐えて走り続ける彼の背中に追い付きたい。
確かにそのきっかけは『過去』の出来事で、それを元に自分の進むべき道を確定させている。
それでも、今の自分は自分だけのものだ。
助けたいという希求、絶対に追い付くんだという今の鈴風の意志までもが否定されるわけではない。
そうだ、どんな過去であったとしても――
(今どうしたいのか、だ。だからこそ、私は今こうやって立っていることができる)
昨日の鈴風からの言葉は、まさしく今のリーシェにとっての『希望』であったのだ。
血液と共に、立っているための力も段々と全身から抜けていくのが分かる。
それでも、膝を屈するわけにはいかなかった。
だってそうだろう?
「私は騎士だ。友の見ている前で、みっともない格好などできるものかよ――!!」
――人形風情がと笑いたければ笑うがいい。
――過去の自分がどうであれ、私の心は騎士の心。
――民を守る盾であり、平穏を乱す敵を打ち果たす剣である。
――誰に言われてでもない、私がそうでありたいと強く願っているのだから!!
「だからこそ、貴方は私が止めてみせる。それに、乱心した兄を諫めるのは妹の役目でしょう?」
「まだ私を兄と呼ぶつもりか……!!」
堂々と掲げられた偽りの妹の決意の声に、ジェラールは怒りと困惑がないまぜになりながらも反論した。
同じなのだ、同じはずなのだ。
自身も、妹と名乗る少女も等しく同じ絶望を味わった。
(なのにどうしてこうも違う!?)
認めてなるものか、と獣じみた咆哮をあげながら、狂った兄は狂わなかった妹に嫉妬するように、袈裟がけの兇刃を振り下ろした。
「確か、こうか。……断花流孤影術“揺”!!」
「な!?」
大地もろとも断絶するほどの殺意で放たれた轟断は、軸が定まらず力無く構えたリーシェの太刀が軽く触れることで、その勢いを大きくずらし空を切った。
柔よく剛を制す――見たことの無い剣術に、ジェラールの思考は凍結した。
相手の虚をつく特性上、技名を叫ぶのはあまり望ましくはないのだが……ジェラールの一刀をいなしたリーシェの動きは、まさしく飛鳥が彼女と対峙した際に見せた『崩し』の技術――断花流の戦技だった。
これは、記憶が無いため脳内容量の空きが大きいリーシェならではの強みであった。
一度見た技を細部に至るまで完全に記憶し、再現する。
適性や能力によっては難しいものもあるが、およそ人間に可能な範囲の術理であれば、鍛練次第で充分に模倣することができるのだ。
ぐらりと重心が揺らいだ間隙をつき、リーシェは疾風と化した剣速で愛刀を振りかざした。
無理矢理に全身を捻じり、刃を合わせたジェラールとリーシェが至近距離で向かい合った。
「ふざけた真似を……何故だ、何故諦めない!? 空っぽのまま、どうしてそうまで生きようとする!!」
「生きたいからに決まっている! 剣を競う仲間がいる、いけ好かないが憎めない悪魔がいる。そして……かけがえのない友ができたのだ」
こんな人形でも、認めてくれる人がいるのならば。
生きられる。
生きていける。
生きなければならない理由としては、あまりに充分過ぎた。
「それが、管理者が定めた生き方だとしてもか?」
「私の生きる道だ! 空っぽなのは百も承知、ならば私は――」
虚ろな人形にはもう戻れない。
絶望から目を背け、何も知らず空虚なまま生きて、死んでいくのでは彼らに顔向けできない。
立ち向かうことの尊さを。
諦めないことの素晴らしさを知ってしまったのだから。
宿命も過去も乗り越えて見せると、リーシェは内なる精神を解き放ち、あらゆる絶望を捻じ伏せた。
「今、この瞬間から! 私自身の意志で走り出していくまでだ!!」
清廉たる騎士の誓いは、赤子の産声にも似ていた。
ブラウリーシェ=サヴァンは、真実、この瞬間に誕生したのだ。
魔力で構築された双翼が、その意志に呼応するが如く輝きを放っていた。
揺るがぬ信念は、決して倒れぬ底力を。
翳りなき決意は、握りしめる蒼剣の刃に煌きを。
御伽話の1ページのような、きっと誰もが子供心に思い描いた騎士の姿が、そこにはあった。
「ブラウリーシェ=サヴァン――ただひとりの騎士として、あなたを止める!!」
乾坤一擲、大気を切断しながら疾駆するリーシェの輝剣。
しかし、いくら強靭な精神を持とうとも身体が付いていかなければ意味がない。
先の負傷が祟ってか、どこか弱々しい剣閃。このままではやられる――見かねた鈴風は両の脚に力を入れ、2人の間に割り込まんと照準を定めようとしたが、
「え……」
「にい、さま……?」
ジェラールは躱す素振りすら見せる事なくその剣を受け入れた。
中央広場で見せた光景とは真逆。
振り抜かれたリーシェの剣、ジェラールの胸から噴出する鮮血の雨。
うっすらと、微笑みすら浮かべながら静やかに失墜する狂戦士を、リーシェと鈴風は茫然と見つめるほかなかった。
「兄様。どうして……」
「リーシェ……すまなかった」
リーシェの閃刃はジェラールが纏う鎧をものともせず、その骨身と内蔵に至るまで見事に切断しきっていた。
……死は免れない。
人の死に目に立ち会った事の無い鈴風でも分かってしまった。
これは、奇跡が起きようとも覆らないと。
まるで憑き物が落ちたようにジェラールの顔は穏やかだった。
倒れ伏した彼の手を両手で握りしめながら、リーシェは困惑の声を投げかけた。
「私は、諦めてしまっていた。作られた存在として、偽りの人生を刷り込まれたまま生きるということに、耐えられなかったのだ。……そして、それは皆も同じであると、そう思っていた」
「だから、村の皆やリーシェを襲ったの?」
「そうだ。……真実を知って苦しむくらいなら、何も知らないまま果てた方が幸せであろうと、私は信じてやまなかったのだ」
哀切に満ちた表情で語り続けるジェラールは、先程までの狂戦士じみた彼とはまるで別人だ。
今の彼こそが、リーシェが兄として慕っていた本来のジェラールなのだろう。
「結局、私は最後まで道化であったよ。『管理者』に幽閉され、骨の髄まで利用し尽くされ、そして最後には大事な妹を手にかけようとして……」
「え……兄様、今なんと」
あまりの穏やかな声に、リーシェは一瞬気付かなかった。
彼はリーシェのことを、初めて妹と呼んだのだ。
「たとえ、偽りの――刷り込まれた記憶だったとしても、お前の存在こそが私の『希望』だった。あの施設で、身体と精神を蹂躙されていた時も、お前とまた出会える日を思えば耐えることができた。……思えば、それこそが『管理者』の狙いだったのかもしれないが」
「ひどい……」
「だが、その希望までもが偽りだったとは言わせんさ。お前の言葉を借りるなら、紛れもなく私自身の意志でそう思ったのだから……そうだろう、リーシェ?」
「はい。はい……!!」
リーシェの瞳から一筋の輝きが流れ落ちた。
その記憶も、想い出も、人為的に造られた映写機のフィルムに過ぎないのかもしれない。
だが、妹が兄を想い。
兄が妹を想って、今の今まで生きてきたのだ。
どこにでもいる、しかしどこにでもいるものではない。
家族としての愛情に満ちた兄妹の姿がそこにあった。
「やっぱり、さ。2人は紛れもなく兄妹だよ。これだけお互いを思いやれる兄妹なんて、今時そんなにいるもんじゃないよ……」
「ありがとう、エトランゼの少女よ。そう言ってもらえると、少しは生きた意味があったのだと信じられる」
ぼろぼろと涙を落とす鈴風に、ジェラールは困ったような微笑みを見せた。
「リーシェ、許してくれとは言わない。これはすべて、お前の精神の強さを信じてやれなかった私の責任だ。ほんの少しの勇気があれば、未来を夢見て生きることもできただろうに……そんな簡単なことにも気付けなかった男としては、当然の結末なのだから」
「そんなこと……」
「だからどうか、私のようにはなるな。……先の言葉通り、騎士として誇り高くあれ。今度はお前が、誰かの『希望』になれるように」
「はい……騎士の誇りに誓って」
わなわなとリーシェは全身を震わせながらも、決して泣き出したりはしなかった。
騎士として、兄にみっともない姿を見せたくはないから――私は大丈夫だと、毅然として兄を見送るために、悲しみの奔流を耐え忍んでいた。
「私はいつだって願っているよ……お前の進む未来が、幸福と希望に満ち溢れたものであることを……」
「私も、願います……兄様の往く旅路が、どうか心安らかなものであらんことを……」
それはきっと、ジェラールも同じだったのだろう。
兄として、最愛の妹に心配をかけたくないから――痛みなど忘れたように笑みを絶やすことなく、ただただ妹の幸せを祈りながら天へと旅立っていった。
これ以上苦しむ必要も、誰に利用されることもない。
ジェラール=サヴァンの果てしなき戦いはようやく幕を下ろしたのだ。
その離別を合図にしたかのように、遠方の空――どうやら先程まで自分達がいた中央広場のようだ――から爆音が響き、光柱が視界を白く染めた。
見送りすら穏やかにさせてやれないのか。
鈴風は怒りと苛立ちを隠そうともせずその爆発を睨みつけた。
「すまない、スズカ。先に行ってもらえないだろうか…………私もすぐに追いかける」
こちらに背を向けたまま、リーシェは淡々とした口調で鈴風を促した。
敵としてオーヴァンに来襲したのはジェラールだけではないようだ。
飛鳥やクロエがいるとはいえ、鈴風も戦えるようになった以上、ここで呆けているわけにはいかない。
喪失に心を擦り減らしているであろうリーシェを、このまま置き去りにしていいものかと一瞬悩んだが……
「……わかった」
この場にいては、きっと自分は邪魔者だ。
リーシェの小さな嗚咽が嫌でも耳に入ってくる。後ろ髪をひかれる思いを押し殺しながら、鈴風は脚の推進装置を起動、疾風と化して爆心地へと走り出した。
そして、鈴風の気配が遠ざかるのを背中ごしに感じたリーシェは、遂に決壊した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……う、あああああっ……うわああああああああ!!」
誰だ、誰だ、誰だ――!!
距離が離れても、風を司る鈴風の耳には分かってしまった。
悲しみの風に乗って、リーシェの慟哭が聞こえてきてしまう。鈴風は大きく、砕かんばかりの力強さで歯を噛み締めた。
「リーシェの気持ちを、ジェラールさんの気持ちを……人の想いを弄んで、あざ笑ってるのはどこのどいつだああああああああああああっ!!」
雲ひとつない蒼天目掛けて鈴風は叫んだ。
その身を荒ぶる嵐と変え、世界の『管理者』に喧嘩を売りにいくため全力で大地を蹴り抜いた。