―第160話 セカンド ⑧―
「……………………え?」
なんでそんな答えが返ってきたの!? と言わんばかりの困惑した様子で顔をあげてきた彼女に対し、飛鳥はちょいちょいと指を砂の地面に向けて、
「正座」
「え?」
「正座しなさい」
「え!? そ、そんな、いきなりどうし「ウダウダくっちゃべってないでさっさと正座しろっつってんだろうが!!」は、はいいいいいいいっ!!」
烈火のごとき剣幕で有無も言わさず正座させ、一切のよどみない声で説教を開始した。
悲痛な思いで胸の内をさらけ出してくれた彼女に対し――飛鳥は、猛烈に怒っていたのだ。
別の理由で涙目になってしまったクロエは、借りてきた猫みたいにガチガチに背筋を伸ばして固まってしまっていた。
「さぁて、クロエさん。どうして今、あなたは正座させられて説教されているのか……分かりますか?」
「そ、それは……未練がましく、この街にいようとしているから「はい不正解ー。では、罰ゲームとしてお尻ペンペンですね」や、やめてください! それはもうセクハラとしか思えない、といいますかさっきから飛鳥さんおかしいですよ!? さっきの戦いで変に頭でも打ったんですか!?」
「黙らっしゃい。お尻ペンペンは冗談としても、至って健康ですし至って真面目に話してますよ」
「と、とてもそうには見えな「やっぱり冗談じゃなくて本気で引っ叩きましょうか」い、いえ! なんでもございません!!」
見せつけるようにスナップを利かせた平手を素振りする飛鳥に、クロエはただただ半泣き状態で震えるばかり。
さて、飛鳥はこんな寸劇がやりたかったわけではない。
熱くなり過ぎたかと小さく咳払いをして、正座したままのクロエの前にしゃがみこんだ。
「俺がクロエさんに怒っている点はひとつだけです。巻き込むとか、不幸にするとか……ひとりで勝手に決めてんじゃねぇ」
「飛鳥さん……?」
きょとんとした顔で呆然とするクロエに、飛鳥はまくし立てるように言葉を続けた。
「俺達に迷惑かけたくないから、卒業したらスッパリ縁を切ろうなんて……それこそ迷惑です。そんなこと誰も頼んじゃいませんし、誰も喜びなんてしやしません」
「で、でも……今はよくても、これから私のせいで危険な目に遭わせてしまうかもしれません。それを考えれば――」
「それを言ったら霧乃さんだって似たようなもんですし、それに魔術師絡みなら、先月にクラウとレイシアが特大の爆弾持ってきたばかりでしょうが」
確かにクロエは《九耀の魔術師》で、多くの罪を犯してきたのだろう。
彼女がこの街にいる影響で、どんな火の粉が降りかかってくるのかも分かったものではない。
だが……それがどうした。
「争いの火種がどうこうと言うのなら、俺なんざ間違いなく《パラダイム》との争いの中心に立っていますし、フェブリルやエントに至っては、異世界からやってきたなんていう未知数の火種です。今さらクロエさんひとりがウジウジ悩んだところで、何を今更って話ですよ」
「ウジウジって……」
「それに――周りに迷惑をかけることの、何がいけないんですか?」
その言葉に、反論しようともごもごと口を動かしていたクロエの動きが止まった。
飛鳥が彼女に伝えたかったこと。
それはとても単純で、しかし、とても気付きにくいことだった。
「いいじゃないですか、迷惑かけたって。それは周りを頼りにしてくれている証拠です。クロエさんだっていつも俺に言ってくるでしょう? ひとりで抱え込まないで、もっと自分を頼ってくれって」
「そ、それとこれとは――」
「一緒です。もしクロエさんのせいで敵が襲ってくることがあるなら、喜んで追い払ってやりますよ。俺は見栄っ張りの格好付けですから。気になる女の子の前ではいい所を見せたいんです」
少しだけ気恥ずかしさもあったが、ここで言葉を詰まらせるわけにはいかなかった。
第二位階になることで改めて気付いた、日野森飛鳥の本音というものだ。
「気になる女の子」辺りでぴくりと反応を見せるクロエだったが、まだ煮え切らない様子だった。
「でも……」
「以前、俺が熱を出した寝込んだ時。クロエさんはずっと俺につきっきりで看病してくれましたよね。クロエさんはその時、迷惑だと思いながら嫌々やっていたんですか?」
「なっ!? そ、そんなことあるわけないでしょう! いつも頑張っている飛鳥さんのお役に立てることは、私にとっては何よりの喜びです! 迷惑だなんて絶対にありえません!!」
飛鳥のために何かをするというのは、クロエにとっての存在意義と言っても過言ではない。それを迷惑呼ばわりされるのは、彼女自身を全否定されるようなものだったのだろう。
コートの裾を握りしめ、感情的になって叫んでくる彼女に、
「その気持ちは、クロエさんだけのものじゃないんですよ。誰かの役に立ちたい、苦しんでいる人を助けてあげたい。それは俺たちだって同じです」
飛鳥はその手を取って、優しく、優しく笑いかけた。
誰にも迷惑をかけない生き方なんてありはしない。
だから助け合い、支え合う。
「迷惑かけてるって思うなら、そう思った分だけ別の形で返してくれればいいんですよ。クロエさんだったら、ほっぺにキスのひとつでもしてくれればお釣りが来ますよ……なーんて」
飛鳥は紅潮する顔を隠すように、そっぽを向きながら言葉を締めくくった。
もう家族同然の間柄なのだから、困ったときは助け合いなんて当たり前のこと。
色々とらしくない発言だったかもしれないが、これくらい軽い気持ちで考えてほしかったのだ。
だが……これはある意味、失言でもあった。
肩にふわりと手が乗せられ、振り向こうとした瞬間、
「んっ……」
飛鳥の中で、時が止まった。
頬に触れる柔らかくてみずみずしい感触。
ふわりと花の蜜のような香りが鼻腔をくすぐった。
おそるおそる、目線だけを隣に向ける――吸い込まれそうな蒼い瞳と目が合った。
「い……いかがでしょうか」
ふっと顔が離れ、口元を抑えながらもじもじとした仕草でたずねてくるクロエに、飛鳥は返す言葉が見つからなかった。
口同士ならともかく、たかだかほっぺにキスだ。
2人とも、この程度でいちいち心を乱すような年頃ではない。
だが、今の飛鳥にとっては絶大すぎる破壊力を誇る一撃だった。
頭の中は真っ白。
顔は真っ赤。
口を開こうにもまともな言葉が出てこない。
目の前の人のことしか見えない、考えられない。
あぁ――これが恋でなければ嘘だろう。
そして、夜の海岸に2人きりというあまりに絶好のシチュエーションも、その気持ちを自覚させることに拍車をかける。
身体が勝手に動く。
手を伸ばし、プラチナブロンドの長い髪にそっと指を通す。
「ひぅ……」
彼女はぴくっと肩を震わせたが、どこか期待するような眼差しでされるがままだった。
いける――飛鳥の頭の中で、知っているような知らないような、そんな誰かの声が聞こえた。
飛鳥の目は自然と彼女の唇に吸い寄せられる。
もう一度触れてみたい。今度は頬などではなく、直接……
「ん?」
心の準備をしようと、一度視線を外して深呼吸しようとしたのが、飛鳥にとって最大の過ちだった。
潤んだ瞳を向けて、その瞬間を待っているクロエの背後――大きめの広葉樹の下にいた、見てはならないものを、見てしまったのだ。
その瞬間、今にも暴走しそうだった飛鳥の身体の熱が、あっという間に氷点下まで冷め切った。
「…………」
「カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ」
そこにいたのは、目を合わせただけで心臓が止まりそうなほどに恐ろしい目付きをした亜麻色の髪の少女と、その肩の上で、今にも飛びかかってきそうな様子で白い歯をカチカチと鳴らす使い魔の少女の姿。
猛烈な勢いで冷や汗を流し出した飛鳥の異変に気付いたクロエも、どうしたことかと視線の先を追った。
「……」
「……」
「……」
「カッチカチ」
4人の視線が交錯し合う。
誰も動けなかった。
ただフェブリルの素振りならぬ素噛みの音がいやに大きく響くばかりだった。
あぁ――これが修羅場でなければ嘘だろう。
ようやく取り戻した夏の暑さが、再び真冬に戻ったかのようだった。
そんな中、口火を切ったのは、
「遅いから心配になって迎えに来てみれば……まさかこんなところで先輩とイチャイチャしてたとはね。あたしゃびっくりしてもう言葉も出ないよ」
「カチカチッ!!」
闇の底から滲み出るような低い声を出す鈴風だった。肩に留まったフェブリルも同意を示してあごを上下させながら頷いてきた。
飛鳥に圧し掛かるプレッシャーは、雪彦の時とは比較対象にすらならないほど。呼吸もできず、指先一本動かすことさえできなかった。
「いや、あの、鈴風? これはだな? 色々な偶然が重なってというか場の雰囲気というかでも勢いだけではないというかだな」
自分で言いながら、いったい誰にどうして言い訳をしているのだろうと心底疑問に思っていた。
いや……そもそも飛鳥は誰とお付き合いをしているわけでもないのに、どうしてこんな浮気現場みたいな状況になっているのだろうか。その疑問に答えてくれる者は誰もおらず、ましてや飛鳥にそれを口に出す勇気などなかった。
そして、このあまりに優柔不断で不甲斐ない男のせいで、この場は収まるどころか更に炎上することになる。
「はぁ……鈴風さん。空気の読めないイタい子だとは常々思っていましたが、今回ばかりは流石に笑って許せそうにありませんねぇ?」
「な、なんだとぅっ!?」
「カチッ!?」
まさか真正面から敵意むき出しで反論されるとは思っていなかったのか、鈴風は思わず一歩後ずさり、フェブリルはカチカチさせていた口をぴたりと止めてしまった。
「そ……それがどうしたー! さっき飛鳥はあたし達を追っ払っておきながら、戻ってきたら別の女とイチャコラしてたんだぞー! こんな理不尽許せるかー! これは正当な怒りであーる!!」
「そーだそーだー!!」
確かに状況だけ見れば、鈴風たちの怒りも尤もではあるのあろう。
だが、理屈がどうとか正当な怒りだとか、そういう問題ではない。
「あと少し……あと少しだったというのに! よくも私の幸福の絶頂を台無しにしてくれたな貴様らぁっ! 死んだ程度で償いきれるとは思わないことですね……!!」
いったい誰の逆鱗に触れてしまったのか。
2人はそれを思い知ることになる。
「あれ!? どうしてあたし達の方が悪者みたいになっちゃってるの!?」
「っていうかスズカやばいって! あの目は本気で殺しにくる目だって! 早く逃げないと死んじゃう、死んじゃうーっ!!」
あとはもう語るまでもない。
ロマンチックなムードで満たされていた夜の海岸は、暴虐の魔女が荒れ狂うこの世の地獄と化した。
そして、その中に飛び込んで場の仲裁をする覚悟も無かった1人の男は、申し訳なさそうに手を合わせてそそくさと逃げ出したそうな。