―第152話 Witchcraft Phantasm ④―
「あらあら、随分といい格好をしておりますこと」
いかにも満身創痍といった様子のクロエの姿に、麗風は唇を小さく歪めて笑みをこぼしていた。
腹部に食らわせた光子弾の負傷などなかったかのように悠然と佇む敵手に対し、こちらは立っているだけでもやっとという有り様。
ほんの数分前から、趨勢が一気に逆転してしまっていた。
(このまま彼女をこの場で暴れさせるわけにもいきませんね……)
建物を庇って傷を負ったというのに、ここに至って建物を巻き込むような戦闘を繰り広げては本末転倒だ。クロエはじりじりと両足を横に滑らせながら、麗風の視線を建造物から逸らしていく。
「甘過ぎですよ、あなた」
そんな呟きが、クロエの耳元から聞こえてきた時点で既に手遅れだった。麗風から1秒たりとも目を逸らしてはいないのに、懐に入られたことにまるで気付かなかった。
「がっ……!?」
がら空きの胴体に鋭い膝の一撃が叩き込まれる。喉の奥からせり上がるものを必死に押し殺しつつ、たたらを踏んで後ろに下がった。
追撃を加えてくる気配はなく、麗風は心底楽しそうな微笑みを浮かべたままその場に留まっていた。
今朝の意趣返しのつもりだろうか、完全に舐められている。
術式による生体加速を行っていない状態では、稲妻に等しい麗風の動きを見切るどころか、認識さえもままならない。
こちらから攻撃しようにも、あの高速移動の前にはまともに当てられる気がしない。
八方ふさがり。
もう1年以上は久しく感じていなかった死の恐怖が、クロエの心にじわじわと染み込んできていた。
(死ぬのは怖くないと思っていましたが……これは、意外にも)
かつての自分なら、恐怖心自体がないようなものだった。
だが、今のクロエは確かに恐怖していた。
(死ぬのが怖いんじゃない。死んで、もう飛鳥さんと会えなくなるのが、嫌だ……!!)
私はここまで弱くなってしまったのかと、クロエは今の自分に絶望していた。
肩が小刻みに震えていた。
瞳の奥から何かがこみ上げてきそうだった。
喉奥から、無意識に命乞いの台詞が出てきそうになっていた。
(しっかりしろクロエ=ステラクライン……こんなところで折れるほど、か弱い女ではないでしょう。飛鳥さんに笑われますよ)
魔女としての矜持。
飛鳥への思幕。
今のクロエを構成するありとあらゆる思いを寄せ集めて、なんとか気持ちを立て直した。
「さぁ、続けましょうか雷の鬼。魔女による鬼退治というのも、なかなかに楽しい展開ですね」
「ふふふっ、虚勢もそこまで行けばむしろ称賛に値しますわね。でも……このお話は、鬼による魔女狩りになりそうですけれど」
精いっぱいのハッタリをかましたつもりだが、どうやらただの強がりだとあっさり看破されたようだ。
実際問題、この状況はほとんど詰みだった。
相手の攻撃は必中、こちらの攻撃はまず当たらない。
相手はいつで『人質』を狙える状況で、しかもこちらはダウン寸前。
変な意地を張らずに鈴風と共闘すべきだっただろうか……とは、思わなかった。
(ここで逃げたら女が廃る、ですか……鈴風さんの受け売りなのが癪ですが、こればっかりは同感です)
まさか鈴風の考え方に共感する日が来ようとは思わなかったが、どうあっても引けない場面であることは間違いない。
諦めない。
諦めない。
諦めて、たまるか。
今日、この時ばかりは、彼女にならって馬鹿を貫くのも一興か。
左手に持った拳銃を横に投げ捨て、残る一丁を両手でしっかりと握りしめた。
「光子魔術展開式05――“祝福されし愛華”」
“クラウ・ソラス”の銃剣部分が光を帯びながら、50㎝ほどの長さをした光の剣へと変身した。
薔薇のように鮮やかで、夕日のように穏やかな色の光輝をまとった聖剣を正面で構えたクロエの姿に、訝しげにその様子を眺めていた麗風は、目元を押さえながら盛大に吹き出した。
「ふ……あははははははっ! 何を出すかと思えば、銃に飽きて今度は騎士の真似事ですか? ええ、ええ、似合っておりますよ。まるで甘ったるい少女漫画に出てきそうな王子様みたい!!」
「そんなつもりはありませんよ。私は騎士よりもお姫様でいたいので」
クロエとて、伊達や酔狂でこの術式を選んだのではない。
“祝福されし愛華”は光子魔術展開式でも数少ない接近戦用の術式。銃剣の部分にありったけの光エネルギーを集約させたレーザーブレードは、残り少ない魔力で一撃必殺を狙うための唯一の選択肢だった。
いかに第二位階の人工英霊とて、首から上や心臓を瞬時に蒸発させれば生きてはいられまい。
光剣を顔の高さまで掲げ、両手で後ろに引き絞るように構える。
剣技はまるで素人だが、過去に飛鳥が見せた構えを見よう見まねで再現した刺突の型だ。
「乾坤一擲、といった様子ですね。……いいでしょう。その覚悟に免じて、あなたの流儀に合わせて差し上げましょう」
応じるように、麗風も双刃剣を両手で掴んだ。
頭の上まで腕を振り上げた大上段――示現の太刀を彷彿とさせる、唐竹割の構えだった。
侍同士の立ち合いにも似た尋常なる勝負が、異国の魔女と異国の怪物によって繰り広げられようとしていた。
しかし、どう見ても。
この勝負は最初から結果が見えていた。
瞬発力、剣を振り下ろす速度、反射神経、そして単純な技量――剣と剣の戦いに要求されるあらゆる要素において、クロエが麗風に勝てる点などひとつたりとも存在しなかった。
元より、身体能力が別次元に強化された人工英霊相手に、身体面では普通の人間と大差ないクロエが肉弾戦を挑むこと自体が無謀なのだ。
(肉を斬らせて骨を断つ、ですか。まさかこの身で実戦することになろうとは……)
今のクロエが勝ちを拾うとすれば、もうこの手しか残されていなかった。
間違いなく先に斬られるのを覚悟して、麗風が剣を振り下ろした直後に心臓目がけてこの光の剣を突き刺す。相手の剣で即死したらどうにもならないが、そこは考えないことにした。
要するに、先に斬られた方の負けではない。
先に死んだ方が負け、ということだ。
(我ながらまったく……鈴風さんの馬鹿が感染ったんですね、そうに違いありません)
無謀、無恥の極みとも言える捨て身の特攻を、すべてこの場にいない彼女のせいにして。
クロエ=ステラクラインは、人生において二度目の死を覚悟した。
「……」
「……」
夏の寒さがしんしんと全身に降り積もっていく。
誰もいなくなった運用試験場には、薄く頬を撫でる風の音しか鳴らなかった。
「……ひとつ、質問を」
笑顔を消した麗風から、唐突に声が飛んできた。
無理矢理に隙を作ってグサリ、という線も捨てきれない。クロエは気を緩めることなく無言を貫く。
どの道こちらから仕掛けるつもりはないので、話したければ勝手に話せと態度で示した。
「もし……戦いの中に限ったことではない。自分より先にあの『反逆者』が死んだとすれば……あなたはどうされるおつもりなのですか」
もったいぶって質問した割に、そんなことか。
クロエはふぅ、と小さく呼気を吐き出しながら、
「当然、一緒に死にますよ。飛鳥さんがいない世界に、私の存在意義などありませんので」
わずかたりとも考えることなく、そう即答した。
予想通りの答えだったのか、麗風の表情には驚きの様子は見受けられず。
「……貴様は、悲しいな」
憎悪も絶望もない。
劉麗風は、その『素顔』を少しだけ垣間見せながら。
恋に狂った魔女を、哀れだと言った。
「御託は、もういいでしょう。そろそろ決着を付けましょう」
どうして敵に情けを――それも絶望の淵に立った人間から向けられねばならないのか。
若干だが心を揺らしながら、クロエは再び構えた剣に意識を落とす。
「ええ……終わりにしましょう」
怒りに狂う鬼だった麗風は、一切の感情を取り払った、澄んだ瞳を向けてきていた。
ますますもって、意味が分からない。
決着が付く前から、どうして彼女が、ああも憑き物が取れたような表情をしているのか。
思考を止めにする。
今はただ、手に持った剣で、彼女を殺すことだけに集中する。
負けない。
――死にたくない。
絶対に、勝つ。
――助けて。
逃げるものか。
――いやだ、お願い、もうやめて。
頭の片隅からノイズのように聞こえてくる、知らない誰かの声を押さえ付けながら、光刃の切っ先に殺意を集めていく。
静やかな空間の中、遠慮もなく暴れまわる心臓の音が煩わしかった。
呼吸を止めればこのうるさい鼓動も収まるのだろうか、なんて考えてしまった。
瓦礫の山から、小さな石ころが転げて、カランと鳴った。
「――死になさい」
それが合図となり、クロエの目の前に雷が蠢く白刃が出現していた。
最後の力を振り絞って、術式“虚銀の世界”を発動。
クロエは100分の1の世界をぼうっと眺めながら、
(ああ、やっぱり駄目でしたか)
捨て身の作戦が完全に失敗したことを悟っていた。
いかにスローモーションの世界を認識しようと、実際の身体までもがその速度に付いてきてくれるわけではないのだ。
麗風の太刀筋は、完全にクロエの脳天から下まで綺麗に真っ二つにする――どうあがこうと即死の運命は免れないことが、この低速世界の光景から明らかになっていた。
(仕方がない、ですか)
助けを求めなかった自業自得と言われればそこまでだ。
だが、ボロボロだった鈴風が残ったところで勝てた保証があるわけでもなし。むしろ共倒れの可能性の方が高かっただろう。
足止めができただけでも重畳。
そう自分に言い聞かせなければ、心が壊れてしまいそうでならなかった。
(飛鳥さん、私が死んだら泣いてしまわれるでしょうか……それだけが、心配です)
死の間際に走馬灯が浮かんでくるほど、彼女の人生は彩りに満ちたものではなかった。
見えるのは、今まさに自分の魂を刈り取らんとする死神の鎌と、
(……え?)
崩れた瓦礫のさらに奥――建物の通路から走ってくる男たちの姿。
……“虚銀の世界”、展開解除。
クロエのまぶたの裏側で何かがぱちんと弾けて、静止した世界が終わりを告げ――そして同時に、剣を振り下ろす麗風目がけて、横殴りの銃弾の雨が降り注いだ。
「これ以上、俺達の家で好き勝手やらせるかよ化け物がああああああああっ!!」
クロエに救いの手を差し伸べていたのは、自動小銃を手にした武装小隊。撤退したはずの荒谷剛四朗率いる『打金』の面々が、魔女の危機に駆け付けてきたのだ。
だが、荒れ狂う雷電を身に纏う麗風にとっては鉛弾など何のダメージにも成り得ない。小石をぶつけられた程度の感覚でしかないだろう。
それでも、麗風の意識を一瞬でも逸らし、剣の勢いを鈍らせるには充分すぎた。
「邪魔をするな、この雑兵どもがぁっ!!」
雷神の怒りが大気をしたたかに轟かせた。並の人間なら発狂するか、よくて気絶するほどの殺意を受けながらも、隊員たちは銃のグリップを手放そうとはしなかった。
決死の覚悟だったのだろう。絶対に勝てないと分かっていながらも、死の恐怖に立ち向かいながら馳せ参じてくれた人達に、クロエは心の中で感謝を捧げ、
「やああああああああああっ!!」
「っ!!??」
雷神の心臓に薔薇の聖剣を深々と突き立てた。
「お嬢、大丈夫ですかい!!」
「荒谷さん……助かりました。ありがとうございます。……あと、その呼び方はやめていただけませんか?」
力を失いその場に倒れた麗風が動かなくなったのを確認した後、剛四朗たち『打金』のメンバーがわっとクロエのもとに駆け寄ってきた。いかにもむさ苦しそうな男たちが一斉に殺到してきたこともあり、クロエは感謝しながらも、唇の端をひくつかせながら苦い顔を浮かべていた。
2回ほど深呼吸をして、クロエはようやく自分が――いや、自分たちが生きて勝利できたことを噛み締めることができた。それを認識した途端に力が抜けてしまい、思わずその場にぺたんと座り込んでしまっていた。
「お、お嬢ぉっ!?」
「だから、その呼び方は……はぁ、もういいです」
命の恩人に向かって、あまりすげない態度をとるのも失礼だろう。
明らかに狼狽した様子で、どうしたらいいのか分からず両手を泳がせている剛四朗たちに苦笑しながら、クロエは仰向けに倒れているチャイナドレス姿の女に視線を移した。
よく、勝てたものだと思う。
クロエのコンディションが万全であれば造作もない相手だったが、それは仮定の話に過ぎない。第二位階になってからの麗風との戦いは終始で劣勢であったし、もし小細工抜きで正面から立ち会っていたとしても、無事に勝てたかどうか。
この勝利も、クロエ1人の力ではない。剛四朗たちが来ていなければ、間違いなく結果は逆で終わっていた。
(私が飛鳥さん以外の誰かに助けられようとは……今朝の時といい、つくづく情けない)
《九耀の魔術師》の面汚しと言われても反論できなかった。
だが、自分の不甲斐なさを痛感すると同時に――こんな自分でも、助けてくれる人がこんなにいたのだという事実が、胸の奥に温かなものを生み出していた。
本当に、人は変われば変わるものだと、嬉しいやら悲しいやら複雑な気持ちを抱いていると、
「ふ……ふふふ……」
「っ!? まだ、生きていましたか」
動かなくなっていたはずの麗風の口から、絞り出すようなかすれた笑い声が聞こえてきた。クロエはすぐさま立ち上がり、彼女の眉間に向けて“クラウ・ソラス”の銃口を突き付けた。
「我が魂を踏みにじりながらも意地汚く生き延びるか、大罪の魔女よ」
「……憎悪に狂った鬼の末路などそんなものです。誰にも顧みられることなく、誰にも悲しまれることなく、そこで死になさい」
憎らしげに口元を歪める麗風に、クロエは淡々と冷酷な言葉を浴びせ掛けた。
銃を撃たずとも、彼女はもう終わりだ。左胸に拳大の風穴がぽっかりと空いていて、生命活動を維持することなどまずできまい。
断続的に血を吐き出しながらも、麗風は口を閉じようとはしなかった。
「なぁ魔女よ、それほどまでに生きて何とする。私も貴様も、死ねばどうせ地獄行きだ、未来など無い。こんな糞のような世界にしがみついて、いったい何になるというのだ?」
「貴女と一緒にしないでください。私には、生きる理由がある。未来から逃げ出したりなんかしない。ただ憎むことしかできなかった貴女とは、違う」
「己の存在意義を、他人に依存することでしか見出せない人形風情がよく言ったものだ。その拠り所がいなくなれば、貴様も私と何も変わらない。じきに、破壊と殺戮を振りまく悪鬼に成り果てる」
くぐもった声で含み笑いをする麗風の瞳は、最後まで負の感情で濁りきっていた。
クロエはこんな女と同類などと、思いたくなかった。
けれど、彼女の言い分をまったく否定できないことが、たまらく嫌だった。
「せいぜい生き長らえるがいいさ。だが、忘れるな……」
今すぐそいつを黙らせろ。
クロエの本能が銃を持った指先を自然と動かしていた。
「貴様の未来には幸福などあり得ない! その道はすべて憎悪と怨嗟で彩られ、いずれ貴様だけでなく、貴様が愛した者をも蝕みながら地獄へ落ちることだろう! あは、あはは、アハハハハハハハハハ――――」
……ドン。
引き金は、空気のように軽かった。
「お、お嬢……」
「分かっていますとも、そんなこと。だけど……地獄に落ちるのは、私ひとりで充分です」
雷雲は過ぎ去り、魔女は生き残った。
断花重工の空には、真白の雪だけが降り続いていた。