―第151話 Witchcraft Phantasm ③―
その頃、クロエ達から数㎞離れた海上では。
「フギャッ!? しょっぱ、しょっぱい!? ……海の水ってホントに塩水だったんだ、びっくり」
「だぁっ! いちいち顔出してんじゃないよ! いいから大人しくポケット入ってろ!!」
火車掛で海を切り裂き疾走する飛鳥と、彼のジャケットの胸ポケットから顔を出したはいいが水しぶきが顔面に当たってちょっぴり海水を飲んでしまったフェブリルの姿があった。
塔へと進行を開始してからというものの、雪彦からの氷の矢による狙撃はぱったりと止んでいた。
(来るなら来いってことか……)
期待されているのか、侮られているのか――おそらくはその両方か。
ぺっぺと口の中のものを吐き出している使い魔を再びポケット内に押し込もうとしていると、
「あ、アスカ! 前! 前まえまえまえぇっ!?」
「いちいち暴れんな、落っこちても知らないぞ……って、なんだ、ありゃ……」
彼女の悲鳴じみた叫びの先に広がる異様な光景に、思わず目を見開いた。
水平線の先にはっきりと見えてきた氷の塔だったが、天を貫かんばかりに直立したそれが、突如真ん中あたりからぐにゃりと曲がりだしたのだ。
塔の外観がはっきりと視覚できる距離まで近付いた飛鳥たちは、ここでようやく大きな思い違いをしていたことに気付く。
「あれは、塔じゃない……」
魚の鱗のように幾重にも張り巡らされたその表面、しなやかに左右へと湾曲する骨組み。
そして……塔のてっぺんが、真ん中からふたつに割れていった。
断面の内側には、びっしりと並び立った無数の鋭く長いトゲ。
「へ……ヘビだああああああああああああああっ!?」
フェブリルが目が飛び出そうなほどにびっくりしながら胸元で大絶叫していた。飛鳥も声に出さなかったがまったく同じ気持ちだった。
まだ距離は2.3㎞ほど離れてはいるが、その大きさは圧巻だった。
街中にある高層ビルに匹敵する大きさの氷の蛇が、こちらに向かって首をもたげてくるのだ。怪獣映画もかくやのスケールに、2人は揃って口を半開きにして何の言葉も出せなかった。
まるで幻想上の――それこそドラゴンのような威容を漂わせる魔物の姿だった。
目に該当する部分がなかったが、それでも相手に睨まれているということを全身で理解できる。蛇に睨まれたカエルの気持ちはこういうものかと、思わず息が詰まってしまうほどの殺気だった。
「ど、どどどどどどどどうしよう!? いったん逃げて、それから皆で――」
ポッケの中であたふたしているフェブリルの悲痛な叫びを受け流しながら、飛鳥はもう数分もしないうちに接敵することになるあの大蛇の攻略法を模索していた。
できれば、雪彦と戦う前に無駄な消耗は抑えたかったが……そうも言っていられない。
「フェブリル、今からいっそう揺れるぞ。どこでもいいからしがみ付いて離れるなよ」
「え、ええっと……まさか、このままやっちゃうおつもりで?」
「当然。今さら引き返せるわけないだろうに。それに……ああいう敵は初めてじゃないからな。それなりに対策もある」
胸ポケットからおそるおそる目から上だけを出してくる小動物チックな使い魔に、飛鳥は挑戦的な笑いで返した。
『万能』を追求した日野森飛鳥の戦術は、決して人工英霊や機械兵器を相手取ることしか想定されていないわけではない。現実ではありえないような存在――山のような巨人だろうと、空を舞う竜であろうと、高層ビルよりも巨大な氷の蛇だろうと、想定している。
「烈火刃・漆式――“桜連軛”」
小さく言霊を発する。
それは、烈火刃が持つ7つ目の姿を披露する合図。
「クロエさんと鈴風が作ってくれたこの活路、そう簡単に止まってやると思うなよ……雪彦!!」
運用試験場での戦いは、文字通り一段階上のステージへと駆け上がっていた。
「今朝のような失態はもう犯さん……今度こそ、貴様をここで討滅してくれる!!」
「っ! ……来ますか」
麗風から放たれる殺意の奔流、その流れが急激に重さを増してクロエの全身に圧し掛かってきた。
いったい何が始まるのか、それは誰が言わずとも既に理解していた。
第二位階――人工英霊が到達する、次なる『進化』の形。
奇術師アルゴルや麗風、そして鈴風が辿り着いたとされる地点であり、同時に、日野森飛鳥がまだ辿り着いていない地点でもあった。
敵として対峙する脅威より、その事実が飛鳥の心に幾ばくかの影を落としているであろう事実の方が、クロエにとっては辛いことだった。
麗風を中心に荒々しく周囲を飛び回っていた雷電が、いつの間にかしんと静まり返っていた。
「お待たせ致しました。我が第二位階“雷公万仙陣”……ご照覧あそばせ」
ぞくり、とクロエの全身から熱が奪われた感覚があった。
先ほどまでの、憤怒に狂った鬼の姿はそこにはなく――触れれば消えてしまいそうに儚く、美しい、冷たい瞳をした天女がいた。
だが、対峙しているクロエには嫌というほどに伝わってくる。
第二位階になり、これまでの憤怒が収まったわけではない。むしろ高まりを続けている。
この世の悪意という悪意を固めて、原型が無くなるまでに煮詰めたような……ヘドロのように粘ついたドス黒い邪気が、その冷ややかな容貌からにじみ出ていた。
「先ほどは、大変失礼を致しました。あのようにはしたない暴言の数々……私事ながら、情けなくてなりませんわ」
左手で口元を隠しつつ恥ずかしげに笑う麗風の振る舞いは、並の男なら一瞬で目を奪われてしまいそうなほどに可憐な印象が強かったが、
「そうでしょうか? 私に言わせれば、さっきまでの方が素直な分、まだ可愛げもありましたよ」
それはあくまで、表面だけだ。
ひと皮剥けば、第一位階の時とは比較にならないほどに、絶望と憎悪で黒く染まりきった本性が出てくることだろう。
だが中身はどうあれ、今の彼女は冷静そのものだ。
さっきまでのように、怒りで隙を見せることも期待できない。
(これが第二位階……どうやら、楽に勝たせてはくれなさそうです)
さしもの“白の魔女”クロエでも、余裕を持って対抗できる相手ではなくなっていた。
今朝の一戦では、鈴風との戦いで消耗していたところに不意打ちを与えることができたから、簡単に制圧することができたが……万全の状態という意味では、これが初めての対第二位階ということになる。
更に、天候不順による光エネルギーの不足も不利な状況に拍車をかける。
“裁きの曙光”や“月下輝刃”といった大出力の術式が使えない今のコンディションでは、力押しで勝ちに行くこともできない。
双銃のグリップを強く握りしめる。
“虚銀の世界”をいつでも発動できるよう意識を集中。
いつ、どの方向から襲って来ようとも即座に対応できるように身構えたが、
「では……再開しましょうか」
麗風はくるりと双刃を一回転させ、何の気兼ねもなく、何の気負いも見せず、その切っ先を…………断花重工の建物へと向けていた。
「な――――っ!?」
麗風の思惑を――理解したくはないが――理解してしまったクロエは、“虚銀の世界”の術式を即座に破棄。視界に映る場所であれば瞬時の移動を可能とする光子魔術展開式03“天翔靴”を発動、麗風と建物の間に滑り込んだ。
「ばーん」
おもちゃの鉄砲を撃つような気軽さで、麗風の双刃剣から目が眩むほどの放電が射出された。その勢いは、もはや稲妻というより荷電粒子砲と同等の砲撃だった。
いくら堅牢な断花重工の建築物でもあっという間に融解させてしまいかねない出力に、クロエは思わず口から出そうになった悲鳴をかみ殺した。
術式選択――“星屑の鏡面結界”。
両手に構えた双銃“クラウ・ソラス”の銃口から多角体の鏡の盾が放たれ、防ぐというよりは受け流すように雷電の咆哮をしのいでいく。
「う、あ、ああああ……!!」
鏡の結界が正面から徐々に融解しはじめていた。
ダメージを最小限にするなら、今すぐ射線上から離れればいい。別に建物の中にいる人間がいくら死んだところで、飛鳥がいなければどうだっていい。
クロエは正義の味方でも、見ず知らずの人を率先して庇うようなお人好しでもないのだ。
それでも、この場を離れようとしないのは――
(そんなことになったら、飛鳥さんが悲しむではありませんか……)
たったそれだけ。
恋なのか、単なる依存なのか、それすらも分からないあやふやな気持ちに突き動かされただけの、衝動的な意地だった。
前に突き出した両腕の感覚が消え失せていく。
割れて穴が開いた結界の隙間から襲い来る熱線で、少しずつ全身が焼かれていった。
血液が沸騰し、骨が融けていくような、想像を絶する激痛に耐え忍びながら、
「まだ、です……!!」
クロエは両手に伝わるグリップの感触を確かめつつ術式に更なる力を加えていく。
なけなしの魔力で絞り出した鏡の盾は、総数8枚。だが、留まることを知らない荷電粒子砲の勢いの前には焼け石に水だった。
1枚、2枚、3枚――息つく間もなく焼き払われていく結界に歯噛みしながら、意識の片隅でこんなことを考えていた。
(壊すだけしか能がなかった私が、いざ何かを守ろうとした途端、このザマですか。まったく……なんて恰好のつかない)
そんな自分に呆れながら苦笑したのと同時、クロエの意識は光に呑まれてぷっつりと途切れていた。
脆弱な人間の肉体など瞬きの間に蒸発させるほどの雷電砲を前に、クロエが五体満足で生還できたのは、結界により雷撃の威力がかなり削られていたことと、彼女が身に纏っていた《九耀の魔術師》用の純白のコートによる守護が重なったからだろう。
「いったいどうして、こんな……!?」
「なに……少々油断しただけですよ。たかがこの程度で大袈裟なんですよ、貴女は」
ちょうど鈴風がアルゴルと決着をつけたところに墜落したクロエは、支えようとする彼女の手を振り払いつつ立ち上がった。
一度ならず二度までも、意識を奪われるほどの負傷を許してしまった。
それ即ち、麗風が本気になれば、クロエは今日だけで2回は死んでいたということだ。
誇りに思っているわけではないが、彼女とて《九耀の魔術師》――魔術師の頂点に立つ者として、それなりの矜持は持っている。
飛鳥を傷付けられたことも加え、もはや麗風に対する殺意は抑えきれるものではなくなっていた。
(しかし……今の状態では厳しいですか……)
先の結界で、ただでさえ少ない魔力の大半を持っていかれてしまった。まともな術式の行使は、いいところ後2回が限度だろう。
また、全身のダメージも軽く流せるものではない。何とか四肢の欠損は避けられたものの、手足にまともな力が入らず、ほとんど案山子も同然といった有り様だった。
確実に勝利をもぎ取りたいなら、変に意地を張らずに鈴風の手を借りた方が無難だろう。
「貴女は、早く飛鳥さんを追いかけなさい。今の貴女の力なら、すぐに追いつけるはずです」
「でも……だったら先輩はどうするの?」
「私は、自分の落とし前をつけてから後を追います。このままでは、飛鳥さんに合わせる顔がありませんので」
だが、他の人ならともかく、鈴風にだけは頼りたくない。
この女に弱みを見せるくらいなら死んだ方がマシだと、クロエは本気でそう思っていた。
「……手は足りてる?」
「貴女の手を借りるなどまっぴらごめんです。いいからさっさと行きなさい、目障りです」
自分でも説明できない、言葉に出来ない感情に動かされるまま、クロエは鈴風の助けを突っぱねた。
最後の確認とばかりに、正面から鈴風と視線を合わせた。
いくら全身が血と泥に汚れようと、その瞳は真っ直ぐで、曇ることを知らないようだった。
馬鹿で、愚鈍で、喧しい。
クロエにとっては憎らしいほど清々しい、手のかかる年下の好敵手の目だった。
「――よっ!!」
小さく掛け声を出した鈴風の背面に、4枚の鋼鉄の翼が出現した。
聞くまでもなく第二位階によって拡張された能力の一部だろう。
「死んじゃやだよ?」
「……まさか貴女に心配される日が来ようとは。明日は空からお魚でも降ってきそうですね」
「なにそれすごい」
冗談半分の言葉にいちいち反応する鈴風が鬱陶しくなったクロエは、背中を向けながらしっしと手で追い払う仕草を見せる。
地面を強く踏み鳴らして飛び立つハヤブサを背中越しに見送りながら、クロエは両手に召喚しなおした拳銃をしっかりと握りしめた。
「さて、ここからが正念場ですね……」
鈴風はしっかりと自分の役目を果たした。
ならば、ここで自分が折れるなどあってはならない。
可愛くない後輩に舐められないためにも、思い人に胸を張って再会するためにも。