―第150話 Witchcraft Phantasm ②―
劉麗風の人生は、その始まりからして、既に地獄に彩られていた。
「お前たちは自由だよ。どこへなりとも行くがいい」
何の前触れもなく母親からそう告げられ、意味も分からないまま、法も秩序も存在しない貧民街に捨てられた。
経済的な事情による口減らしか、それとも単に邪魔者扱いされたのか――その理由はもはや推測することしかできないが、何にせよ、2人は母親から愛されていなかったのは疑いようのない事実だった。
麗風はわずか8歳、弟の功真に至っては4歳の時であった。
それからというものの、姉弟は、ただ生きるために生きていた。
盗み、殺人、他にも口には言えないようなありとあらゆる汚い仕事に身を染めながら、麗風は絶望しかない人生を歩み続けていた。
だが、その地獄を小さな弟にまで背負わせるわけにはいかない。功真にだけは、自分とは違う日なたの人生を歩んでほしい――ただそれだけが、麗風にとっての生きる希望となっていた。
その甲斐もあってか、弟は純粋でまっすぐな男へと成長し、ついには五輪で頂点に立つほどの栄光を手にしていた。
だが、泥水をすすり、恥辱にまみれ、それでも耐え忍んで育て上げた『希望』も、
「姉さん……ごめん」
ほんのわずかな綻びで、泡となって消え失せてしまった。
弟が金メダリストになった数日後のことだ。
飲食店で功真が酒に酔って暴れ出し、止めようとした友人を殴りつけ殺害した――そんなニュースが国中を飛び交った。
理由――友人に恨みがあったわけではない。酒で酔い潰れて覚えていない。
そんな下らないことで、弟の栄光に満ちた人生は、麗風の『希望』は、音を立てて消えてしまったのだ。
麗風は怒りに狂い、友人を殴り殺した功真の右腕を切断した。
そして、怯え、嘆き、痛みに泣き叫ぶ弟の顔を見て我に返った彼女は、ただ……すべてに絶望した。
再び生きる希望を見出すこともできず、弟とともに緩やかな死へと歩み出そうとしたところで、転機が訪れた。
「君は、この世界が憎くはないのかな? 君が人生のすべてを捧げて育んだ『希望』を、いとも簡単に摘み取ってきたこの世界を。もし憎いと思うのならば……その『意志』こそが、古き世界を壊し、新しき世界を作り出す礎となる」
ああ、憎い。憎いとも。
絶望しか与えてくれないこんな世界で、いったい何を求めようか。
どれほど希望の光に手を伸ばしても消えてしまうこんな世界を、いったい誰が愛せようか。
男のささやきに頷いた麗風は、功真と揃って人工英霊へと覚醒した。
努力を積み重ねようとすべて無駄だと思い知った功真は、『絶望』を糧として無機物を支配する暴君へ。
そんな『絶望』ばかりがまかり通る世界を許せなかった麗風は、その『憎悪』を糧として、すべてを焼き払う雷霆の化身へ生まれ変わった。
そして、彼女の『憎悪』は弟の死を境に更なる加速を続け――今では怒りのみがすべてを支配する修羅として、目に留まるあらゆる者に牙をむいている。
「消えろ消えろ消えろ消えろきえろきえろキエロオオオオオオオッ!!」
「……」
そんな麗風の『憎悪』を知ったわけでも、ましてや怯んだわけでもないが、クロエは技も何もない力任せの猛攻を銃剣でしのぎながら、どこか物悲しさを感じていた。
弟の死に心を砕き、復讐のために剣を振るう――その行いを否定するつもりはない。
だが、今の彼女には、それすらも感じられなかった。
(悪鬼に堕ちましたか)
憎悪に身も心も委ねれば、さぞかし何も考えずに済んで楽だろう。
だが、あふれ出す衝動のままに暴れ狂おうとも、いつか必ず終わりが来る。
その身が朽ち果てるまで戦って、戦って、戦って……そして、その果てには何も残らない。
ただ無意味に死んで、無意味に消えていく。
麗風がこの先辿るであろう結末が、クロエには既に見えてしまっていた。
(そんなこと……私が一番よく知っています)
ある意味、クロエと麗風は同族なのだろう。
片や、何の意思も持たずに、ただ言われるがまま悪逆非道を重ねてきた殺戮人形。
片や、すべてに絶望し、憎悪と怨嗟を撒き散らしながら破壊の限りを尽くさんとする悪鬼羅刹。
「がああああああああ「やかましい」ご、はっ!?」
たがの外れた獣みたいに叫びまわる麗風は、はっきり言って隙だらけだ。
一撃一撃が大気を引き裂き、少し触れるだけで、血も肉も骨も瞬時に焦がして吹き飛ばす雷神の刃。だがそれも、当たらないという確信さえあれば、素人のテレフォンパンチと何の違いもない。
上段に大振りで双刃を振りかざした彼女の腹に向かって、光子弾を1、2、3発。今朝とまったく同じ戦法に対応できないでいるあたり、まともに思考も働いていないようだ。
血液がとめどなく溢れだす傷口を押さえながら、麗風がよろよろと後方へ下がる。
血の気と一緒にわずかでも冷静さも取り戻したのだろうか。
麗風は歯ぎしりしながらクロエの方を睨み付けてくるだけで、すぐさま飛びかかってくる様子は見せなかった。
「……何故だ」
「何の話です?」
何かを問いかけてくる麗風の瞳に宿っていたのは……憤怒というよりは、疑念と、嫉妬だろうか?
「貴様の過去は調べが付いている。クロエ=ステラクライン――生まれた瞬間から魔術師に求められるすべてを備えていたとされる『奇跡の子』」
「……よくご存知なことで」
今すぐその口を塞いでやってもよかったが、彼女が何を言いたいのかも少しだけ気になった。クロエは過去を暴かれる不快感を無視しながら一旦銃を下ろした。
イギリスの片田舎にある何の変哲のない家庭で生を受けた彼女は、生まれてすぐに、『奇跡の子』としての才覚に目を付けた《教会》の手によって両親を殺害され、拉致された。
主導者は、当時の《九耀の魔術師》の一柱だった男――“黒白楼主”の手によるものだった。
英才教育と言えば聞こえは良かっただろう。
しかし、実際にクロエに施されたのは『洗脳』と呼ぶべきおぞましき所業だった。
そして彼女は“黒白楼主”の命に従うこと以外、存在理由を見出すことができない哀れな傀儡と成り果てた。
麗風の口から語られたクロエの生涯は、概ね正解と言えるものだった。
「貴様の生涯は、最初からすべて『絶望』に彩られた……いや、その『絶望』すら感じることもできない地獄を味わってきたはずだ。……だというのに!!」
麗風からしてみれば、クロエの人生は自分と同等……もしくはそれ以上の悪夢と呼べるものだった。敵味方の関係でなければ、同じような道を歩んできた者として、彼女の生涯に同情すらできたことだろう。
「どうして貴様は絶望しない! どうして世界を憎まない! 幸福などあり得なかった人生に、どうして貴様は向き合っていられる!!」
怒りと悲しみをごちゃまぜにした叫びが雪空に弾けた。
似た者同士である2人の生き方には、決定的な差異があった。
麗風は、いくら懸命に生きようともいずれは絶望に打ちひしがれる世界を憎悪し、その世界を破壊し尽くすと心に決めた。
だが、クロエはそうではなかった。
確かに絶望ばかりの生涯だった。こんな世界が憎いと、壊れてしまえと思ったことだって一度や二度ではない。
「もし飛鳥さんと出会うことがなければ、きっと私も、貴女と同じ道を選んでいたことでしょう。でも……あの人のそばにいると、なんだか自分が恥ずかしくなってくるんです」
想い人の顔を思い浮かべながら、クロエは苦笑をこぼした。
自分ひとりのままだったら、おそらくほぼ100%クロエは麗風の言い分に共感できた。
こんな人生、こんな世界に、一片の価値も見出すことはできなかったことだろう。いや……今でもそう思っている。
「私は多くの罪を犯しました。誰からも愛されず、ただこの手を血で汚し続けてきただけの、生きる価値などない哀れな魔女です」
死ねと言われれば別に構わない。
そう本気で思えるほどに、クロエは何もかもを諦めていた。
「けど、私は見てしまったんですよ。私よりもずっと弱いくせに、どんなに辛くても、どんなに傷付いても、絶望に立ち向かってくる人の姿を」
それはまるで、おとぎ話の英雄譚。
悪い魔女を退治するために立ち上がった勇者さまは、どんな勝ち目のない戦いでも絶対に諦めなかった。
「どれだけ、どれほど叩き潰しても。その人は立ち上がって言ってくるんです。……家族を、友達を、傷付けさせやしないって」
一番傷付いているのはその人自身だったというのに。
いつだって彼は、自分より他人の心配ばかりで。
「力ばかりあっても、それを誰かを傷付けることにしか使えなかった私にとって……力なんてなくても、誰かを守るためにずっと戦ってきた彼の姿は眩しすぎたんです」
絶望してもいい。
誰かを憎んでもいい。
だけど、その気持ちにばかり甘えるな。
「私はね、そんな自分に甘えるのをやめにしたんです。辛いことも悲しいことも、すべて私の人生です。だからといって逃げ出すのでなくて、歯を食いしばってでも進み続ける尊さを知ってしまいましたから」
ここまでの独白を、ただその場で黙って聞いていた麗風は……呆れと失望で大きな溜め息をこぼしていた。
「……貴様に聞いた私が愚かだった。要するに、破壊に狂った魔女は人の心を取り戻したのではない。今度は恋に狂っただけということか」
「否定はしませんとも。私とて真っ当な人の心を持っているとは思っていませんし、単に……」
麗風は嘲りのつもりで言ったのだろうが、クロエにとってはむしろ褒め言葉だった。
今の自分が生きる意味。戦う理由。
それを最もシンプルに、的確に表現してくれたのだから。
話は終わりだと言わんばかりに、クロエは目を細めながら双銃を構えた。
「飛鳥さんの敵は、私がすべてこの手で撃ち滅ぼす。そう誓っただけのことです」
恋に溺れた愚かな魔女と、笑いたければ笑うがいい。
それこそが私なのだと、胸を張って答えてやろう。