―第149話 Witchcraft Phantasm ①―
クロエ=ステラクラインは雪が嫌いだった。
目を閉じれば嫌でも思い出す。
純白に積もった地面が、ぽつりぽつりと赤い斑点で染められていった、あの日のことを。
誰だったか、かつてのクロエを染まらない白と呼ぶ男がいた。
「そなたは無垢なままであれ。何色にも染まらず、ただただ純粋な白であれ」
汚泥にまみれようと、鮮血の赤にその身を浸そうと。
彼女はずっと、ずっと、染みひとつない純白だった。
それが正しいことなのか、誤っているのか。
かつての彼女には知る術などなく――いや、正否を考える発想自体が存在しなかった。
だから、今になっても彼女には分からないのだ。
――私は、いったい何色なのですか?
ずっとずっと、求められたままの白であり続けるべきだったのか。
それとも……彼女の心が求めるままに。
――あなたの色に、染めてほしい。
その時、彼女は本当にクロエ=ステラクラインと呼べるのだろうか。
無垢とは即ち、からっぽだ。
何色にでもなれるということは、何色でもないということだ。
誰かに色を乗せてもらわないと、何色にもなれない空虚なキャンパスだ。
時間を少し巻き戻そう。
飛鳥の背後から強襲してきた麗風に対し、クロエは稲妻を超える速度で仕掛けていった。
双銃剣“クラウ・ソラス”を正面で×の字に重ね、麗風の双刃剣にぶつけてそのまま押しこむ。それと同時、加速の術式を起動。ブーツの底に小さな魔術陣を展開させ、距離にして数百m――音すら置き去りにする速度で、瞬時に飛鳥たちの目が届かない場所にまで移動していた。
「貴様ぁ……」
地獄の底から響き渡るような怨嗟の声。
聞けば誰もが恐怖で身をすくめ、泣いて許しを乞うであろう鬼の怒りを意にも介せず。
一切の躊躇もなく。
一切の苦悩も必要とせず。
(ぶち殺してやる……)
劉麗風という存在の完全なる消滅。
その結論を、クロエはまるで買い物にでも行くような気軽さであっさりと決定付けた。
頭に血が上っているわけでも、歯を剥き出して憎悪をぶちまけるわけでもない。
理性も本能も、満場一致で同じ意思表示をしていたのだ。怒りに身を委ねようとも脳内はいたってクリアな状態を維持し続けていた。
「汚らわしい魔女め、私に……触れるなぁっ!!」
「……」
麗風が力任せに剣を振ってくるが、感情的になりすぎて、いくら稲妻の如き速さであろうと躱すのは造作もない。
クロエは術式を解除し、高速の世界から瞬時に帰還を果たす。鍔競り合いが緩んだと同時に右脚を高く上げ、がら空きになった麗風の腹に軍用ブーツの固い底を打ち付けた。
「ぐ、ぬぁっ!?」
「ふっ……!!」
優雅さの欠片もない、まさしくケンカキックそのものの格好だったが、飛鳥の目がない以上そこまで体裁を気にするつもりもなかった。
苦悶の声を浮かべる麗風にすべてのGを押し付けるように、蹴り足を一気に前へと押し込み、吹き飛ばす。チャイナドレスの姿が小さめの倉庫に激突したのを視界の端で見届けつつ、クロエは運用試験場の中央にひらりと降り立った。
相手が立ち上がるまでの間に、少し息を整えようとするが、
「よくも……この私を足蹴にしてくれたなああああアアアアアッ!!」
稲光を撒き散らしつつ発狂する麗風の姿を見て、即座に認識を改めた。
一瞬の呼吸、一瞬の動作がそのまま命取りになる。
人間が指先を少し動かすための、脳からの電気信号が届くまでのわずかな時間とは。
雷電を操る劉麗風にとっては、敵の心臓に刃を差し込むまでの時間と同等なのだ。
(……来ますか)
右手の銃剣を頭上に。
それと同時、 “クラウ・ソラス”の銃身から衝撃とわずかな痺れが伝わってきた。
「なにっ……!?」
「今朝がたにも言ったはずですよ? 遅いと」
文字通り稲妻と化して瞬時に距離を詰め、双刃剣を振りおろす麗風の動きは、クロエにとっては見えずとも分かっていた。
いかにクロエが《九耀の魔術師》と言っても、雷の速度で移動する物体を視認するのは不可能だ。いくら術式で反射神経や運動速度を強化してもどうにもならない。
だから、クロエは肉体ではなく思考を加速させたのだ。
光子魔術展開式10“虚銀の世界”。
1秒の世界を100秒に、100秒の世界を10,000秒に拡大させる生体加速の術式。
全身の神経や脳細胞にすさまじい負荷をかけてしまうため乱発はできないが……こうやって相手が攻撃する瞬間を見計らって発動すれば、
「無駄ですよ。いかに貴女が雷と同等の速度で斬りかかろうと、私はそれを光の速さで認識し、対応します」
地上最速の『見切り』の達人が誕生する。
雷光煌めく双刀を涼しげに受け止めながら、クロエは眼前に迫った麗風の顔にわざとらしい冷笑を浮かべた。
「知ったような口を、私を舐めるのも大概に―」
「残念ですが、無理な相談です」
犬歯を剥き出しにして飢えたの狼のような形相を見せる麗風をよそに、クロエは予備動作など少しも見せずに腰を落とし、チャイナドレスのスリットから肌色を露わにした左脚のすねに蹴りをひとつ。
「あ、がぁっ!?」
「例え人工英霊だろうと、痛みにまでは強くないようですね」
泣き所をブーツの先端で思い切り叩かれる激痛は、いかに超人とはいえそう簡単に耐性など付きはしない。
クロエに言わせれば、麗風は慢心しきった新兵のようなものだ。
人工英霊になって「私は誰にも負けない」「どんな相手にも傷を付けられることはない」という増長が、魔術を除けば常人レベルのクロエの体術に翻弄されるなんて失態を演じたのである。
痛みに耐えかね、思わず後ろにじりじりと下がる麗風を追撃するのは容易かった。だが、半ば勘でしかない反射行動により、クロエはあえて後退を選択していた。
「ぐらあああああああっ!!」
「ちっ……」
バックステップで後ろ向きに飛んだクロエが立っていた場所に光の柱が突き刺さっていた。
あのまま前に行っていたら、全身もれなく灰となって消えていたことだろう。
侮りが過ぎたか、とクロエは先程までの余裕綽々だった自分を叱咤した。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すっ!!」
双刃剣を頭上で風車のように回転させはじめたかと思うと、その周辺に稲妻の弾幕が撒き散らされた。
狙いも何もない無差別攻撃。
雷が着弾するまでの予備動作がない上、相手がどこを狙っているか意識もしていない以上、これでは“虚銀の世界”で思考を加速させても見切って躱すことはできない。
できることは、とにかく距離をとって雷の射程外から攻撃するのみ。
双銃を正面に構え、全弾発射。
銃口から飛び出していったのは鉛玉ではなく、自身の魔力を結晶化させた光子弾。弾倉の中に生成するには数秒の時間が必要なため、無制限に連射はできないが、少なくとも弾を交換するといった無駄な動作を行う必要がないのが強みだ。
「無駄なあがきを、するなあっ!!」
だが、迸る電気の蛇がその光弾をすべて食らい尽くしてしまうため、麗風本体にまで届かない。
工業施設に風穴を空ける火力を持つ術式“月下輝刃”であれば、稲妻の結界もろとも光の彼方に消し飛ばすことができるが……
(こうも日の光を遮られては……!!)
飛鳥に申告していた通りの懸念が、ここになってクロエの首を絞めることとなる。
遍く光を制御下に置く光子魔術展開式は、確かに《九耀の魔術師》の中でもトップクラスの火力と万能性を持つ恐るべき魔術だが、それだけに行使するには大きな制約が存在する。
光子魔術展開式の力の源は光。
普段、クロエはその力を太陽の光から供給している。
先の光子弾や一部の術式であればわずかな光でも発動は可能だが、『サイクロプス』を貫通した“月下輝刃”や、傀儡聖女ミストラルの全身を蒸発させた“天蓋穿つ滅輝の柱”といった大規模術式は、基本的に晴天時にしか使えない。
(やはり、無傷で勝利とはいけそうにありませんね)
クロエが飛鳥から離れて戦闘を行ったのには、2つの理由がある。
1つは、飛鳥を傷付けられた怒りに狂う自分の姿を見てほしくなかったこと。
2つ目は、おそらく無事ではすまない傷を負うであろう自分の姿に、飛鳥が心を痛めてしまうことを避けたかったからだ。
「私は……無敵の魔女なんですから」
クロエはそう小さく口にして、自分自身に言い聞かせる。
心配なんてしてくれるな。
私なんかのために心を砕かないで、貴方には貴方の道を行ってほしい。
矛盾した思いだと自覚はしている。
誰よりも彼のそばにいたいというのに、実際は自分から彼を遠ざけるような真似ばかり。
「逃げるな魔女めが! 貴様はここで灰となる運命だぁっ!!」
距離をとり続けるクロエに業を煮やした麗風が、落雷の嵐を止めて飛び掛かってくる。
電光もかくやの速度で一気の間合いの中に入ってきた麗風と、それに動揺することなく淡々と認識したクロエの視線が交錯した。
「ここで朽ち果てろおおおおおおっ!!」
「《九耀の魔術師》を、舐めるなあああああああっ!!」
互いの剣閃が激突し、放たれた光と雷が運用試験場を更なる白へと染めていく。
喪失の苦しみに暴れ狂う雷神に、喪失の恐怖を断つために魔女が立ち向かう。
この戦いに、正義も悪もありはしない。
交錯するは、狂おしいまでの激情ばかり。