―第135話 白き御旗を掲げよ ⑤―
色付いた紅葉の葉っぱが、いたずら好きの子供の手でちぎり取られてしまう――そんな最悪のイメージが、霧乃の脳裏を駆け抜けた。
「なにを……何をやってんのよ、あんたはぁっ!!」
普段とはまるで逆のやり取りだ。
無遠慮に、無秩序に場を引っかき回す霧乃を、規律にうるさい綾瀬が拳と言葉でたしなめる。そんな駆けあいが日常だったというのに、
「黙って見ているにも飽きが来ましたから。それに……何もせずに傍観しているだけなど、日野森の女としての名が廃りますので」
今ではそんな霧乃が、無謀な行いに出た綾瀬の正気を疑っている有り様だ。
超然とした態度を崩そうともしない日野森の女に業を煮やした黒の魔女は、つかつかと彼女の目の前まで歩み寄り、その胸ぐらを思い切り掴み上げた。
「そんな下らない冗談を言うためにこんな場所まで出てきたって言うつもり? それとも自殺志願? どっちにせよ目障りだからさっさと逃げなさい」
「お前の指示に従う理由がどこにあります? お前の不甲斐なさに呆れて出てきてやったのです、むしろ感謝されて然るべきでしょうに」
ああ、どうして、こんな時まで。
この女はここまで堂々としていられるのか。
考えなしの命知らずな彼女の態度が腹立たしくて、憎たらしくて。
力の無い彼女にこうまでさせた自分の無力さが情けなくて、悲しくて。
言葉にできない感情を怒気に乗せて、霧乃はここが戦地の中心であることも忘れ、叫んだ。
「いいからさっさと逃げろって言ってんでしょうが! 戦えもしないあんたがここにいても迷惑なのよ!!」
頼むから、馬鹿な真似はやめてほしい――大切だからこそ、霧乃は長年の親友に向けて怒りをぶつけていた。
なんとなくでしかないが、戦闘能力を持たない綾瀬が何をしようとしているのか、おおよそ検討がついてしまっていたのだ。
――ふわり、と。
綾瀬の白く、細い、戦いを知らない綺麗な指が、服を掴んでいた霧乃の手に重ねられる。ゆっくり、ゆっくりと。労わるように、慈しむように掴んだ手の指が解かれていった。
「どきなさい」
あまりに優しい言霊だった。
力が入らなくなり、霧乃はだらりと腕を下ろしてしまう。
止められない。そう思ってしまった時点で霧乃の負けだった。
「貴方は確か……シグルズ様、でよろしかったでしょうか?」
選手交代、と言わんばかりに綾瀬は金色の獅子の前に立った。
綾瀬とて勇気と無謀の違いくらいは弁えている。
今から行うことが、少なくとも『勇気』と捉えられることはないだろうと、彼女は正しく理解していた。
無論、シグルズとてそんなことは一見して看破している。
実は彼女がシグルズに匹敵するほどの力の持ち主だった、実はとんでもない隠し玉を持っていた――そんな御都合主義な展開などありはしないと、この場の誰もが確信していた。
「おうよ。で、そういうアンタは誰なんだい? わりぃが、俺は強い奴以外には興味ねぇもんでよ、会ったことがあってもすぐに忘れちまう」
単なる好奇心で、シグルズは問いかける。
このまま手の一振りで縊り殺すのは簡単だろうが、シグルズはこの窮地に至って単身飛び込んできた綾瀬の真意に興味を持っていた。
「申し遅れました、日野森綾瀬と申します。私は、高嶺和真――その妻にございます」
「タカミネ、カズマ……く、くひゃははははははははははっ! おいおいマジかよ、まさかこんな所であいつの名が聞けるたぁ思わなかった!!」
思いがけない名前が出て、シグルズは感極まった様子で高笑いをあげた。
高嶺和真。
この名は、この場にいる3人全員にとって離しがたい因縁のある人物の名だった。
綾瀬にとっては、言わずもがな最愛の夫の名であり。
霧乃にとっては、学生時代からの腐れ縁。
シグルズにとっては、忘れがたき宿敵であり、また、唯一の希望でもあった。
「そいつぁ何とも奇妙な縁だ。で? その様子だと、嫁さんであるアンタも和真の居場所は知らなそうだな?」
「私もあなた様に同じ質問を申し上げるつもりでしたが……なるほど、そうですか」
しかし、渦中の男はこの場にはいない。
4月にこの学園で飛鳥達が巻き込まれた事件以降、その行方は依然として知れないのだ。
もしかすると――そんな期待を半分に、綾瀬はシグルズの前に身を投じていたが、どうやらお互いに空振りだったようだ。
心底残念そうに息をついたシグルズは、仕切り直すように歯を剥き出しにして綾瀬に笑いかけた。
「ま。いない奴の話をしてもしゃあねぇわな。それで、ここからアンタはどうするつもりなんだい? ただの人間風情が決死の覚悟で立ち向かう――そんなお涙頂戴な展開をご希望かい?」
肉食獣のごとき狂相が目前に迫っても、綾瀬は一歩もたじろがず、表情を歪めることすらしなかった。
怖くないわけがない。逃げ出したくないわけがない。
だが、この時点で綾瀬は既に死兵だった。
冷たい雪の絨毯に膝を着け、腰を下ろし、裸の手の平を濡れた地面に押し付けた。
「私を差し上げます。どうかそれで、この学園にいる者たちの命だけは、ご容赦いただけないでしょうか」
……しんと、すべての音がこの場から消え去った。
単なる座礼と言われてしまえばそこまでだ。だが、身も凍る積雪の中に躊躇なく座り込み、着物が土と泥に汚れるのも構わずに頭を下げるその姿は、見る者すべてを黙らせる不可視の『力』に満ちていた。
深々と腰を折った綾瀬の姿に耐え切れず、霧乃はその静寂を破り捨てた。
「綾瀬えええっ!!」
綾瀬と長い付き合いである彼女はよく知っていた。
日野森綾瀬はとんでもなく矜持の高い女で、一度こうと決めたらどれほど目上の相手だろうが恐ろしい敵であろうが、慇懃無礼な姿勢を崩すことは決してない。理事長という大役を担いながら、途方もなく世渡りが下手な高飛車だったのだ。
だが……いや、だからこそか。
正しいと信じたことを貫くためであれば、どれほど矜持を折られようが、屈辱でその身を汚されようが構いはしない。
すべては白鳳学園理事長として。大切な生徒達を護るために。
「おうおう、堪んねぇな。アンタみたいな別嬪さんにそこまでお願いされちゃあ、無碍にはできんわな。それに……この場で自分の女を嬲り殺しにされたら、流石のアイツも出てくるかもしれねぇしな?」
しかし、いくら礼を尽くしたとて、相手は人の情などとうに捨て去った獣だ。
わざとらしく舌舐めずりしてくるシグルズ相手には、そんな誠意など路傍の小石と同じように蹴飛ばされてしまう。
それでも、綾瀬は大地に額をこすり付けたまま、その姿勢を崩さなかった。
「何卒、私の身ひとつでご容赦くださいませ……」
シグルズの丸太のように太い腕が無防備な綾瀬の背中に伸ばされると同時、激情に駆られた霧乃は“小烏丸”を手に疾走を開始していた。
「そいつに手ぇ出すんじゃねええええええええええええっ!!」
それを待っていた、と言わんばかりに霧乃の方へ向き直ったシグルズは、伸ばした手をあっさりと引っ込めた。
まずい、と霧乃が気付いた時にはもう遅い。
本来、影を利用して敵の視覚外から一方的に攻撃するスタイルの霧乃にとって、正面からの鍔迫り合いなど愚中の愚策だった。
シグルズが着た無骨なコートを貫き、“小烏丸”の刃は確かに届いた。
しかし、“覇龍顕現”――龍の鱗に例えられる耐久性の前には彼の表皮を傷付けることすら叶わなかった。
逃げ場のない接近戦、通じることのない刃。
それ即ち、先のクラウが辿った結末とまったく同じ――
「あ、がああっ!?」
「霧乃っ!?」
潰される。
霧乃が無策で飛び出した時点でその未来は確定的だったのだ。
すぐさま距離をとろうとした霧乃の首元が瞬時に掴みとられ、頭上に高々と吊り上げられた。
「じゃあな“黒の魔女”。じきにそこのお友達もあの世に送ってやるから寂しくねぇだろ?」
「ふざ、けん――」
シグルズは安っぽい止めの台詞と共に会心の笑みを浮かべていた。
今にも暗転してしまいそうな意識の中、霧乃の視界の端にちらりと見えた姿――絶望を貼り付け、今にも涙が零れ落ちそうになっていた親友の顔を見て、
(アンタみたいな冷血女に涙は似合わないってのよ……バーカ)
「逃げろ」の一言を口にする余裕もなく、消えゆく意識の中でそんな憎まれ口を叩くことしかできなかった。
さて、綾瀬のとったこの行動は、結果だけ見れば、不用意に霧乃の足を引っ張ったことになり、彼女を絶命の危機にまで至らせた遠因となってしまった。
だが、綾瀬がこの場に姿を現した理由は3つある。
ひとつは、高嶺和真の行方を確認すること。
ふたつは、自分の身を差し出すことでの戦闘の終結。
そして、3つ目。
『そこまでだ金髪オヤジぃ! その手を離しやがれええええええええっ!!』
3人の頭上から降り注いだのは、甲高い男の叫び声と、至近距離で飛行機でも飛んでいるのかと錯覚させるほどに喧しいジェットエンジンの爆音だった。
「なんだぁ? ……おいおい、ここでまさかの白馬に乗った騎士様のご登場ってわけか!!」
声を受けたシグルズは、もう用はないとばかりに無造作に霧乃を横へ投げ捨てた。
既に金色の獅子の眼中には、上空から舞い降りる『騎士』の姿しか映っていなかった。
「なんとか、間に合ったようですね」
地面に打ち捨てられた霧乃に駆け寄り無事を確かめながら、綾瀬は駆け付けた援軍を複雑な気持ちで見上げていた。
全長は6m近く、全身を特殊合金の装甲で覆った鋼鉄の巨人。
純白の色合いとバックパックに背負われた二振りの長大な剣が、その姿を『白い騎士』のように演出していた。
喜ばしい援軍ではなかったのかもしれない。
結局のところ、自分は手を汚すことなく生徒たちにばかり戦う役目を押し付けてしまったのだから。
「あれが、“ホワイトフラッグ”……」
重厚な金属音と共に大地に降り立った機械仕掛けの騎士の名は、正しく『白旗』であった。
だが、それは降伏の意思を示すものでは断じてない。
すべての敵がいなくなれば平和が訪れる――そんな真逆の真理によって生み出された、偽りの平和の担い手だった。