―第115話 7月7日 夏の始まり、始まりの終わり ④―
「飛鳥さん、絶叫系は苦手だったのですね」
「お恥ずかしながら……うえぇ」
プールでひとしきり遊んだあと、せっかくなので遊園地内のアトラクションを巡ってみようか――その思いつきが飛鳥の命取りだった。
普段、炎の能力でジェット噴射や空中走行といった大立ち回りを命綱無しでやっているにも関わらず、遊園地のジェットコースターには驚くほど耐性が無かったことが判明。
「飛鳥さんが悲鳴をあげるところなんてはじめて見ました……ふふっ」
男の面目丸つぶれ、といった心地だった。彼女に笑われてしまったのも当然である。
ジェットコースターが終わった後、ふらつく足取りで転げ降りながら、激しい乗り物酔いに耐え切れず近くにあったベンチに倒れ込んでしまっていた。
そして、極め付けが、
「す、すいません、重くないですか?」
「いえいえ、なんてことありませんよ。気にせず楽になさってくださいね」
膝枕である。
クロエは膝の上にのせた飛鳥の頭を、慈愛に満ちた優しい手つきでゆっくりと撫でてくれていた。
こんなはずではなかったのだ。
本来なら男らしく最後までこちらがリードして、頼れるところを見せていきたかったのだが……随分と空回りしているな、と今更ながら痛感する。
後頭部から感じるふとももの柔らかさを極力意識せず、飛鳥は憎らしいほど晴れ渡った青空に目を向けた。
「私は、今すごく楽しいですよ」
「クロエさん?」
「何やらお悩みだったようですので。上手くエスコートできなかったとか、不甲斐ないところを見せてしまったとお考えなのではありませんか?」
すべてお見通しですよ、と言わんばかりに彼女の碧い瞳が飛鳥を見据えていた。
ぐうの音も出ないほどに正解だった。まったくどうして情けない、と飛鳥は更に自己嫌悪。
「あぁ、ごめんなさい。責めているわけではなくてですね。今日、こうやってデートにお誘いいただいて、普段とは違う飛鳥さんのいろんな一面を見ることができて。……本当に楽しくて、嬉しく感じています」
不甲斐なくたって、情けなくたっていいではないか。
それは紛うことのない貴方の『素顔』なのだから。
そして、そんな一面を見せてくれているという事は、それだけ信頼されているという証左でもあると――クロエはそう主張する。
「……俺、クロエさんには一生敵わない気がします」
「奇遇ですね。私も飛鳥さんに対してまったく同じことを考えていますよ?」
2人して、くすくすと笑う。
何も言わなくても通じ合えている、この感覚が心地よくて。
乗り物酔いはとっくに治まっていたけれど。
もう少しだけ、と飛鳥はゆっくりと目蓋を閉じた。
夕方ともなると、7月とはいえ少しばかり肌寒い。
七夕祭りの会場である青砥神社への通り道――夕焼け色に照らされた海を隣に、海岸通りを遅めの歩調で歩く。
「あ……しまった。夕飯作り置きしてくるの忘れた」
口の堅いリーシェには、先んじて家を出る時に帰りが遅くなることを伝えていたが、夕飯をどうするのかを完全に失念していた。
そもそも、いつ頃家に帰るのかもはっきりしていない、出たとこ勝負のスケジュールだったため、あまり留守番組の子達を気にかける余裕がなかったのだ。
「あの子たちはあの子達で遊びに出ているそうですから。きっと外で何か食べてくるでしょう」
阿吽の呼吸のように、飛鳥のミスにフォローを入れるクロエの声。ほとんど熟年夫婦のかけあいだった。
鈴風もいることだし大丈夫だろう、と飛鳥は結論づけることにした。
ちなみに真相は――
「リーシェさん、エントちゃん。さっさとこの粗大ごみどもを回収してお帰りなさい。いくらかお金を渡しておくので、夕飯は自分たちで何とかするように。……いいですね?」
「い……イエス、マム!!」
「マ、マーム! なのじゃ!!」
プールの更衣室でこんな闇取引が行われていたなど、お釈迦様でも分かるまい。
そんなこんなで(食事面でも邪魔されないという意味でも)心配無用ということである。飛鳥に見えない角度で昏い笑みを浮かべるクロエだった。
「それにしても、お祭り……楽しみですね」
「はい。でも……どうせなら浴衣を準備してくるべきだったでしょうか」
「それだったら、来月に家の近所で花火大会がありますし、その時に着ていきましょうよ」
「本当ですか! ぜひぜひ♪」
水着アピールだけに満足するつもりはない。
来月は、浴衣と花火で熱烈アタック作戦に決定ですね――だいぶいい感じに暴走してきたクロエの脳内は、もうひと夏のアバンチュール計画でいっぱいだった。
「それにしても……やけに寒いですね」
「……確かに。クロエさん、よかったらこれ羽織っていてください」
クロエが感じた違和感を口にすると同時、飛鳥から脱いだ上着を差し出してきた。
――おいおい、これはなんてご褒美なんだい?
条件反射で飛び出そうになった言葉を必死に押しとどめた。
「あ、ありがとうございます。飛鳥さんは寒くないのですか?」
「伊達に炎の使い手やってませんから。これくらいならへっちゃらです」
彼の着ていた白地のシャツを受け取り、袖を通してみる。当然ながらぶかぶかで、手が袖の途中までしか届かなかったものだから、まるでおばけみたいな手の形になってしまっていた。
ちなみに。クロエは当然知らないが、これを俗に『甘えんぼ袖』と言う。
「ぎ、ギャップが……!!」
不覚にもちょっとかわいいと思ってしまった飛鳥は、にやけ笑いを隠そうと明後日の方向に顔を背けていた。
――さて、そんな第三者が見たら砂糖を口から吐き出しそうなラブコメ風景は置いといて。
「その……クロエさん。クロエさんは、卒業後はどうするのか、決めているんですか?」
それは、ふとした疑問であり、2人の関係を大きく揺るがしかねない一言だった。
クロエの表情が急速に冷え切っていくのが目に見えて確認できた。飛鳥も自然と背筋を張って彼女に向き直る。
「どうして、そんなことをお聞きになるのですか」
「卒業まであと半年そこそこってところです。もう遠くない未来のことですから、いつかははっきりさせないとって思って」
今日のデートを通して、飛鳥はひとつの決意を固めていた。
愛の告白――はひとまず棚上げするとして、飛鳥とクロエのこれからについてだ。
今のようになあなあな関係のまま、いたずらに毎日を消化していては、いつか来る『決断』の時に、何もできないまま終わってしまいそうに感じたのだ。
いつ、どこで、何を決断すればいいのか――それすらも曖昧なままではあるが。このままではいけない、と考えたのは確か。
「俺だって、卒業した後のことなんてまるで想定していません。大学に行くのか、それとも《八葉》で本格的に働くのか、それとも別の選択肢はないのか……全然定まっていない状況ですし」
「…………」
クロエは下を向いて黙りこくったままだった。辛そうな表情にちくりと胸が痛むが、ここで退いたら今までと何も変わらない。
いつか、必ず『選択』の瞬間はやってくる。刹那的な生き方で、ただ目の前にある『今』だけを謳歌しているわけにはいかない。
2人に残された時間はけして多くはないのだから。
唇を震わせ、何かを口に出そうとして踏みとどまるクロエの気持ちも分かるから、なおのこと痛ましい。
「今、こうやって皆と馬鹿やって、楽しく過ごせるこの瞬間がいつまでも続けばいいのにって……そう思うこともあります。それはそれで、きっと幸せな生き方だろうし、文句のつけようもない」
平穏な日々を、平凡な毎日を――戦火飛び交う死地を何度も潜り抜けてきたからこそ、この何気ない日常が堪らなく愛おしい。
ああ、だけど――
「それでも、俺たちは今のままあり続けることなんてできないから。本当の意味で、前を向かなきゃならない時が、必ず来ます」
ただ当たり前の事実として、終わりが来るから『今』なのだ。
クロエが飛鳥の家に居候し、ただひとりの学生として生活を送る――この今の環境は、その実極めて危ういバランスの上に成り立っている。
飛鳥も、クロエも、ともに人工英霊と《九耀の魔術師》という、一挙手一投足が世界に多大な影響を与えうるキーパーソンなのだ。
彼らの力や立場を利用しようと、いつ、どこから、誰が干渉しにきたとしても不思議ではない。明日になったらこの街に、世界中の軍隊や魔術勢力が群雄割拠して押し寄せてくる可能性とて存在し得るのだ。
だから、自分達はこれから起こり得る『未来』から目を背けるわけにはいかない。飛鳥はそういった意味合いでこの話を切り出したのだが、
「……そんなに、いけないことなのですか? 飛鳥さんや、みんなと一緒に、ただ何事もなく生きていたいと……そう願っては、いけないのでしょうか?」
彼女の瞳から零れ落ちるものを見て、心臓を鷲掴みにされたようだった。
茜色に輝く水面を背に、祈るように両手を組んだクロエに、飛鳥は返す言葉が見つからなかった。
「私が卒業したら、《九耀の魔術師》としての責務を果たすため、イギリスに戻らなければならない。……分かっているんです。どんなに目を背けても、忘れようとしても、その未来が覆ることなんて絶対にないことくらい」
前を向いたとて、彼女に待ち受けるのは孤独と苦難の道のりと決まっている。
ならば、せめて――今にしかないこの大切な瞬間達を、ひとつひとつ、胸の奥に抱いていたかった。
この先、もう二度と経験することができない今日という日々を、がむしゃらにかき集めて。
――ぽつりと、飛鳥の頬に冷たいなにかが触れた。
「これは弱者の考えだと――単なる猶予期間が終わることを恐れる、甘えた子供の発想なのだと、理解もしています。……だけど!!」
溢れる涙を拭おうともせず、クロエは初めて、飛鳥に負の感情を吐き出した。
「人並みの幸福を願うことすら許されないだなんて…………そんなこと、貴方にだけは言われたくなかった!!」
「――っ!?」
心からの叫び、自分を慕ってくれた少女からの悲痛な声が、飛鳥の胸の奥を深く、深く貫いた。
ここで飛鳥は、自分がとんでもない思い違いをしていたことに気付く。
無意識のうちに、飛鳥はクロエのことを「身も心も強い女性である」と、何の根拠も無しに決めつけていた。《九耀の魔術師》、学園の生徒会長といった外側からの情報に踊らされ、いつの間にか錯覚していたのだ。
クロエ=ステラクラインは、まだ17の年端もいかない女の子なのだという、当たり前のことを見失ってしまっていた。
――何をしている。黙りこくったままでいい筈があるまい。
――今彼女がお前求めている言葉は、行動は何なのか――今すぐ導き出して今すぐ動き出せ!!
――取り返しがつかないことになる前に、早く!!
金槌で叩くかのような衝撃で、頭の中の理性が必死に現状の打開策を要求してくる。
思いつかない、見えてこない。彼女の涙を止める方法が、今の錆び付いた思考では出てくるとは思えなかった。
「く、クロエさ――」
何とか絞り出した声と共に、クロエに手を伸ばそうとしたところで――
「え……?」
しんしんと、しんしんと。2人の間に『雪』が舞い降りていた。
この有り得ない光景に、2人して茫然と空を見上げる。
それは見渡すばかりの『白』の結晶。
夏の夕暮れ、七夕の夜を彩るのは、満面の雪景色。
「寒い……」
クロエが羽織った飛鳥のジャケットを両手で抱きしめるのを見て、飛鳥はようやく我に返る。
真夏に降る雪という異常気象、加速度的に低下する気温。
これは即ち、次なる戦いの始まりに他ならず。
(まさか……これは、お前の仕業なのか……)
クロエのために伸ばそうとした手を止め、血が滲むほどに拳を握り込む。
自分の理解の無さを、不甲斐なさを今は棚上げしなければならない――その原因たるこの雪空を見上げ、飛鳥は――
これにて、少年少女達の日常はひとまず幕引き。
少年の想いも、少女の涙も、すべてはこの雪が覆い隠していく。
さあ、人よ。世界よ。
遍くすべてを真白に染め、痛みも悲しみも、何もかもを忘れて眠るがいい。
抗えぬ者に『未来』はなく。
戦わぬ者に『進化』はない。
長かった番外編もこれにて終了。
次回より第4章『氷夏』が走り出します!!
物語の最初の方にしか出てこなかったあいつとかあいつとかがやっとストーリーに絡んでくる……