―第114話 7月7日 夏の始まり、始まりの終わり ③―
昼食はショッピングモール内のある、人気のイタリアン料理のお店でとることにした。
食べ物の好き嫌いが少ないクロエとしては特にどこでもよかったのだが、
「俺にはまだ洋食系のレパートリーが少ないので。ここは勉強がてら、付き合ってくれませんか」
本格的なパスタ料理を作れるようになりたいから、という飛鳥の要望で決定したのだ。
おそらく、料理の勉強というのは後付けの理由だ。お店選びをクロエに丸投げするのではなく、自分がエスコートしてあげたいという意識の現れだったのだろう。変に気を遣われたくなかったので、自分のわがままでと言って押し通したのだ。
(あぁ、もう、かわいいなぁ……)
そんな分かり易い、でもついつい嬉しくなってしまう心遣いに思わず破顔する。
命の恩人だとか、警備組織の隊長を務める若き俊英、といったフィルターを抜きにして、ひとりの年下の男の子として飛鳥を見たことはなかなかない。
2人で歩いている時にも感じていたが、彼は周りの女性から向けられる視線にやたら鈍感のようだ。
知らぬは本人ばかりなり。
人工英霊になった影響で変色した朱色の髪と瞳のせいで、飛鳥は一見すると近寄りがたい印象を与えている。だが、整った顔作りでいつも穏やかで理知的な表情を浮かべる彼の魅力は、こうやって近くで見るからこそ分かるものだ。
人の上に立つ者として、弱音を吐かず常に皆を引っ張っていく大きな背中。
『みんなのお母さん』なんて渾名を付けられてしまうくらいに、世話焼きで皆から頼られるところも。
それでいて、今日みたいにひょんなところで、照れ屋で素直な子供っぽい一面も見せてくれる。
そんな強さも弱さも愛おしい。本当に、クロエ=ステラクラインは日野森飛鳥のことが大好きだと、胸を張って主張できるのだ。
(でも、それは本当に許されることなのでしょうか)
その想いの強さに比例して、クロエの胸の内がずきんと痛む。
言い訳など今更するつもりもないが――1年前のバレンタインデー、飛鳥と初めて出会った日。あの忌まわしい過去の闇が、クロエの頭を強制的に冷ましていく。
好きだと? 愛おしいだと? 自分の意思などなかった操り人形が、よくもそんな人間みたいな感情を持てたものだ。
恋だの愛だの、お前にそんな資格があると思っているのか? ましてや――
――その手で殺した相手を愛するなど、狂っているとしか思えない!!
今の自分は、本当に人間として正しい『モノ』になれているのだろうか。
人形が人に『成る』など……あまりに烏滸がましい行いではないのだろうか。
(でも、それでも……)
クロエは今の、陽だまりのような毎日を心底愛していた。宝石箱に入った無数の思い出たちを壊されたく――いや、壊したくなかった。
自分の中にある光も闇も、すべて飛鳥に打ち明けようと思ったことは一度や二度ではない。
けれど、そうするとこのかけがえのない『今』が終わってしまう。
いや、あるいはすべてを知ってなお、飛鳥はクロエを受け入れてくれるかもしれない。だが、それは彼の優しさに付け込んだ悪しき所業だ。許されざる行いだ。
だから、クロエは過去を見つめることも、未来を見据えることもできないまま、ただぬるま湯のような『今』に留まり続けている。
(……いけない。せっかくデートにお誘いいただいたのに、こんな陰鬱な顔をしていては駄目でしょう、私)
飛鳥に無用の心配をかけたくない。
今はただ、この2人きりの逢瀬をめいっぱい楽しもう。
「ちっくしょー見失ったー! ああああああこのままじゃ、飛鳥が、飛鳥があの魔女の毒牙にかかって18禁な展開になってしまうー! ノクターン行きはいーやーだー!!」
「よく分からんがその発言は何かキケンな予感がするのじゃ! 自粛するのじゃ!!」
「同意の上ならいいんじゃないかなってアタシ思うの。スズカ、いい加減諦めたら?」
「そ、そう。そうだぞスズカ! ここは2人の仲を温かく見守ってやろうではないか!!」
…………その前に、アレをどうにかするべきか。
昼食を終えた2人は、ショッピングモールに併設された遊園地『フォーチュンクオリア』の入口ゲートをくぐり、プールのアトラクションへと向かっていた。
更衣室で一旦飛鳥と別れ、手早く買ったばかりの水着に着替えたクロエは、すぐにプールへ行こうとはせずに、部屋の端でしばらく待ち続けていた。
そろそろ目障りになってきたと言うのもあるが……ここより先は念願の水着イベント。女が男にアピールする絶好のロケーションだ。
(万にひとつということもありますからね。不安要素は徹底的に取り除くとしましょう)
息を潜め、気配を殺し、入口からやってくる4つの影を待ち受ける。
「遂にここまで来てしまったか……だが、あたしに抜かりはなーい! こんなこともあろうかと、この前水着を買っていたのさ! これで飛鳥も悩殺間違いなしってのをね!!」
「え、なにそれ、私知らないぞそんなの。プール行くかもって聞いてたから学園指定の水着しか持ってきてない……」
「リーシェがスク水って……逆に犯罪チックな香りがしそうだね!!」
「ドラゴン用の水着はないのかのぉ……」
何も知らずに和気藹々とやってきた2人と2匹。最初から鈴風がすべての企みをゲロっていたので、解説する必要もないだろう。
さっくりと……ヤッてしまうか。
「レイシアも言ってたけど、あたしって結構見た目いい線行ってるんだって! ちょっと恥ずかしいけど……今年はビキニで勝負っす!!」
「おー大胆。こいつはひょっとすると、ひょっとする、か……も……」
「な、ななななんだその水着は! なんて破廉恥な、これでは裸みたい、な――」
「…………(泡を吹いてひっくり返っている)」
「ん? みんなどしたの? いきなり黙りこくちゃってさ…………………………ア、センパイキグウデスネーゼンゼンキガツカナカッタデスヨアハハハハハ」
「うふふふふふ、ええ、本当に奇遇ですね」
「で、ですよねー! あははははは」
「ふふふふふふ」
「はははははは…………マジスンマセンっしたあぁぁーーーーーっ!!」
滝のような涙を流しながら脱兎する鈴風の首根っこを引っ掴み、そしてその足元でこそこそと逃げ出そうとするフェブリルをもう片手で掬い上げるようにキャッチし、満面の笑みで言い放つ。
「言ったはずですよねぇ……! 尾けてくるのであれば、命の保証はないと」
「「あれ!? なんか聞いてたのと違う気がするよ!?」」
後はもうお察しの通り。
壁が砕けるほどの打撃音やらこの世のものとは思えない獣の鳴き声や最後になぜか異様に軽い「ペキョッ」という謎の音が聞こえた――その光景の一部始終を目撃していたリーシェさんは、後にそう語ったそうな。
屋内プール、と言っても流石は技術発信都市が造り上げた新型のアトラクションと言うべきか。
ドーム状の天井に覆われた空間は、学園がまるごと収まるのではないかと思えるほどに広大で、プールの定番であるウォータースライダーの通路が空中の至るところに伸びている。子供連れも多く、小さい子供が怪獣の姿をした浮き輪にまたがってすいすいと流れていく様は見ていて微笑ましかった。
オープン直後ということもあり、人の入りも相当なものだ。広大なスペースのおかげで芋洗い状態になる心配はなかったが、
(ここからどうやって飛鳥さんを探せば……)
集合場所くらい決めておくべきだった。
鈴風たちの処刑に時間を取られたせいで、飛鳥とプールに入るタイミングがずれてしまったのも痛い。迎えに来てくれるのを信じてあまり動かず待つべきだろうか。
「うわ、すっげぇ美人……」「あの外人ヤバくねぇか!?」「その辺の女がジャガイモにしか見えなくなるな、おい」「なんだよあのスタイル、男誘ってるとしか思えねぇだろ」
周りが何やら騒いでいるようだが、クロエは一切の関心を向けることはない。もとより、飛鳥以外の男など五月蠅いだけの羽虫としか認識していなかった。
ともかく飛鳥を見つけよう。そう考えあてもなく歩き出したクロエだが、
「なぁ姉ちゃん、ひとりかい?」
往々にしているものなのだ、『お邪魔虫』というものが。自分では格好いいと思っているのか、乱雑に肩まで伸びた金髪と、耳にジャラジャラと何個も通したピアスなど、すべてにおいてクロエが嫌悪する要素を満たしていた。
「ひとりではありません。彼を探しているだけですので」
飛鳥には申し訳ないが、ここは彼氏持ちという設定で押し通させてもらう。返答を聞く必要はない。眉ひとつ動かさず、氷のような無表情のままナンパ男の隣を通り過ぎる。
こういう輩は強気の態度で突っぱねて相手にしないのが一番だ。すぐに意識を飛鳥の探す方へと向けようとしたが、
「こんなかわいい彼女ひとりぼっちにしちゃって酷い彼氏もいたもんだよねー? ねぇねぇ、そんなヤツほっといて遊ぼうよー、探している間に日が暮れちゃったらもったいないでしょ?」
後ろから手首を掴まれ、ぐいと引っ張られてしまう。
――気持ち悪い。
見知らぬ男に触れられているという事実そのものが、全身から虫が這い回るかのような嫌悪感を叩き付けてくる。
触れるな、離せ、汚らわしい、吐き気がする。
それに――そんなヤツと言ったか、貴様。
「…………」
「お? なんだい黙っちゃって。もしかして迷っちゃってる? だったら行こうよー、ね? それで途中で彼氏が見つかったらそれでいいじゃない」
指の一本でもへし折れば大人しくなるだろう。
掴まれた手を掴み返し、思い切り力を込めて黙らせようとしたところで、
「クロエさん!!」
横合いから伸びた手に肩を抱かれ、ぐいと引き寄せられた。
必然、勢いのままに足をよろめかせたクロエの身体は、彼の胸の内にすぽんと収まることになる。
(お、おおおう……おおおおおおおおおおおう!?)
この言葉にならない叫びを表に出さなかった自分を褒めてやりたい。
直接肌と肌で触れ合う温かな感触、とくんとくんと伝わってくる優しい鼓動。
目の前にいたチャラ男の存在など、一瞬で次元の彼方まで吹き飛んでしまうほどのこの破壊力といったら、もう!!
「あ、あしゅかしゃん……」
胸の中がいっぱいになって呂律もまわらない。飛鳥に抱き締められた格好になったため、身動きもできずに顔だけを持ち上げ、彼の顔色をうかがってみる。
「す……すいません、つい」
ちなみに飛鳥からの視点だと、豊満な胸がぎゅうと押し付けられ、目をうるうるさせた上目使いで見つめられている状態だった。健康的な若い男性には、かなり刺激的な映像と感触であったことは想像に難くない。
結論。飛鳥の方も恥ずかしさで顔まっかっか。
さて、本来であればこのあたりで空気を読めないチャラ男が口を挟んでくる場面であろうが、
「これは、もう割って入れる気しねぇわ……」
2人が醸し出す桃色空間にあてられたのか、諦めと呆れと「はいはいごちそうさま」と言いたくなりそうな少しばかりの爽やかさをごちゃ混ぜに感じつつ、すごすごとその場を離れていったのである。
要するに、バカップルには付き合ってられんということだった。
(あぁこれはまずい。なんかもうたまらんですたい)
恋の熱に浮かれたクロエは、もはや自分でも何を言っているのか分からなかった。割と本気で「もう死んでもいい」という感想が浮かびかけていた。
そして、いつも毅然としている飛鳥の困り顔を見ていると、もっと困らせてもっと可愛い部分を見てみたい、という欲求がふつふつと湧いてきた。
無意識に彼の背中に両手をまわし、がっしりとホールドする。
「あの……クロエさん? 周りから注目の的になってますんで、そろそろ離れ「やです」えぇ……」
他の人にどう見られようが関係ないし、どうでもいい。今はただ、世界で一番安心できる場所をひとりじめしている優越感に身を委ねたかった。
夏は女を大胆をするのだ。
たとえこの30秒後、我に返ったクロエが羞恥のあまり大絶叫しながらプールに向かってダイブしたのだとしても、決して後悔などありはしない。
クロエ=ステラクラインはこの瞬間、誰よりも夏を満喫していた。
次の話で番外編はラスト。
急転直下のドシリアスパートが始まります。