―第113話 7月7日 夏の始まり、始まりの終わり ②―
本作屈指のだだ甘回。
飛鳥はいわゆるムッツリスケベであることが今回発覚。
『信念のないロマンチストは皆ファンテスト(夢想家、幻想家)にすぎず、信念のないリアリストは皆センチメンタリストにすぎぬ』
文豪・川端康成が『伊豆の踊子』の最後に書き記した一文が、飛鳥の脳裏にやけに色濃く残っていた。
では、思い描いた幻想を現実に形と成す人工英霊は、果たしてどこに位置づけされるのか。信念などという数値化できない概念で、人の主義主張を大きく4つに分化できるものなのか、などなど。
取り留めもない考えが浮かんでは消えていく。無為な問答だと分かってはいるが、これは飛鳥なりの集中法と言おうか、
(デートプランが、まったく思い浮かばない……!!)
ただの現実逃避だった。
普段なら冷静かつ論理的に思考の網を広げることのできる飛鳥だったが、恋愛絡みにはまったくと言っていいほど脳の回路がまわってくれなかった。
文庫本をショルダーバッグにしまい、空を見上げて嘆息する。
クロエをデートに誘ったことを後悔はしていない。だが、何事も勢い任せというのは後々に響いてくるものだよなぁ……と、今更ながらに頭を抱えることになったのだ。
別にクロエと2人で出かけるのは今回が初めてではない。夕飯の買い出しで一緒に商店街に行くなどしょっちゅうではあったが、心持ちひとつでこうも余裕がなくなるものか。
飛鳥は戦いに身を投じるからといって、世俗からその身を断とうと思えるほどストイックな考えは持っていない。年相応の男子らしく、それなりに女の子や恋だの愛だのに興味くらいはある。
しかも、相手は学園のアイドルである人間離れした美少女ときた。
だからデートをするにあたって緊張だってするし、相手を喜ばせるためにああではないこうでもないと思索に耽りもする。
正直、人工英霊や機動兵器と戦っている方がまだ気が楽だと思えた。あまり刃九朗のことを笑えない飛鳥だった。
「飛鳥さんっ」
ふと、視界が真っ暗闇に覆われる。目の周りを、柔らかくて少し冷たい掌の感触が包み込んでいた。
「だ……だーれだっ?」
どう考えても羞恥心でいっぱいの噛み噛みの台詞に対し、どんな返答が正解なのか本気で悩んだ。というか身近な女性で「飛鳥さん」と呼ぶ人などひとりしかいないし、彼女以外の知り合いがここにいたら、それはそれで問題である。
「クロエさん、早かったですね」
とりあえず平静を装いながら振り向くことにした。
――そして、声を失った。
「え、と……飛鳥さん?」
綺麗だと、素直にそう感じた。
風を含んでふわりと揺れるスカイブルーのワンピースに、袖の部分にワンポイントで花柄のレースをあしらった半袖の白のブラウス。近くで見れば薄らと内側が透けて見える布地が爽やかな色気を演出していた。そして、足首まで覆った編み込み革のサンダル(グラディエーターサンダルとも言うが、飛鳥が知る由もない)で露わになった素足が目に眩しい。
世界最強の魔女だとか、学園の生徒会長といったフィルターを一切抜きにして彼女をしっかりと見つめることは少なかったのかもしれない。今まで、この1年以上もの間、これほどまでに魅力的な女の子がすぐ隣にいたという事実に、飛鳥の顔が一気に熱くなった。
「あ、う……」
「飛鳥さん? お顔が赤いですよ? まさか熱中症なのでは――」
「い、いえ! そういうんじゃないです! ただクロエさんがあまりに綺麗だったからって……あ」
「え、きれ……ひゃうううっ!!??」
……本当に、勢い任せで喋るものではない。
的外れのクロエの指摘に――炎の能力者が熱中症など、どんな笑い話だ――大慌てで両手を振って訂正した飛鳥が口走った一言が、彼女の時間を凍結させた。
ベンチを境にして、しばし、2人してかける言葉を見失う。
「……」
「……」
ああ、なんだこれは。
全身がむず痒くていやに熱くて、でも心の中がぽかぽかするような、不思議な感覚。初心にも程があるだろうと、飛鳥の中に僅かに残った冷静な部分が叱咤してきた。
「あ、ありがとう、ございます。その……飛鳥さんも、格好いいですよ?」
頬を朱に染めて、恥ずかしげに上目使いでそう言ってくるクロエの姿。両手を前で組み下から見上げてくるものだから、自然と彼女の胸元がぐいと強調される。それが視界に入らないわけもなく――頭がくらくらした。
(こ……これは、まずい! というか手とか足とかすごく細いのに、なんで胸だけそんなに立派なのか!!)
いけない、ダメだと思いながらも、目線はその魅惑の膨らみに釘付けになっていた。首から上が何者かによって押さえ付けられているかのように、逸らすことすらできなかった。
このままではクロエにスケベなエロガキという不名誉極まるレッテルを貼られてしまう。同じ屋根の下で暮らす家族だというのに、そんなことになったら気まずいどころではない!!
ああ、しかし、女性というのはこういう視線には特に敏感な生き物であり、
「……えっち」
目が合った彼女に死刑宣告されてしまうのは必然であった。
意地悪な微笑みを浮かべたクロエにどう返すべきか考えあぐねていると、そっと手を握られる。
「ずっとここにいても何ですし……歩きませんか?」
「そ、そうですね……」
女性に完全にリードされてしまっている情けない男の背中がここにあった。
飛鳥にとってもクロエにとっても、これは紛れもない初デート。恋人関係でないとはいえ、それでも良い思い出になるよう努力したいと考えるのは当然だ。
それにしても、2人で歩き始めてからいやに周りからの視線を感じる。注目されているのは、自分ではなく――間違いなく彼女だろう。
学園内でファンクラブができるくらいの人気があるのは知っていたが、それは学園の外でも例外ではない。彼女と一緒の男性が思わず振り向き、見惚れているところを隣から頬を抓られる――そんな光景もちらほら。
やはり、第三者からの目から見てもクロエは掛け値なしに美人なのだ。
テレビの向こう側にいるアイドルなど霞んで見える、世のすべての男が羨むような彼女の隣に、今の飛鳥は立っている。
そして、そのクロエはきっと、飛鳥の事しか見えていない。
ほんの少しだけ、胸がすっとする。自分にも人並みに『独占欲』なんてものがあったのだな、と思わず苦笑い。
(でも、それは本当にクロエさんが望んだことなのか?)
その反面、申し訳ない気持ちも感じているのだ。
クロエが自分を慕ってくれているのは、1年前のバレンタインデーの出会いから始まった――命のやり取りを通じて、いわば成り行きで芽生えた感情なのではないだろうか?
日野森飛鳥を好いてくれているのではなく、そうしなければならないと、自分で自分に枷を付けているようにも思えてしまう。
いけないことだと分かっていても、真正面から問いただすこともできないまま現在まで時間が流れている。
答えを知るのが怖いからか、今の関係が崩れてしまうのが怖いからか。
どっちつかずの距離をたもったまま、飛鳥は意気地のない自分をいつも恥じている。
(……いや、今は考えるのはよそう。それに)
彼女に引っ張られる形で噴水広場を後にする飛鳥だったが、背後で隠れているつもりなのかそれともツッコミ待ちなのか分からないあの集団をどうするべきなのか、判断に困っていた。
「くっきゃああああああ!? ちょっとリーシェ離して! 今すぐ、今すぐあの2人を地獄に蹴り落とさなきゃ気が済まなーい!!」
「ま、待て待て待て! この場合どっちかというと蹴られるのはスズカの方だぞ! 人の恋路を邪魔しようとしてるのはお前だから! 馬に蹴られて何とやらはお前だから!!」
「スズカ駄目だよ、それは死亡フラグだよ!? クロエに頭かち割られて流血沙汰になる未来しか見えないよ!!」
「ぺきょってされるじゃー! こわいのじゃー!!」
波乱の予感しかしないデートの幕が上がった。
歩きながら2人で話し合ったデートコースは、いたってシンプルな内容だった。
まずは約束通り、クロエの新しい水着を見繕いに行き(最初から最難関である)、昼食を挟んで、新設された屋内プールでひと泳ぎ。夕方になったら青砥神社の七夕祭りを見物しいく。
つつがなく方向性が定まったところで、飛鳥は気合いを入れるべく頬を軽く叩く。
「飛鳥さん……そこまで身構えなくても……」
それを隣で見ていたクロエが苦笑をこぼすが、今の飛鳥には一切の余裕がなかった。
ここは『エヴァーグリーン』内の一角にある水着ショップ。当然ながら客層は女性ばかり。野郎ひとりだけでこの場に立つのは、まさしく針のむしろに座る心地に似ていた。
「それでは試着してきますね」
クロエがカーテンを閉めたのを確認し、更衣室の壁にもたれこんで石像のようにじっと待つ。息を殺し、気配を殺し、誰からも察知されないよう隠行に全神経を集中させる。頭の中は空っぽに、全身から無駄な力を抜いて自然体に、自分は路傍の石や木に等しいと、何度も何度も言い聞かせる。
――しゅるり。
(こ……この音は)
壁越しでもはっきりと聞こえる、衣擦れの音。自分の意思とは無関係に首が勝手に更衣室の足元に向く。
毎回思うのだが、どうしてこういう場所の更衣室は足元の部分だけ見えるようになっているのか。すらりとした白く綺麗な裸足が見え隠れするたびに、言葉にしがたい熱のようなものが身体の奥底からこみ上げてくる。
「あの……いかがでしょうか?」
気が付けば、クロエの着替えが終わっていたようだ。俯いたまま理性と欲望のせめぎ合いに耐えていた飛鳥は、弾かれるように顔を上げる。
「お客様、大変よくお似合い……ほんとうに、すごい……」
いつの間にか隣にいた店員は、定型文通りの台詞を言い切る前に、完全に我を忘れていた。
彼女が選んだのは、シンプルなライトグリーンのビキニに、トロピカル柄のパレオスカートが付いたものだった。先ほどマネキンが着ているのを見た限りでは、「綺麗な柄だなー」くらいの感想しか浮かばなかったが……
「少し、肌を出し過ぎでしょうか? やっぱり露出が少ないものの方が――」
「あ、いや……すごく、似合ってます。かわいいです」
中身が変わるだけでこうも化けるか、と水着の魔力に完全に屈してしまっていた。気のきいた台詞など思い浮かぶはずもなく、馬鹿みたいにぽかんとしながら何の捻りもない賛辞の言葉が喉から出るだけだった。
「うふふ、ありがとうございます。それじゃあ、これに決めますね」
こんな単純な褒め言葉でも嬉しかったのか、小さくはにかむ水着姿の彼女に、周囲の店員や客はまとめてノックダウンする始末。
そんな店内の惨状など露知らず、クロエはごきげんに鼻歌を口ずさみながら再び更衣室のカーテンを閉め切った。
本当にもう、何から何まで最強の同居人であった。