―第9話 月下美人―
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――さあ、今こそ君の旅路の一歩を踏み出そう。
先は見果てぬ闇の中、灯りも道標もありはしない。手探りでもいい、匍匐前進でも……恰好はつかないがまあいいだろう。
旅とは、未知との邂逅であり、可能性への挑戦であり、自分自身との戦いである。
故に、この旅路に安寧など求めるなかれ。他者に自身の選択を委ねるなかれ。傷つくことを恐れ、立ち止まるなかれ。
艱難と辛苦、非噴と絶望。これこそ旅の醍醐味だろう?
――さあさあ、進みたまえ。
私はずっと待っている。
君の旅路を彩る、あらゆる困難と理不尽を用意して、君が辿り着くのを待っている。
オーヴァンを出立し、半日ほど。
幸いにも空は快晴、旅をするには良い日和だ。
森を抜け、丘を登り、島から島へと飛び移り、飛鳥達4人の旅路は概ね順調と言えた。
劉功真の足取りを追い、天空に浮かぶ地平を踏みしめながら鈴風は前を歩いていた飛鳥の横に並んだ。
「そういえばさ。アイツらをこらしめたとして、あたし達ちゃんと元の世界に帰れるのかな? 飛鳥が通ってきた道ももうないんでしょ?」
「奴らが使っている移動手段が分かればなんとかなるかもしれないが……それが無理でも心配ないだろう。《八葉》でも、世界を渡る技術は研究されていたらしいから」
「はちよー?」
「俺が所属している組織で、有り体に言えば民間の警察組織だな。今回のように、一般の組織の手には負えないような特殊な事件に対して人員を派遣している。……ちなみに和兄もそこの所属だ」
「マジっすか、全然知らなかった。……つまり《八葉》っていうのはあれだね、人知れず世界の平和を守る正義の味方なんだね!!」
正義かどうかは分からないが――という言葉を飛鳥はすんでのところで呑みこんだ。
民間警備組織、《八葉》。
ざっくりと解説するのであれば、あらゆる危険や脅威から、民間人と地域の平和を守るために運営されている組織だ。
要人警護や武力犯罪の鎮圧などが主な活動内容だが、最たる特徴としては、構成員に普通の人間が存在しない事であろう。
比喩的な意味ではない。
人工英霊である飛鳥のように、《八葉》のメンバーには常人離れした特殊技能や突出した身体能力を所持している事が大前提として求められていた。
1年前、とある工学機器メーカーで、AIを搭載して自律駆動する戦闘用車両の試作機の暴走事故が発生した。
大口径の電磁加速砲や最新鋭の光学兵器などが搭載されており、暴走を放置すれば白鳳市が1日で焦土とされかねないとまで危惧された代物だった。
制圧のためには軍隊の一個師団レベルは必要であったとまで言われていたが、急遽派遣された《八葉》のエージェントが単独でそれを破壊、鎮圧せしめた・
それも丸腰で。
拳で重戦車を破壊するような常識外れ達によって構成された治安維持組織。
毒を以て毒を制する矛盾の体現者達。
飛鳥はそんな《八葉》のメンバー達の顔を思い浮かべ――少なくとも正義の味方なんて柄ではないよなぁ、と考えていると……ぐぅぅ、と小気味の良い音が近くから鳴った。
「……あぅ」
「なんだフェブリル、おなかすいたのか?……そういえば」
唐突に、飛鳥の肩の上に座っていたフェブリルの腹の虫が鳴ったようだった。
それに気付いた飛鳥は、おもむろに制服のポケットを探りはじめて取り出したものを彼女の目の前に差しだした。そのビニールの包装の中には、クリーム色の平べったい物体が3枚入っていた。
「なにこれ?」
「クッキーだよ。家で作り過ぎちゃってね、日持ちするから非常食替わりに入れてたんだけど……よかったら食べな」
「いい匂いがする食べ物だね、おいしいのかな……はぐっ!!」
袋から1枚取り出し、フェブリルに持たせてやった。
小さなフェブリルはそれを全身で抱え込むように受け取り、おずおずと端の方を軽くかじってみた。
そして、一瞬だけぴくりと背筋を震わせたかと思うと、
「う……ウ……」
「う?」
「ウマァァーーーーイ! なに、なにコレ!? すっごい甘いんだけど、それでいてしつこくないんですけど!?」
絶叫しつつ、どこぞの美食家のようなコメントで飛鳥のクッキーを褒めちぎり始めた。
そしてフェブリルは興奮のあまり飛鳥の肩から転げ落ち、そのまま狂乱したかのようにグルグルと旋回し始めた。
それほどまでにクッキーの味が衝撃的だったのだろう――こちらの世界に来た直後の彼女を遥かに超えるはしゃぎぶりである――キラキラとした尊敬の眼差しを飛鳥に向ける。
「今、アタシの中で味覚の革命が起こりましたよ! 飛鳥達っていつもこんなに美味しいもの食べてるの!?」
「飛鳥の料理はプロ顔負けだからねー。他にも色々作ってくれるよ」
「な、なんて羨ましい……」
毎日飛鳥の手料理を堪能している鈴風が言う通り、彼の料理スキルは店を開いても通用するほどである。凝り性な飛鳥の性格と味にうるさい姉の影響で、日野森家の食生活は極めて高水準を維持していたのだ。
とはいえ、クッキーなどお菓子作りの基本中の基本。まさかお手軽に作ったこんなお菓子がここまで大絶賛されるとは、流石の飛鳥も予想だにしていなかった。
「クッキー1枚でそこまで感動されるとは思わなかった……元の世界に戻ったらもっと色々食べさせてあげるから、今はこれで我慢してくれな」
「ホント!?」
「俺が面倒見てあげる以上、食べるものに困らせるつもりはありません」
「いっ……一生ついて行きますごしゅじんさまぁーーーーっ!!」
使い魔の契約をした時とは比較にならないほどの忠誠の叫びに苦笑いしつつも、まるでフェブリルの母親にでもなった心持ちの飛鳥であった。
そこに、周辺の哨戒から戻ってきたリーシェが空から舞い降りてきた。
「近くに奴らの姿は確認できない、もっと先に進むとしよう……何をしているのだ?」
「お疲れ、リーシェ。よかったらクッキー食べるか?」
感激のあまり、飛鳥の顔面に抱きつくようにへばりついたフェブリルを見て、リーシェは呆れたように溜息をついた。
鈴風から話を聞き、これから戦いに赴く者とは思えない無神経さだな、などと若干の苛立ちを覚えたリーシェであったが――
「な……なんだこの食糧は!? こんな甘露がこの世にあっていいのか!?」
残った2枚のクッキーを鈴風と分け合った結果、瞬く間に飛鳥に餌付けされてしまうリーシェだった。
美味しいものを食べると心が豊かになる――そう実感した一行は更に歩を進めた。
「……待て。どうやらここからのようだ」
先頭を進む飛鳥が後ろ手で制止を指示する。肌を刺すような空気の緊迫に、思わず鈴風は息をのんだ。
山岳地帯の一角、草木ひとつない灰色の斜面。
飛鳥の視線の先には、先日遭遇した機械の獣――クーガーの姿があった。目視出来るだけでも10体は存在する。唐突な大戦力との遭遇、明らかに何かあると言外に主張しているようなものだ。
飛鳥とリーシェは視線を合わせ、頷き合う。――打って出るぞ、という言うまでも無き意思確認だ。
「鈴風とフェブリルはここにいろ。……ついてくると言った以上、よく見ておけ。お前が足を踏み入れようとしている場所が、どういうところなのかを」
「……わかった」
飛鳥からフェブリルを受け取り、神妙な表情で頷いた。
そう、ここからなのだ。
状況に流されてではない、不可抗力によるものでもない。今、鈴風は紛れもなく自分自身の意思で戦場に立っている。
力が無いからという言い訳は通用しない。
自分の命は自分で守らなければならない。
遠目に確認できるクーガーの連装機関砲、その銃口に濃密な『死』のイメージを感じ取り鈴風は背筋を震わせた。
「逃げないよ、絶対に。これ以上知らぬ存ぜぬだなんて嫌だから。だから、あたしはあたしの戦いをする」
恐怖を押し殺し心臓に力を込めて、鈴風は決意の眼差しで飛鳥を貫く。その様子に飛鳥は一瞬表情を曇らせたが――
「分かった、もう止めはしない。……だが無茶だけはするな、何かあればすぐに呼べ。絶対に助ける」
「……それが嫌なんだよ」
小さく呟いた鈴風の声は、飛鳥の耳に入る事はなかった。
こちらに背を向け、リーシェと共に駆け出していく飛鳥の背中を見つめながら、鈴風は思う。
待つだけの女なんて真っ平御免だ。
心配なんてされたくない、もっと頼ってほしい。
背中を預けるに値する『相棒』と呼べるような存在に、あたしはなりたい。
「それに、負けたくないしね……あの人にだけは」
鈴風の脳裏に浮かぶは一人の少女。おそらく、今の鈴風よりずっと飛鳥の近くに寄り添えているであろう、異国の少女の戦う背中だった。
その頃。
「ようやく迎えに行けますか……げに忌々しきは《パラダイム》ですね」
白鳳学園、屋上。
2日前に飛鳥達が消失した場所で、クロエ=ステラクラインは1人佇んでいた。
夜天に浮かぶ月の光が彼女の総身を照らしていた。
膝下まで伸びた純白のロングコートは、白金色の長髪と相まってさながら舞踏会のシンデレラのよう。
しかし、足元を彩るのは硝子の靴ではなく無骨な漆黒のコンバットブーツ。更に腰に備え付けられたホルスターから覗く凶暴な二挺拳銃の口が、彼女を深窓の姫君ではなく剣林弾雨の中に立つ戦乙女たらしめていた。
彼女の持つ携帯端末から着信音が鳴った。電話越しに聞こえる声は、クロエのよく知る人物のものだった。
『クロエ、指定の位置には着きましたの?』
「ええ、今到着したところです。沙羅さん、あちら側へのナビゲート宜しくお願いしますね」
電話の相手――加賀美沙羅は、クロエと同じく《八葉》に所属する人物だ。
飛鳥やクロエのような戦闘技能は有していないが、天才と称されるほどの知能を買われ、主に《八葉》メンバーの後方支援を担当している。
今回の彼女の任務は、消失した日野森飛鳥――別世界にまで飛ばされた彼の捜索である。
『この世界のどこかであれば、一瞬で位置を割り出す事もできましたが。次元を越えてとなると少々骨が折れましたわね』
「少々、程度で別次元の位置探知なんてものをこなすんですから……流石は天才科学者、といったところですか?」
『……そうでもないですわよ。今回の探索、どうにも腑に落ちなくて』
茶化すようなクロエの賛辞に、電話越しの声はどこか沈んでいるようだった。
先の沙羅の言葉通り、あくまでこの世界の中であれば特定人物の捜索など造作もない。2日どころか2秒で探し当てる自信が彼女にはあった。
しかし、別世界ともなると話は違う。
空間の微細な揺らぎや捻れといったものを数式化し、そこから移動経路を見出すという作業が要求されるのだが、それは――
『蝶の羽ばたきから、どこで嵐がおきるのか証明するのと同義ですのよ。《八葉》のコンピュータをフル稼働させても、良くて数年単位の時間を必要とする筈でしたわ』
蝶の羽ばたきにより生じたほんの僅かな空気の乱れ。それが将来的にどのような天候の変化に発展するのかという、事実上の予測不能である。
「でも、実際に飛鳥さんのいる場所は分かったのでしょう?」
しかし、沙羅はそれを僅か2日で確証させた。
それは彼女の類まれなる演算処理能力によるもの……というわけではないようだ。
『ええ、それは間違いありませんわ。まるで誰かにお膳立てされたかのように、至極あっさりと』
「……誘われていると?」
『私はそう感じてますわ』
強張った声をスピーカー越しに聞き取り、クロエは表情を硬くした。
しかし、懸念事項をいくらあげたところで詮無き事だ。元よりクロエはその程度で尻込みするつもりなどない。
「罠だろうと何だろうと。向こう側に飛鳥さんがいる以上、私が行かない理由など存在しません。あちらさんの思惑ごと撃滅すればいい話でしょう?」
『相変わらず日野森さん絡みだと人格変わりますわね、貴女。……彼の苦労が忍ばれますわ』
「何か仰いましたか……?」
闇の底から響くような低い声で問いかけるクロエの声を、沙羅は「なんでもありませんわよ」とあっけらかんとした声で受け流した。
そんな沙羅の様子に渋い顔をするも、その話を引っ張るつもりはないクロエにはもうひとつ気になった事があった。
「そういえば彼女――篠崎さんの容態は?」
『“祝福因子”は適合しなかったようですわ。右腕も元通りに治療できましたし、完全に普通の人間に戻ったようですわね』
劉功真によって祝福因子を投与された美憂だったが、その身が人工英霊として変貌したのはほんの僅かの間だけだった。
2日前の交戦の後、美憂はクロエによって保護され《八葉》の医療施設に搬送された。
変形、負傷した右腕は時間経過により元通りの腕に治癒され、それが最後の力だったかのように、美憂の体内から人工英霊としての力が失われたという。
つまりはクロエの指摘通り、篠崎美憂は人工英霊に成りそこなったのだ。
『彼女、どうやら利用されていただけのようですわね』
美憂は剣道部員としては伸び悩んで――より直接的に言えば落ちこぼれていた。
そこに交通事故による右腕の負傷が重なり、彼女は精神的にも酷く衰弱していた。
そこに現れたのが劉である。
右腕の怪我を完治させ、身体能力を増強させる薬であると騙されて――一概に『騙された』とも言い切れないかもしれないが――人間を人工英霊に変貌させる“祝福因子”を投与された。
しかし彼女が獲得したのは制御不能の暴力、異形と化した右腕。元に戻してほしいと劉に懇願するも、聞き入れられず――
「それで、私を殺せば元に戻してやるとでも言われたのでしょうね……自業自得です、同情の余地すらない」
そんな彼女の苦悶を、クロエは下らないと一言で切って捨てる。
どのような事情があれ、美憂は誘惑に負けたのだ。
己が自身の力で前に進もうとしない人間を、クロエは誰よりも軽蔑する。
しかしそれは、ひたむきに前に進んでいる人間の美しさを誰よりも理解している、という裏返しでもある。
クロエの脳裏によぎるは1人の少女の姿。
無力に屈せず、理不尽に嘆くことなく立ち向かっていった少女の背中を思い起こしていた。
(性根だけは立派ですからね、鈴風さんは)
直接言ったら顔を真っ赤にして文句を言ってきそうだなと思いクロエは小さく笑う。
……そろそろ始めよう。
夜空の月を見上げながら、クロエは腰の双銃をゆっくりと抜き構えた。
『工程を確認しますわ。まず第一射は、空間の綻びを抉じ開けて『入口』を作る為の空間湾曲のための銃弾。その後、第二射。こちらは世界と世界と繋ぐための『道』を作る銃弾。僅かな空間の揺らぎに対して寸分の狂いなく第一射を捻じ込んで、その入口が閉じるまでの間に第二射で一気に貫通する。この2発の弾丸こそが名付けて“歪次元貫通弾”ですわっ!…………それつくるのにすっごい経費かかってますからね、無駄弾撃ったら承知しませんわよ』
「外すつもりなどありません」
精神を限りなく静謐に、揺らがずよどみなく、ただ粛々と引き金を引く。笑ってしまうほどに簡単だ。
ぐにゃり、と空が歪んだ。
その歪みの中心を狂いなく見定め、クロエは電光石火の挙動で銃口を向けて一発目を放つ。まるで月が割れていくかのように、空間に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
『お見事。……武運を祈ってますわ、クロエ』
「ありがとう……行きます!!」
すかさず放たれた第二射が亀裂の中心に向けて吸い込まれ、丁度人ひとりがぎりぎり通れる程度の漆黒の虫食い穴が現出した。一切の光の無い先に、クロエは一切の躊躇なく飛び込んでいく。
(待っていて下さい、飛鳥さん……すぐお傍に参ります)
――私の居場所は彼の隣以外には有り得ない。
――次元の壁程度で、私の行く道を阻めると思うな!!
完全無欠の白の魔女が、時間も空間も越えて罷り通る。
すべては、たったひとりの少年のために。
あらゆる障害を銃弾で撃ち抜き、一途な魔女は走るのだ。