―第112話 7月7日 夏の始まり、始まりの終わり ①―
「ふ……ふふ、ふふふふふ」
ああ、今日はなんと素晴らしき目覚めであろうか!
低血圧ゆえ、いつも朝は弱い彼女であったが、こと今日に至っては例外だった。
「興奮のあまり、眠れませんでしたよ……」
いや、ただ昨晩から一睡もしていないだけであった。
だが、これでいい。
彼女は休みとなると、生徒会長として張り詰めていた気持ちが解放されるためか、昼過ぎまで爆睡してしまうことがざらにあるのだ。
だが、本日ばかりはそれは許されない。
「デート、デート……うふ、うふふふふふふ! 嗚呼、なんて甘美な響きなのでしょうか!!」
喜びのあまり踊り出してしまいそうな衝動を抑えつつ、クロエ=ステラクラインはいつもより念入りに身だしなみを整え始めた。
7月7日、七夕。
この日はきっと、彼と彼女にとっての『運命の日』となる。
最早解説の必要はないだろうが――クロエのこの異常なまでのはしゃぎっぷりは、昨日の飛鳥からの『お誘い』にある。
彼からそんな熱いお言葉を頂戴して、頷かないなど有り得なかった。
「は、は、ははははははいっ! よ、よろこんで!!」
あの後2人して顔を真っ赤にし、壊れかけのロボットみたいな、どこかぎくしゃくとした動きで帰路についたのである。
(「デートしましょう」ですか……変に取り繕った言葉よりも、あのように飾らない直球のお誘いの方が、やはりぐっと来ますねぇ)
そして今朝。
普段着に着替えながら、クロエは傍から見たら気持ち悪いことこの上ない奇妙な動きで全身をくねくねさせていた。
せっかくの初デートである。ここで、以前からやってみたかったことを飛鳥に提案したのだ。
「待ち合わせの時間まで……あと少しですね。そろそろ出ないと」
そう、デートの始まりと言えば『待ち合わせ』である。
そもそも同じ家で暮らしているのだから一緒に出ればいいのに――そんな飛鳥の意見も尤もではあったのだが、ここは申し訳ないと感じながらも彼女の意向を押し通した。
要するに、
「ごめん、待ったー?」
「いいや、今来たところだよ(実は2時間以上前に来ていた)」
こんな甘酸っぱいやり取りを、ぜひとも自分も体験したかったのである。ベタ過ぎるなんて言ってはならない。
現在は午前9時をまわったところ。
飛鳥には先に出てもらい、待ち合わせの10時まで適当に時間を潰してもらうことにした。どうせならということで、先に《八葉》に顔を出してくるらしい。
さて、わざわざ出る時間をずらしてまで実現させたかった待ち合わせ。これにはもう一点だけ重要なあることをするための布石でもあったのだ。
「ふいー、食べた食べたー」
「今日も素晴らしき糧に感謝なのじゃー」
今日も今日とて大量の朝食を胃袋に収め、パンパンになった腹を撫でながら畳の上に転がるこの2匹。
好奇心の塊でもあるこの人外コンビにちょっとばかり釘を刺しておきたかったのだ。
「リルちゃん、エントちゃん。それでは私は出かけてきますので、お留守番お願いしますね」
「ほほう……おでかけ、とな?」
フェブリルの瞳が目ざとく光った。
彼女は昨日の2人の雰囲気を見て、恐らくデートのことを薄々感づいている。
放っておくと、付いてきてデートを引っ掻き回されるか、はたまた尾行して周りの人間に言いふらすとか普通にやりかねない。
よって、クロエは開き直ることにした。
「ええ、飛鳥さんと一緒にデートです」
「デート! そっかー、アスカもやる時はやるんだねー。うんうん、よかったよかった」
「なので、分かっているとは思いますが――付いてこないでくださいね?」
「……も、もちろんですともー。わかいおふたりのじゃまなんて、するわけないじゃないですかー」
明かな棒読み口調でそっぽを向くこの使い魔――邪魔する気満々だった。
本当に、先に飛鳥に出ていてもらって正解だった。フェブリルには大甘な彼がいたら、きっと一緒に連れて行こうとしてしまうだろうから。
「もし付いてこようものなら……ぺきょっ、てしますからね?」
「ペキョッ!!??」
「ヒィッ! こ、これはまさか、俗に言う家庭内暴力というものなのではないのかえ!?」
「いいえ、これは『躾け』というのですよ?」
彼女の目の前でわざとらしく指の骨を鳴らした途端、フェブリルは借りてきた猫よりも大人しくなった。
エントに関しては問題ないだろう。フェブリルの行動に引っ張られない限りは、彼女はわりかし常識人ならぬ常識龍である。
ぷるぷる震えて動かなくなったお邪魔虫たちを見て後顧の憂いを断ったクロエは、一際軽い足取りで玄関の扉を潜ったのだった。
四象環状線のモノレールは、普段は通学の学生でごった返すことも多いが、今日は休日だ。スーツ姿のビジネスマンは少数で、大半は自分と同じくらいの年代の男女ばかり。
向かうは白鳳市東部、句芒駅だ。モノレールの窓からその街並みを俯瞰する。
大手飲料メーカーのロゴがでかでかと刻まれた気球船が、大型ショッピングモール『エヴァーグリーン』の高層ビルの真上を通過していた。
その隣りには、この街一番のデートスポットでもある湾岸遊園地『フォーチュンクオリア』。屋内プールが新設されたというのは、確かこの中だっただろうか。
遊園地の奥にある小高い丘の上には、大規模な花火大会が行わることで有名な青砥社がある。
句芒とは、地域をまるごとひとつの娯楽施設に変貌させた、白鳳市の先端科学の見本市ともされるびっくり箱のような場所なのだ。
クロエと同じくここを目的地としていた人は大勢いたようだ。モノレールが停車すると同時、穴の開いた水瓶のように流れ出る人の津波に翻弄されながら、クロエはどうにか繁華街の入口へと立った。
(人混みは苦手なのですが……そうも言っていられませんね。これもまたデートの妙味と言うもの)
別にデートの舞台はどこでもよかったのだ。家の近くの公園でゆっくりぼんやりと2人で過ごすのも悪くなかったし、商店街で買い物がてらぶらぶら、というのも捨てがたかった。
だが、彼はどうやらクロエが、いつぞやの会話の端々にしか残していなかった微かな願望を聞き逃していなかったようで。
「水着を買って、それでプールが新しくできたんでしたっけ? せっかくなんですし、夏らしいことをして遊びましょうか」
熱に浮かれた小娘の戯言、聞き流されていて当然と思っていたが……気にしていてくれた、という飛鳥の心配りこそが何より嬉しかった。それに比べれば、この約束が果たされるまでひと月近くかかったことなど些細なもの。不平不満などあるわけがない。
思えば、今日は夏の初めの日に飛鳥が風邪をひいてちょうど1週間――その最後の日となる。クロエの根回しで、彼が《八葉》がらみのあれやこれやに振り回されないよう、しっかりと休息をとってもらうために半ば無理矢理に取り付けたこの7日間の憩いの時間も、今日で締めくくりということだ。
(本来なら、こうやって呑気にはしゃいでいる場合ではないのでしょうけど)
一部危うい時もあったが、この1週間は総じて戦いの日々から切り離すことのできた、概ね学生らしい生活を送れたのではないだろうか。……料理対決とか霧乃の家庭訪問とかドラゴンの孵化とかなぜか余所者が日野森家で愛を語らったりだとか銭湯が壊滅したりとか、色々あったが。
本当の意味で、飛鳥に穏やかな日々を過ごしてもらうためには、まず彼の身近な人間を全員身動きできないようふんじばるところから始めなければならないのではないか? 割と本気でそのような事を検討しそうになったクロエだった。
真っ白な石のブロックで舗装されたメインストリートを進むことしばし。
様々な娯楽施設への道が繋がる集合地点でもあるこの噴水広場は、白鳳市では待ち合わせの定番となっている。
まだ朝も早いというのに、あちらこちらに若いカップルの姿が見受けられた。今の自分も周りから同じように見えていると思うと、不思議な心地になる。
待ち合わせの時間まであと30分近くある。少々着くのが早すぎたか――とは、思わない。
(やっぱり)
広場の端にあるベンチで腰かけ、静かに文庫本のページを捲っていた赤い髪の彼の姿はよく目立っていた。
今のご時世に紙媒体の本を持ち歩くなど珍しいが、日野森家には古くからある書斎に数多くの蔵書が収められていた。その影響で飛鳥もかなりの読書家であるのは既知のことであった。
これで眼鏡もかけていれば、なかなかにそそる光景――いや、変な方向に思惟が及ぼうとしていたので、ここまでにする。
正面から話しかけようか、それとも後ろからそっと忍び寄ってびっくりさせてみようか。そんな下らないことに頭を悩ませる自分がどうにも可笑しくて。
空は抜けるような快晴。暑さを通り越し痛みすら覚えるほどの強い日差しは北国育ちのクロエには少々堪えるが、それもまた悪くないと思える。
――今日という日が、素敵な夏の思い出となりますように。
神様なんて信じはしないけれど、というクロエの呟きが空の蒼へと溶けていった。
さりとて、光あれば影もある。
軽やかな足取りで飛鳥に近付いていクロエの後ろ姿を、物陰から怪しく光る四対の眼差しが見つめていた。
「ぐぬぬぬ……昨日のお風呂の帰り道、なんか2人とも挙動不審だなと思ったらこういうことか!!」
「スズカ……本当に後を尾けるつもりか? バレたらお仕置きだけではすまんと思うぞー?」
「見つかったら、『ペキョッ』てされちゃうの……生きて帰れるとは思わない方がいいの……」
「ど、どうしてわらわまでぇ……巻き添えはやなのじゃペキョッてされるのはやなのじゃー!!」
「エントちゃんうるさい! 見つかっちゃうでしょ!!」
出歯亀もまたデートの妙味であると――クロエがそんな粋な(?)発想の持ち主であれば、きっと彼女たちは笑顔で我が家に帰ることができただろう。
だが、最凶最悪の魔女を相手にこんな穴だらけのストーキングをしている時点で、彼女たちの未来は確定していた。
「うわーん! おとーさまおかーさまぁー! 生まれたばかりで2人の下へ行く我が身の不幸をお許しくださいなのじゃあー!!」
ぴきゃぴきゃと泣きじゃくる龍の悲痛な叫びが、路地裏に虚しく木霊していた。