―第107話 7月5日 鋼鉄に涙は流れるか 中編―
このお話は第2章39話、刃九朗視点における問いの回答でもあります。
平凡な人生こそ真の人生だ。虚飾や特異から遠く離れたところにのみ真実があるからだ。
ハインリヒ=フェーデラー
あの人と同じ場所に立ちたい。
あの人と同じ目線で物を見て、同じように考え、悩み、笑い、そして同じ歩幅で歩いていきたい。
篠崎美憂は、何も特別なことを望んだのではない。ただ、それを望んだ相手が特別だっただけである。
それは果たして、彼女にとって幸運であったのか不運であったのか――それは、彼女自身が決定すべきものであった。
「みうぢゃあああああああん、ふええええええええええ」
「……鈴風センパイ。寝起きに泣き顔のドアップは、正直心臓に悪いです」
美憂が目を開けた瞬間、視界いっぱいに飛び込んできたのは涙と鼻水で顔面をぐしょぐしょにしている鈴風の泣き顔だった。靄のかかった意識の中思ったのは、貴女の顔から色々な液体が落ちてきているから、取りあえずどいてほしいという点だった。
「ええと、ここは鈴風センパイのお家ですか?」
「んーん、飛鳥の家だよ。びっくりしたよー、いきなりジン君が美憂ちゃんお姫様だっこしてここに転がり込んできたんだから」
「……お姫様、だっこ」
「あ、気にする所そこなんだ」
チーンッ! とティッシュで鼻水を拭った鈴風に話を聞き、大よその状況は理解できた。4月の一件以降、何だかんだで色々な事件に巻き込まれたせいか、急な展開に対して妙な耐性が付いてしまった美憂であった。
干したてなのだろう、お日様の匂いがするお布団に、年季の入った畳張りの和室。今時珍しい純和風の佇まいに、実家の床がフローリングだった美憂はちょっぴり感動した。
「鈴風、寝ている人の近くで騒ぐな……って、篠崎さん。もう平気なのか?」
「ミューちゃん、大丈夫ー?」
そんな益体もないことを考えている間に部屋に入ってきたのは、ひよこのアップリケ付エプロンが恐ろしいほどに似合っている飛鳥と、彼の頭の上に引っ付いて来たフェブリルだ。
「身体の方はどうだろう。おにぎり作ってきたけど、食べられそうかな?」
「わぁ、ありがとうございます。いただいてもいいんですか?」
「これはアスカがミューちゃんのために作ったおにぎりだから遠慮は無用なのだ! 食べなかったらアタシが貰うから、別に残したっていいんだよ?」
「なんで作ってないリルちゃんがそんなに胸張ってるんだろう……というかその呼び方まだ直らないの? わたしは美憂だよ、み・う」
「ぬぬぬ、だって発音が難しいんだもの。み、み……ミュー!!」
「あははは……」
最近仲良くなったフェブリルと呼び名のことについてお話ししながら、美憂は隣にそっと置かれたおにぎりに手を伸ばした。炊き立てのご飯が口の中でほろりと崩れ、パリパリの食感の海苔から来るほのかな塩気との相性も抜群だった。
「おいしい……すごいなぁ、シンプルな味付けなのに、とっても深い味というか」
「特別なことをしているわけじゃないよ。ご飯を握る力の入れ方とか、塩加減とかに少し気を配るだけで結構変わるものだから。よかったらこっちのお味噌汁もどうぞ」
「あ、どうも。ずずず……こっちもすごく美味しいです。やっぱり、お出汁から拘ってたりするんですか?」
「どうだろう。今回は昆布や海草系の出汁をメインに使ったくらいかな。起き抜けの人に魚介系の濃いめの出汁は重いかと思ったからね」
なるほど。技術や食材はもちろん大事だが、そういったちょっとした心配りこそがこの美味しさの秘訣なのだろう。
美憂もそれなりに料理には自信があったが、上には上がいるものである。
刃九朗にももっと美味しいものを食べてもらいたいし、ここはひとつ、弟子入り志願でもしてみるか。
そんなことを思いながら、3つあったおにぎりと味噌汁を綺麗にたいらげ、食後のお茶でほっと一息ついたところで……
「――って何を和んでるんだわたしはぁっ!!」
「フギャッ、ノリツッコミ!?」「篠崎さん、君もついにボケとツッコミの世界に来てしまったのか」「……ちっ」
このなし崩しに展開されたほんわかムードに全力でツッコミを入れた。というかさっき舌打ちしたのは誰だ。
これはいったいどういうつもりかと釈明を求めるべく、3人にじとーっとした目線を向ける……3人揃ってわざとらしくぷいっと目を逸らした。
「なにを、隠してるんでしょうか」
「君が何を言っているのかよく分からないな」「そうそう、やましいことなんてないのですよ? ホントそう」「何も隠してなんかないよ! リヒャルトとかいうおじさんにコテンパンにされたジン君が死にそうなくらいに落ち込んでるなんてことは全然ないんだから!!」「こんな時にまでボケてんじゃねええぇぇ!!」「スズカのアホー!!」
「…………ほう」
ここは無駄に芸人根性を見せた鈴風に感謝すべきなのだろう。……最近、なんで過去の自分はこんな人に憧れてたんだろうと疑問に思うようになってきた。
布団を跳ね除け、すっくと立ち上がる。
飛鳥はもう止めても無駄だと分かっているのか、特に美憂を制止しようとすることはなく、大ボケをかました鈴風のこめかみを両側からぐりぐりし始めた。
「だって、だってあたしの可愛い後輩があんな仏頂面したヤツに取られるなんてヤダだったんだもん! ヘコんで真っ白になってるジン君見て幻滅しちゃえばいいんだ!!」「それは単なる逆恨みじゃねぇか!!」「ねぇスズカ、今回ばっかりはそれは逆効果のような気がするなぁ……」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる3人からそっと離れる。去り際に飛鳥がこちらを見て外に向かって指をさしていた。料理に限らず心遣いが上手い人であった。
美憂は小さく頭を下げて、刃九朗を探しに客間を後にした。
「……俺は何もできなかった」
「よく知らんが大変だったのじゃなー。野菜スティックでも食べるかえ?」
縁側に座り込んでセキセイインコくらいのサイズの赤いトカゲに悩みを打ち明ける大の男を見た瞬間、思わずズッコケてしまった美憂を誰が責められようか。
そりゃあ色々悩むことはあるのだろうが、だからって爬虫類に相談を持ち込むのはどうなのだろう。
「大抵の悩みは、美味しいものを食べておなかいっぱいになったら吹っ飛んじゃうって、あるじ様が仰っていたのじゃ」
「そうなのか」
意外といいこと言ってるトカゲだった。
それにしても、フェブリルといいあの赤いトカゲといい、この日野森家には珍生物が引き寄せられるようなものでもあるのだろうか。
「というわけで、ここはわらわの奢りじゃ。この、まよねーず? とやらを付けて心ゆくまで食べるがよかろ。――わらわ、とっても気遣い上手!!」
猫の肉球みたいな手で器用ににんじんスティックを掴み、ひょいと刃九朗の前に差し出すあのトカゲを見て、美憂はちょっと可愛いと思ってしまった。
刃九朗は無言でそれを受け取り、端からポリポリと口に含んでいく。
「……味が薄い」
「濃い味ばっかり食べていると高血圧になっちゃうぞよ? 若い内から薄味に慣れておくことをオススメするのじゃ」
お前はお母さんか食堂のおばちゃんかはたまた管理栄養士か。
必死に口元を抑えて我慢してはいるが、あのトカゲ、とんでもなくツッコミどころ満載である。いや、むしろツッコミ待ちなのか。
もういいだろう。そろそろ間に入らないとツッコミ役不在のまま延々とあの2人(1人と1匹)の掛け合いが続いてしまう。
「あの、鋼センパイ」
「……篠崎、起きていたか」
振り向いた彼の顔はいつも通りの無表情だった。
だが、その内側までいつも通りだとは思えない。爬虫類相手にに思わず本音を吐露していたくらいなのだ、いつも通りなわけがない。
「無事に目覚めてなによりなのじゃ、ミューとやら。汝もこれ、食べるかえ?」
「…………いただきます」
ペンギンみたいな歩調でぺたぺたと歩み寄り、円らな瞳で見上げながらきゅうりスティックを差し出してくる姿に、美憂はなぜか拒絶の意思表示ができなかった。
結局、夜の縁側に2人と1匹で並んで座り、野菜スティックを揃ってぽりぽり、ぽりぽり。みずみずしくしゃっきりとした歯応えのきゅうりと、ぴりりとした微かな辛さが癖になる辛子マヨネーズとの組み合わせはなかなかだった。
しかしこの子も自分を「ミュー」と呼ぶのか。人外っ子には美憂の名前のイントネーションは難しいのだろうか。
「――だから違うって!!」
「ど、どうした」
「にょわー! い、いきなり大声を出すでないわ! わらわ、生まれてすぐに心臓止まっちゃうかと思ったのじゃ……」
本日二度目のノリツッコミであった。
この場でちゃぶ台があればぶん投げてしまいそうな勢いで立ち上がった美憂に、刃九朗は目を丸くし、火トカゲは妙な鳴き声をあげてひっくり返った。
「ちょっとそこのトカゲさん」
「トカゲじゃないのじゃドラゴンなのじゃ。それに、わらわにはエントという名前があるからそう呼んでほしいのじゃ」
「それではエントちゃん、わたしはこの人と大事な話があるの。だから、今はあなたのご主人様のところに行っててもらって構わないかな?」
会話するたびにツッコミどころがどんどん増えてくるこの火トカゲ――エントに、なるべく優しく、優しく言い含める。
いや、彼女が純粋な善意でここにいてくれているのは理解しているのだが、このままではどう転んでもコメディタッチの展開にしかならないので、大変申し訳ないのだがご退場願いたかったのだ。
「ふむふむ、どうやら余計なお世話じゃった様子じゃのー。良き人の巡り合いに恵まれているようで、よきかな、よきかな」
背中にちまっと引っ付いている翼をぱたぱたさせて、エントは心底嬉しそうにそう言った。どうやら、美憂が思っていたよりもずっと、この竜の気配りは深かったようだ。
ぬいぐるみじみた外見には似つかわしくない好々爺じみた台詞を残し、エントは家の奥へと歩いていった。
(もしかすると、センパイ方も、あの子も。わたしの事を気遣ってくれていたのかな)
これから刃九朗と話さなければならないこと、聞かなければならないことは、美憂の今後を決定付ける大きなターニングポイントになる。
人生の分岐点――その瞬間に至って、今の美憂の心は軽かった。
それも飛鳥や鈴風、フェブリルやエントとのやり取りで、緊張感なんてどこかに吹っ飛んでしまっていたからだ。
まったく、本当に憎い人たちである。
「なぜ、俺をかばった」
2人だけになった途端、話を切り出してきたのは刃九朗からであった。どこか批難めいた、鋭い視線をこちらに向けてくる。
彼が何を言わんとしているかは、その一言だけで十二分に理解できる。
戦うこと。
戦って、護ること。
その2つだけ。その2つでしか自分の生きる意味を見出せない彼にとって、護るべき対象に逆に助けられた、という事実は、きっと存在意義の全否定に等しかったのだろう。
だから、まず。
「好きな人のために何かをするのに、理由なんて必要でしょうか?」
まずは、その否定を否定する。
予想だにしていない反論だったのだろう、刃九朗は小さく口を開いたまま微動だにしなくなっていた。
「まず誤解がないように言っておきます。わたしはあなたに、助けてほしいとか、護ってほしいだなんて、言ったことも、思ったことすらありません」
「な……」
「そんなもの、わたしは鋼センパイには一切求めていないということです」
静かな夜の空に、美憂の冷たい声だけが響いていた。
おそらくこの瞬間、美憂は刃九朗のすべてを悉く拒絶し尽くしたことになるのだろう。
そうだ、不要、不要なのだ。
「さっき屋上で会ったあのリヒャルトとかいう人との戦い。ううん、それだけじゃない……先月に断花の工場であったっていう事件の時もそう。今の――戦うための『兵器』である鋼センパイが必要とされることは、確かにあるのでしょう」
それはどうあっても否定しきれない事実だ。
実際、サイクロプス事件の折には美憂自身が彼の『力』によって助けられたわけだし、その後も彼の『力』はおおいに人々に貢献している。
ああ、だが、美憂にとっては違う――いや、心の底からどうでもいい。
「ですが、わたしには、あなたが必要です」
表現が拙いものだと、自分でも思った。だが、美憂はこうとしか言えなかった。
兵器としての刃九朗ではない、戦士としての彼でもない。
美憂は、鋼刃九朗という名のただの青年に恋をしたのだ。
冒頭に偉人の言葉を残したのは、第1章17話の対となる話にするため。
それぞれ鈴風と美憂の思いを形にしたものですが、2人の思いは近いように見えて実は一種のアンチテーゼになっています。